秦野さんから『一緒の部屋で寝ましょう』と提案されたことは、ハッキリ言って予想外のことだった。私は今晩久しぶりに、ダンナ様とは別の部屋で寝る。
「シュウくん、どうしよう?」
「仕方ない。夜中の1時に玄関で落ち合おう。時計はある?」
「んーん……」
「じゃあ僕の腕時計を貸すから」
秦野さんが朝潮さんと一緒にお風呂に入っている間に、シュウくんがそう言って自身がつけていた腕時計を貸してくれた。高価なものではないデジタル時計だが、ライトがついていて暗闇でも時刻を確認することが出来る。
「これで秦野と朝潮ちゃんが寝静まってて暗くても、時間が確認出来るでしょ?」
「うん」
「もし15分待っても来なかったら、僕は一旦自分の部屋に戻る。その後1時間おきに玄関にいるから」
「分かった」
シュウくんが貸してくれたデジタル腕時計を腕に巻いたところで、秦野さんと朝潮さんがお風呂から上がってきた。気のせいかもしれないが、お風呂あがりだというのに二人とも顔がまったく緩んでない。私やシュウくんがお風呂あがりの時は、それこそつきたてのお餅のように、顔が原型をとどめることすら困難なほど緩みきるというのに。
「お風呂、お先にいただきました。先輩はまだ入浴は出来ないですよね」
「そうだね」
「じゃあ比叡さん、次、どうぞ」
気のせいか、秦野さんの表情が少しニヤッとした気がした。私はパジャマ代わりのTシャツと短パンを手に取り、お風呂場に向かおうとすると……
「比叡さん、湯かげん、どれぐらいがお好みですか?」
「へ? 私?」
「はい」
朝潮さんがそう話しかけてくれた。この子は悪い子ではないけれど、私に対しては常に真剣な眼差しをしているので今一感情が読めない。
「んー……私はちょっと熱めの方が好きかなー」
「だったら今の湯加減でちょうどいいと思います。でも念の為、入る前に確認して調節してください」
「そっかー。朝潮さん、ありがとう」
「いえ」
真剣な眼差しで話しかけてくるから何事かと思えば湯加減の話だったのか……真面目な子なのかな朝潮さんは。
朝潮さんのアドバイスに従い、洗面所についたら、服を脱ぐ前に一度お風呂場に入って、浴槽に手を突っ込んで湯加減を見てみる。確かにちょっと熱めで、私にとってちょうどいい湯加減だ。これなら調節はいらない。私は服を脱ぎお風呂場に入室したあと、身体にかけ湯をして浴槽に浸かった。ここのお風呂も久しぶりだ。鎮守府の入居施設も悪くないが、シュウくんちのお風呂も好きだ。とても懐かしい。
調度良い温度の湯に、今日と昨日の疲れが溶けだしていくようだ。今日一日、私はシュウくんの心配ばかりをしていたが、何のことはない。私自身にも疲労が蓄積していたのだ。初見の敵との戦いや、こちらの世界への予想外の渡航……球磨さんの大破と拿捕……この二日間は、起こったことが多すぎた。まるでシュウくんが私を助けに世界を渡ってきたときのように……
――あなた先輩を戦いに巻き込んでるじゃないですか。
あなたのせいですよ先輩のあの怪我は。
不意に、頭の中に秦野さんの声が鳴り響いた。彼女のあの一言は、予想以上に私の心に突き刺さってしまっている。その後も、お風呂の心地よさに私の頭が空っぽになる度、秦野さんの言葉が聞こえ続けた。
「比叡、入渠完了いたしました〜……」
今一お風呂の気持ちよさを堪能出来なかったまま、入浴を終える。居間ではシュウくんと秦野さんと朝潮さんが話をしていた。
「姉ちゃんおかえ……どうしたの?」
「ん? 何が?」
「……いや、なんでもない。牛乳飲む?」
「うん」
何か腑に落ちないといった表情をしたまま、シュウくんがふらふらとおぼつかない足で立ち上がろうとするが、それを朝潮さんが制止した。
「私が比叡さんの牛乳を準備します! シュウ先輩は座ってて下さい!」
「え……でもいいよ? それぐらいやるよ?」
「朝潮は今日はお手伝いしたいんですよ。させてあげて下さい。ね? 朝潮?」
秦野さんにフォローされ、朝潮さんは若干ほっぺたを赤く染めて小さくコクリと頷いていた。こういったところは歳相応の幼さが感じられる。
「そっか。お姉さんがそういうなら、朝潮さん、私の牛乳お願いします」
「はい!」
朝潮さんはうれしそうに返事をすると、とことこと台所まで走って行き、戸棚からコップを取り、冷蔵庫を開けて牛乳を注いでくれた。
「比叡さんどうぞ!」
「はい! ありがとう!」
「私の今日の任務は、皆さんのお手伝いですから!!」
その後は4人でしばらく話をしたあと就寝することになった。別れ際にシュウくんが私の手をちょっとだけ強く握りしめ、
「姉ちゃん……おやすみ……しょぼーん」
「うん。……おやすみシュウくん」
と実に寂しそうな顔で秦野さん達の待つ寝室へ向かう私を見送ってくれた。そんな顔しないでシュウくん……お姉ちゃんだって寂しいんだから……しょぼん攻撃しないで……。
寝室に入ると、すでに布団が二枚並んで敷かれており、そのうち一枚にはすでに秦野さんが入っていた。朝潮さんの姿は見えないが、秦野さんの布団が不自然に大きく盛り上がっているところを見ると、どうやら朝潮さんは秦野さんの布団の中に潜り込んでいるようだ。大人っぽく見える朝潮さんだが、やはりどこか幼い部分が見え隠れする。
「……」
「どうしたんですか? 寝転ばないんですか?」
秦野さんにそう促され、私も寝転ぶことにした。
「んーん。寝転ぶよ。お布団はどっちが敷いてくれたの?」
「私です!!」
私が問いかけるやいなや、掛け布団から朝潮さんが頭だけをピョコンと出し、真面目な顔で敬礼をしてみせてくれた。その様子がなんだか面白くて、私はちょっと吹き出してしまった。
「私が比叡さんの入浴中に敷いておきました!!」
「ぷっ……」
「ちょっ……比叡さん……ぷぷっ……私の妹を……笑わないで……ぷぷっ」
「そういう秦野さんだって……ぶふっ」
「?」
よかった。私と秦野さんの間に朝潮さんがいることで、刺々しい空気がかなり和らいでいる。救われた。あの刺々しい空気のまま1時になるまで待つだなんてつらすぎて仕方ない。朝潮さんに感謝だ。
「朝潮さん、ありがとう」
「いえ! これも私の任務ですから!!」
「んーん。そうじゃなくて」
「はぁ……? 姉さん、どういうことですか?」
「いいの。……でもありがと。私からも礼を言うね」
「はぁ……?」
「じゃあ寝転ぶ前に電気を消しますねー……」
私は電気をパチパチと消し、寝転んだ。お布団はふかふかで、ほんのりとした温かさが私を包み込んでくれる。……布団に入ったばかりなのにほんのり温かいのはどうしてだろう?
「私が温めておきました!」
私の心を読んだかのようなジャストタイミングで、朝潮さんが威勢よくそう答えてくれた。
「騙されないでくださいね。朝潮ちゃんは、布団の上でゴロゴロしてただけですから」
「バッ……ち、違います! 私は比叡さんのためにお布団を温めておこうと思って!!」
「“姉さん! お布団二枚敷いたらゴロゴロ出来ますよ!!”てはしゃいでたのに?」
「ーーッ?!!」
秦野さんと朝潮さんの漫談が続く。二人は本当に仲が良くて息がピッタリだ。私たち4姉妹に負けないぐらい、仲のいい姉妹だ。
部屋の中が暗くなって数分後、静かな寝息が聞こえてきた。
「……お休み。朝潮ちゃん」
秦野さんの声が聞こえ、今寝息を立てているのが朝潮さんであることがわかった。今この空間にいるのは、私と秦野さんの二人だけ。
「二人とも、本当の姉妹みたいだね」
「はい。かわいい妹です」
暗闇の中でも分かる。気持ちよさそうに寝ている朝潮さんの頭を、秦野さんは優しく撫でていた。
「朝潮ちゃんは、比叡さんのことが気に入ったみたいです」
「どうして?」
「朝潮ちゃんは、あまり自分から積極的に人と関わろうとしない子です。言うことをよく聞き、ハキハキとしゃべってはいますけど、あまり自分から人と仲良くなろうとしません。そんな朝潮ちゃんが、比叡さんには積極的に話しかけ、褒めてもらいたくて布団を敷き、かまって欲しくて“布団を温めていた”なんて冗談を言ったんです。私からしてみれば、今日の朝潮ちゃんは比叡さんにやられっぱなしです。姉としては悔しいけれど」
驚いたことではあったが……よく考えれば、朝潮さんが見た目よりも成熟して見えるのは、あのキッと前を向く眼差しと、とても真剣な表情からくるもので、行動自体は歳相応のかわいらしい女の子のそれと同じだ。そう考えると、朝潮さんの行動は、すべて私に興味を持ったゆえの、この子なりの私へのアピールだったのかな。
「多分、比叡さんが“本当の姉妹みたい”って言ってくれたのが、とてもうれしかったんでしょうね……」
それは私もよく分かる。シュウくんが『僕たちは姉弟みたいなもの』と言ってくれた時、不思議と気持ちが暖かくなった。シュウくんが私のことを“姉”と呼んでくれたことが、自分が考えていた以上にうれしかった。その時の私と同じ気持ちを、きっと朝潮さんは抱いたんだろうなぁ……。
「秦野さん、私がお風呂に入ってる間、シュウくんと話はした?」
「朝潮がいないスキにちょっとだけ。あなたと大体同じことを言ってました」
「そっか」
「はい。あなたたちは、二人して私にウソをつくんですね」
言葉そのものはとても刺々しいものだったが、不思議と秦野さんの言い方には怒りや憤りというものは感じられなかった。
「秦野さん、信じられないのはわかるけど……」
「“全部本当のことだから”ですか? それも先輩と同じセリフです」
暗闇に紛れてうっすらと見える秦野さんの表情は、今まで見てきたどの秦野さんよりも、優しくて美しい。彼女は今まで、私には敵意しか向けてこなかった。だから私は、秦野さんがこんな優しい表情が出来ることに、今まで気づくことが出来なかった。
「……比叡さん」
「ん?」
「私にとって、先輩は大切な人です。世界で一番大切な人です」
分かっている。昨日と今日で、それは痛いほど伝わっている。
「だからあなたには渡せません。先輩を危険な目に遭わせ、ご家族をウソで煙に巻くあなたにだけは……先輩を渡したくありません」
それも伝わっている。私にシュウくんを渡したくないというのは、秦野さんを見ていてよく分かった。……でもだからこそ、私も彼女に伝えなければならない。
「……秦野さん」
「はい」
「シュウくんは、私にとっても誰よりも大切な人です。大切な弟で、大切なダンナ様です。私の命の恩人で、私にケッコンしろと言ってくれた、世界で一番大切な人です」
「……」
「私も、シュウくんと離れるつもりはありませんから」
宣戦布告というような大層なことではない。彼女に勝ち誇るつもりも、『だから諦めろ』と威嚇つもりも、ましてや『彼は私のものだ』と声高に宣言するつもりもない。ただ、彼女に伝えたかった。同じ男性を好きになった者として、私の気持ちを彼女に伝えたかった。
「……わかりました。今日は朝潮ちゃんに免じて大目に見ます」
「うん。ありがとう」
「明日からまた、容赦しませんから」
「わかった」
「比叡さん、おやすみなさい」
「うん。おやすみ秦野さん」
暗闇の中にいても分かった。彼女は朝潮さんに抱きつくと、目を閉じて寝てしまった。
それから数時間、私は布団の中で1時になるのを待ち続ける。布団の中にいて少しずつ眠くなってくるのを我慢しつつ、時々時計のライトをつけて寝てしまうのを防ぎながらひたすら待ち続け、そしてやっと1時になった。長かった……
「よし」
私は二人を起こさないように布団から出て、音を立てないように扉を開いた。閉じる音が少しでも鳴らないように慎重にドアを閉じ、玄関に向かう。
「あ、姉ちゃん」
「シュウくん」
玄関ではすでにシュウくんが待ってくれていた。シュウくんは私を見るなり、自分の母親を見つけた迷子の子供のように目を輝かせ、私の元に来て手をつないでくれた。
「姉ちゃん! 別々に寝たの久しぶりだったから……寂しかったー……」
繋いだ手を嬉しそうにブンブンと振った後、シュウくんは私に寄り添ってくれる。ほっぺたがほんのり赤い。私より少し背が高いはずのシュウくんの姿が、こういう時どうしても小さな子どもに見えてしまって仕方がない。……ホント、この子は年下というか何というか……シュウくんって元からこんなに寂しがりやだったっけ?
「ん? なんか言った?」
「言ってない言ってない」
それはそうと、私はダンナ様に確認しなければならないことがある。
「そっか……じゃあ姉ちゃん、行こう」
「ちょっと待ってシュウくん」
「?」
今する話ではないのかもしれない。それでも私には、どうしても今、シュウくんに確認しなければならない。
「シュウくん、これから球磨さんを助けに行くんだよね」
「うん」
「もし出来るなら、そのまま鎮守府に帰るつもりだよね」
「うん」
やっぱり……ならばなおさら、シュウくんに聞かなければならない。
「シュウくん、お母様もお父様も、秦野さんも、みんなシュウくんが帰ってくるのを待ってたんだよ?」
「うん。知ってる」
「お母様がシュウくんともっと話をしたがってたのは知ってる?」
「うん」
「お父様とまだ話をしてないよね」
「うん」
「秦野さんと話は?」
「したよ。少しだけだけど」
「それなのに、こんなに簡単に鎮守府に戻っていいの? こっちにも大切な人がたくさんいるんだよ?」
「……」
「シュウくんもご両親やみんなに何も言わずに鎮守府に来たのを気にしてたでしょ?」
私の言葉を聞き、シュウくんは少し考える素振りを見せた。まさか何も考えてなかったというわけではないだろうけど……
「確かに、僕は一度こっちの世界に戻って、みんなに無事を伝えたかったってのはある」
「うん」
「母さんや秦野に会えてうれしかったってのも本当だ。父さんと話が出来ないってのが残念だって気持ちもある」
こっちの世界に来てすぐ、球磨さんにハ級を倒してもらって元の世界に戻ろうとした時、シュウくんがほんの少し寂しそうな顔をしたのは、きっとそれが理由だったんだろう。なんだかんだで、シュウくんもみんなと会いたかったのだ。
ならどうして今、私のダンナ様はこうしてみんなと離れる決断をすぐ出来るのだろうか……私としてはうれしいことだけど、どうしてもその点が気になった。
「ならどうしてそんなに“鎮守府に帰ろう”ってすぐ決められるの?」
「色々理由があるから簡単には言えないけど、責任というか……この世界に戻ってきて、父さんや母さん、秦野たちとちゃんとじっくり話をする機会って、今じゃないと思うんだよ」
シュウくんは淀みなく、つかえることなくそう言った。まるで、聞かれた時にはいつでも答えられるよう、前もって準備していたかのように。
もしシュウくんが、『姉ちゃんが一番大切だから』と言った時は、私は自分を言い訳にすることを諌めようと思っていた。だがシュウくんは、私の予想外のしっかりとした返答をしてきた。
「僕がこっちの世界に戻るときは、キチンと提督に、そのことを僕自身が伝えなきゃいけない。じゃないと、また僕は鎮守府に来た時と同じ失敗を繰り返したことになる。父さんや母さんにかけてしまった心配を、今度は鎮守府のみんなにかけてしまう。僕はそんなのはイヤだ」
「……」
「僕がこの世界に戻って、キチンとみんなと話をするのは、渡航設備を見つけて、自由にこっちの世界と行き来出来るようになってからでも遅くない。今回は無事だということを伝えられただけで充分だ。僕には、鎮守府でやり残したことがいっぱいある。やるべきことも、やりたいこともたくさんある」
「そっか」
「そして姉ちゃんのこともちゃんとみんなに話したい。それには時間が足りない。だからこの世界に戻るのは今じゃない。僕はそう思ってる。だから僕は、今は鎮守府に帰りたい」
シュウくんの考えてることが正解なのかは分からない。でも、私はシュウくんが精一杯考えて出した結論を支持してあげたいと心から思った。私のダンナ様は、いつも私に甘えてばかりで何も考えてないように見えて、その裏で意外としっかりと考えていたんだなぁ。私はダンナ様のことを少し見くびっていたようだ。ごめんねダンナ様。
「ちゃんと考えてたんだねシュウくん」
「姉ちゃんに甘えてばかりじゃないんだよ?」
「そうだね。意外と大人だったねシュウくん」
「そうだよー。……どちらにしても、球磨も秦野たちと同じく大切な友達だ。今晩助けだしてあげないと」
「そうだね。鎮守府に帰れるにしても帰れないにしても、球磨さんは助けようね」
「うん」
不意に、秦野さんと朝潮さんが眠る寝室から物音が聞こえた気がした。私は振り返り部屋を見るが、特に変化はない。
「どうしたの?」
「物音が聞こえた気がしたけど……何でもないみたい」
「そっか。……よし。じゃあ行こう姉ちゃん」
「うん」
「艤装なくても大丈夫?」
「大丈夫。お姉ちゃんは艦娘でシュウくんのお嫁さんで、テレタビーズのヒーローなんだから!」
今回もし戦う相手がいるとすれば、それは深海棲艦ではない。球磨さんを拿捕した、あの海上保安庁の人たちだ。人間相手であれば、本格的な艦隊戦にならないかぎり、艤装は必要ないだろう。何より相手が普通の人間なら、私も負けることはないはずだ。
大丈夫。仮に今鎮守府に戻ることが出来なくても、球磨さんを助けることはきっと出来る。もし帰ることが出来るのなら、そのまま鎮守府に戻ればいい。もし出来なくても、ここに戻ってくればいい。球磨さんなら、きっと皆も受け入れてくれるはずだ。
私とシュウくんは玄関のドアを静かに開け、外に出た。ドアが閉じるときに大きな音がたたないように、できるだけ静かにドアを閉じ、昼間のうちにシュウくんが確保しておいたカギを使って、静かに施錠した。よし行こう。球磨さん、待っててください。