デート・ア・ライブ 士道ハッピーデイズ 作:サイエンティスト
今回もお約束の二部構成。前編であるこの「鞠奈リクエスト」と後編のお話は、「凜緒リンカーネイション」の短編集を書く上で個人的に必須のお話です。その理由は後編で明らかにするので、今は適当に流しておいて下さい。
大事なことなので何度も言いますが、「凜緒リンカーネイション」の盛大なネタバレを含みます。「凜祢ユートピア」と「或守インストール」のネタバレもある程度含みます。知りたくないという方はブラウザバック推奨です。
「うっ……ぐふっ……」
気持ちよく眠っていた士道は、腹部に衝撃を受けて一気に目が覚めた。何事かと思うまもなく、再び衝撃に襲われる。三回、四回と、まるで誰かが腹の上を跳ね回っているかのように。
こんな乱暴な起こし方をする奴は一人しかいない。間違いなく琴里の仕業だ。
しかし重い目蓋を開けて瞳に映ったのは、全く別の人物だった。腰元まである長い白髪と、水晶の如く澄んだ青い瞳。そういえば琴里以外にもこんなことをする人物が一人だけいた。
「……おはよう、鞠亜」
「はい。おはようございます、士道」
その人物――或守鞠亜は柔らかな笑顔を浮かべ、丁寧な口調で答えた。ただしその間も士道の腹の上を飛び跳ねていたが。
鞠亜は来禅高校に留学してきたハーフの少女である。こんな朝早くから五河家にいるのは、ここがホームステイ先になっているからだ。少なくとも世間ではそういうことになっている。
「なぁ鞠亜。頼むからもう少し優しく起こしてくれないか?」
「それはすでに実行しました。ですが士道は目を覚まさなかったので、こうして強行手段を取っています」
「うん、俺が悪かったんだな。じゃあもう起きたから止めてくれ……」
鞠亜は小柄な方とはいえ、腹の上で跳ねられると流石にきつい。ある程度は加減してくれているものの、度重なる衝撃は士道の体内に着実にダメージを蓄積していた。
「それは悩むところですね。こうして士道の体の上で上下運動を行うのは、とても気持ちがいいですから」
「変な言い方するな!」
悪意の欠片もない笑顔で、誤解を招きそうな台詞をさらりと口にする鞠亜。わざとなのか天然なのか理解に苦しむところだが、気持ちいいというのは嘘ではないだろう。飛び跳ねながらさも楽しそうな笑みを浮かべているのだから。とはいえさっさとどいて貰わなければ、士道は別の眠りについてしまいそうだ。おまけにそれを別にしても、今すぐどいて欲しい理由がある。
鞠亜の服装は来禅高校の制服、つまり下はスカートだ。超ミニというほどではないが、裾は膝よりも上なのでミニの部類に入るのは間違いない。そんな格好で腹の上で飛び跳ねられているので、めくれたスカートから見えてはいけないものが見えてしまっている。端的に言えば真っ白な下着が見えていた。
これが琴里なら特に思うところも感じるものもないのだが、鞠亜ではそうもいかない。しかも丸見えというわけではなく、チラチラと見えるのだから余計に性質が悪い。
「どうかしましたか、士道?」
不自然に目を逸らしていたせいか、あるいは顔が赤くなっていたのか、鞠亜が声をかけてくる。
「いや、その……見えてるぞ?」
士道は健全な男子高校生であるが、罪悪感を覚えずじっくり鑑賞できるような邪な心は持っていない。だからこそ、それを伝えた。途端に鞠亜はハッとした表情でスカートの裾を押さえ、羞恥に頬を染めていく。実に女の子らしい反応である。
士道がそんな感想を抱いたのも束の間、何故か鞠亜は裾を押さえていた両手をスカートの中へと差し入れる。
「……とても恥ずかしいのですが、士道が望むなら好きなだけ見せて差し上げます。よろしければ脱いでみせましょうか?」
「いや、いいから! そういうの間に合ってるから!」
恥ずかしそうに瞳を逸らしながら、スカートの下でもぞもぞと手を動かす鞠亜。決定的な行動を取られる前に、士道は跳ね起きるようにしてベッドから離れた。足場が急になくなったせいで鞠亜はころんと転がるが、気にしてはいられない。こういう刺激の強い行動を取るのは、折紙一人で十分だ。
「……ふふっ、予想通りの反応ですね。安心して下さい、士道。今のは冗談ですよ」
部屋の隅で腰を抜かしている様子がよほどおかしかったのか、体を起こした鞠亜は怒りもせずに笑った。
「そ、そうか冗談か。良かった……」
「はい、冗談です。半分は」
「もう半分は本気だったのかよ!?」
鞠亜の恐ろしい発言に、反射的に士道は突っ込みを入れる。好きなだけ見せると言ったのが本気なのか、脱ごうとしたのが本気なのか。気にはなったが知るのは怖いので、口に出しはしなかった。代わりに出したのは疲労からくるため息のみ。
「はあっ……何で朝っぱらからこんなに疲れなきゃならないんだよ……」
「……ごめんなさい、士道。少し、調子に乗りすぎてしまったようですね」
流石にやりすぎたと思ったらしく、しゅんとする鞠亜。確かに調子に乗りすぎていたのは事実だ。しかし士道は欠片も怒っていない。というより、怒れなかった。本当はこんな朝のやりとりすら、することができない筈なのだから。
「別に謝る必要ないって。ただ悪いと思ってるなら、今度からもう少しソフトな起こし方にしてくれ」
ベッドに座り込んでいる鞠亜の所まで行き、その頭にぽんと手を置く。士道の気持ちが伝わったのか、うなだれていた鞠亜は顔を上げ、嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「分かりました。次からは琴里に薦められたドロップキックを実行することにします」
「どの辺がソフトなの!? お願いだからもう少し優しくして!」
「ですが琴里から教わった士道の起こし方の中では、比較的ソフトな部類に入ると思いますよ?」
「一体何を教えてんだよあいつは! あ、言わなくて良いからな!?」
律儀に答えようとした鞠亜を、士道はすんでのところで制した。きっと知らない方が幸せだ。
「何も琴里と同じやり方じゃなくていいだろ。頼むからもっと別の方法にしてくれ……」
「確かに琴里と同じ起こし方では芸がありませんね。分かりました。私なりの起こし方を模索してみることにします」
「普通に起こすっていう選択肢はないんだな……」
瞳を閉じて真剣に考え始めた鞠亜に対して、士道は諦めを込めた呟きをもらした。
着替えを終えて階下に向かった士道を最初に迎えたのは、焼けた魚の香ばしい香りだった。一段ずつ階段を下りる度に強くなっていく香りの中には、卵の焼ける匂いや味噌汁の匂いも混ざっている。
もちろん朝食を作っているのは琴里ではない。士道が作る料理よりもおいしそうな香りがするのだから、これを琴里が作っていたのなら悔しさで泣き寝入りしたくなる。作っているのは別の人物だ。鞠亜と、もう一人。
「んっ。ふぉふぁふぉー、ふぉふぃーふぁん」
リビングに入った士道は、白リボンをつけた琴里に解読不能な言葉を投げかけられた。口いっぱいに白米か何かが詰まっているらしく、膨らんだ頬をもごもごと動かしている。
「何言ってるか分からん。食べるか喋るかどっちかにしろよ」
「ふぇー? ふぁふぇふぁふぁふぁふぁふぇふふぉふぁふぁふぇふぁふぉー?」
「だから分からねえって……」
何を言おうとしているのかさっぱり分からない。だが卵焼きを口に運んでいるところを見るに、食べるのを止める気はないようだ。というかこいつ、あろうことか一人だけ先に食べ始めている。
「琴里、食べながら喋るのは行儀が悪いですよ」
白米のもられた茶碗と味噌汁の入ったお椀を手にした鞠亜が、士道の席にそれらを置きながら注意する。
琴里のことは鞠亜に任せて、士道はキッチンの方に目をやった。そこでは淡い桃色の髪をした少女が、明るい茶色の瞳でこちらをじっと見つめていた。まるで何かを待っているかのように。
「おはよう、凜祢」
「うん。おはよう、士道」
士道が話しかけると、凜祢は嬉しそうな笑みを返してきた。
凜祢――本名は園神凜祢。昔から五河家の隣に住んでいる、士道の幼馴染だ。ほとんど毎朝士道を起こしにきたり食事を作りにきたりと、まるでギャルゲーのヒロインのように世話を焼いてくれる。しかも料理だけでなく家事全般を得意としているので、正に理想の女の子と言えるだろう。ただし凜祢の場合、それは偶然ではないが。
「ねえ、士道。何だか疲れてるみたいだけど、良く眠れなかったの?」
明るい笑顔を心配そうに曇らせる凜祢。流石は幼馴染というべきか、鞠亜とのやりとりで蓄積した疲労を敏感に感じ取ったらしい。
「眠れなかったわけじゃないぞ。ただちょっと起こし方が悪くてな……」
ちらりと視線を向けると、琴里も鞠亜も明後日の方向に目をそらす。それだけで凜祢は全てを察したらしく、肩口をくすぐる長さの髪を揺らして苦笑した。
「あはは、そっか……でも、それも士道に対する愛情表現には違いないんだから、あんまり邪険にしちゃ駄目だよ?」
「いや、人を踏みつけるのはまともな愛情表現じゃないだろ」
「う、うーん……」
その点を指摘すると、流石に凜祢の笑みにも困惑が混じる。
「もー、おにーちゃんは贅沢だなー。こんなに可愛い女の子たちに毎朝起こしてもらってるのに、一体何が不満なんだー?」
「全くです。男性ならこういった状況をとても喜ぶはずです。私には何が気に入らないのか理解できません」
「お前らの起こし方だよ! 分かってて言ってるよな!?」
無駄と知りつつも士道は叫ぶ。そうでもしなければやっていられないからだ。
笑顔でとぼけている琴里と鞠亜に、疲労と諦めからくるため息が自然ともれる。
「……なあ、凜祢。頼むから、お前だけはいつまでも優しく起こしてくれよな?」
切実な願いを口にすると、心優しい幼馴染は何故か頬を染めた。
「も、もうっ、そんなプロポーズみたいなこと言って……」
「ん、何か言ったか?」
「べ、別に何も言ってないよ? それよりほら、冷めないうちに朝ごはんにしよ?」
絶対に何か言ったはずなのだが、それ以上の追求は止めておいた。せっかく凜祢と鞠亜が作ってくれた食事なのだから、冷ましてしまうなど以ての外だ。
「そうだな。このままだと琴里に全部食われそうだし」
「失敬だなー。私は自分とおにーちゃんの分しか食べてないぞー?」
「すでに食われてた!?」
「だ、大丈夫だよ士道。私の分を分けてあげるから、ね?」
楽しみにしていた分ショックは大きかったが、凜祢の優しさのおかげでダメージは最小限に抑えられた。
琴里の頭を軽く小突いてから、士道はその隣の席に腰を下ろす。正面には凜祢、その隣が鞠亜という並びで食卓を囲んだ。
テーブルの上に並べられているのは卵焼きに焼き魚、味噌汁にサラダと、大体は予想した通りのものだった。士道の分の卵焼きがごっそりと消えていること以外は。
「士道、私の分も差し上げますから、そんな悲しそうな顔をしないで下さい」
どうも悲しみが顔に出ていたらしい。凜祢だけでなく鞠亜も自分の分を分けてくれた。
「ありがとな、二人共。でもいいのか? お前らの分が少なくなっちまうけど……」
「いいんだよ、士道。私も鞠亜ちゃんも、士道たちに食べてもらうために料理を作ってるんだから」
「凜祢の言う通りです。肝心の士道にはたくさん食べてもらわなければ困ります」
にこやかに答える凜祢と鞠亜。その優しさに胸を打たれ、士道はちょっとだけ泣きそうになった。
「ですから士道、遠慮せずに召し上がってください。早くしないとまた琴里に食べられてしまいますよ?」
「そ、そうだな。じゃあ、いただきます」
「はいはい、どうぞ召し上がれ」
卵焼きにそろそろと箸を伸ばしてきた琴里の手を叩き、士道は食事を始めた。朝から何度も声を張り上げたせいで喉が渇いてきたので、とりあえず味噌汁から。
ずっと前にも口にしたことがあるような、懐かしい味。これは恐らく凜祢が作ったものだろう。いつもと違って味噌が僅かに薄めだが、醤油などで適度に味付けされていてとてもおいしい。
次に口にした卵焼きは、どこか士道の味付けに似たものがあった。恐らく鞠亜が作ったものだ。ふわりと柔らかく仕上がっていて、とろけるような食感は素晴らしいの一言に尽きる。
「うん。やっぱり二人の作る料理はうまいな。これを毎日食べられる俺は、本当に幸せ者だよ……」
「もーっ、おにーちゃんいつも同じこと言ってるー」
隣の琴里が呆れたような声を上げる。まあ無理もない。いつも同じことを言っているのは事実だ。それに琴里は、この言葉の本当の意味を知らないのだから。
本当の意味を知っている凜祢と鞠亜は、ただ穏やかに微笑んでいた。
「いいだろ別に。それより凜祢、何で味噌汁の味変えたんだ?」
「あ、あはは……流石だね、士道。やっぱり気付かれちゃったか」
ただ気になったので尋ねてみただけなのだが、凜祢は後ろ暗いことがあるかのような反応を示した。具体的には視線をあらぬ方向へ向け、苦笑いを浮かべている。
誰がどう見ても猛烈に怪しい。まさか何か変なものでも入れてしまったのだろうか。例えば消費期限切れの味噌とか。
「……実は作ってる途中で味噌が切れちゃったんだ。買い置きを探したんだけど、それもなくて……」
「凜祢だけのせいではありません。私も買い置きがあるものと思って、油断していましたから……」
肩を落としてうなだれる凜祢と鞠亜。
味の薄さは異物混入ではなく味噌切れが原因だったらしい。正直変な疑いを抱いてしまった自分が恥ずかしかった。
「ごめんね、士道。次はちゃんと作るからね?」
「謝る必要ないって凜祢。味噌が薄くても大丈夫なように、おいしく仕上げてくれたしな。鞠亜も、それくらい誰にでもあることだし気にすんなよ」
別に二人が気に病む必要はどこにもない。好意で食事を作ってくれているのだから、感謝こそすれ責める気にはならない。
「けどなくなったなら買出しに行かないとな。そういえば醤油も少なくなってた気がするし」
「では放課後三人で買い物に行きませんか? せっかくですし、今後同じことが起こらないよう多めに買っておきましょう」
「あっ! 他にも少なくなってるものがないか、確認しておいた方がいいかな?」
鞠亜が嬉しそうに提案すると、ハッとした顔で凜祢が席を立とうとした。
「いや、食事の後でいいだろ、それ――ん、メールか?」
気の早い凜祢を制すると同時、テーブルに置いていた士道の携帯から着信音が流れてきた。
早朝とは言えないが、今は七時を回ったところだ。こんな時間にメールを遣すのは一体誰なのだろうか。
「おにーちゃん、食事中に携帯弄るなんてマナー違反だぞー?」
「食前に飴玉食うお前が言うな」
自分のことを棚に上げて、非難の目を向けてくる琴里。視線も台詞もばっさり切り捨て、士道は携帯を手に取った。どうせ殿町あたりがおかしなメールでも送ってきたのだろう。そう考えながらメールを見てみたが、送信者は全く別の人物だった。
「士道、どなたからのメールだったのですか?」
「ああ、殿町からのくだらねえメールだよ。そんなことより早く食べちまおうぜ」
尋ねてきた鞠亜にあえてそう答え、士道は食事を再開した。
他愛のない話を交えながら箸を進めたせいか、食べ終わったのはそれから二十分ほど後のことだった。一人だけ先に食べ始めていた琴里は、とっくの昔に食べ終えて今はテレビに夢中だ。洗い物をする凜祢を手伝うためにキッチンに立つ士道とは、それなりに距離がある。あまり大きな声を出さなければ、水音やテレビの音に紛れて聞こえないだろう。
そこまで考えてから、士道は隣で食器を洗っている凜祢に話しかけた。
「なぁ凜祢。悪いけど今日は学校に遅れるって、皆に伝えといてくれないか?」
「うん、いいよ。でもどうして? もしかして、さっきのメールが原因?」
やはりあの程度の嘘では騙せなかったようだ。口振りから察するに、凜祢はあれが殿町からのメールだとは思っていない。
「ああ。令音さんからのメールだった。何か話があるから<フラクシナス>にきて欲しいってさ」
士道は琴里の意識がテレビに向いているのを再確認してから答えた。
幼馴染とはいえ一般人である凜祢は、<フラクシナス>どころか精霊という存在についても知らない。少なくとも琴里を始めとする<ラタトスク>機関員はそう思っていることだろう。
だが事実は異なる。精霊の存在を知っているどころの話ではない。今は違うとはいえ、凜祢は精霊だったのだから。<ルーラー>という識別名を持つ、世界から、皆の記憶から消えてしまった幼馴染。
「そっか、それなら行かないと駄目だよね。大事な話かもしれないし。でも、十香ちゃんたちにはどう説明した方がいいかな?」
琴里に聞こえないよう、凜祢も声を落とす。
その声は使った食器をキッチンに運んできた鞠亜にはばっちりと聞こえていたが、士道は咎めなかった。琴里はともかく、鞠亜に知られて困る話ではない。
「私と凜祢は一般人だと認識されていますし、事実をそのまま伝えることはできませんからね。何か上手い言い訳を考えておくべきでしょう」
何を話しているのか不思議に思う素振りすら見せず、小声で話しに入ってくる鞠亜。
それも当然のことだった。何故なら鞠亜も、何も知らない一般人などではない。<ラタトスク>所有の空中艦<フラクシナス>の管理AI。それこそが鞠亜の正体だからだ。
存在したという記憶すら忘れていた、消えてしまった凜祢が再びこの世界に存在している。本来肉体を持たないデータ上の存在である鞠亜が、外国人留学生として五河家にいる。傍から見ると明らかに異常な状況だ。
しかし士道と凜祢、鞠亜を除き、誰もこの異常さに気付いていない。それどころか琴里でさえ凜祢と鞠亜のことを一般人だと認識している。その理由はたった一つ。
それはここが、<凶禍楽園(エデン)>の中だからだ。
二週間ほど前、天宮市を再び<凶禍楽園(エデン)>が覆った。それは偽りの幸せを与える、閉じた楽園。記憶や事象を捻じ曲げ、士道の望む世界を作り出す規格外の力を持った天使。
そしてその力を証明するように、士道は幸せを与えられた。
肉体を持って現実世界に存在する、端末越しにしか会えないはずの鞠亜。
存在も記憶も消え去ってしまったはずの、凜祢との再会。
ありえない幸せと嬉しさに浸りながらも、士道は戸惑いを隠せなかった。この<凶禍楽園>は自分が作り出したものではない。それどころか、今の自分は精霊ですらない。再会した凜祢の口から語られた事実に。
状況に混乱しつつも、士道は<凶禍楽園>の中で時を過ごした。鞠亜と凜祢のいる日常、狂三と美九までいる学校。やけに気苦労は多かったものの、それは確かに幸せな時間だった。ここが<凶禍楽園>の中であるということを、忘れてしまいたいほどに。
そんなある夜、士道は一人の少女に出会った。士道をパパ、凜祢をママと呼ぶ、<ルーラー>そっくりの小さな女の子――園神凜緒に。
凜緒はこの<凶禍楽園>の<ルーラー>であり、『いちばんだいじなもの』という漠然とした内容の探し物をしていた。その理由は、<凶禍楽園>を安定させるため。
この<凶禍楽園>は不完全なものらしく、時が過ぎればやがて崩壊してしまう。それを防ぐために、凜緒は『いちばんだいじなもの』を探しているらしい。
本来なら<凶禍楽園>の崩壊は望むべきことだ。<凶禍楽園>の安定。それは繰り返し幸せを追い求める楽園の完成であり、同時に人々の未来を奪う永久の牢獄の完成を意味する。決して許されることではない。例えどんな理由があろうと、認められることではない。そのことを士道は誰よりもよく理解していた。以前凜祢の作り上げた<凶禍楽園>を否定したのは、他ならぬ士道なのだから。
だが、士道は凜緒の探し物を手伝うことにした。
<凶禍楽園>を認めたからではない。迷ってしまったからだ。本当にこの<凶禍楽園>は、終わりを迎えるべきなのかと。
ここには絶対に実現しなかった幸せがある。
一度失い、二度と手にすることのできなかった幸せがある。
その幸せが、彼女達が消えてしまう。それを自分達も理解していながら、決断を士道に委ね、どこまでも優しく笑いかけてくれる。士道ならきっと、正しい答えを選んでくれる、と。口でどう言おうとも、消えたくないと思っているはずなのに。
<凶禍楽園>が崩壊すれば、その中で過ごした記憶は消える。幸せな日々を過ごした記憶も、決断に迷い、苦しんだ記憶も。楽になりたいなら、何もせずに時の流れに身を任せてしまえばいい。そんな考えが頭を過ぎることもあった。
だが、それで終わりになどしたくなかった。どんな結果になろうとも、自分で決断しなければきっと後悔する。それだけは確かだったから。
だからこそ士道は決断を下した。その決断が何を意味するのか、全て理解した上で選択した。この<凶禍楽園>を存続させるため、凜緒に『いちばんだいじなもの』を渡すことを。
それは以前凜祢に渡した、士道の家の合鍵。凜祢の<凶禍楽園>と凜緒の<凶禍楽園>を繋ぐ、本来存在しないはずのもの。凜祢にとっての、『いちばんだいじなもの』。薄々気が付いてはいたが、迷っていたからこそ渡せなかったもの。それこそが凜緒の探していたものだった。
足りなかった最後のピース。それを手に入れた凜緒の力で、<凶禍楽園>は完成を迎えた。<凶禍楽園>が安定した以上、凜緒は<ルーラー>として楽園を管理し続けていかなければならない。繰り返す時の中で、かつての凜祢のように精神をすり減らしながら。そしていつか、限界を迎える。士道はその残酷な未来が必ずやってくると思っていた。だが真実は、より残酷なものだった。
<凶禍楽園>の安定と同時に、凜緒は消えてしまうのだ。何故なら凜緒は、そのためだけに生まれてきたから。<凶禍楽園>の安定に必要な、『いちばんだいじなもの』を探すために。士道の中に封印されていた、<ルーラー>凜祢の霊力から。
皆の――士道や凜祢、鞠亜の幸せのために町中を駆け回り、健気に探し物をしていた凜緒。普通の子供のように無邪気に笑い、よく食べ、よく遊んだ、紛れもない士道と凜祢の娘。そんな凜緒が、役目を果たして消えてしまう。まだ生まれたばかりだというのに、余りにも残酷な結末だった。
<凶禍楽園>の崩壊、<凶禍楽園>の安定。どちらを選んでも結果的に凜緒は消える。それを自分も理解していながら、凜緒は皆の幸せのために<凶禍楽園>の安定を望んだ。士道にできたのは、涙を堪えて笑顔で見送ることだけだった。
この<凶禍楽園>の存続を選んだことに、後悔はない。だが時々考えてしまう。凜緒を救うことはできなかったのかと。
避けられない結末だったことは分かっている。それでも考えてしまうのだ。何故ならここは、士道の望みが全て叶うはずの楽園。あらゆる障害を捻じ曲げて幸せをもたらしてくれるはずの、<凶禍楽園>なのだから。
「それでは行ってきます。士道もなるべく早く用事を済ませてきてくださいね」
「話の内容によっては難しいかもしれないけど、あんまり遅くならないようにね? 十香ちゃんたちが心配しちゃうから」
玄関に並んで立つ凜祢と鞠亜が、念を押すような口調で言ってくる。琴里はすでに家を出たので、秘密の会話を聞かれる心配はない。
凜祢たちとの相談の末、士道は腹の調子が悪いので収まってきたら登校する、という言いわけで通すことになった。あまり深刻な体調不良にしてしまうと、精霊たちを無駄に心配させることになるからだ。まあ折紙あたりが学校を抜け出して、看病にきてしまう可能性を視野に入れたせいもある。
「ああ、分かった。できるだけ早くそっち行くから、それまで十香たちのことよろしく頼むな?」
「任せてください、士道。夫を支えるのは良妻の務めですから」
「ふふっ、それじゃあ私も頑張らないといけないかな?」
「お、おいおい……」
二人の間に流れる若干ピリピリとした空気に、士道は眉を寄せる。二人とも基本的に仲は良いのだが、まれにこんな風に対抗心を燃やすことがある。恐らくその原因であろう士道としては、居心地悪いことこの上ない。
凜祢が以前までと同じ、士道が幸せならそれで構わないという考えを持っていたなら、他の女の子と火花を散らすことなどなかっただろう。だがこの<凶禍楽園>で再会した凜祢は、以前までとは考え方が変わっていた。
誰にも負けたくない。自分が士道の一番になりたい。凜祢が新たに抱いていたのは、至極当然な願いだった。
凜祢がそんな普通の願いを抱くようになったのは嬉しい限りだ。ただしこういう場面に遭遇すると、少々気持ちが揺らいでしまいそうになる。
「ほ、ほら、もうこんな時間だし、そろそろ行った方がいいんじゃないか? 早く行かないと遅刻するぞ? 外で十香たちが待ってるかもしれないしさ?」
実際にはこのままあと十分過ごしたとしても、余裕で間に合う時間だ。しかしこんな妙に重苦しい空気の中、十分も耐えられる精神力は持っていなかった。
表面上は笑顔で見つめ合っていた凜祢と鞠亜が、ちらりと視線をこちらに向ける。仲裁に入る姿が怯えて見えたのか、二人は可愛らしい笑みをもらした。それと同時に二人の間に流れていた空気が、嘘のように消え去る。
「そうですね。そろそろ行きましょうか、凜祢。痺れを切らした十香たちが突撃してこないとも限りませんし」
「そうだね。士道は本当は健康だってこと、バレちゃうかもしれないからね。それじゃあ士道、行ってきます」
「ああ。行ってらっしゃい、凜祢、鞠亜」
今度はちゃんとした笑顔を浮かべ、軽く手を振り玄関を開ける凜祢と鞠亜。士道も手を振り返し、そんな二人を見送る。
玄関の扉が閉じると、家の中は完全な無音となった。他には誰もいないので、物音一つ聞こえない。時計の秒針が動く音すらも聞こえない。だからこそ士道は、自分のついたため息がとても大きく重たいものであることが分かった。
自分でもその理由は分かっている。胸に抱えている罪悪感のせいだ。実は朝食の時に届いたメールは、<フラクシナス>で話があるという内容のメールではない。もっと言えば令音からのメールでもない。要するに士道は凜祢と鞠亜に嘘をついたのだ。どうしても必要なことだったのだが、後ろめたい気持ちは拭えなかった。
まあ今更真実を話したとしても、嘘をついた事実が消える訳ではない。罪悪感を一旦心の隅に押しやり、士道は出かける準備をするために玄関に背を向けた。
そして足を踏み出そうとした途端、玄関の扉がもの凄い勢いで開く音が聞こえてきた。ある程度覚悟はしていたので、さほど驚きはしなかったが。
「凜祢たちから聞いたぞ、シドー! そんなにお腹が痛いのか!?」
危機迫る声に振り向いてみれば、深刻な表情を浮かべた十香が目の前に立っている。
たぶん外で待っていたところ、出てきた凜祢たちから事情を聞いていても立ってもいられなかったのだろう。とりあえず人の話は最後まで聞いた方がいいと思う。
「ふっ、士道よ。お主まさか終焉を迎えし穢れた供物を糧としたのではなかろうな?」
「解説。消費期限切れの傷んだものでも食べたのか、と耶倶矢は聞いています」
開け放たれた扉から、耶倶矢と夕弦も玄関に足を踏み入れてくる。
まさかそんな危ないものを食べるほど卑しい奴だと思われているのだろうか。まあ賞味期限切れくらいなら食べなくもないが。
「あ、あの……士道さんに限って、それはないと思い、ます……」
『だよねー! たぶん凜祢ちゃんと鞠亜ちゃんの愛情たっぷりの料理を食べ過ぎて、お腹壊しちゃったとかじゃないのー?』
耶倶矢の問いに微妙な表情を浮かべていると、士道を擁護する小さな声が上がった。見れば夕弦の背後から遠慮がちに四糸乃が顔を出し、左手の『よしのん』が器用にニヤニヤ笑いを浮かべている。
四糸乃は今日も見送りにきてくれたらしい。凜祢と鞠亜が食事を作ってくれるのと同じように、四糸乃はほとんど毎朝見送りにきてくれる。流石はたった一人の心のオアシス。その優しさに心が洗われる。
「あぁん、だーりんったらずるいですぅ! 美九にも愛情をお裾分けしてくださーい!」
『よしのん』の台詞に羨ましそうな顔をしながら、美九も玄関に入ってきた。その服装は確かに制服なのだが、十香たちの着ている来禅高校の制服ではなく、美九の通っていた竜胆寺女学院の制服のままだ。
この<凶禍楽園>では美九も来禅高校の同じ学年に通っている。ただ制服は竜胆寺女学院の制服のままなので、皆と並ぶとどうにも違和感が拭えなかった。しかもその違和感を感じるのは士道と凜祢、そして鞠亜だけなので、周りは何とも思わないのがまたもどかしい。
美九の後ろではその凜祢と鞠亜が、申し訳無さそうな顔をしてこちらを見ていた。恐らく十香たちを止められなかったことを悔やんでいるのだろう。気にするな、と二人に笑いかけ、士道は十香たちに視線を戻した。
「そんな心配しなくても大丈夫だって。ちょっと腹の調子が悪いだけだし、少し休んでればすぐ良くなるからさ」
無用な心配をかけないために、元気そう(実際元気だ)な笑顔で答える。ただし仮病だと疑われないよう、腹部を押さえるのも忘れない。
何か以前にも腹痛云々の嘘をついたことがある気もするが、きっと気のせいに違いない。
『んー、何か思ったより元気そうだねー。心配して損しちゃったかなー?』
「よ、よしのん……っ! で、でも、そんなに辛そうじゃなくて、良かったです……」
「うむ、四糸乃の言う通りだ。だがあまり無理をするのではないぞ、シドー? 治るまでゆっくり休んでいるのだぞ?」
「お、おう、分かってるって……」
心の底から心配している様子の四糸乃と十香。猛烈に罪悪感を刺激されるせいか、胸がずきずきと痛む。顔に出さないようにするのはかなり難しかった。
「何だー、大したことなくて良かったですー。お腹の調子が戻ったら、すぐに学校に来てくださいね、だーりん。だーりんがいないと、皆寂しいですから」
「同感。特に耶倶矢は極度の寂しがりやです。昨日の夜も寝言で泣きながら士道の名を呼んでいました」
「いや呼んでないし! てか泣いてないし! えっ、ていうか嘘でしょ? 嘘なんでしょ?」
ほっとした顔の美九と夕弦、そしてからかわれて真っ赤になっている耶倶矢。
本人は否定しているものの、自分の寝言は自分で分かるものではない。夕弦の言葉が嘘でなければ、耶倶矢は本当に士道の名を口にしているのだろう。
「夕弦、先ほど昨日の夜も、と言いましたね? もしかして耶倶矢は寝言で頻繁に士道の名を呼んでいるのですか?」
言い方が気になったのか、鞠亜が夕弦に尋ねた。表情こそ穏やかな笑みだったが、瞳には意地の悪そうな光が見え隠れしている。
「首肯。その通りです。ちなみに一昨日はむっとしたような感じで可愛らしく、その前はとても艶かしい声で切なげに呼んでいました」
「艶かしい!? 夕弦さん、その辺りもっと詳しい話を聞かせてください!」
「あはは……美九さん、やっぱりそこに食いつくんだね……でも耶倶矢ちゃんがどんな夢を見てたのかは、私もちょっと興味あるかな?」
興奮した面持ちの美九に、凜祢は呆れを含んだ呟きをもらす。しかし次の瞬間には鞠亜と同じく、楽しそうに笑った。心なしか夕弦も似た表情だ。なお、美九は下心満載の笑みなので除外しておく。
「ううっ、凜祢までそんなこと言う……」
味方が一人もいないせいか、耶倶矢は涙目で恨みがましい声を出す。
確かにこんな純真な反応をしてくれるなら、からかっていて楽しいし退屈しないだろう。士道もその輪に加わりたいところだが、内容が自分のことだけに加わりづらい。
『まーまー、恥ずかしがらなくてもいいんだよ耶倶矢ちゃーん。うちの四糸乃だって毎晩士道くんのこと甘ーい声で――むぐぐっ!』
「む、どうしたのだ四糸乃? 顔が真っ赤だぞ?」
「な、何でもありません……!」
じたばた暴れる『よしのん』の口を塞ぎながら、四糸乃は今にも消え入りそうな声で答える。その顔は十香の言う通り、恥ずかしそうに赤く色づいていた。四糸乃が美九の次のターゲットにならなければいいが。
目の前に広がるのは、いつも通りの光景だ。からかわれて赤くなったり、楽しそうに笑い合う精霊たち。それは何の変哲もない、日常の一コマ。
だがそこには凜祢と鞠亜の姿もある。皆と一緒に笑い合い、何の違和感もなく溶け込んでいる。傍から見ればありふれたごく普通の光景でも、士道にとっては何物にも変えがたい幸せな光景だった。
凜祢たちが学校へ向かい、四糸乃が精霊用マンションへ戻った後、士道は念のため数分ほど待ってから外へ出た。目的地は高台にある公園。そこでメールの差出人が待っているはずだ。時間を置いたのは、途中まで学校へ行く道と同じなので、下手をすると凜祢たちに追いついてしまう可能性があったからだ。
誰にも知られないように、一人で来て欲しい。それがメールの内容だった。待ち合わせ場所も用件も書いていない。差出人の性格から考えるに、待ち合わせ場所は別として用件を知られたくないのだろう。そう考えて士道は十香たちだけでなく、凜祢や鞠亜にも嘘をついてきた。
だがあの二人を誤魔化せたかどうかは正直自信がなかった。二人とも士道のことは良く分かっている。嘘を見抜かれていても不思議ではない。まあ二人は特に何も口にしなかったので、信じてくれたということにしておいた。
しばらくして高台公園に辿りついた士道は、歩き回りながら人の姿を探した。いくら広くても平日の、それも学校に登校する時間帯の公園だ。目的の人物はすぐに見つかった。
高所に繋がる階段の一番上。そこに腰掛けていた長い黒髪の少女だ。外見は全体的に鞠亜に似ている。違うのは精々髪の色と瞳の色くらい。鞠亜は水晶のような青い瞳だが、こちらはトパーズのような金色の瞳。その瞳がぼんやりと遠くへ向けられているせいか、雰囲気までも鞠亜にそっくりだった。普段なら性格と雰囲気、表情だけは似ても似つかないのだが。
「……やっときた。遅いよ、士道。女の子を何十分も待たせるなんて、キミは酷い男だね」
士道の姿を認めた途端、少女は不機嫌そうに睨みつけてきた。これが鞠亜なら余程のことがない限りこんな顔はしない。似ていても全くの別人だ。
「仕方ないだろ、鞠奈。お前が一人で来いって言うから、皆が出かけるまで待つしかなかったんだぞ? 十香たちだけじゃなく、凜祢と鞠亜にまで嘘ついちまったし」
士道が答えると、鞠奈はにやりと人の悪い笑みを浮かべながら階段を下りてきた。
この<凶禍楽園>では、凜祢の他にもう一人、再会を果たせた人物がいる。それが目の前の少女、或守鞠奈だ。DEM社が作り出した電脳精霊であり、かつて士道が救えなかった存在。
再会できた時は本当に嬉しかった。当然嫌がられたが、思わず抱きついてしまったほどだ。
しかしそうそう良いことばかり起こるものではない。再会できたにも関わらず、鞠奈は再び消えてしまうというのだ。不完全な<凶禍楽園>の行く末に関係なく、全く別の理由で。
鞠奈は自分だけの肉体を持っていなかった。鞠亜の体を借りて、夜の間しか現れることができない。それを鞠奈は、自分が鞠亜のデータの中に混ざってしまった、自身のデータの欠片から再現されたせいだと口にした。その鞠亜のデータとは、あの電脳世界で消える直前に携帯へ転送してくれたデータ。鞠奈が最後に残してくれたもの。
混入していたデータがあまりにも微小なせいで、<凶禍楽園>の中でも肉体を得られなかった。そしていつか鞠亜のデータの中に溶けてしまい、自分は完全に消え去ってしまう。鞠奈は悲しみも怒りも見せず、どこか達観したようにそう語っていた。
だが今、鞠奈は消えずに目の前にいる。鞠亜と肉体を共有してもいない。
それは凜緒のおかげだ。役目を果たして消え去る直前、凜緒が<ガーディアン>として自分を守ってくれた鞠奈に、どこか不満を装いつつも優しく面倒を見てくれたお母さんに、感謝の気持ちと共にプレゼントしたもののおかげだ。
その贈り物とは、<ルーラー>としての力と役割。凜緒から受け取ったその力によって、鞠奈は消えずに独立して生きることができるようになった。この<凶禍楽園>の、新たな<ルーラー>として。
「ふぅん……女の子に会うために、女の子たちを騙してきたって訳ね。ますます酷い男」
ちなみに現在その<ルーラー>は、目の前で呆れたように肩をすくめている。
「誰のせいだ誰の……それで、どうかしたのか? わざわざこんな時間に呼び出すなんて」
「別にどうもしてないよ。強いて言えば、ただキミに会いたかっただけ。呼び出す理由としては十分でしょ?」
諦めのため息を挟んで尋ねると、鞠奈は口元に笑みを浮かべて答えた。外見は鞠亜にそっくりでも、こういった表情は全く似ていない。鞠亜の場合は優しく穏やかな笑みだが、鞠奈の笑みは生意気とも挑戦的とも取れる種類のものだ。
「ま、まあ、それが本当のことならな……」
会いたかったとストレートに言われて、士道は少々面食らった。以前までの鞠奈なら間違いなく冗談だ。だが最近の鞠奈なら本心である可能性も十分あり得た。
<凶禍楽園>の安定から一週間後、士道は鞠奈から愛の告白(そうとしか言いようがない)を受けた。自分をお母さんと言ってくれた凜緒に、もう一度生きる機会をくれた凜緒に報いるため。その第一歩として、自分の気持ちを伝えてきた。凜緒のお父さんである士道に、本当の気持ちを。
だからこそ、今の鞠奈の言葉を軽く流すことはできなかった。
「もちろん本当のことだよ。半分くらいはね」
「おい、半分かよ!?」
ただ好意を露にしても根本的なところは変わっていない。人をからかうのは相変わらずだ。しかしそれでこそ鞠奈と言えるだろう。
そういえば、二時間ほど前に鞠亜と同じようなやり取りをした気がする。もしかすると、案外鞠亜も本質的には鞠奈と同じなのかもしれない。優しい笑顔の裏に隠しているだけで。そう考えるとあの笑顔が怖くなってきたので、それ以上考えるのは止めておいた。
「まあ厳密に言えばの話だけどね。もう半分もどちらかといえば似たようなことだし。実はキミに頼みたいことがあるから呼び出したんだ」
「頼みたいこと?」
オウム返しに士道が言うと、鞠奈は僅かに躊躇いを見せた後口を開いた。
「あたしと……デートしてくれない?」
不自然に言葉を切り、尋ねてくる鞠奈。見ればその視線は決まり悪そうに彷徨っている。流石に鞠奈でも面と向かってデートに誘うのは恥ずかしいらしい。
少し驚いたが特に断る理由はないし、何より鞠奈が恥ずかしさに耐えながら口にした頼みだ。士道は一も二もなく頷いた。
「いいけど、頼みたいことってそれだけなのか? 別にデートの約束するだけなら、電話とかメールでも良かっただろ?」
「ああもう! キミに会いたかったって言ったでしょ! 何度も言わせるんじゃないわよ! 全く……」
どうやらこの台詞も恥ずかしかったようだ。鋭い目つきで睨まれた。まあ頬が赤く染まっているせいで、怖くも何ともなかったが。
自分でも迫力が足りないと気付いたらしく、鞠奈はすぐに睨むのを止めた。
「……それとキミは勘違いしてるみたいだけど、デートは次の休みとかじゃなくて、今からするんだよ。呼び出したのはそれが理由」
「い、今からって……流石にそれはなぁ。お前はどうだか知らないけど、俺は学校があるし」
多少遅れる程度なら問題ない。だが今からデートとなると、遅れる程度では済まない。下手をすると一日潰れて、遅刻ではなく欠席(それもズル休み)になってしまう。
更に問題なのは、軽い腹痛という嘘を十香たちについていることだ。にも関わらず学校を欠席してしまえば、体調が悪化したのではないかと十香たちに心配をかけることになる。その結果、精神状態に影響が及ぶ可能性は捨てきれない。
「ふぅん……俺にできることがあったら手伝う、っていう言葉は嘘だった訳ね。あたしの初めてを捧げたっていうのに……」
「誤解を招く表現は止めような!?」
鞠奈の意味深な台詞に、士道は咄嗟に周囲を見回した。幸い人の姿は見当たらなかった。
誤解を招くとは言ったが、鞠奈の言葉に嘘はない。あの愛の告白の後、鞠奈はキスをしてきたのだから。要するに初めて(のキス)を捧げた、ということだ。誓ってそれだけだ。
「……なぁ、どうしても今日じゃないと駄目なのか?」
「駄目だよ。今日じゃなきゃ絶対に駄目。キミと二人きりになれるのはこういう時しかないんだもの。休日になったらキミは他の女の子たちに引っ張り回されるだろうし、あたしとしてもこれ以上引き伸ばしたくないし――」
そこまで言って、鞠奈は突然口を手で覆った。どうやら口が滑ってしまったようだ。その顔は致命的な失敗を犯してしまったかのように白くなっている。
もしかすると鞠奈は、デートに行きたい気持ちをずっと抑えていたのかもしれない。気持ちを抑える理由は分からないが、平日に呼び出すという強行手段を取った理由なら分かる。
凜祢や鞠亜と違い、鞠奈とは一緒に生活している訳ではないし、共に学校に通っているわけでもない。デートどころか、顔を合わせることすらほとんどないのだ。会いたい気持ちやデートしたいという欲求が高まり、抑えが効かなくなったと考えられる。
要するに寂しくて我慢できなくなったということだ。赤くなるのを通り越して顔が白くなっているのは、それを知られてしまったからなのだろう。そこまで大げさに反応することでもないと思うが。
しかし鞠奈が寂しがるなど珍しい。意外感から思わず半べそで寂しがる鞠奈を想像してしまい、士道は自然と頬が緩むのを感じた。
「……何よ、その目は」
「いや、結構可愛いところもあるんだなって思って」
一瞬呆気に取られた表情を見せる鞠奈。だがどこかホッとしたようなため息をつくと、いつも通りの小悪魔的な笑みをその顔に浮かべた。
「学校があるからデートできないっていうなら、休めばいいだけのことでしょ。どうせこの世界はキミの夢なんだから、たまには羽目を外したっていいんじゃない?」
鞠奈の言っていることは嘘でも冗談でもない。この世界はある意味で士道の夢だった。
士道が死ぬたび、時が巻き戻る。内部からの脱出も、外部からの侵入も叶わない。それこそが<凶禍楽園(エデン)>。時を繰り返す、閉じられた楽園。だがその性質を、<ルーラー>となった鞠奈が変えた。結界の範囲を、天宮市全体から世界全体へ。そして士道の死によって発生する事象を、時の逆行から<凶禍楽園>の終焉へと。
<凶禍楽園>が終わりを迎えれば、世界は結界が張られる以前にまで巻き戻る。つまり士道が死ねば、この幸せな日々は全てなかったことになる。何があったのか、誰と再会できたのか、どんなに嬉しかったか、一切のことを忘れてしまう。まるで夢か、幻だったかのように。
だがその代わりに、一度だけこの夢の中で生きていくことができる。凜祢も、鞠亜も、鞠奈も、皆と同じように人として生きていくことができる。たった一度きりの機会で、しかも士道が死ねばそれで終わりという制限つき。だが士道自身も、凜祢たちもそれで構わなかった。士道は琴里の力のおかげで簡単には死なないし、誰でも人生は一度きりなのだから。
身勝手な選択で未来を奪ってしまった人々も、この夢が終われば未来を取り戻すことができる。繰り返す時が来ないからこそ、誰にも迷惑はかからない。誰にも何の影響も残さない。
正しくこの世界は、士道が見ている束の間の幸せな夢だった。
「夢の中でも清く正しく生きるなんて、とってもキミらしいけど面白味がないよ。本当にそんな生き方でいいの? 本当にそんな生き方で、皆幸せになれるの?」
「……そうだな。そんなつまらない生き方じゃ、幸せにはなれそうもないしな」
そこまで言われると、断ることはできなかった。今はもういない凜緒のためにも、幸せな日々を送らなければならないのだから。
ただ鞠奈に上手くやり込められたという事実に、士道は若干の悔しさを覚えた。したり顔でこちらを見つめているあたり、最初からこの展開に持っていく気だったのだろう。拒否権は元々なかったようだ。
半ば強制的に、士道は鞠奈とのデートを始めることになった。当然一、二時間で終わりはしないので、学校は欠席(サボリ)だ。問題は十香たちだが、後で凜祢たちに上手い言いわけをしてくれるよう連絡しておけばいいだろう。きっと凜祢と鞠亜なら何とかしてくれる。
「そうこないとね。それじゃあ早速行こうか、士道?」
満足気な笑みを浮かべ、どこかへ歩き出す鞠奈。やはり最初から計算ずくだったらしい。
「ちょっと待てよ。その前に家で着替えてきても良いか? 流石に平日に制服で出歩くのはな……」
「変なことを気にするんだね、キミは。女装して外を出歩いたことのある男の台詞とは思えないよ」
「その話は止めて!」
これ以上心を抉られたくないので、着替えは諦めることにした。ないとは思いたいが、士織ちゃんに着替えて来いと言われたら堪らない。
ちなみに士道とは違い、鞠奈は私服だった。前を開けて羽織っている黒のカーディガンの下は、肩周りや鎖骨の辺りが大胆に露出しているワンピースに似た洋服。鞠奈の瞳と同色のそれは、丈が脚の付け根あたりまでしかない。確か丈の長さで名称が異なるはずだが、
生憎士道には正式な名称は分からなかった。鞠奈の穿いている膝上丈のズボンがジーンズだということくらいは分かったが。
「か、考えてみれば、お前とデートするのはこれが初めてだよな」
鞠奈の隣を歩きながら、士道はふと気付いたことを口にする。ついでに話題を女装から逸らすために。
「そういえばそうだね。まああたしは擦れきったキミとは違って、デートそのものが初めてなんだけど」
「待て、擦れきったってどういう意味だ?」
「分からない? あんなにたくさんの女の子たちとデートして、キスまでしてるキミが純真だなんて言えるの?」
「うぐっ……」
とてつもない正論だ。だからこそ士道は言葉に詰まってしまった。その反応を楽しむかのように、鞠奈がニヤニヤとこちらを見ている。
「いや、でもそれは、霊力を封印するために必要なことで仕方なく……」
「ふぅん? じゃあ疚しい気持ちを抱いたことはない訳ね? 必要なことだから仕方なくキスしたけど、必要じゃなければしたくもないってことね?」
「…………黙秘します」
一介の男子高校生としては、美少女とのキスで興奮するなというのは生物学的に不可能な相談だ。それに美少女とデートやキスをしたいかと尋ねられれば、特殊な性癖を持っていない限り誰でも首を縦に振る。
反論が一つも見つからなかったので、権利を主張して俯くことしかできなかった。尋問というのはこんな感じなのだろう。
「ほら、やっぱり擦れきってる……でもそれだけ経験豊富なら、ちゃんとあたしをエスコートしてくれるわよね、士道?」
信頼の込もった瞳を向けてくる鞠奈。流石にそんな目で見られては、できないとは言えない。できる限り期待に答えなければいけない。
「ああ、それくらいならお安い御用だ」
士道は頷き、手始めに鞠奈の手を握る。途端に鞠奈は驚きに目を見張り、繋いでいる手を凝視した。何かまずいことをしただろうか。
「ちょ、いきなり何なのよ!?」
「何って、ただ手を握っただけだろ。エスコートして欲しいんじゃなかったのか?」
「そりゃあそうだけど……握るなら握るって先に言いなさいよ。驚いたじゃない、全く……」
頬を染め、鞠奈は不満げな呟きをもらす。それでも手は握ったままだ。少なくとも嫌ではないらしい。
考えてみると、鞠奈の恥ずかしがる姿はとても素直で純粋だ。それに比べて普段の態度や表情は、素直であろうと努力しているようだがあまり変わっていない。できることがあったら手伝うという言葉は嘘ではないし、ここは素直になれるように力を貸してやるべきだろう。具体的には素直な反応を引き出すため、目一杯恥ずかしがらせて。
決していつもからかわれてるから仕返しをしてやろうだとか、反応を見て楽しみたいという理由ではない。エスコートすると約束したのだから、思いつく限りの方法でデートを盛り上げてやらなければ。
「念のためもう一回聞くけど、本当に俺がエスコートしてもいいんだな?」
「だからさっきもそう言ったじゃ――ちょっと、何でキミはそんなにニヤニヤ笑ってるわけ?」
「よし。じゃあ行こうぜ鞠奈」
「ちょっと! 答えなさいよ! 何か企んでるじゃないでしょうね!?」
最初に行くべきはあそこか。折紙曰く、どんな趣味嗜好にも対応できるものが揃っている素晴らしい店。
疑いの眼差しを向けてくる鞠奈の手を引き、士道は町の方へ向かった。鞠奈が素直になる手助けをするために、幸せで楽しくて、恥ずかしいデートにするために。
前編終了です。見せ場も山場もなくて申し訳ありません。きりの良いところで終わらせたらこんな風になってしまいました。まあ前編で一番書きたかった、凜祢と鞠亜が日常に溶け込んでいるシーンにかなりの文字数を費やせたので、個人的には満足しています。出来とか違和感はともかく。
後編では少々過激なデートを始めるので、今回は大目に見て下さると嬉しいです。一応デートの後に真の見せ場(あくまでも私の主観)を考えてあるので。
口調やその他のおかしいところがあれば、指摘して下さると助かります。