俺は、退院予定日より一週間遅れて退院した。しかも、日中ではなく夜間にこっそりとだ。
三笠さんや軍医の話では、マスコミや野次馬対策なのだという。
一度、病院内で対馬事件の遺族を装った連中に絡まれたということもあり、念のためにということらしい。
迎えに来てくれた三笠さんに付き添われて、こそこそと夜間通用口から退院した俺は、病院近くのビジネスホテルで夜を明かした。
そして次の日、俺達が住むことになる新居に向かう。
三笠さんには、住所だけ教えてもらえれば一人で行けると言ったんだけど、心配だからと有休を使って一緒に来てくれた。
「お前一人で行かせたりしたら、岩野一佐にまた何を言われるか」
冗談めかしてそう言っていたけど、三笠さんの気遣いが素直に嬉しかった。
現在は情勢が安定しているらしく、司令長官のような要職でも一日ぐらいなら休みが取れるようだ。
「着いたぞ。ここだ」
「おおー……」
車から降りた俺の前には、広々とした庭付き一戸建てがあった。
家は平屋だが外観を見ただけでも、かなりの大きさであることが分かった。
庭なんて、アメリカの洋画に出てくる大型犬とかを放し飼いに出来そうな芝生敷きの広々としたものだ。
この時代、人類が一つの惑星にひしめき暮らしていた地球時代とは異なり、惑星自体の人口密度はかなり低い。
お陰で住居に利用できる土地も、そこそこの金額で、比較的広いスペースを確保することが出来た。
しかし、前世の日本人としての記憶しか持ち合わせていない俺としては、なんだか引け目を感じてしまう。
しかもその時に住んでいたのは、独身者用の社宅だったしなぁ。
「ここで突っ立っていても仕方が無い。中に入ろう」
「う、うん」
三笠さんに促され、恐る恐る玄関を潜った。
「お、お邪魔します……」
思わず呟いてしまい、三笠さんが噴出していた。
外観は良くある分譲住宅といった感じだったけど、予想通り中は広々としていた。
玄関で靴を脱ぎ、居間に入る。
フローリングの室内には、ソファとテーブル、電化製品といった基本的な家具が置かれているのみで、それ以外の調度品の類はなかった。
居間から庭に出られるようになっており、見晴らしと日当たりは良好だ。
隣家とは程よく距離も離れており、あまり近所の目を気にすることが無いのも良い。
ガーデニングや家庭菜園に手を出してみるのもいいかもしれない。
ダイニングキッチンと壁を隔てず繋がっているせいか、実際よりもずっと広々として開放感があった。
三笠さんの話では、この辺りに住んでいる住人は、軍人や軍関係者の一家が多いそうだ。
そのお陰で、治安も良いらしい。
「一通り、生活に必要なものは揃えておいた。他に何かあればこれで買い足すといい」
そう言って三笠さんは、銀行のキャッシュカードを俺に手渡してきた。
「欲しいものくらい、自分の金で買うよ。俺だって蓄えはあるし」
軍人やってた頃は、金の使い道は専ら趣味のコスプレにしか注ぎ込んでなかったので、蓄えはそれなりにある。
今だって、負傷療養中で予備役扱いだから、傷病手当と給料は出ているし。
「いいから。夫婦の共有財産だとでも思っておけ」
「わかった。そういうことなら……」
そんな男前な事を言われては、受け取らないわけにはいかなかった。
共有財産というのなら、後で自分の口座からも振り込んでおこう。
「身体の具合はどうだ?」
「うん。全然問題ないよ」
退院はしたものの、病み上がりということなので、一週間は安静にしているようにと主治医からお達しされていた。
俺としては、すぐにでも靖國に合祀された部下のところに参拝に行きたかったんだけど、医者の言うことに逆らうことはできない。
それはそうと、今日はこれからどうすれば良いのだろう。
「今日は」というよりも「今日から」と言ったほうが正確かもしれない。
何しろ、これからずっと、三笠さんと一つ屋根の下で暮らすことになるのだ。
今までは、夫婦とはいえ、お互い軍務で忙しかったこともあって、籍を入れていただけの状態だった。
本格的な夫婦生活を営むのは今回が文字通り初めてだ。
当然、寝るときは一緒の寝室で寝るわけだし、そうなると何れは……
やばいな。なんか、緊張してきた。
「な、なんか、喉渇いたね」
「冷蔵庫に色々入ってるから、好きなのを飲んで良いぞ」
俺は弾かれたように立ち上がると、キッチンへ向かった。
冷蔵庫を開けてみると、中には様々な種類のペットボトルが入っていた。
お茶やミネラルウォーターはもちろん、コーヒーやスポーツドリンクまで、様々な種類、様々なサイズのペットボトルの大艦隊が所狭しと、冷蔵室内部を隙間無く占拠していた。
「どうした?」
冷蔵庫の中を凝視したまま固まっている俺に、三笠さんが不思議そうに声を掛けた。
「い、いや、これ……」
俺は言葉少なに、冷蔵庫の中を指さす。
「便利だろう。これだけ揃えておけば、頻繁に外出しないで済む」
「いくらなんでも詰め込みすぎ。これじゃ、他の食料品が入らないじゃないか」
やはり、三笠さんの仕業らしい。しかも、何故か自慢げだ。いったい、何を考えているのか。
「食料品? そんなものを入れる必要があるのか?」
「料理をするための食材を保存しておかなきゃならないでしょ」
「料理?」
何故そこで、心底不思議そうに首を傾げるのでしょうか。
「腹が減ったら、どこかに食べに行けば良いだろう。近くにはコンビニだってあるぞ」
「はぁ?」
「だいたい、料理なんて面倒なことをしていたら、時間がいくらあっても足りないだろう。その点、外食ならそんな煩わしさから解放されるし、コンビニ弁当で済ませたとしても、トレイ洗ってゴミに出せば良いだけだし。ペットボトルも同様だな。食器要らずで結構なことだろう」
「はぁ~?」
次々に飛び出す超理論に俺は頭痛がしてきた。
マジで言ってんのか、この人。
「……あんた、前世は女だったろ? 料理とかしなかったの?」
俺はこめかみをグリグリと揉み解しながら、溜息混じりに吐き出した。
色々言いたいことはあったが、それが精一杯だった。
前世男だった俺だって、必要最低限の自炊ぐらいやってたんだぞ。味はともかくとして。
「女だからって、必ずしも料理をするとは限らんだろう」
痛いところを突かれたのか、少しムッとしたように言い返してきた。
「大体、料理というものは、食べるものであって作るものではないはずだ」
「何それ。面白いことでも言ったつもり? 主婦と飲食業に喧嘩売ってんの?」
真っ向から言い返してやると、三笠さんは怯んだように押し黙った。
きっと、前世はコンビニ弁当とかインスタントで済ませてたんだろうな。
若い頃はそれでも良いだろうけど、年食ったら成人病まっしぐらだぞ。
「三笠さん。買い物に行くよ」
「買い物?」
「そう。食料品とか食器とか色々」
「食事は外食で済ませば、それで十分だろう」
「偶になら良いけど、毎日ってわけには行かないだろ」
前世では女だったくせにと思ってしまう反面、多忙な司令長官職にあって、自炊なんて七面倒なことやってられないよな、とも思った。だけど、これからは俺がいる。
「お前は平気なのか? 毎日食事を作るのは大変だろう?」
「そりゃあ、楽じゃないけど、専業主婦なんだから当然だよ。それが俺の仕事だもの」
外食ばかりしていたら、どうしても健康が偏るし金だって掛かる。
三笠さんの稼ぎは決して低くは無いが、それでも節約できるところは節約するべきだ。
そうでなくともこの人の場合、俺がかつてそうだったように、多くの傭人を抱えているのだ。
「そういうわけだから、とにかく買い物に行こう。この辺の道案内と荷物持ちよろしくね」
「……わかった」
どこか釈然としない表情で、三笠さんは渋々頷いたのだった。
三笠さんの運転で、近くのショッピングモールに向かう。
近くと言っても、惑星の人口密度が低いため、車で三十分程度とそれなりに距離があった。
目に入ってくる風景も、俺の記憶にある日本の地方都市みたいな、田舎と呼ぶにも都会とも呼ぶにも微妙などこにでもある市街地の景色で、妙に安心した。
目に映るものだけ見ていると、数千年後の世界の星間国家で暮らしているだなんて、まるで実感が湧かない。
到着したショッピングモールも、日本の程々大きい駅の傍なんかにあるモールと殆ど変わらなかった。
この近辺には、ここ以外にそういった施設が無いからなのか、平日にもかかわらず結構混雑していた。
「普段の日用品の買出しは、ここに来れば事足りるだろう」
「そうみたいだね」
少し心配だったのは、人出の多いところで素顔でうろついて、注目を集めたりしないかという事だった。
あれから二年経過しているとはいえ、一時期俺はリャンバンによる対馬侵略を阻止した英雄扱いされていたからだ。
しかも、当時十五歳の幼女で、戦闘に勝利しつつも自身は未帰還となり、救助された後はずっと眠り姫状態で、つい最近目を覚ましたばかりと話題性も十二分だ。
しかし幸いなことに、すれ違う人々が俺に気付いているような素振りは感じられなかった。
何人かこちらをチラ見する人もいたが、俺の幼女美が気になっただけだろう。
よくよく考えてみれば、事件から二年も経っているわけだし、一時は世間を騒がせたかもしれないけど、既に過去の出来事だ。
そもそも、俺の顔と名前を知っている人間なんて数えるぐらいだもんな。今はトレードマークだった伊達眼鏡だってかけてないし、軍服だって着ていない。
そもそも、テレビでしょっちゅう見かけるような有名人ってわけでもないんだから、気にする必要は無かったのかもしれない。
ちょっと自意識過剰だったかな。
「何か食べたいものはある?」
三笠さんに、夕飯のリクエストを聞いてみた。
「そうだな。カレーで構わないぞ」
「何でも良い」なんて台詞を吐かなかったのは評価してやっても良い。さすが、その辺の機微は元女性なだけある。
とはいえ、あまり手の込んだ料理をリクエストされても困るし、カレーなら無難なところかな。
「おっけ。じゃあ、腕によりをかけて『あまつかぜ』の特製海軍カレーをご馳走するよ」
どの国でもそうだが、海軍は伝統的に飯が美味い。
軍艦という閉鎖空間に何週間・何ヶ月間も閉じ込もって勤務に励むのだから、そのストレスは半端ではない。
その過酷さは、唯一の楽しみは食事と睡眠だけとまで言われるくらいだ。
そんな中で飯が不味かったりすれば、当然士気にかかわるし、ボイコットや反乱の契機にだってなる。
裏を返せば、美味い飯を一日三食きちんと食うことが出来れば、人間大抵のことは辛抱できるということでもある。
我が八紘帝國宇宙軍の場合、旧帝國海軍時代から続く海軍カレーが特に有名だ。
ご家庭のカレーがそうであるように、海軍カレーも艦ごとに専用のレシピが存在し、一つとして同じ物は存在しない。
レシピは第一級の軍事機密とされ、代々の給養長に受け継がれ、世代を経てブラッシュアップされていくのだ。
そのため、艦齢の長い艦ほど、カレーの味には定評がある。
俺が戦隊司令として乗り込んでいた『あまつかぜ』にも、当然特製の俺艦カレーがあった。
就役したばかりの艦だったので、代々受け継がれた伝家のレシピこそ存在しないが、優秀な給養長が乗組員の意見を参考に作り上げた自慢の海軍カレーだ。
「そいつは楽しみだ。だが、果たして『おおよど』のカレーよりも美味いかな?」
余所の艦の名を出されては、こちらとしても奮起せざるを得ない。
裁縫と違って料理はそれほど得意ではないが、海軍カレーに限って言えば話は別だ。
「おう! 期待しててくれ!」
それに、食べてくれるのが他の誰でもない三笠さんなのだから、作り甲斐もあるってもんだ。
俄然、やる気が出てきた。
「病み上がりなんだから、程々にな」
ふんすと鼻息を荒くする俺を見て、三笠さんは苦笑を浮かべた。
「他に必要なものはあるか?」
「んー、とりあえず、こんなもので良いかな」
一通り買い物を済ませ、車のトランクに詰め込んだ後、俺達はフードコートで昼食をとることにした。
「まさか、歯磨き粉やトイレットペーパーまで切れてるとは思わなかったけどね」
ちょっと嫌味っぽく言ってやったら、バツが悪そうに頬を掻いた。
出掛ける前に、もしやと思って確認してみたところ、そういった細々とした日用雑貨のストックが全く無かったのだ。
三笠さんは、家具類は揃えてくれてたみたいだけど、それ以外の事には全く意識が向いていなかったようだ。
生活能力が乏しいというか、私生活に関してはあまり気の回るほうではないみたいだ。
軍人としては、部下が仕事をしやすいように色々な便宜を図ってくれる頼れる上官だっただけに、少し意外な感じだった。
これからの結婚生活について一抹の不安を覚えつつも「俺がしっかり支えてやらないと!」みたいな感じで、何か妙なスイッチが入ってしまった。
「とにかく。これからは、健康で文化的な最低限度の生活を保証するから安心してね」
「……まるで今まで、それ未満の生活をしていたかのような言い草だな」
「もしかして、否定するつもり?」
半目になってテーブル越しに詰め寄ると、三笠さんは怯むように身動ぎした。
「す、少なくとも、今まで衣食住に苦労したことは無い」
「そりゃあ、鎮守府に自室があるもんね」
鎮守府にはそこに勤務する将士向けの部屋が完備されている。
下士官までは無料で、士官以上は階級と部屋のグレードに応じて給料から天引きされる。
俺もそうだったが、三笠さんは鎮守府に自室を借りて、そこで寝起きしている。
腹が減ったら士官食堂に行けば良いし、将官クラスの部屋を借りていただろうから居心地も悪くないだろうし、それこそ、消耗品の補充なんかは従卒が勝手にやってくれるしで、至れり尽くせりだ。基本的に自分で何かする必要が殆ど無い。
そのことをやんわりと指摘してやったところ、多少は自覚があったのか押し黙ってしまった。
「まあ、三笠さんは忙しいもんね。仕方ないか」
少し気の毒になったので、そう言ってあげた。
最近はそうでも無いようだけど、一軍の長たる司令長官が多忙を極めるのは事実だ。
俺のこれからの仕事は、三笠さんがそんな些事に煩わされることなく、職務に精励できる環境を作ることなのだから。