私たちが世界を渡る寸前にシュウくんを強奪されたにも関わらず、私が動くことが出来なかったのは、秦野さんが私に刺さったナイフをえぐったからだった。
――あなたが!! 私達の静かな日常も……平和な毎日も……先輩の横顔も……全部壊した!!
あなたが壊したんです!!
秦野さんのこの慟哭を聞いた時、私は動くことが出来なくなった。私がシュウくんと出会ってしまったことが、結果的にシュウくんの周囲の人たちの日常を壊してしまい、幸せを奪ってしまったのか。私がシュウくんと共に過ごすことは、シュウくんの周囲から……そしてシュウくん本人から、本来彼らが手に入れるはずだった幸せを奪うことに繋がるのか……
初めて秦野さんに合った時に彼女から投げかけられた言葉は、私の胸に残り続けていた。気を抜くと彼女の声は私の頭の中で何度もリプレイされ、私の心をえぐり続けた。少しずつ、しかし確実に深く刺さり続けたそのナイフは、あの土壇場で、秦野さん自身の手によってえぐられ、傷を大きく拡げられた。
その結果、私はシュウくんを取り返すことが出来なくなってしまった。私はシュウくんから離れた方がいいのかもしれない。そろそろ、彼を彼自身の日常に戻すときなのかも知れない……そう思ってしまった私は、シュウくんと共に暮らすことを諦めることにした。私がシュウくんを奪ってしまえば、彼の周囲の人たちは不幸になってしまう……そして私では、シュウくんを幸せにすることは出来ない。
今はまだ踏ん切りがつかないが、いつの日か、バットも処分しよう。そしてその時は、この指輪も外そう……。
鎮守府に戻った次の日、私は司令に執務室に呼ばれた。恐らくシュウくんのことだろう……そう覚悟して執務室に入った。
「お前に朝潮の世話を頼みたい」
「はぁ……朝潮さんの……ですか」
「ああ。この場に本人がいないからぶっちゃけるが、朝潮が来たのはイレギュラーだ。正直なところ、受け入れ体制がまったく整ってない。ついては当面の間、お前に朝潮を預けたい。それから……」
「?」
「近いうちに深海棲艦の渡航施設の捜索部隊を立ち上げる。お前には旗艦として入ってもらい、シュウの回収まで担当してもらうから、今のうちに準備だけはしておけ」
すみません。司令。私はもう、シュウくんを迎えに行きません。
「司令、シュウくんのことは……もういいです」
「……?」
「私とシュウくんじゃ……無理だったんです。これもリコンなんでしょうか……弟には……シュウくんには、向こうで幸せになってくれれば、それでいいです。旗艦は別の子を指名してください」
「……」
司令は最後まで納得のいかない顔をしていたが、最後には『わかった』と言っていた。すみません司令……色々と私達のためにしていただいたのに……
その日から、私の部屋に朝潮さんルームメイトとして加わることになった。当面の間、私は彼女の世話をすることになる。
「比叡さん、しばらくの間、よろしくお願いします」
「うん。朝潮さん、よろしく」
挨拶だけ交わした後、二人の間に沈黙が流れた。朝潮さんは、秦野さんの『別の世界の人のくせに私達と関わらないで』という言葉に酷いショックを受け、私たちの鎮守府に逃げるようにやってきた。大好きな人に拒絶された大きなショックを受け止めきるには、彼女の身体はまだ小さい。懸命に飲み込もうとがんばる朝潮さんだったが、それが彼女の心にオリのようなものとなって、心の奥底に沈殿してしまったようだった。
私もまた、彼女にかける言葉が見つからなかった。互いに向こうの世界に大切な人を置いてきてしまい、さらにそれを諦めなければならないという立場……朝潮さんの意気消沈も、私の陰鬱な気持ちも、当面は仕方のないことと言えた。
それから数日後、私は朝潮さんを連れ立って、球磨さんのお見舞いに向かった。鎮守府に着いた後、球磨さんは絶対安静となった。入渠施設と高速修復剤を使えば、艦娘は大抵の傷は治る。だがそれをはるかに超えた状態だった球磨さんは、しばらくは医務室で絶対安静ということになっていた。
部屋に入ると、運良く球磨さんは起きていた。どうやら朝、意識だけは取り戻したそうだ。まだ長時間会話をするのは難しそうだが、少しぐらいなら大丈夫だろう。
「球磨さん、おはようございます」
「おはようだクマー……」
「おはようございます!」
球磨さんは少々ダルそうだが、特に問題はないようで安心した。ここ数日の思い出をひと通り語り合った末、最後に球磨さんが、重そうに口を開いた。
「……シュウのことは、キソーから聞いたクマ」
「……キソーさん、何か言ってました?」
「キレてたクマ。“なんでアイツを取り返さないんだ?!”て勝手にブチギレてたクマね」
「キソーさんらしいですね」
「だから重症の身体に鞭打って、頭グリグリして叱っといたクマ」
「ありがとうございます。球磨さん」
「でも本音は、球磨もキソーと一緒だクマ」
「……私じゃ、ダメなんです」
「ケッコンカッコカリが成立するほど仲いい二人なのに、ダメだとは思えんクマ」
球磨さんの指摘に、私は何も言い返すことが出来なかった。
そのあと、私は午後から久しぶりに旗艦で出撃となった。随分久しぶりに艦隊戦をしたが……結果は惨敗。駆逐艦が主な編成の敵艦隊にいいように弄ばれ、夜戦で魚雷を避けきれなかった私は、一撃で大破判定の損傷を負ってしまった。
「ここまでね。旗艦が大破ならこれ以上は無理。帰還するわよ」
共に出撃した叢雲さんが、ムスッとした顔でそう呟いた。イヤです。このまま進みます。私は沈んでも構いません。
「そういうことは一人で勝手にやって。私たちまで巻き込まれちゃ迷惑よ」
叢雲さんは機嫌悪そうにそういい、司令の厳命もあって帰還した。そんなことが数日の間、何回もつづいた。その度に私は、一緒に出撃している叢雲さんに辛辣な言葉を浴びせられた。
そしてある日のことだった。その日は昼食後、朝潮さんと部屋の片付けをしようという話をしていた。まずは腹ごしらえということで、私は朝潮さんと一緒にお昼ごはんを食べに食堂まで来た。
「ひえーい。今からランチデスカー?」
すでに食堂で榛名や霧島と一緒に昼食を食べている金剛お姉様が声をかけてくれた。手を大きくブンブンと振り、満面の笑みで私たちに声をかけるその姿が、今の私にはとてもまぶしい。
「お姉様……」
「ひえーい! あさしおー! 一緒に食べるデース!!」
鎮守府に帰ってきてから、一部の子たちが私と朝潮さんのことを腫れ物でも扱うかのように接してくる中、いつもと変わらず接してくれるお姉様たちがとてもありがたい。
「朝潮さん、お姉様たちと一緒でもいい?」
「構いません。私もみなさんと仲良くなりたいですから」
朝潮さんから了承を得た後、私はお姉様たちのテーブルに向かうべく歩を進めたその時だった。
「待ちなさい比叡」
最近、一緒に出撃する機会の多い叢雲さんが、私の横から、食堂に似つかわしくない槍の穂先をこちらに向けていた。
「ここんとこずっと大破撤退が続いてる割に、案外元気そうじゃないの」
「……なんですか?」
「別に。ただ、もっと落ち込んでるかと思ったら以外と平気そうだから、物珍しさで声かけただけよ」
「……」
「それとも、そこの新入りと傷を舐め合って慰めあってるってわけ? 遠征任務すら与えられてないんでしょ?」
さすがにこの言い方にはカチンときた私だったが、そんな私より先に、朝潮さんが口を開いた。
「私のことを侮辱するのは構いません……でも比叡さんをバカにすることは許しません!!」
「許さないからなんだって言うの? 言っとくけど、練度の低いアンタにどうこう出来るほど、私は弱くないわよ?」
そう言いなからな叢雲さんは、朝潮さんを見てフフンと笑う。一方の朝潮さんは悔しそうに歯ぎしりをしていた。
叢雲さんは、この鎮守府においては最古参の一人にして、最も長く提督と共に戦い続けてきた一人だ。一方の朝潮さんは、レ級から生まれたとはいえ所詮はドロップしたばかりの駆逐艦。しかもドロップして今の今まで、深海棲艦と戦ったことすらない。
そんな朝潮さんでは、叢雲さんをどうこうできるはずがない。私は朝潮さんを静止し、叢雲さんを睨んだ。
「……で、用は何ですか?」
「……昼食のあと、時間はある?」
「塞がってますけど……用事があるというなら、空けます」
「よかった。演習場で待ってるわ。昼ごはん食べたら来なさいよ」
なるほど。私にケンカを売りたかったのかこの人は。……いいだろう。相手になろうじゃないか。
「私、強いですよ?」
「そういうセリフはサシで勝ってから言うことね。じゃないと滑稽にしかならないわよ」
昼食後、朝潮さんと共に約束通り艤装を装備して演習場に向かうと、確かに叢雲さんは水面に立って静かに目を閉じ、私達の到着を待っていた。艤装を身につけた私も水面に立ち、叢雲さんと相対する。彼女とのサシの演習はずいぶん久しぶりだ。
「叢雲さん! 来ましたよ!!」
私が叢雲さんにそう叫び、それを受けて叢雲さんが目を開いた。彼女は特徴的なオレンジ色の瞳をしているが、その瞳がいつもに比べ、赤みを増していた。彼女の戦闘意欲は満々なようだ。彼女との距離を縮めると、全身に鳥肌が立つほどに叢雲さんの闘志を感じる。
「……逃げずにやってきたことだけは褒めてあげるわ」
「あそこまで挑発されれば、私だって引けません」
「上等。腐っても金剛型戦艦2番艦てわけね」
叢雲さんはニヤッと笑い、私を見た。口は笑っているが、その戦闘意欲満々の眼差しは、この私でさえ背筋に冷たいものを感じる。もっとも、それが彼女の魅力だと豪語する人も中にはいるけれと……
『ハックショォオオオイ!!!』
『岸田、風邪か?』
岸田くんのくしゃみを聞いて気付いたけれど、私の知らない内に、演習場に人だかりができていた。金剛お姉様や司令、岸田くんや加賀さん、キソーさん……鎮守府のみんなが集まり、私たちの演習を見ていた。
フと、叢雲さんが主機だけで艤装を装備してないことに気付いた。私が見る限り、叢雲さんが今持つ武器は槍だけだが……
「艤装は装着しないんですか?」
「今のアンタごとき、艤装なんかいらないでしょ」
叢雲さんのあまりに私を舐めきった一言で、私は頭の血管が切れた。私は即座に主砲を乱れ打ち、後退して叢雲さんから距離を取った。
「フンッ……」
叢雲さんはそれを読んでいたのか……槍を巧みに操って、私が撃ちだした主砲の砲弾の軌道をズラしていた。これでは叢雲さんにダメージを与えられない。
「せっかく先手を譲ってやったのに……ずいぶん甘えた砲撃ね。じゃあ今度は私の番!」
そう言うと、叢雲さんは猛スピードで私に迫ってきた。私は叢雲さんを近づけさせまいと主砲を乱れ撃つが、叢雲さんの動きが早すぎて、主砲で捉えることが出来ない。
「……ッ!!」
副砲も併せて弾幕を展開するが、その瞬間……
「無駄よ!」
叢雲さんは自身の身体を横に大きく振り切り、砲撃の死角から、槍による強烈な突きの一撃を私に浴びせた。演習ゆえに身体にダメージこそないが……私の身体は数メートル吹き飛び、そのまま海面に激突した。何回かバウンドした私は、そのままうつ伏せに倒れ伏した。
「実戦なら、今のチャージであんたは一発大破よ。勝負ありね」
まったく手も足も出なかった。やはり最古参は伊達ではない……。
「悔しかったらもう1回やってもいいわよ。もっとも、今の腑抜けたアンタが相手なら、100万回やっても負ける気しないわ」
自身の赤い目をさらに真っ赤に燃え上がらせ、ニヤリと笑って叢雲さんがそう言う。その挑発を受け、私は立ち上がり、再度砲塔を叢雲さんに向けた。
「……もう1回、行きます」
「いいわよ。いくらでも叩き潰してあげる」
私は再度叢雲さんに主砲の照準を合わせて発射した。だが次の瞬間……
「遅い!!」
叢雲さんはその砲撃を避けつつ猛スピードでこちらに突撃し、再度突きを私に浴びせた。私は背後に吹き飛び、再度海面を舐めた。
「大破二回目……いや、今のチャージなら轟沈ね。お召艦も務めた金剛型2番艦が腑抜けたものだわ」
屈辱の言葉を浴びせられ、私は再度立ち上がり、砲塔を叢雲さんに向けた。だがその瞬間、叢雲さんは大きく左に回り込んで私の真横にくると、槍を大きく横に薙いだ。その横薙ぎの一撃で私は三度吹き飛び、海面にうつ伏せで倒れた。
「戦闘中は気を抜かない!! アンタこれで轟沈二回目!!」
その後、私は何度も叢雲さんに挑み、その度に叢雲さんの槍の前に成すすべなく倒された。大破判定6回、轟沈判定7回を数えた頃、燃料と弾薬が底をつきはじめた。主砲の弾薬は残り2発……燃料もあと一回分の戦闘が出来るかどうか……
もう最後の手段しかない。叢雲さんのチャージに合わせて主砲を撃つしかない。私は主砲を撃ち、自らにスキを作った。
「またそんな甘えた砲撃!」
それに合わせ、叢雲さんがチャージをしかける。チャンスは今しかない。
「今!!」
私は叢雲さんの至近距離で主砲を発射した。しかしその瞬間、叢雲さんは身体を翻し私の砲撃を回避しながら、槍を横に薙ぐ。私はその横薙ぎの一撃で吹き飛ばされ、中破判定のダメージを負った。
「だから小手先の甘えた砲撃に頼るなって言ったでしょ!!」
叢雲さんはうつ伏せに倒れた私の元まで来ると、私の襟を掴みねじり上げ、強引に立たせた。そしてまっすぐに私の顔を見つめるその表情は、いらだちと憤怒が互いの相乗効果で激増している顔だった。
「……アンタ、ダンナがいないと何も出来ないのね……!」
「そんなこと……ない! シュウくんは……関係ない!」
「だったらその証拠を見せなさいよ!」
叢雲さんの平手打ちが、私の頬に飛んだ。張られた頬が、ヒリヒリと痛む。まるで、今叢雲さんに掻き毟られ続けている傷の痛みのようだ。
「まったく……ダンナがいないと何も出来ないくせに、そのダンナが奪われても取り返そうともしない……どっちかはっきりしなさいよ」
「あなたには……関係ないです!」
「そうね。関係ないわよ。でも目の前で死なれちゃ寝覚めが悪いから言ってんのよ。……シュウがいようがいまいが、どうだっていいのよそんなこと。でも今のアンタ、艤装つけてない私にすら勝てないぐらい腑抜けてるじゃない! どっちだっていいけど、どっちかはっきりしなさいよ!!」
「……」
「ダンナがいなくても大丈夫だって言うなら、腑抜けてないでちゃんと戦いなさい! いないとダメだって言うなら、ちゃんとダンナを取り戻しなさい!!」
「でも……私がいたらシュウくんは……お母様やお父様は……秦野さんは……」
私はシュウくんと離れる決心をしたんだ。私がシュウくんと一緒にいることは、シュウくんとみんなの幸せを壊してしまうことなんだ……私はシュウくんと一緒にいない方がいいんだ……
「アンタはどうなの?! アイツの親じゃなくて! 秦野とかいう女でもなく! アンタは?! シュウと一緒にいたいの?! いたくないの?!!」
「私は……私は……!!」
――ずっと隣にいてね。僕のこと、しっかり捕まえててね
「会いたいに決まってるじゃないですか!! 今すぐ会って、抱きしめたいですよ! 泣いてたシュウくんの頭を撫でて安心させてあげたいし……声だって聞きたいですよ!!」
心の奥底まで押し込めていた気持ちが、ついに口に出てしまった。必死に押し込めていた気持ちが口をついて出た途端、私の目から涙が決壊したかのように溢れた。シュウくん……やっぱり私は、あなたに会いたいです。あなたと一緒に……ずっと一緒に生きていきたいです……。
「でもダメなんです! 私とシュウくんが一緒にいたら、シュウくんの周りの人が不幸になってしまう……シュウくんは幸せになれないと言われました……ひぐっ……だから私は離れる決心をしたんです! シュウくんに危ない目に遭って欲しくないから……幸せになってほしいから……私は……ひぐっ……離れることにしたんです……!!」
私の感情の吐露を聞いた叢雲さんは、真っ赤な目をさらに真紅に染めた。襟をねじり上げる手に力がさらに籠もり、私の装束を破りかねない力でさらにねじり上げて来た。
「そんなに大切なら取り戻しなさいよ! アンタにとって大切なものなら、奪われたら死にものぐるいで取り返しなさい!!」
「でも! 私といっしょにいたらシュウくんは……!!」
「アンタ艦娘でしょ? 守ってやればいいでしょ! ……ぁぁああああもううざったい!!」
叢雲さんは心底腹立たしそうに歯ぎしりをしたあと、私を突き飛ばした。私は海面をニ度バウンドし、仰向けの状態で海面に倒れてしまう。
涙と海水で顔がぐしゃぐしゃになってしまった私に、叢雲さんがまたがった。その後自身の槍を投げ捨て、両手で私の襟を掴み、ねじり上げて無理やり私の上体を起こした。
「アンタ馬鹿でしょ! なるかならないかじゃなくて幸せにするのよ!!」
「ひぐっ……私でもシュウくんを……幸せに……ひぐっ……出来るんでしょうか……? 私と一緒にいても……ひぐっ……シュウくんは幸せになれますか……?」
「アンタはシュウとケッコンしたんでしょ! ケッコンしたら幸せになるんじゃないの! ケッコンしたからには、相手を幸せにするの!! しなきゃいけないの!! シュウとケッコンしたあんたには! シュウを幸せにする責任があるの!!」
「私が……私がシュウくんを……幸せにしていいんですか……? ひぐっ……取り返しに行っても……いいんでしょうか……?」
「その覚悟がないならバットも捨てて、指輪も今すぐ外しなさい!! じゃないと、死ぬ覚悟でアンタに指輪を渡したシュウに失礼よ!!」
憤怒の表情の叢雲さんは、私の左手首を自身の右手で強引に掴むと私の目の前に持ってきて、左手で私の指輪に掴みかかってきた。
「やめてください!! 何する気ですか叢雲さん?! 触らないでください!!」
「今のアンタが持ってるのは……シュウに対する侮辱以外の何者でもないわ……だから私が……捨ててやるわよ……!!!」
「いやです! 捨てたくないです!! 大切なバッドだから……シュウくんからもらった指輪だから……外したくないです!!」
「だったら!!!」
叢雲さんは私の左手から手を離すと再度私の襟を掴んで私の上体を持ち上げ、そのまま私を突き放すように手を放した。後ろに勢いがついた私の上体は海面に背後から打ち付けられ、少し海面に沈み、その後電探カチューシャの浮力で持ち上がった。
叢雲さんは槍を拾って立ち上がり、私の顔をまっすぐに見据えた。その顔に先ほどまでのいらだちはなく、先ほどまで真紅に燃え上がっていた目も落ち着いていた。
「……取り返しなさい。死に物狂いで。何がなんでも」
「叢雲さん……ひぐっ……」
「……私からの説教は終わりよ。今日はもうさっさと入渠して休みなさい」
叢雲さんは髪をなびかせ、踵を返して戻っていった。途中岸田くんに何か言いよられ、『黙りなさい変態! キモいのよ!!』と岸田くんの尻を槍でつつきまわっていた。
その後、私は叢雲さんに言われたとおり、特に外傷もないのに入渠させてもらった。叢雲さんにあれだけ無様な完敗を喫したにも関わらず、意外にも気持ちがスッキリしていて穏やかなのは、きっと自分の感情を発散させたからだろう。
「比叡さん」
「朝潮さん……叢雲さんに怒られちゃった」
「はい。私も……叢雲さんに怒られた気分です」
「そうなの?」
「はい。比叡さんが叢雲さんに言われていた一言一言……私の胸にも刺さりました」
朝潮さんは、遠い目をしてそう言っていた。私もまた、さっきの演習中に叢雲さんに言われた言葉を思い出していた。
――アンタはどうなの?! アイツの親じゃなくて! 秦野とかいう女でもなく!
アンタは?! シュウと一緒にいたいの?! いたくないの?!!
――シュウとケッコンしたあんたには! シュウを幸せにする責任があるの!!
叢雲さんに言われた言葉の一つ一つを冷静に思い出していく中で、一つの決意が私の中に芽生えつつあった。
「朝潮さん」
「はい」
「私……秦野さんからシュウくんを取り返す。どんな手を使ってでも」
「……」
「ごめんね。秦野さんはあなたのお姉さんだけど……やっぱりダンナ様は譲れない」
「……いえ。今日のことで、あなたにとってシュウ先輩がどれだけ大切な人なのか分かりました」
そのとおりだ。今日のことで、私は改めてシュウくんの大切さを噛み締めた。あの人は私の大切な弟で、世界で一番大切な人だ。私の隣で笑っていて欲しい人だ。甘えてきたら頭を撫でてあげたいし、泣いていたら思い切り抱きしめて安心させてあげたい、私の愛するダンナ様だ。
「そして向こうの世界からこちらに来るときのシュウ先輩を見て……シュウ先輩にとっても、比叡さんが大切な人なんだと言うことが分かりました」
そしてシュウくんにとって私は、姉でありケッコン相手なんだ。そんな大切なことを私は忘れていた。シュウくんを幸せに出来るのは、私しかいない。私がシュウくんを幸せにしなければいけない。シュウくんを幸せに出来るのは、秦野さんじゃない。お父様とお母様も違う。シュウくんから指輪をもらい、“逃さない”と言われた、私だけなんだ。
「だから私は何も言いません。そして私も、比叡さんのお手伝いをします」
「私のこと、手伝ってくれるの? でも、あなたのお姉さんからシュウくんを奪うんだよ?」
「私もひとつ決心しました。私は、姉さんの元に戻ります。姉さんに何と言われようと」
「そっか」
「はい」
「じゃあ私達、一緒に頑張れるね」
「はい!」
入渠が終わった後、私達は執務室に向かった。敵深海棲艦の持つ、異世界への渡航施設の発見と奪取を目的とした探索部隊の編成と、その艦隊に私と朝潮さんを入れてもらうこと。それを具申するために。
私達が執務室に来ると、以外なことに司令と岸田くん以外にも、金剛お姉様、加賀さん、キソーさん、そして叢雲さんといった面子が揃っていた。
「来たわね。じゃあ岸田、ブリーフィングをはじめて」
何がなんだか分からない状況の中、叢雲さんが勝手に話を進めようとしている。ちょっと待って下さい。私達は司令に話があるんです。
「だから渡航施設捜索及び音楽隊隊長の奪還作戦を今から始めるのよ。どうせアンタたちも改めてそのことを具申しに来たんでしょ?」
へ?
「今回はあなたと共にシュウを助けに行くんですよ。彼のあなたへの求愛の時とは、ちょうど正反対ね」
いやちょっと加賀さん……恥ずかしいこと、思い出させないで下さい……いやいや待ってください。
「“早く迎えに行かないと、今度は球磨が比叡を七回張り倒すクマ”って球磨姉がうるさいんだよ。あんたを球磨姉から守らないとな」
キソーさんありがとう……でも球磨さんにダンナ様は渡しません……いやそうじゃなくて……
「そういうことデース。今度は比叡が、囚われの王子様を救いに行く番デスネ!」
あーもう状況確認やめます……金剛お姉様……ありがとうございます……本当に……
「あ! あの! 私も……私も艦隊に加えていただけないでしょうか!!」
敬礼をした朝潮さんが、必死な形相で岸田くんにそう具申した。本来であれば、練度が極めて低い朝潮さんが、こんな過酷な任務に就くなんてありえないことだ。だが私も朝潮さんのことは、仲間として譲れない。例え何を言われようとも連れて行く……でも司令と岸田くんを説得するのは骨が折れそうで……
そんな葛藤を抱えていると、実にあっけらかんと……でも機嫌悪そうに、叢雲さんが答えてくれた。
「どうせそう言うと思ってアンタも艦隊メンバーに入れておいたわよ」
「ほ、本当ですか?!」
「その代わり私も一緒に出撃するから覚悟することね。少しでも早くマシな動きになるよう、私がしごき倒してやるわ」
「はい! 叢雲さん!! ありがとうございます!!」
「フン……」
朝潮さんは本当に嬉しそうな顔をし、叢雲さんに向かって敬礼をしていた。叢雲さんはそんな朝潮さんには興味がないように、彼女の方を見ることなく、髪をかきあげていたのだが……
「んなキツイ言い方いなくてもいいじゃん叢雲たん。『きっと朝潮も行きたがるから編成してやって欲しい。私が絶対に轟沈させないから』って言ってたじゃんニヤニヤ」
「なッ……だ、黙りなさい岸田ッ?!!」
「まったく素直じゃないんだから叢雲たん。そんなところがカワイイんだけどニヨニヨ」
恥ずかしい秘密を岸田くんに暴露され、叢雲さんは顔がマッカッカになっていた。この人は偽悪的にふるまうけれど、それが一種の照れ隠しであることを私たちはよく知っている。彼女はとても優しい人だ。ただ、恥ずかしがりやなだけで……
叢雲さんは真っ赤な顔のまま素早く岸田くんの背後に周り、岸田くんの口に両手の人差し指を突っ込んで、それを強引に左右にひっぱって岸田くんの口を引き裂こうとしていた。
「この口かッ! 余計なことを口走るのはこの口かッ!!」
「いだだだだだむ゛ら゛ぐも゛だんい゛だい゛い゛だい゛!!」
その様子を見ながら、金剛お姉様が私に耳打ちをしてくれる。
「最近比叡と一緒に必ず叢雲が出撃してたのも、叢雲が言い出したことデス。『最近の比叡は危なっかしい。私が絶対に守るから一緒に編成しろ』ってえらい剣幕でテートクと岸田に迫ってたデス。だからワタシはあまり心配してなかったネ。ひそひそ」
「そうなんですか?」
「こら金剛! アンタも余計なこと言うと、今岸田の口に突っ込んでるこのツバ臭い指をアンタの鼻の穴に突っ込むわよ!!」
「おーう。そーりーでーすむらくもー。ニヤニヤ」
「ちぃいいッ!!」
その様子を見て、私と朝潮さん、そしてキソーさんはプッと吹き出し、加賀さんは頭を抱えていた。これから過酷な戦いが待っているというのに、なんとも間の抜けた時間だった。
「さあ岸田!! 今回の作戦指揮はアンタでしょ!! さっさとブリーフィングをはじめなさい!!」
「わがっだがら! 分かったからツバ臭い指を鼻の下に持って来ないで!! む゛らぐも゛だぁぁあああああン?!!」
そうしてはじまった渡航施設及び音楽隊隊長の奪還を目的とした『待っててくださいダンナ様大作戦』は、過去にないほどの苛烈を極めた。私達は現段階で判明している敵深海棲艦の領海をくまなく捜索し、度重なる艦隊戦をくぐり抜けていった。
当初、私達の目標である渡航施設はすぐに見つかる予定だった。というのも、私と球磨さんが以前遭遇した、異質な動きをする駆逐ハ級は、世界を渡る処理がなされたタイプのはずだった。ということは、あの海域にもう一度出向けば、きっと施設はあるはず……私達はそう確信していた。
しかし件の海域に行ってめぼしい島々を探索してみたが、それらしき痕跡はなかった。
「……これは長丁場になるかもしれないわね」
「そうですね……でも、必ず見つけます」
「もちろんよ」
こうして、戦いは苛烈を極めた。広大な深海棲艦の勢力範囲の中を動き回り、敵を見つければ退避し、それが不可能であれば即時撃滅する。その繰り返しだった。全員の体力と装備が限界になるまで捜索して戦い、鎮守府に戻ったら入渠して傷を癒やし、間髪入れずに出撃する毎日が続いた。
「何度か出撃を繰り返したらちゃんと疲労を抜け。高速修復剤も数に限りがあるんだ。資源は有効に使え」
と途中何度も岸田くんと司令から警告を受けたが……
「知ったこっちゃないわ。高速修復剤なんて、こんな時のために常日頃しこたま溜め込んでるんだから。今使わないでいつ使えって言うのよ」
と叢雲さんはどこふく風で高速修復剤を湯水のように使いまくっていた。
「叢雲さん、大丈夫なんですか?」
「ん? 何が?」
「鎮守府の資産を勝手に使って」
「アンタはシュウを取り返すことだけ考えてればいいの。……どうせ使っちゃえばこっちのモンよ」
「そんなこと言ったって、司令は上官ですよ? 岸田くんだって、この作戦の責任者だし……」
「司令官なら私のやることに口は出せないし、岸田は文句言ってきたら適当にしばいときゃいいのよ。そしたらアイツは勝手にヨロコぶんだから」
と司令たちの警告などどこふく風の叢雲さんが非常に頼もしかった。こんな傍若無人な振る舞いを見せる叢雲さんのおかげで、私たちの作戦は過酷ながら滞りなく進んでいった。
度重なる戦いの中で、朝潮さんも目覚ましいスピードで成長していった。はじめは輪形陣の旗艦として皆に守られていた朝潮さんだったが、やがて雷撃で敵駆逐艦を葬り、航空爆撃にも対応出来るようになり、ついには夜戦で敵の戦艦を殲滅出来るほどに練度を上げていった。それは共に出撃していた叢雲さんの、厳しくも的確なアドバイスのおかげもあったが……
「朝潮、あんた中破レベルの損傷受けてるわよ。どうするの?」
「みなさんが大丈夫であれば……このまま進軍します!!」
「上等。だけどもう一撃アンタがダメージを負ったら撤退するわよ。轟沈されると寝覚めが悪いから」
「はい!」
姉さんに一日でも早く会いたい……その強い気持ちが、彼女の成長スピードを劇的に早め、その小さい体を突き動かしていたようだった。やがて彼女は、私達探索部隊になくてはならない戦力となった。
一度だけ、無傷で進軍しつづけた金剛お姉様とキソーさんの疲労がピークに達したことがあった。その時は、リザーバーとして、怪我から回復した球磨さんと、シュウくんの教え子であるビス子さんが、金剛お姉様とキソーさんの代わりに入ってくれた。
「ヒエイ、やっとあなたの力になることが出来るわ。あなたのシュウを取り戻すための戦い……私にも手伝わせて」
「いい加減ベッドも飽きたクマ。球磨にもシュウを助けさせるクマッ」
「ありがとうございます……二人とも」
「いいのよ。それに私にとっても、シュウは大切なレーラァなんだから。アカツキとも約束したわ。レーラァを助けてくるって」
「暁ちゃんが……」
「アカツキは遠征で資材をしこたま運んでくるそうよ。高速修復剤もいっぱい持って帰ってくるのが一人前のレディーだって張り切ってたわよ」
みんな助けてくれた。みんなが、私と朝潮さんのために力を尽くしてくれていた。その気持ちに報いるためにも……私達は死にものぐるいで渡航施設を探していった。
そうしてある日……高い練度を誇る敵艦隊をみんなでボロボロになりながら撃退したあと、私達はついに渡航施設を奪還することが出来た。見間違うはずもない。この赤黒く輝く悍ましい外見と、その施設内部から聞こえてくる心臓の脈動のような駆動音……これは以前、私とあきつ丸さんが向こうの世界に渡る作戦だった時に見た、渡航施設だ。
「やっと……見つけたわね……朝潮!」
「はい!」
「アンタの最後の仕事よ! 岸田と司令官に通信! ここのポイントを正確に伝えて、救援部隊を派遣させなさい!」
「はい!」
旗艦である朝潮さんが、鎮守府で待つ岸田くんと司令に無線通信を行った。この連絡を最後に、朝潮さんは、艦娘としての任を解かれる。
「……はい。連絡、終わりました。数時間ほどで、救援部隊及び防衛部隊がこちらにやってくるそうです!」
「司令官と岸田は何か言ってた?」
「司令官からは、ただ一言『今までありがとう』と。岸田さんからは、『もし俺の両親に会うことがあれば、元気でやってると伝えてくれ』と言われました」
「最後ぐらい色気のあること言いなさいよ……ったく、うちの男どもは……」
叢雲さんは苦虫を噛み潰したような顔をしていた。それを見て、私とビス子さんと朝潮さんはプッと吹き出し、球磨さんは呆れたように鼻の下を伸ばしていた。加賀さんはまったく表情を変えてなかったが……
「あの人たちに気の利いたことなんて言えないでしょう。ないものねだりというやつです」
とジト目で言っていた。意外と手厳しいですね加賀さん……
「……さて、朝潮」
「はい」
「以上であなたの艦娘としての任務は完了よ。お疲れさま」
「……」
「アンタはもうあっちの世界に移り住むことになるわけだから、艤装は置いて行きなさい。私が夕張に返しておいてあげるわ」
「ありがとうございます」
バシュウッという音と共に、朝潮さんの艤装が外れ、重量が感じられる音と共に砂浜に落ちた。こうやって見ると、今の中破レベルの損壊とは別に、今までの激しい戦いの傷跡が本当にたくさんついていた。まだ着任して一ヶ月も経過してないというのに、まるで長年使い込んだ艤装であるかのような風格が漂う。それほどまでに、彼女が戦ってきたこの数週間の日々は、濃密な時間だった。
艤装を外し、ボロボロの服を除けばただの少女となった朝潮さんに、加賀さん、クマさん、ビス子さんが近づいてきた。はじめは艦娘の仲間は私一人だけだったのだが、今はこの探索部隊のみんなが、朝潮さんの仲間だ。朝潮さんはもう、一人ではない。そして彼女自身も、私達にとって、かけがえのない仲間だ。
そして今日、その仲間たちと別れ、朝潮さんは世界を渡る。彼女は二度と、この世界に戻ることはない。
「朝潮。一航戦として、共に戦えたことは喜びでした」
「はい! 私こそ、高名な加賀さんと一緒に戦えて……光栄でした!」
「何かイヤなことがあったら、球磨たちに言うクマ! すぐに助けに行くクマ!!」
「はい! ……球磨さんも……おげんぎで……!」
「あなたのその一途な真面目さはキュートだったわ。アサシオ、ちゅす!」
「ビズ子ざんも……おげんぎで……!」
皆がそれぞれに朝潮さんとの別れを惜しみつつも、背中を押していった。別れは悲しい。たとえ一月弱の短い付き合いだったとしても、私達は時間の短さを補って余りある、濃厚な日々を共に過ごし、心を通わせてきたんだ。そうやって朝潮さんと仲良くなれたことがうれしく、またその分、別れはとても悲しい。その悲しみのためだろう。朝潮さんは声が鼻声になり、そのまっすぐな瞳から涙がとめどなくあふれていた。
ひとしきり別れを惜しんだ後、加賀さんたちは朝潮さんの元を離れた。叢雲さんだけは朝潮さんから距離を取っていたが、その叢雲さんには、朝潮さんの方から近づいていった。
「むらぐもざん……あなだが私を艦隊に入れでぐれなければ……わだじは今日、この場にいるごどは……でぎまぜんでじだ……」
「いいのよ。……正直、弱っちかったあんたがここまで成長するとは思ってなかったわ。最近はホントに頼もしかった」
「むらぐもざんに指導していだだいだおかげでず……」
「違うわよ。なんとしても姉さんに会いたいという、アンタの強い気持ちが成した奇跡だったのよ。私はただ、その手助けをしただけなんだから」
「むらぐもざぁぁぁん……」
「もう、馬鹿には出来ないわね……朝潮。向こうの世界でも、元気で」
「はい……」
「ほら。涙をふいてもう行きなさい。比叡が待ってるわよ。アンタと比叡は、これからが本番なんだから」
「はい!」
朝潮さんは服の袖で自身の涙を拭いた後、皆に向かって再度敬礼をした。加賀さんたちも返礼をし、叢雲さんはそんな朝潮さんに対して優しく微笑んでいた。
「……比叡さん」
「うん」
「行きましょう! 姉さんの元に!」
「うん! 行こう! シュウくんの元に!!」