虚ろな剣を携えて   作:狩奈

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 欲したものは遥か彼方へ。


Friction Ⅱ

 

 夜眠る前に、ふと嫌なことを思い出す。そんな時がある。俺にとってのそれは大抵SAOでの出来事だ。SAOに幽閉される以前の記憶は、どうしてかよく思い出せないままで、それを家族や医者には打ち明けてはいるのだが、今はそれでいいという答えだけが返ってくる。

 

 自分の心を守るためだけに殺し尽くした決して少なくないプレイヤー。名前も、顔も、俺の脳裏に焼き付いたまま一時たりとも離れたことは無い。モンスターを斬った時とは明らかに違う生の感触。薄赤いダメージエフェクトは、暗いせいか飛沫を上げる鮮血に見えた。そいつらは毎晩毎晩代わる代わる変わる変わる俺に囁くのだ。

 

『ナゼ殺シタ』

 

 そんな時、俺は決まってこう答えながら、現実には在る筈の無い剣を手にそれらの悉くを惨殺する。

 

『俺ノタメダ』

 

時折、脳の奥がジクジクと痛むのは何故なのだろうか。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 突然声にならない声がボクの耳をつんざく。悲鳴? 断末魔? それとも別の何か? いずれにしても正常な人間が出せるような声では決してない。起きているのか寝ているのかも定かではないままにベッドを殴りつけ始める兄ちゃんを必死に抑え込む。

 

 不幸中の幸いというべきかボクよりも痩せこけた病人のようなその体では大した力は出せていない。それでも本気で暴れるものだからボクだけでは限界が来る。遅れて騒ぎを聞きつけて来た叔父さんや叔母さん、詩歌がやってきて家族全員で無理やりに押さえつける。そうでもしないとずっと暴れ続けるのだから仕方がない。

 

 体の自由を完全に奪われても尚絶叫し続ける謳歌兄を、みんなが辛そうな表情で見ている。詩歌は泣きながら兄ちゃんの腕に縋りついている。

 

 やがて発作が収まると、兄ちゃんは安らかに寝息を立て始める。これからどうなるのかは分からないけれど、一度収まれば少なくとも朝までは大丈夫。

 

 兄ちゃんは紛れもない病人だ。現実に戻ってからずっと「解離性障害」という、精神の病気に侵されている。現実と仮想の狭間で苦しみ続けている。起きているときは優しくて、格好良くて、頼れる兄としての顔で生活している。それは決して自身を偽ったりだとか、仮面を被っているわけだとか、そんなことは無い。

 

 でもSAOに囚われる以前の四条謳歌という人間は、()()()()()()()()()()。確かに良く分からない部分に於いては底抜けの善人ではあるけれど、他人の理解を得られず自分を追い詰めて、それに耐えきれず引きこもりになってしまった。

 

 つまるところ、『二年前の四条謳歌』と『今の四条謳歌』は余りにもかけ離れすぎている。死んだら死ぬ世界で――その本質は現実もVRも変らないけれど――選択の自由はあれどほとんど戦いを強要されるなんて実際凄まじい恐怖だ。そんな中で文字通り死に物狂いで生き残ろうとすれば、その精神の在り方は不可逆的に変質する。そうなって然るべきだ。

 

 SAO帰還者の中には実際に症状の大小はあれどもその『乖離』を発症している人はたくさんいる。兄ちゃんもそのうちの一人という訳だけど、その症状は考えられる中でも最悪だ。SAO事件以前の記憶の欠落、人格の変質、そして睡眠時の発作。

 

 なんで睡眠時に起こるかと言えば、それがフルダイブの状況と似ているから――らしい。向こうの世界で負った傷の後遺症、恐怖や怒りや憎しみや悲しみや嘆き、そういった度を越えたストレスの発散の為なのかそれとも何か恐ろしい夢を見てしまうとか原因はたくさんあるらしいけど、眠りにつくと途端に暴れだす。

 

 普段はSAOで培った常軌を逸した精神力でほとんど無意識に抑え込んでいるらしい。と、いうか、それ以外に説明がつかないとお医者さんは言っていた。それでも時々喜怒哀楽が不確になったりすることはある。

 

 兄ちゃんは、今はまだ、自分の異常に気が付いていない。自分で本当の自分に気が付いてしまえばどうなってしまうか分からない。だからこそ兄ちゃんにはまだ仮想世界が必要で、だからこそボクたちは兄ちゃんが『バイト』することを認めている。菊岡さんが兄ちゃんに説明した事柄は半分は本当で半分は嘘だ。

 

 新型機のテストというのは本当だけどそれは兄ちゃんをバイトと称して仮想世界に連れ込むための方便に過ぎない。ルクスさんたち昔の友達や、兄ちゃんに心酔するプレイヤーを接触させたのは余計にVRから離れにくくさせるため。

 

 SAOのデータ引き継ぎも同じ。全ては心の治療をするため。仮想世界にいる間はいくら脳波やバイタルチェックをしても受けた本人は気が付けない。まだ兄ちゃんは未成年だから、とりあえず叔父さんや叔母さんの承諾があれば何とかこっそり治療が出来る。実際ほんの少しづつだけど改善はしてきている。

 

 それでも、ボクは近いうちに間違いなく決壊するのだと思う。SAOで何度か剣を交えたからこそ分かってしまう。兄ちゃんは余りにも()()()()()に長けすぎている。両利きという特徴を存分に発揮できるのはシステムの理解でも増してやレベルやスキルの高さでもない。

 

 自分から決して逃げず、ひたすら向き合い続けているが故に自分の動きを自分に最適化できる。彼の苦悩は逃避じゃない。自分にとっての最善を追い求めていなければああまでして自意識過剰になれはしない。

 

 そんな兄ちゃんが自分の異常に気が付けない筈がない。それでも兄ちゃんがあんな理性の欠片もない獣のようになってしまうのはあんまりにも嫌だから。ボクはそれを抑えるために兄ちゃんの部屋にいる。

 

 少なくとも、本当は誰も傷つけたくない人であると信じているから、傷つけている事実を隠すために、何とか顔にだけは拳が当たらない様に努力している。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 小雨の中を走っている。寒いようであまり寒さを感じない変な天気だ。距離もスピードもだいぶ鍛えられてきて、もうすぐ目標に到達できそうだ。もう一ヶ月もすれば入学前の学力検査が実施されるし、ALOでも決戦の日は近い。勉強も、運動も、遊びにも手は抜けない。

 

 遊びというよりは仕事なのだが、最近はそのあたりの区別があまりないような気がする。寧ろ現実よりも向こうの方が濃い――なんてのは流石に冗談だが。多分もうすぐ、俺は俺を取り戻せる。

 

 VR世界との決別は難しいかもしれない。それでも現実に適応出来るようになるのは時間の問題だ。家族との間にできた二年間の空白を乗り越えてようやく俺はスタート地点に立つ。

 

 速く、速く、もっと速く。

 

 たとえ追い越すことは叶わずとも追い付くことくらいは出来るはず。俺にとって現実は未だ遠い存在だ。

 

 家族もいる。友達もいる。だから大丈夫。

 

「それで、今日はどうでしたか兄さん?」

「残り三キロでダウンした……、まあそれ自体はいいんだよ。目的は体動かすことなんだから」

 

 両親は共働きで居ないので、今は春休みで家にいる詩歌と昼食をとっている。木綿季は定期健診のため病院へ。約束通り、二人で一緒に作ったオムライスだ。一緒に作ったとは言っても俺は材料の一部を切っただけで実際の調理や盛り付けは詩歌がやったのだが。

 

「健康なのは大事ですが、だからと言って刃物で遊ぶのはやめてくださいね。怪我でもしたら大変です」

「あはは……。それについては申し訳ない。もうしないよ」

 

 ついクセでやってしまった。SAOでナイフを弄んでいたように、本当に無意識に包丁を手の中で転がしていた。俺が未だ現実から遠ざけられたままなのはこういう部分なのだろう。こんなトレーニングはもう俺には必要ない。いくらなんでも危なすぎるし、俺はともかく詩歌に切り傷を負わせるなんて事態になれば取り返しがつかない。

 

「お勉強の方は調子がいいみたいですね。高校入試の過去問題もかなりの高得点でしたし」

「詩歌のおかげだよ。教わってなかったら落第点は確実だ」

「教わるだけで点数が上がれば苦労しませんよ。さ、早く片付けましょう。検査があるのは木綿季さんだけじゃないですからね」

「はいはい。そうですね――っと」

 

 詩歌は優秀だ。俺の妹とは思えないほどに勉強も出来るし、運動神経も抜群で、社会性も高い。二年前の詩歌の事は正直あまり覚えていないのだが――ほとんど部屋に引き籠っていたことくらいしかそもそも覚えていない――たぶんずっとそうだったんだろうと思う。

 

 俺なんかとは比べ物にならない程の、紛れもない天才。そんな彼女の事を俺はきっと尊敬していただろうし、それと同じくらいには恐れていたのではないだろうか。両親は俺ら兄妹を平等に愛してくれてはいるが、畢竟褒められることが多いのは詩歌の方だ。

 

 果たして何も出来はしなかったであろう俺に、ここでの居場所はあったのだろうか。いや、きっと無いと感じていたから引き籠りに成り下がっていたのだろう。

 

 SAOクリアの功労者であるという以外、俺には価値がない。だから必死でやる。運動も勉強も遊びも仕事も。

 

 俺が擦り切れてなくなってしまうまでは、やる。

 

「兄さん? そっちにもう食器はありませんか?」

「ああ、無いよ」

「分かりました、あとはやっておくので兄さんは早く出かける準備をしてくださいね。電車の時間は確認してありますか?」

「大丈夫だよ。そんな年寄りじゃないんだからほっといてくれてちょうどいい位だ」

「はは……放っておく、ですか」

「そうだよ。みんな過保護すぎるんだって」

 

 多分これはいけなかった。余りにも調子に乗り過ぎた。俺がみんなにかけている負担をほんの僅かでも考慮しているのならば言ってはいけない事だった。

 

「ああ、いや、ごめん。そんなつもりじゃないんだ。迷惑だとか、うざったいとかじゃ、ない」

「放ってはおきませんよ」

「分かってる」

「家族としての義務ですから」

「うん」

「責任でもあります」

 

 詩歌はこちらを見ていない。俺を見ないで俺を気遣っている。そりゃ怒る。無神経に過ぎる。それでも家族というだけで、兄弟だというだけで溜飲を下げてくれようとしている。

 

「だから、そんなことは言わないでください。お願いですから、兄さんの助けにならせてください」

「ありがとう」

「……もう時間ですよ。早くいかないと」

「そうだな。……行ってくる」

 

 俺は最低の畜生だ。

 

 最低だ、最低だ、と繰り返し声に出さずに呟いた。自分の心の汚物を吐露出来るなら腹を切り裂いても構わないと思った。電車の揺れが酷く胸糞悪い。気が付くと検査を執り行う予定の病院に辿り着いていて、俺はジェルベッドに横たわっていた。目を閉じても鼓動がうるさい。いつもなら少しは微睡めるのに。

 

 俺の事をいつも担当してくれている医者が開口一番。

 

「順調ですね」

 

 そう言った。

 

「順調ですか」

「ええ。栄養状態も良好、身体に異常なし、この春からしっかり学校にも通えるでしょう。ご両親にも診断書と一緒にその旨をお伝えしておきますね」

「あの」

「SAO帰還直後と比べると感心するほどの回復です。貴方なら学校に通い始めても問題なく――」

 

「あの、先生!」

「……ああ、すみません。何か心配事が? 何かあれば相談に乗らせていただきますよ」

「えっと……俺、その、俺の――心っていうか精神に。問題ないですか?」

「何か心当たりでも?」

「いや、自分では……何も」

 

 分からない。分からないのだが、はっきりさせないことにはどうにもならない。俺のデリカシーの無さや、優柔不断さや、挙動の不審さをSAOに押し付けたい訳ではない。ただ俺が今どういう人間なのかを把握しておきたい。

 

 素の俺が明らかにおかしいのであれば正せるように努力もしよう。だから、せめて、身近な人にとって俺が普通であるように。

 

「そうですね……。私は精神科学を専門としているわけではありませんから何とも申しようがありません。ただ、あくまでも一般論を申し上げさせていただくとするならば、SAO帰還者は例え何の異常も持っていなかったとしても、ある程度は異状者として見られます。それは仕方がありません。ですが、誰が悪いわけでもありません。実際にSAOにいた方々も初めからこのようなことになるとは思いもよらなかったでしょう。だからといって個人によって程度の違いはあれども二年間も戦闘に明け暮れていた異分子を簡単に認められるほど世の中は寛容ではありません」

「重々承知の上です。だから俺は、なんとか、ちょっとでも馴染もうとして」

「四条さん、確かに世間は狭量です。ですが努力する人間を見放せるほど非情ではない。だからこそ国も支援をしているのですよ。自分を責めてはいけません。今は実らずともいつか必ず成就します。実際貴方は恵まれているではないですか。帰る場所があって、貴方の帰りを待ってくれていたご家族もいる。ですから、もっと自信を持って」

「――はい」

 

 口がわななく。待ってくれていた家族の対する罪悪感と、感謝が募る。真っ直ぐに帰ろう。そしてもう一度頭を下げて謝ってから感謝を伝えなければいけない。それが俺の義務であり責任だ。貰ったものを僅かでも返そうとすることが何よりも大事なことなんだと、思った。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 同じ病院の木綿季はもう少し時間が掛かるらしく、大ロビーのソファーで携帯を弄って時間を潰していた。患っていた病気が病気だ。後遺症や再発も今後数年は危惧しなければならない。

 

 それにしても流石は大病院、平日の夕方でもそこそこ人がいる。大半がお年寄りなので知り合いなどいるはずもないが。久々にプレイしてみたソシャゲはかなり進化していた。

 

 3Dグラフィックなんて今や当たり前のものと化している。ガチャという文明はまだまだ健在のようだがそれは仕方がない。ゲーム開始ボーナスで配布されたアイテムであらかたガチャを引き終えると、そこでもう飽きてしまった。

 

 今日は感情の振れ幅が大きすぎて疲れた。木綿季はまだだろうか。悪いんだけどお前の義兄は飽きっぽいぞ。

 

 人の動きをさりげなく目で追っていると、どこかで見たようなイケメンが居た。なんだったか。少し前に七色博士と引き合わせられた折、一緒に紹介された助手の人だ。確か……スメラギさん。多分『皇』と書いて『すめらぎ』と読むのだろう。詩歌が「えっと、多分…」と教えてくれた。隣にいるのは七色博士だろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 何故。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「な ん」

 

 比喩じゃない。間違いなく現実に起こった事だ。一瞬頭が真っ白になったかと思えば、その次の瞬間には心の内から見るも悍ましい黒い何かが噴き上がり、そして俺という存在を満たした。

 

『何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故』

 

 どうしてレインがあんなにも笑顔で、あんなにも楽しそうに、あの男性の横にいるのだ。ここでは叫んでは駄目だ。僅かな倫理観がお俺の腕を口にあてがうことを許した。涙が溢れた。出来るだけ静かにその場を離れて、壁にへたり込む。体が痙攣している。止まらない。涙が止まらない。

 

「兄ちゃん帰ろ――え。どうして、どうした……の」

 

 多分言えた。『先に帰ってる』。言えたかな、口を押えたままで。

 

「ぅ、ぁぁぁ」

 

 走った。呼吸もままならないのに全力で道を駆け抜けた。それと同時に何時何処ともしれない記憶が次々と弾けては俺の脳に染み渡っていく。俺は叫んでいる。恐怖と怒りに任せてベッドの上で暴れまわっている。四肢を滅茶苦茶に振り乱し、その四肢が詩歌や木綿季や父さんや母さんにめり込む感触が分かる。

 

「ぃやだ――ぅそだろ」

 

 何度も転んで体を打ち付けたり擦り剥いたりした。罰のつもりか。全く足りない。

 

ぇぃん(レイン)ぃどぃよ(非道いよ)……。レイン、レイン!!」

 

 愛する者の名を叫ぶ。もう、会えない。今の俺が彼女に会ってはならない。たとえどんなに望もうとも。

 

「ぁぁぁぁぁぁ」

 

 声が完全に枯れるまで叫び――叫ぶことが出来ていたのかも定かではない――いつの間にか自室のベッドの隅に座っていることに気が付いた。涙が止まらない。拭っても拭っても。このまま体の水が無くなってしまえば美しい記憶だけを胸に死ねるのに。俺のような異常者が、異常者が、異常者が、異常者が。

 

 レインのやりたい事というのは、そういう事か。ならば会えなくもなるわけだ。俺のような血に飢えた後先の無い異常者と一緒にいてどうするのだ。ならばあのスメラギのような人間を見繕うことは実に理に適っている。アイツは嘘吐きだ。そして賢い。俺を支え、SAOクリアまでたどり着けさえすれば、俺と会う理由は全て消えてなくなる。かつてSAOが消え失せたように。

 

 音が聞こえない。ただ俺が知らなかった――言い訳ではなく本当に知らなかった――暴虐の限りを尽くす俺の姿が映像のような形で瞼の裏で踊っている。

 

 涙が止まらない。何も見えない。何も聞こえない。何も感じない。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

「お願いします! 同じギルドのよしみでセブン団長と会わせてくださいっ」

「駄目だ。セブンは忙しい」

「そこを何とか……。あたし『歌姫セブン』の大ファンなんです!」

「何度言わせればいいんだ? 七色・アルシャービン博士は多忙だ――む。あれは――」

「え――」

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

「どうしよう……。ボクたちの声、全然聞こえてないみたいだよ」

「そんなはずは無いです。ちゃんと聞こえてるはずです……いいえ。いつもなら、ですね」

 

 兄さんには本当に申し訳ないけれど、弾丸のようにドアを開けて帰ってきた兄さんをその時は不審者か何かと思ってしまった。

 

「事情は分かっています。分かっている、けど――!」

 

 許せない。別に悪いって訳じゃない。ただこんな状況を作ってしまうほど兄と共有して大切にしていたはずのものをどのような形であれ裏切ったことが許せない。夜、どんな悪夢に苛まれようとも強く在ろうとした、あの気高い兄を、自慢の兄さんを、こうも揺らがせるレインなる人物が、ただ、ただただひたすらに()()()()!!

 

「お姉ちゃん、菊岡さんたち来たみたいだよ!」

 

 数人の大人が階段を掛けてくるのが分かる。兄さんはそれにすら気づいていない。かつてのように引き籠ったまま動こうとしない。

 

「状況は聞いているよ。今は出来るだけ、これ以上の刺激を与えないように」

「でも!」

「聞くんだ詩歌君。いいかい、彼は正気を失っていたとはいえ電車にして数駅分の区間を走って帰ってきた。精神も肉体も疲弊しているはずだから彼が眠るのを待とう」

「それは……その後は」

「眠ったところをALOに強制ダイブさせる」

 

 思わず目を見開いた。兄さんがああも狂ってしまった理由は、元を辿れば仮想世界にあるというのに。

 

「これ以上彼に現実の厳しさに立ち向かわせては駄目だ。少なくともフルダイブ中に本体を動かすことは出来ない。だから考える限り最悪の事態だけは避けられる。そうだ……自殺だけは」

「でも、戻ってこれなくなったら。兄さんが逃げ続ける可能性だって、あるじゃないですか!」

「それでも彼は生きるためにSAOをクリアした。ALOではどんなに間違っても命だけは失わない。仮にあちらの世界で自傷、あるいは自殺を繰り返したとしても命だけは保証できる」

 

 言われなくてもそんなことは理解しているのだ。それでも何とか兄さんを元通りにする方法を。なんとか癒す方法を。家族だ、兄妹だと言ってみたところで結局こうなってしまうのだ。

 

 もし、もっと早く打ち明けて一緒に背負うと誓っていれば、もしかしたらこうはならなかったのかもしれない。それでも二年間の空白は埋められなかった。歩み寄る事さえ出来なかった。

 

「しばらくこの部屋は彼の治療室になる。本当に申し訳ないけれど、協力を頼みたい……」

 

 分かっているんです。そんなことは。

 

 

 

***

 

 

 

 朝早。世界樹の葉から朝露が滴る頃。何の気なしに目が覚めてしまって何となくログインした。

 

「んっ―――うーん!」

 

 体の代わりにアバターでグッと伸びをする。リアルと全く同じ体系で作成した『ミズチ』は悲しい位にちんちくりんだ。威厳の欠片もありはしない。それでも領主に担ぎ上げられたのは実力だと自負している。

 

 ただただゼノビアをぶった切るために、そして勝手がテニスラケットと似ているからという理由で選んだ《鎌》という武器はきっとワタシの宿命だ。狩りやレイドに参加し、徐々に頭角を現していった。サーバーごとに開催されるデュエル大会でも上位の常連になるまでに上り詰めた。人を統率する能力も普通以上にはあった。だが全部奪われた。ゼノビア()に。

 

 ワタシが純粋なままで居られるならなんだってする。あらゆる障害を排除して異分子は近寄らせない。事あるごとに姉はワタシにそう言い聞かせた。()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ああ嫌だ。反吐が出そうだ。ワタシはお前の愛玩人形じゃない。友達を選ぶ自由も、それこそ濁りに濁る自由だってある筈。ワタシが清いままでいるとすればそれはワタシ自身の選択によるものでなくてはならない。絶対に、それだけは譲らない。

 

「さて、と。折角インしたのにお茶だけ飲んで戻るっていうのもアレよね」

 

 かといってこんな早朝からログインする廃人なんて滅多にいるものではない。知り合いの領主の何人かはログインしているが、それ位だ。仕方がないからポーションの類の調達でもしようと部屋の椅子から立ち上がると、それと同時に同室の床で寝泊まりしている相棒が唐突にログインしてきた。言わずもがなライヒだ。だが彼は横たわりながら膝を抱えて震えている。延々と涙を流しながら襤褸切れのように倒れている。

 

「ちょっ、どうしたの、よ?」

「ぁ、あ。お、嬢?」

 

 いつものあの鋭さは欠片もない。そこにいるのは、ただの、自分とあまり年の変わらなそうなちっぽけな少年だった。

 

「俺、俺。もう、駄目……みたいです」

「は――はぁ? 駄目って何よ」

「俺、全部失くしたんです。大事な人も、大事な場所も、俺自身のことも」

 

 訳が分からない。そんな、ワタシと違っていくらでも自由を謳歌出来るクセにたかが何かを失うこと如きで何をだらしないザマになっているのだ。この男は。我知らず声に怒りがこもる。

 

「それで。計画の事はどうするっていうのよ、そんなことだと邪魔でしかないんだけど?」

「ごめんなさい」

「謝るな!」

 

 いつかのように胸倉をつかみ上げて外に投げ飛ばしていた。ふざけるな。信じられない。初めから変な奴だとは思っていたが、突然現れてこんな無様をワタシに晒して一体何なのだ。腹が立つ。何でも自由に選べる身分のクセに、()()()()()()()()()()()()()()()()()――!!

 

「アナタ、アナタねえ……っ。SAOをクリアした英雄なんでしょ? これから先何でも自分で決めて生きていけるんでしょ? なのに、何で、全部終わったみたいな顔をワタシに見せるのよ!」

 

 地面に突っ伏したままライヒは答える。

 

「俺は、弱い。弱いからみんな俺から離れて行っちゃうんです」

「自分の弱さを言い訳にするな! ならもっともっと強くなればいいじゃない! 失くしたらそれ以上に手に入るように努力すればいいだけの事でしょ!」

「無理だ。俺にはもう……無理なんですよ、全部」

「うるさい! アナタからそんなこと聞きたくない! よりによってアナタが!」

 

 強く唇を噛みしめる。彼をこのままにはしておけない。辛いことくらい誰にでもあるだろうし、ライヒにだって例外じゃない。それでもワタシが好きになった彼がこんなんじゃワタシが耐えられない。いくらワタシの都合だと非難されようと何が何でも元の彼に戻ってくれないと困る。

 

 でもどうやって? ワタシの言葉じゃ逆立ちしても彼を救えない。美味しいケーキくらいなら用意できるがそんなもので解決できる問題でもない。それじゃあ、ワタシは無力? そんなはずは無い。本当に無力ならここまで駆け上がってはこれなかった筈だ。なら――それならば。

 

「抜きなさい」

 

 デュエル申請を叩きつけてやった。勿論全損決着モードだ。はっきり言って勝てない。彼の戦闘をずっと間近で見ていたからよく分かる。

 

「さあ、早く」

 

 でも勝ち負けじゃない。伝えたいことがあるから、何を失ってしまったのかは分からないけれど、()()()()()()()()って、忘れないでいて欲しいから。

 

「早く!」

 

 ライヒからはさっきまでの弱々しさが完全に消え、代わりに明らかな敵意と殺意をこちらに向けてきた。それでいい。八つ当たりでも何でも直接彼に触れられるなら、今はそれでいい。右手には片手剣、左手には細剣。彼が本気を出すときにのみ使う組み合わせだ。それに対してワタシは大鎌一本――だけじゃない。

 

「まさか、二刀使いがSAO帰還者の専売特許とか思ってないわよね?」

 

 ワタシももう一本を握る。《ファルクス=パンドーラ》と《ファルクス=ミーミック》、ワタシの武器はこの二本で完成する。本気でライヒに立ち向かおうとするならば、そのワタシが本気じゃなくてどうする。主として、相棒として、友達として、腑抜けたままの彼を本気で打倒する。

 

 デュエルのカウントがじれったい。今すぐにでも彼の首筋向けて刃を振り下ろしたい。今すぐにでも彼の懐にまで潜り込み喝を入れてやりたい。そしてもしも叶うのならば。それは、今はまだ無理かもしれないけれど、いつか必ず彼に向けて言いたい言葉があるのだ。

 

「これが本当の《紫苑姫(タナトス)》よ。前に戦った時とは違うって思い知らせてあげる」

「――――」

 

 ライヒは何も言わない。お願いだから何か言ってほしい。いつものあの声で、いつものあの雰囲気で、ワタシに語り掛けて欲しい。

 

「いくわよ――ッ!」

「……っ」

 

 

 




 


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