チャイムが鳴り終わって、私は大きく深呼吸をした。部室の窓から雨粒は消えて、その外に見上げた空には雲ひとつ無かった。私の頬を流れた涙の後も。
だんだん分かってきた。どうやらチャイムが鳴ると時間が一日進むらしい。厳密に言うと一日ではなくて、次の日の放課後が始まったあたりまで。理由はやっぱり分からない。けどUTXからこっち、チャイムが鳴る度に時間が飛んでるのは確かだった。
たったそれだけの事に気付いただけだけど、私の気持ちは少しだけ楽になっていた。こんな感じで私が置かれている状況に対する疑問も少しずつ紐解かれていくのかもしれない、根拠はないけどそんな気がする。
そういえば、もし私がこのチャイムが聞こえない、例えば下校時刻にはすでに家に帰ってしまっていたりしたらどうなるんだろう。やっぱり時間は進んでしまうんだろうか?
まぁ、近いうちに試してみればいいか。
今はそれより……私の中に生まれた新しい目標、なんとかしてそれを形にしたい。
アイドルへのモチベーションは私を強く突き動かす。
それに比べたら時間が進むなんて些細な事――とまでは言わないけど。
私は両手で頬をピシャリと叩いて気合を入れた後、パソコンデスクのキャビネットを開いて筆記用具を取り出した。
* * *
「これは?」
「初ライブを講堂でやることにしたの」
目の前では絵里が私の持ってきた『講堂使用許可申請書』を手にその内容を確認している。
私が生徒会室を尋ねると絵里が一人机に向かっているだけだった。「希は?」と聞くと絵里は「今日はバイトなの」とだけ答え、それを聞いた私は反射的に巫女服を来た希を思い出した。合わせて、正月にそのお手伝いに狩り出された事も。
「新入生歓迎会の後?」
申請書から目を離さずに絵里が言った。
「その時間なら空いてるでしょ?」
穂乃果達が抑えていないのならそのはずだった。
「えぇ、確かに空いてるけど。何に使うの?」
「ライブよ」
「ライブ?」
「そう、ライブを講堂でやる事にしたの」
私の言葉の意味を測りかねたのか、絵里は私の顔を見上げて表情で「?」と訴える。
「えーと、にこが講堂でライブをするって事でいいのかしら?」
「もちろん」
「そう……」
「部活動の一環としてよ。問題ないでしょ?」
「ええ、それは」
「なんか歯切れ悪いわね」
「深い意味はないのよ。ただ、随分急な話だなと思って」
絵里の物憂げな表情。私にとってその顔は割と見慣れていたはずだったけれど、よく思い返してみればここしばらくそういった顔を見かけることも少なくなっていた事に気付いた。それは絵里がμ'sに入ってからの時間の中で率直に思いや考えをメンバーに伝えてくれるようになったという事で、そういう意味では私や希の方がよっぽど抱え込んでしまうタイプかもしれなかった。
「そうかしら?」
私は気のない返事でとぼけた。あまり追求されてもうまく答える自信がない。でも絵里は私の返答にはハナからさほど興味はなかったようで「スクールアイドルか……」と誰ともなく呟くと軽くため息をついた。
「それがどうかしたの?」
「いえ、スクールアイドルってあれよね? UTX学院のあの……」
「A-RISE?」
「そう、A-RISE。あの子達と同じようなライブをするって事よね?」
『同じようなライブ』って、あれが一般的なスクールアイドルのライブだと思ってるんだとしたら大間違いなんだけど。他のどこにスクールアイドルのためにプロ並みの設備から専用劇場まで備えた学校があるっていうのよ。私だってもしUTXに入学できていたら今頃A-RISE……いや、ユニットに参加させておくなんて勿体無いとソロで華々しくデビュー、そして大成功のうちにスクールアイドル活動を卒業し、その実績を引っ提げてプロのアイドルへ……。
「にこ?」
絵里が眉をひそめてこちらを伺っている。知らずにうっすらと口元が緩んでいた私は慌てて険しい顔を作った。
「ああ、同じようなものね。気合では同等……いやそれ以上と言ってもいいわ」
「気合?」
「そ、それはいいのよ。そんな事より、よく知ってたわね。A-RISEの事」
「さすがにね、生徒会の会合でUTXに行く事もあるし」
「ふーん、それでA-RISEがどうかしたの?」
「ううん、なんでもないのよ」
「何よ。まさか絵里もスクールアイドルに興味が湧いてきたとか?」
「違うわよ!」
両手を振って否定する絵里。私がそんなに慌てる事かとその様子を観察していると、それが訝しがっている様に見えたのか絵里は仕方無さそうに苦笑した。
「私じゃなくて、妹がね」
妹、亜里沙ちゃんか。私が彼女の事を知った時、彼女はもうすでにμ'sのファンだったけれどそれはまだまだ有名になる前の事だったし、当然それ以前からスクールアイドルに興味を持っていても不思議じゃない。
「興味が湧いてるのは妹の方」
「へえ、そうなんだ。でも、それがどうかしたの?」
「別に何って事はないんだけど……」
一瞬絵里の顔が曇ったように見えたのは気のせいかしら。私がそう思ってもう一度絵里の顔を見た時には、その表情はいつもの生徒会長のそれに戻っていた。
「じゃあ、これは預かるわね」
机に置いた申請書に両手を乗せて絵里が言った。私がそれに頷こうとした時、ガラリと後ろから音がして生徒会室の扉が開いた。
「お疲れ様でーす。あれ?」
生徒会室に入ってきたのは三人、いずれも赤いリボンをした二年生だ。確か生徒会のメンバーだった気がする。絵里が「お疲れ様」と答え、彼女達は振り向いた私にそれぞれ会釈をする。
私は小さく頭を下げ返すと絵里に向き直った。
「それじゃあ、頼んだわよ」
「ええ、頑張ってね」
「ありがとう。まぁ、A-RISEと同じようにって訳には行かないけどね」
A-RISEみたいなライブが出来る訳じゃないけど、私は私らしいライブをやればいい。
手を軽く上げて「じゃあ」と私は絵里に背を向けた。私がキョトンとした顔の二年生三人組の前を通り過ぎると、彼女達は入れ替わる様に絵里の方へ勢い良く歩み寄った。
「絢瀬先輩、A-RISEの話してたんですか?」
「先輩がスクールアイドルに興味があるなんて知らなかったなぁ」
「な、何言ってるの。そういう事じゃないのよ」
なんか余計なこと言っちゃったかしら?
まぁいいか。
私は困っている絵里の様子を確認するのもなんだか気が引けて、生徒会室をそのまま出ると後ろ手でゆっくりと扉を閉めた。
「これで一つクリア、と」
私は胸ポケットからペンとメモ用紙を取り出した。
さっき私は部室で、今回ライブを始めるにあたって何が必要かを洗い出した。一人で出来る事は限られてるし、なるべく準備に時間を掛けずにライブをしたい。そのために最低限必要なものは――
・会場
・曲
・振付
・衣装
・ステージの準備
こんなところ。
当然それに加えてチラシを作って宣伝だってしたいし、練習だって必要。まずはライブさえ出来ればいいと思っていたけれど、一人で全部やるとなるとそれなりに大変だ。
それでも講堂がすんなり確保できたのはよかった。私は『会場』と書かれたところにハートマークを書き入れると再び胸ポケットに戻した。
もうライブの日は決めてしまったし、残りも出来るだけ早めに用意したい。とはいえ、振付と衣装はもうすでに目処が付いていると言ってよかった。どちらも私が準備出来るものだし、衣装に関しては以前使ったものを家から持ってきたっていい……。
あれ?
家から持ってくる?
ふと頭に手をやる。手に触れるのはサラリとした髪の感触だけ。今日もリボンは家に置いたままみたいだ。軽く考えていたけどそう簡単じゃなかったかもしれない。放課後しか行動できないこの状況で私は衣装をちゃんと用意できるんだろうか。やっぱり一度放課後の内に学校を出る事を試したほうがいいかもしれない。チャイムの件もあるし今日か明日にでも早めに家に帰ってみよう。
前途多難。私はため息をつく。すると遠くからピアノの音が聞こえてきた。
衣装もそうだけど、より問題なのはこっちなのよね……。
私が歩くにつれピアノの音は少しずつ大きくなっていく。それは私が向かおうとしていた音楽室に今日も真姫がいる事を示していた。私にはどうしても真姫に頼まなきゃいけないことがある。
ライブで歌う曲。
こればかりは作曲ができない私にはどうしようもない。だからと言って誰かの曲でライブというのもできる事なら避けたかった。
どう切り出したものかしら。
こちらの真姫にとって、私はまだ一度だけ会ったきりの名も知らない先輩でしか無い。どうしても真姫に作って貰いたいんだけど、なんせ相手はあの真姫だしなぁ。勢いで押し切るか下手に出るか、でもどちらもあまり勝算は高くない気がする。
「あら?」
悩む私の目の先、音楽室の前に一人の生徒が見えた。彼女は扉の前に立っていたが近づく私に気付く様子は無く、その真剣な眼差しを音楽室の中へと向けて、廊下に響く『愛してるばんざーい!』の伴奏に合わせて口を小さく動かしていた。
私は彼女のすぐ後ろまで近寄ると、その小さな――私が言えたことじゃないけど――肩越しに驚かさない程度に声をかけた。
「花陽じゃない」
「ぴゃあっ!」
結局驚かせてしまった。花陽は肩から飛び上がってこちらを振り向いた後、慌てて口を両手で塞いだ。
「こんなところで何してるのよ?」
「あ、アイドル研究部の……」
「部長のにこよ。それより……ああ、真姫ね。なんでこんなところで聴いてるの?」
つい数日前に自分が同じようにここに立っていた事も棚に上げて私は言った。音楽室を覗くと真姫がピアノを弾いていたが、まだこちらに気付いている様子はない。
「なんか邪魔になっちゃうかなと思って……それよりあの、西木野さんの事知ってるんですか?」
「あぁ、まあね、そんな事より」
私は花陽の手首を掴む。
「あ、あの?」
「行くわよ」
「えっ、えぇ!?」
私は花陽の腕を引きながら音楽室の扉を開いた。
何も廊下で盗み聞きする事無いでしょ、っていうのが半分。私がこれから真姫と話すのに都合が良さそうっていうのが半分。
いや、4:6……3:7かな。
ピアノの音が止まってその向こうから真姫が頭を上げた。それから私の顔を見て真姫はあからさまに迷惑そうな顔をする。ここまでは予想通り。
「あっ、あなたまた!」
「ほら、こっち来なさいよ」
「あ、あ、ちょっと……」
腕を引かれてよろよろと花陽は私の横に並ぶ。それを見た真姫が「あら、あなた」と言っても、花陽は叱られる前の子供みたいに申し訳なさそうに縮こまっていた。
そういえばμ'sに入る前のこの子達の関係を私はよく知らない。でもこの感じだと会話さえロクにした事が無さそうだ。
「廊下でアンタの歌を聴いてたのよ」
「え?」
「あの……ごめんなさい!」
花陽はそう言うと頭を下げた。
「何で謝るの?」真姫が首を捻る。
「そうよ花陽。聴こうとしなくたって、この辺を歩いてれば聴こえちゃうもんなんだから」
「あなたねぇ」
真姫が立ち上がって私を睨みつける。
「あの、西木野さんのピアノすごく上手で……歌もすごく上手で、私、気付いたら聴き入っちゃってて」
花陽がそうモジモジと切り出すと、私に詰め寄ろうとしていた真姫の動きが止まった。
「……止めてよ、もう」
「あ、ごめん。やっぱり嫌だったよね」
「ち、違うけど!」真姫は顔を赤くして、「――恥ずかしいのよ。そんな事言われたら」とこちらに背を向けた。
「ねぇ、アンタ達同じ一年でしょ? なのに随分他人行儀なのね」
「そんなの先輩に関係ないじゃないですか!」
私に対する厳しい態度を崩さない真姫はトゲトゲしい口調でいい放った。それもそうだ。
「それで? 先輩はなんの用なんですか?」
「ああ、忘れるところだった。曲を書いて欲しいのよ」
あれこれ考えた割に口をついたのは、結局頭に浮かんだままの言葉だった。
「はい?」
「ええ、スクールアイドルとして私が歌う曲をね」
「スクールアイドル!?」
真姫が眉をひそめて訝しげに尋ねる。隣では花陽が真姫以上に困惑した顔をしていた。
「今度、講堂でライブをする事にしたの。だからそこで歌う曲が必要なのよね」
「ライブ!?」
今度は花陽がひっくり返った声を上げた。
「そうなの。だから私に似合う、とびっきりキュートでキラキラした曲をあなたに作って欲しいのよ!」
「ちょっと待って、話が見えないんだけど」
寄せた眉もそのままに真姫が尋ねた。勢いで押し切ろうと思ったけど、どうも手応えは悪そうだ。
「なんで私が先輩に曲を作らなきゃいけないんですか?」
「作って欲しいからよ」
「理由になってないわ!」
「そうね……ビビっと来たってところかしら」
「ビビって……」
呆れる真姫。よく考えたら、気合を入れて説得しようと思った割に私は何の説得の材料を持ってない事に気付いた。
でもそんな事はどうだっていい。真姫を攻略しない事には私のライブは始まらない。思い出したのは、いつも勢いで何かを始めて私達を引っ張り続けてきた誰かさんの事。
「どうかしら? お願いできない?」
「お断りします」
「えぇ、なんでよ」
「ただやりたくないんです。そんなもの!」
キッパリ言われた。取り付く島もない。
隣では花陽がそんな私達の様子を不安そうに見つめている。別にケンカしてる訳じゃないんだけど、そう見えても仕方ない。
「どうしても?」
「興味ないです。だいたいなんで私なんですか? 探せば他に作曲できる人くらいいるでしょ」
真姫はプイッとそっぽを向いた。
『作曲出来る人なんていくらでもいる』そうなのかもしれない、だけど私にとっては真姫じゃなきゃダメなのよ。
ただその理由を伝えるにはあまりにも理解してもらえるはずがない事が多すぎた。
「あなたの曲が必要なの」
「なんですかそれ? 私、先輩の事何も知らないのに。それにアイドルの曲なんて……」
真姫はその先を言いかけて言葉を濁した。そんな真姫に、私はアイドルについてこれまで何度となく味わった苦い感情を思い出して少しだけ胸が詰まる。
「アイドルの曲なんて書けない?」
「ええ、そうです。軽くて、なんか薄っぺらくて、だから私に頼む事なんか無い……」
「好きなのよ!」
思わず大声を出してしまった。腹が立ったと言うより悲しかった。私の大好きなアイドルをそんな風に言われた事が。しかもそれを口に出したのが真姫であることが。
とはいえ失敗だわ、さすがにこれは人に物を頼む態度じゃない。そもそも真姫はスクールアイドル自体よく知らないわけだし。
ここは素直に謝った方が良さそうだ。
私が大きく息をついて謝罪の言葉を口にしようとしたその時、真姫の表情に妙な違和感を感じて思わず声を詰まらせた。
突然怒鳴られて目を逸らすのは分かる。でもなんで恥ずかしそうにモジモジしてるんだろう。どうみても怒ってる訳じゃなさそうよね、っていうか……。
自分が言った事と真姫の表情を結びつける。やがてその意味に気付いた私の顔は急速に熱を帯びていった。
「バ、バカね! 曲よ! アンタの曲! 何赤くなってんのよ!」
「わ、わかってるわよ!」
私の声を掻き消すように真姫が声を張り上げた。と、私の隣に立っていた花陽まで、何かとんでもない瞬間を目撃したとばかりに目を見開いて頬を赤らめている。
「花陽まで、何なのよその顔!」
「ごめんなさい!」
「まったくもう……勘弁してよね」
私は大袈裟にため息をついてみせた。
真姫は動揺が収まらないのか、いつもよりどこか苛立たしげに人差し指を髪にクルクルと絡めていた。
まぁ、動揺してるのは私も同じなんだけど。
でも、おかげで最悪の空気にならずには済んだ気がする。
「ねぇ、どうしてもダメかしら?」
「しつこいですね」
まいった。このままじゃいつまでも平行線だわ。こんな事なら穂乃果に最初に作曲をしてもらった時の経緯をちゃんと聞いておけばよかったかも。
私達の間を沈黙と気まずい空気が流れる。
「あの……」
少し間があって花陽が口を開いた。沈黙が気まずかったのは真姫も同じだったようで「ええ」とその先を促す。花陽は遠慮がちに頷いて続けた。
「あのね、私も西木野さんの作った曲、聴いてみたい」
驚いた。まさか花陽から助け舟が出るとは思わなかった。実際、花陽は私がアイドル活動をするところを見たことなんて無いわけだし。
思わずマジマジと見た花陽の顔は少しだけ興奮したように赤らんでいた。さっきの出来事のせいかもしれないし、その表情はやっぱり恐る恐るといった感じではあったけれど。
「ちょっと、あなたまで何言ってるの?」
「私も西木野さんの曲、素敵だと思うんだ」
花陽はそう言って少しだけ笑った。
「……もう、なんなのよ」
真姫からすれば突然やってきたさして親しくもない人、しかも二人から同時に褒め殺しに合ってものすごく困ったに違いない。勘弁してよとでも言いたげに真姫はピアノに歩み寄ると、鍵盤にカバーをかけて蓋を閉じた。
「あの、ごめんなさい」
花陽が頭を下げる。
「また」
「え?」
「別に謝る事じゃないでしょ」
真姫はにこりともせずに花陽に言うと、私達の間を通り過ぎて扉の方へ向かった。
「真姫」
扉に手をかけた真姫に向って、私は思わず名前を呼んでしまった。
だって不機嫌そうな行動の割に、その背中がそんな風に見えなかったから。
私の呼びかけにビクリと真姫の肩が反応した。そして鋭い目つきで私を睨む。
あ、やっぱり怒ってるかもしれない。
「私、名前教えましたっけ?」
ああ、そっちの方か……。
私は厳しい真姫の目から逃げるように視線を外す。そしてぐるりと教室内を見渡した後、それはやがて花陽の顔へと収まった。
「えぇっ!?」
私の視線に気付いた花陽が驚いて目をパチクリさせる。私としてはうまい言い訳を探してただけで別に花陽に助けて貰おうと思ったわけじゃないんだけど、真姫はそんな私達の様子を見て何かを察したのか、
「まぁいいわ」
と言うと改めて教室の扉を開いた。
「それでも、私はあなたに曲を作って欲しい」
私の言葉に真姫の足が止まる。
「理由はうまく説明出来ないし、お願いする事しか出来ないんだけど……やりたくないのも分かってるけど」
「……私には無理です」
真姫は振り返る事なくそのまま音楽室を出ると扉を閉めた。
なんとかなると思ったんだけどなぁ。
私は天井を仰いだ。。
自分の想いはぶつけたつもり、だけど全然手応えは無かった。
私はさっきまで真姫が座っていたピアノチェアに力無く腰を降ろして、所在無さそうに立ったままの花陽に話しかけた。
「なんか迷惑かけちゃったわね」
花陽はただ廊下で真姫の歌を聴いていただけなのに、結果的に変な事に巻き込んでしまった。
「そんな事ないです!」
「そう言ってもらえると助かるけど、実際助けてもらっちゃったし」
「そう……でしたっけ?」
「言ってくれたでしょ? 『真姫の曲を聴いてみたい』って」
「それは本当にそう思ったから。それにアイドルも好きだし……」
そう言って恥ずかしそうに俯いたらメガネがズレ落ちそうになって、花陽は慌ててそれを戻す。
私は花陽の口から『アイドルが好き』って言葉を聞いた事で、なんだか嬉しいというよりホッとした気持ちになった。
「と言っても、残念な結果になっちゃけどね。まだ時間もあるし、諦めるつもりはないんだけど」
そう、ようやく始まったってところだもの、どうせ他に選択肢なんて用意してないんだし絶対真姫に作ってもらうしかないんだから。
「でも西木野さん、本当にやりたくない訳じゃないのかも……」
ポツリと花陽が呟いた。
「え?」
「あ、いえ、最初はそうだったと思うんですけど」
私は頷く。
「最後に西木野さん『私には無理です』って言ってたから……本当に嫌だったらそんな言い方するかなって」
そう言って花陽は口元に指を添えて少しだけ考える仕草をした。と思ったら「あぅ、ごめんなさい! やっぱり都合良すぎですよね?」と今度は私に苦笑いして見せた。
「ううん、そうかもしれないわね」
花陽にそう言われてみると不思議とそんな気もしてきて、真姫に断られた現実は変わらないのにそれだけでも少しだけ気が楽になった。
それでもまだまだ苦労するには違いないから、せめて何かとっかかりが見つかればよかったんだけど。
――あっ!
私は制服の腰ポケットを上から両手でポンポンと叩いた。右手にクシャリという感触があって私はすぐに手を突っ込むと2つ折にされたそれを取り出した。
これがあったのを忘れてたわ。
「どうしたんですか?」
深くため息を付く私に、ポカンとした顔で花陽が尋ねる。
「あぁ、ちょっとね。真姫に私そびれちゃったものがあって」
一枚のメモ用紙。
私は指に挟んだそれを持ち上げてヒラヒラと花陽に振って見せた。
「なんですか?」
「歌詞。これで真姫に作曲をお願いしようと思ってたんだけどね」
元々、音ノ木坂に入る前から歌詞は書き溜めていた。スクールアイドルになる事は決めていたとは言え作曲のアテなんて無かったけれど、いつかそんなチャンスが来るかもしれない、その日の為に。
私の作る詞は正直、個人的な内容過ぎる――海未に言わせれば『これでは、にこ以外には歌える人がいない』らしい――からμ'sでは日の目を見る機会が無かったけれど、今回は違う。私がソロで歌う私の曲なんだから、私の言葉で歌いたい。
「――渡すの忘れちゃったわ」
私は自嘲気味に花陽に笑って見せる。しかし花陽はなぜか目をキラキラと輝かせてこちらを見つめていた。
「な、何よ?」
「あの、それ見せてもらってもいいですか!」
「これを?」
「はい!」
花陽は鼻息も荒くこちらに詰め寄って来る。
すごいプレッシャー。いつか見せようとした『にこにーにこちゃん』の時と反応が全然違うのはどういう訳だろう。。
どうもこういう反応には慣れてないっていうか、μ'sメンバーの冷たい反応に慣れすぎたっていうか……いざこれだけ興味を持たれるとなんだか恥ずかしい。
「……まぁ、いいけど」
私は歌詞を花陽に渡した。花陽は2つ折になったそれを「ありがとうございます!」と言って受け取るとそのまま目の前で開いて読み出す。照れ臭くなった私は窓の外を見るフリをして花陽に背を向けた。
花陽はそんな私の様子を特に気に留める様子も無く、たまに「ふんふん」と頷いては歌詞を読み込んでいるようだった。
背を向けてたから本当のところは分からないけど。
「ほら、スクールアイドルだからそれらしい詞をね、まあ私としてはなかなか会心の……」
「ふわぁ~っ!」
反応を待つのに耐えられずに私が口を開いたのを遮るように、花陽が気の抜けた声を上げた。私が何事かと振り返ると花陽は歌詞を見つめたまま口をポカンと開いている。
「あの、花陽?」
実のところ自分が書いたこの歌詞が人にどう思われるか心配でしかたなかった私は、花陽に気づかれないように恐る恐るその表情を覗き込もうとした。途端、花陽が顔をバッと上げて私は思わず声を上げそうになる。花陽は何か訴えたそうな顔で、椅子に掛けたままの私に上から被さるんじゃないかってくらい近づいて来た。
「い、一体なんなのよ?」
「いいです! これ!」
「へ?」
「読んでるだけで元気が出るっていうか、楽しい気持ちになるっていうか……なんかうまく言えないんですけど、私、この詞好きです!」
「花陽……」
そう言って花陽が私に向ける真っ直ぐな瞳には偽りなんか全然無くって、私は嬉しいと思う前に、その純粋な笑顔にどう答えていいか分からなくて思わず固まってしまった。花陽はそんな私の様子に気付いたのかどうか、ハッとしたように一歩後ろに下がると今度は申し訳無さそうな顔をした。
「すいません! 私、アイドルの事になるとすぐに夢中になっちゃって」
「違うのよ。ちょっとビックリしただけで、あの……ありがと」
「そんな、本当にいいと思ったから……。私、この詞に西木野さんの曲が付いて、先輩がライブで歌うところを見てみたいです」
花陽はそう言ってこの音楽室に来た時のように恥ずかしそうに俯いた。
「ねぇ、花陽はなんで、私のアイドル活動にそんなに興味を持ってくれてるの?」
「え?」
「花陽はスクールアイドルとしての私を見たことが無いでしょ。歌だって聴かせた事もないしダンスだって見せた事も無い、知り合ったばかりなのに」
私はさっきから抱いていた疑問を花陽にぶつけてみた。花陽は一瞬驚いたような顔をしたけれど、すぐに元の穏やかな表情に戻り、やがてさっきまでの熱っぽさとは違う穏やかな口調で話しだした。
「私、音ノ木坂にアイドル研究部があるって知って」
私は頷く。
「私もアイドルが大好きだから。たくさんアイドルの事を話したり、曲を聴いたり、ライブに行ったり、そんな部活を想像してて……」
「でも違った?」
「はい。アイドル活動をする部活だなんて全然考えてなくて……あっ、この間は突然帰っちゃってすいませんでした! 私、ビックリしちゃって」
花陽はそう言いながら丁寧に体の前で手を揃えて頭を下げる。
「大袈裟ね。全然気にしてないわよ」
やっぱりこっちの花陽はアイドルが好きでも、自分がなりたいとは思ってないのかもしれない。でもそれを今、花陽にもう一度質問するのはこの間逃げられている手前言い出し辛かった。
「ごめんね。驚かせるつもりはなかったんだけど」
花陽は「いいんです」と頭を振った。
「でも音ノ木坂にスクールアイドルがいるって知って、嬉しかったです」
花陽は眼鏡の奥であどけない子供みたいな目をしていた。まるでA-RISEや雑誌なんかに載っている子達について話す時と同じように。
「だから、確かに先輩のライブを見たことはまだ無いんですけど、応援したいなって、西木野さんとの話を聞いてたら余計にそう思っちゃって」
「応援……」
「あぁ、すいません! なんか偉そうに……そうつもりじゃないんです!」
花陽はまたペコペコと頭を下げる。
真姫の言う通りだわ。また謝ってる。
笑ったり照れたり謝ったり、クルクルと変わる花陽の表情に私は思わずクスリと笑ってしまった。
「あれっ!? 私何か変なこと……」
「いいの、いいのよ。ちょっとね」
「そうですか?」
「ええ。それよりありがとう、応援してくれて」
「いえ、そんな私なんか」
今の私にとって花陽が応援してくれる事がどれだけ心強いか。
私は椅子から立ち上がると花陽の肩を叩いた。
「そんな風に言うもんじゃないわ。本当に感謝してるのよ」
「はい、あの……ありがとうございます」
「ふふっ、なんで花陽がお礼言うのよ」
「あ、あれ?」
私達は目が合わせてどちらともなく笑った。
アイドルは笑顔を与えるだけじゃない。応援してくれる人達にはアイドルだって笑顔をもらってる。
それから私達は音楽室を出た。
結局、真姫に作曲を承諾してもらうことはできなかったけれど、今の私は気落ちする事もなくどちらかと言えばやってやろうって思いの方が強くなっていた。
「花陽、せっかくだから部室に寄って行かない?」
「え? でも」
花陽は眉をひそめて分かりやすく苦い顔をした。
「別に勧誘してる訳じゃないのよ」
「いや、そんなつもりじゃ……」
そう言い淀んで花陽は両手を組んだ。
どうやらそんなつもりらしい。
まったく、嘘つく時に必ず指を合わせるからすぐ分かっちゃうのよ?
「そう言えば、花陽」
「はい、なんですか?」
「凛と何かあったの?」
花陽がギョッとした顔でこちらを見た。
「凛ちゃんの事も知ってるんですか?」
「まぁ、昨日知り合ったばっかりなんだけどね。花陽の元気がないって悩んでたみたいだったから。ケンカした訳じゃないんでしょ?」
凛が花陽の事で部室に怒鳴りこんで来たって事はあえて隠した。きっと花陽には望ましいことじゃないんだろうなって気がして。
「ケンカなんて全然……私が悪かっただけでもう大丈夫です」
「そう? 私のせいだったりしない?」
「そんな訳ないです」
そう言って花陽はまた両手を組んだけど指を合わせる事はしなかった。
こういう場合はどっちなんだろう。
凛なら分かるのかしら。
私がそんな事を考えていたら少し先の廊下の角からからバッと人影が現れた。
「あーっ! かよちんいた!」
凛だわ。
凛の事を話した途端に出てくるなんて、なんかマンガに出てくる便利な妖精とか使い魔みたい。でも凛の場合は便利っていう感じじゃないし、どういう時に呼べばいいんだろう。
おいしいラーメン屋を知りたい時なんかは役立ちそうだけど。
凛は両手をバンザイしてこちらに向って突撃してきた。花陽は特に慌てる事もなくそれを正面で受け止める。
それは私にとってμ'sでいつも見慣れた光景で、花陽の言う通り、二人の間に何か問題があるようには思えなかった。
「もう、凛ちゃん。廊下を走ったら危ないよ」
「だってかよちんが全然見つからないんだもん」
花陽から離れた凛がそう言って口を尖らせたもんだから、堪らず私は口を挟んだ。
「まったくそんなの理由にならないでしょ」
「あっ、にこちゃん先輩!? いたんですか?」
「いるわよ! 失礼ね」
「凛ちゃん、先輩だよ」
「だって『にこちゃん』って呼んでいいって……。『先輩』も付けたのに」
「別に失礼なのはそこじゃないんだけど……」
「えー?」
凛が眉間にシワを寄せて「さっぱり分からん」って顔をする。
これ以上追求しても無駄みたい。
「それよりかよちんどこにいたの?」
「音楽室にいたんだ」
「音楽室?」
凛は猫みたいに体ごと斜めになって首を捻った。
「西木野さんがピアノ弾いてて、それを聴いてたの」
「西木野さん……ウチのクラスの?」
「うん、ピアノがとってもうまいんだよ。歌も」
「へー、そうなんだ。それで、にこちゃん先輩はなんで一緒なの?」
凛が少しだけこちらをチラリと見やった。
「何よ。いちゃいけないの?」
「そんな事ないけど」
「先輩も一緒に音楽室にいたの。さっき出て来たところだよ」
「ふーん」
そう言いながら凛がまたこちらを見て、私と視線がぶつかる。
「どうしたのよ?」
「ううん、なんでもないにゃ」
「そう……じゃあこれから凛も部室に来る?」
「部室?」
「そうよ。これから花陽と部室に行こうと思ってたところなの」
「えぇっ?」と花陽が声を上げる。
「あら、行かないの?」
「でも……」
花陽は困ったように私達から視線を外した。
「かよちん?」
「違うよ、凛ちゃん!」
顔を覗き込んだ凛に花陽は慌てて手を振った。何かを否定したようだけど私にはさっぱり分からない。ただ凛には何か伝わったようで「うん……」と難しい顔をして頷くと、私の方をまたチラリと伺った。
そこで私はようやく凛がさっきから何かを伝えたくてこちらを見ていたんだと気付いたけれど、その内容だって私にはさっぱり分からなかった。
「凛ちゃん、行こう」
「え、でも……」
花陽は戸惑う凛の手を掴んだ。その様子は何かに焦っているようにも見える。
「すいません。今日は帰ります」
「……花陽?」
「あの! 頑張って下さい! アイドル!」
花陽は私に質問する隙も与えなかった。明らかに答えたくないという感じだ。
それでも花陽の「頑張って」という言葉はとても力強い。
「ええ、頑張るわ」
私はそれだけを答えた。
花陽の切羽詰まった表情と、戸惑う凛にどう声を掛けたらいいか分からなくて。
花陽がペコリと頭を下げて、凛もそれに習うように会釈をする。
それから花陽が手を引きながら二人、廊下の向こうに消えていった。
* * *
――まぁ色々あるわよね。高校生にもなれば。
花陽達と別れた後、私は下校する事にした。
正門からその外の階段の先までまっすぐに続く並木道は、すっかり若葉で緑色に染まっていて、私が最後に見た満開の桜並木の記憶とはまったく違っていた。
そりゃあ、学校の中だけなんて思っていた訳じゃないけど、これだけあからさまに見せつけられると、改めてとんでもない事に巻き込まれちゃったって事を実感してしまう。
でも桜が散っている事を除けば、周りを見渡してもそんなに何かが変わったって気はしない。
そう、環境なんてたかが一年じゃ、そうそう大きく変わったりなんかしないし、私達高校生にしてみれば、そんな事よりももっと身近なもっと心の側にある出来事の方がよっぽど見える世界を変える。
そんな事をぼんやりと考えながら歩いている内に私は神田郵便局前の交差点に差し掛かった。その先の橋を渡れば、家はもう目の前。下校と言っても学校から家まではたかだか10分程度だから通学には大分恵まれてると言っていい。
学校から近すぎるお陰でμ'sメンバーには家バレしちゃったけど。
信号が青に変わって交差点を渡る。
と、橋向こうの交差点に信号待ちをする女の子の後ろ姿が見えた。
白いブラウスにロングスカート、髪を山吹色のリボンでサイドに結んだ、まるで私をそのまま小さくしたみたいにかわいい子。
「こころ!」
「あっ、お姉さま!」
私が声を掛けるとこころがこちらを振り返って手を振った。それに合わせて肩から下げた赤いバックも揺れる。
「あら、こんな時間からどこかに行くの?」
「いいえ。お友達と別れて今から帰るところです」
交差点で信号待ちをしたまま、こころは笑顔で答えた。
帰る……?
私は思わずすぐ目の前に見えるマンションを見上げた。
家はここだけど。
「帰るってどこに?」
「もちろん、お家です。お姉さまも帰るところですよね?」
「え? あぁ……うん、そうね」
「よかった。じゃあ一緒に帰りましょう」
こころは笑顔のまま交差点のほうに向き直った。
これは……。
「あの、こころ?」
「はい、なんでしょう?」
「家って――」
どこの事? と聞きかけて私は思わず口をつぐんだ。素直な疑問なんだけど言葉だけで考えると余りにもバカらしいというか、姉が妹にする質問としては随分恥ずかしい気がする。
こころが不思議そうな顔でこちらを見ている。ここで狼狽えた様子は見せたくない。
「あー、家はここあ達が留守番してるのかしら?」
「はい、虎太郎と一緒にお散歩に行くと言っていましたけど、もう帰ってると思いますよ」
そう説明するこころにおかしな様子はなかった。
どうしたものか私が考えていると、やがて信号が青に変わりこころは横断歩道を渡りだした。
「お姉さま、どうしました?」
「ううん、なんでもないわ」」
仕方ない。私が一緒にいれば問題はないだろうし、付き合ってみるか。
数分後、私とこころは手を繋いで、秋葉原の駅から少し離れた神田明神の辺りを歩いていた。
こころの向かう先が分からないとは言っても、私が後ろから付いて行くわけにもいかない。こころが信号で止まったり、道を曲がろうとする度に私はぶつかりそうになったり、躓きそうになるのをかろうじて堪えていた。
大して歩いた訳じゃないけれど、どこに行くのか分からないというのはそれだけで結構不安だ。こころは当然というか少しも迷う様子は無くて、さっきまで遊んでいた友達の事や今日学校であった事を嬉しそうに私に話しながら歩く。
一方の私は笑顔でそれに受け答えをしながらも、どこに行くのか不安と相まって少し怖かった。
私達は大通りから路地へと入った。雑居ビルの間にチラホラと民家もあるこの路地は、地元育ちの私がまったく知らない場所ではないけれど、私の家が無い事だけはハッキリ分かる。
こころはどこに行こうとしてるんだろう?
私がそろそろこの質問をしようかと考えだした頃、腕が急にクイッと引っ張られた。こころはよろめく私に気付く様子もなく路地を横切って斜めに歩いて行く。
「ここは……?」
こころが足を止めたのはとある一軒家の前だった。木造の2階建て。お世辞にも綺麗とは言えない、というかボロと言っていい。家を挟むように建つ両隣の雑居ビルが倍ぐらいの高さがあるせいか余計に寂れて見えた。
こんなところに一軒家なんかあったかしら?
いや、そんな事より。
こころはバッグから鍵を取り出して、玄関に近づこうとしていた。
「ああっ!」
「きゃっ!」
私の声にドアに鍵を挿そうとするこころがビクリと飛び跳ねる。
しまった。いや、でもこれはいくらなんでも……。
「ど、どうしました? お姉さま」
どうしよう。このままこの家に入っていいのかしら、っていうかなんでこころはこの家の鍵を持ってるんだろう。
うーん、分からない。分からないけど……。
「鍵、貸してくれる?」
私はこころの目の前に掌を広げた。
どうせ開けるなら私の方がいい、先にこころに入らせるのはなんだか心配だし。
「はい」
こころはちょっとだけ不思議そうな顔を見せたけど、悩む様子もなく私の手に鍵をポトリと落とした。
鍵をつまんでみる。特におかしいな様子はない、というか私の持っている家の鍵と同じもののように見える……いや、むしろ同じに見えるんだけど。
私は玄関の前に立った。
怖い。
中に誰がいるともしれない家の玄関の鍵を勝手に開けようとするなんて、かなりのスリルだ。
怒られないかしら?
いや、怒られるくらいならいいんだけど、もし何かありそうだったらこころだけでも……。
私がそんな事を思い巡らせながら扉に近づくと、突然バンッという音と共に体に衝撃が走った。
私は後ろに仰け反りながら、何が起こったかって事より「やっぱりこころと変わってよかった」なんて冷静に考えていたけれど、間もなくドシンと尻餅を付いた痛みでそれもきれいに吹き飛んだ。
「あいたたた……」
「あ! お姉さま、おかえりなさい!」
私はお尻をさすりながら声をした方を見上げる。そこには玄関の扉を掴んだまま、私を心配する様子もなく、ただただ私が帰ってきた喜びの笑顔を浮かべるここあの姿があった。
「大丈夫ですか? お姉さま!」
起き上がろうとする私を後ろからこころが支える。
「えぇ、大丈夫よ。ありがとう」
「もう、ここあ! いきなり開けたりしたら危ないでしょう!」
「だって、外でお姉さま達の声がしたから」
こころに叱られてもここあに悪びれた様子はない。それをこころが「だってじゃありません!」ともう一度たしなめた。
二人の妹はその見た目とは裏腹に大分性格が違う。しいて言うなら、穂乃果と海未くらい、もっと言うなら凛と絵里くらい違うと言っていいかもしれない。とはいえ、二人が凛と絵里みたいに成長した姿を想像してみても違和感しかないんだけれど。
まぁ、どちらにしても私にとっては同じようにかわいい妹だ。
それと……。
「虎太郎は?」
私が尋ねると、ここあがそれに答える前に、後ろから虎太郎がひょっこり顔を出した。
「おかえりー」
「えぇ、ただいま」
よかった。
ここあと虎太郎の姿を見て安心した事で、私は一瞬お尻の痛みもこの家の事も忘れてしまっていた。ホッとした気持ちで私がスカートの裾を払っている間に、こころが二人を家に入るように促す。
「お姉さま、入らないんですか?」
こころが玄関内から半身を出して声をかけてきた。
「え? ええ……」
入っていいの? いや、ここあ達はもう入っちゃったし、そもそもさっき中から出て来たんだから今更なのかな? 私が入ってもひとまず問題はなさそうだけど。
気付けばこころは扉を開け放したまま、中に引っ込んでしまっていた。
仕方ない、成るように成れだわ。
私は誰にも聞こえないくらいに小さい声で「おじゃまします」と呟いくとその敷居をまたいだ。
* * *
木造の古い家という印象は中に入っても変わらなかった。築何年とかよく分からないけど、手入れが行き届いてないせいなのか、老舗の和菓子屋である穂乃果の家なんかよりよっぽど古そうに見えた。
でも驚いた事に、家の中にあるものは私の知る私の家ととてもよく似ていて、置いてある家具や電化製品、ちょっとした小物からカーテンに至るまでまるで引っ越しでも……というよりそのまま移してきたようにそっくりだった。
違うといえば木造だって事と二階の存在くらいで、ずっとここで生活していたと言われたらそう信じるしかない気さえした。
特に決定的だったのは家の中を見て回り、二階のとある部屋に入った時。
内装、テーブル、ベッド、アイドルのポスター、CD、雑誌、伝伝伝、私が作ったステージ衣装、etc...
その部屋はまさに『私の部屋』だった。
力が抜けた私はベッドの上に倒れこんだ。
ふわっと鼻に漂ったのは、慣れ親しんだ私の布団の匂い。やっぱり疑いようがない。
こうなるとマンションの方がどうなってるかも気にはなるけど、そんな事よりに廃校の件以外にこんなに大きく変わった部分があった事の方がよっぽどショックだった。
さっき下校しながら環境なんてそうそう変わったりなんかしないと思っていたのがバカみたいだわ。
まいったわね……。
今更理由なんて考えるだけ無駄な気もするけど、まだまだこんな事が出てくるのかもしれないと思うとちょっと気が重かった。
ベッドに仰向けになる。木造の天井、これはマンションとは違った。
二階のある一軒家か。
そんなものに憧れていた頃もあったわね。こんなボロっちい木造ってイメージじゃなかったけど。
でもよく考えたらこんな都会の真ん中でボロでも一軒家に住めるってだけで十分すごい事なのかもしれない。真姫や海未の家なんかと比較してたらキリがないし。
階下からこころ達の楽しそうな声が聞こえてくる。
場所は変わってもどうやらこころ達にとってはいつもの日常らしい。
それは私のざわついた心を癒やしてくれて、こんな状況でも姉・矢澤にこの姿を取り戻すには十分だった。
私はベッドから立ち上がった。
さて、今日の夕飯はどうしようかしら?
冷蔵庫に何か食材があればいいけど。
あ、その前に制服を着替えないと。
ブレザーをベッドの上に脱ぎ捨て、続けて胸のリボンに手をかける。
そこで私は耳にした。
――嘘でしょ?
チャイムの音がすぐ近く。学校で聴くそれとまったく同じように鳴り響く。
近すぎる。これは明らかに音ノ木坂から聴こえてくるものじゃない。
それでも私の中で持ち上がった驚きと混乱はほんの一瞬だった。
次の瞬間にはなぜか壁に掛けられたライブ衣装を見つめながら「早めに学校に持っていかないとなぁ」なんて、のん気な事を考えていた。