――聖杯戦争は終結した。もう半年以上前になるはずの事なのだが、突如として俺の人生が180度どころか540度ねじ曲がったと言ってもいいあの非日常の記憶が薄れるわけもなく、今でもまるで昨日の事のように鮮明に思い描くことができる。
だが、いかに強烈な非常も、それが続けば慣れてきていつの間にかそれが当たり前の日常となっていく。
一年前の俺が今を見れば、それを明らかな異常と呼ぶだろう。しかしそれは今の俺にとっては当たり前である。
常に変わりゆく"日常"という曖昧で、不確かで、それでいてとても大事なもの。
今日も今日とて変わらない。その不明瞭な日常を大切に、俺達の毎日は流れていくのだ――
―――――
「先輩」
「――」
壁にかかった時計を眺める。時刻は7時30分。
別段何をするというわけでもない。今朝の朝食は驚くほどスムーズに進んだ。
朝の平穏を乱す災厄である我が家の名物トラが文化祭準備に駆り出され本日不在というのが一番の要因なのだが……
「先輩?」
「――」
まあとにかく不自然なほど順調な1日のスタートだ。
だと言うのに、まるで遅刻寸前のように心臓が早鐘を打ち、落ち着きがないのは
「もう! 先輩ってば!」
「おわあ! さ、さくら!? いつからそこに……」
「さっきからずっとです! もう……先輩の気持ちも分からないことはないですけど緊張しすぎです。あ、けどいつもと違う格好をすれば先輩は……」
「おーい、桜ー?」
突然の大声に現実に引き戻された。
いつの間にやら目の前にはふくれっ面を浮かべている桜の姿がある。まるで瞬間移動のようにすら感じたが、この不機嫌っぷりを見るにどうやら俺の視野が致命的に狭くなっていただけのようである。
「はっ! い、いえ、何でもないんですよ先輩!」
「おう。で、どうした? たしか洗い物は全部終わってたはずだし夕食の買い物の買い出しかかりも決めたよな?」
確かメインの食材は俺が学校帰りに商店街に、切らしていた調味料は遠坂が新都に買いに行く手筈だったはずだ。
案の定桜は渋ったが、弓道部の主将ともなれば通常の活動に加え文化祭の準備で今の時期てんてこ舞いなのは目に見えている。だからなんとか説得したというのに、まだ納得していないということなのだろうか?
「違います。あの、忘れてたんですけど今日美綴先輩と文化祭の打ち合わせがあって直ぐに出なきゃいけなくて」
「あー……そう言えば昨日美綴もそんなこと言ってたような……なら急がないとやばいんじゃないのか? 俺に構わなくてもいいのに」
相変わらず律儀な事である。
桜が多忙な事ぐらいは分かっているつもりだ。だから急いでいるのなら俺の事なんて放っておいていいといつも言っているというのに。
そんな俺の心中を知ってか知らずか桜の顔が心配そうに曇る。
「先輩? ほんとに大丈夫なんですか……?」
「――? なにがさ? 俺、桜についてもらわなきゃ学校に行けない、なんてお子様になったつもりはないぞ」
当たり前の事だ。確かに桜には世話になっているが、それでも自分の事くらいは自分で出来る。
それとも桜からしたら俺はそんなにも危なっかしく見えているということなのだろうか……? むむ、それは流石になんか嫌だ。いくら料理の腕が抜かれそうだと言ってもそれ以外のところではまだ桜の兄貴分でいたいというのに。こっちが弟になってしまうのは困る。
「……先輩。私が先に行くってことは先輩は今日姉さんとセイバーさん、その3人で登校することになるんですよ? 藤村先生もいないから誰もフォロー出来ないですし。ちゃんと分かっていますか?」
「あ――」
なんて、とことん平和ボケした事を考えていた先ほどまでの自分をぶん殴りたい。
桜の言葉に頭のてっぺんからつま先にかけて走る一筋の電流のような衝撃。
しまった……! 今朝ずっと緊張していたのは何故だったかすら忘れていたというのか俺は!
「ま、まて桜! いくらなんでも俺一人であの二人を隣に連れて平日の学校なんて無理だ! 遠坂一人でも未だに大変なことだっていうのにセイバーまでセットにしたら男共の目線が……しかも桜がいなきゃ誰もフォローしてくれない。セイバーは学校に行く時はどことなくぎこちなくなるし、遠坂は火に油を注ぐ未来しか見えないってのに……!」
学校のアイドルことあかいあくまがすっと脳裏に浮かぶ。
それもとびきりのおもちゃを見つけて妖しく笑っている姿で。死ぬ……俺はこのままではあと1時間もしないうちに学校社会的に抹殺される……!
「だからさっきからそう言ってるじゃないですか。――ごめんなさい先輩、まだセイバーさんの着替えも終わらないみたいですし、もう時間が……本当にごめんなさい! 出来ることならご無事で!」
「ちょ――」
本当に申し訳なさそうに顔の前で両手を合わせると、本当に急いでいるのか俺に有無を言わさず桜はパタパタと足音を立てて廊下へと走っていく。
孤立無援。ここに衛宮士郎は最高の味方を戦闘前に失ってしまった。
「はあ――」
一人取り残され溜め息をつく。と、同時に心臓の高鳴りが帰ってくる。そうだ、あと少しでセイバーの制服姿を見ることになるのだ。今のうちに覚悟を決めておかないと出会い頭ワンラウンドKO、なんてことになりかねない。
「なんてこんなことになっちまったのか」
まずはお茶だな、と自然に台所に足を運ぶ。
幸いなことに朝食用にと用意したお茶はまだやかんの中に残っている。少し温めなのが気になるところだが……今から淹れなおすのも、温めるのも時間がないだろうし今はこれで良しとしよう。
湯のみに深緑のお茶が満ちていくのを見ながらこうなった経緯を思い出す。
あれは――そうだ、この間セイバーを学校見学に連れて行った時のことだった。弓道部を訪ね昼食をとっていたところ何を思ったのが美綴が
『良かったら文化祭、うちの出し物の演舞に出てくれないかな? 藤村先生ですら歯が立たない剣捌きだって聞くし、助けてくれると嬉しいんだけど』
などと事をセイバーに持ちかけ、最初は渋っていたセイバーも藤ねえや乗り気になった桜に説得されるうちに
『その……シロウが許してくれるなら、私も文化祭とやらに参加してみたいです……』
なんて顔を真っ赤にしてお願いされてしまっては俺に断れるはずもないのであった。
そこからもう話はトントン拍子、元々学校見学の件など半ばセイバーと学校の繋ぎ口となっていた藤ねえは
『じゃあ後は私に任せて! あ、せっかくだし国際交流ってことでセイバーちゃんも何日か学校体験していいわ! 文化祭までに友達が出来てたほーが楽しいでしょー。よーし、そうと決まれば善は急げ! 早速教頭先生のとこ行ってくるわ!!』
と、明らかに無茶だと思われる要件を携え教頭室を奇襲。
文化祭はともかく流石に学校体験は無理だろうと思っていたのだが、なんと完全勝訴を勝ち取り、満面の笑みを浮かべて帰ってきた。
話によるとどうやら偶々居合わせた葛木先生がセイバーなら大丈夫、万が一があれば責任は自分が取ると太鼓判を押したのが決めてだったらしい。
なので後で彼にその真相を聞いてみれば
『なに、セイバーにはいつもキャスターが世話になっているのでな。彼女なら学校の風紀を乱す心配もなく、むしろ他の生徒に好影響を与えるだろう。断る理由はない』
いつもの調子で淡々と認めた。
確かにセイバーがキャスターの内職の手伝いをしていると以前聞いたことがあるし、葛木の性格を考えれば直接的でなくともこれがセイバーに対する礼だったとしてもなんらおかしくない。
かくして、セイバーの学校体験は一部の隙もない公認のものとなり、今日その初日に至る。
「――お茶、溢れてるわよ?」
「え? おわっ!? いつのまに!!」
「そのいつの間にって言うのがどっちなのか分からないけど……私がいつからきたのかってことならほんのさっきだし、お茶がいつから溢れてたのかってことなら私には分からないわ。来た時にはもう大分溢れてたし」
どうやら今日の俺はとことんどうかしてしまっているらしい。
隣で怪訝そうな顔をしている遠坂を見てそう察した。
そんな遠坂の視線を誤魔化すようになみなみ注がれたお茶を一気に飲み干す。
それでようやく少しだけ落ち着いた。そして本来彼女と共にいなければならない筈の少女の存在に気がついた。
「あれ……遠坂、セイバーはどうしたんだ? 制服に着替えるの、手伝ってやってくれてたんだろ」
「ええ、ちゃんと終わったわ。今から出れば学校も十分間に合うだろうし。けどね……」
「あー……」
何とも言えない表情で腕を組んだ遠坂がくいっと顔で居間と廊下を仕切るふすまを示す。
それに合わせてこちらも顔を向けてみれば……いた。というよりも見えた。ふすまの隙間から僅かながらだが、誰と間違えるはずもないぴょこんと伸びた金色のアホ毛が。せわしなくひょこひょこと動いている。
「遠坂……あれは?」
「お察しの通りよ。あの娘、鏡で自分の制服姿確認してから一気に恥ずかしくなっちゃったみたいでね。全く、これじゃ普段からこれ来てる私は痴女かなにか? って思うくらいよ」
「ははは……」
ここは深くつっこまない方が身のためだ。本能的にそう感じた。
取り敢えず愛想笑いを浮かべる。
「ま。そうは言っても今更行かない、なんてのは通じないけど。学校の方も色々準備してくれてるみたいだし、ここですっぽかしたらそれこそ藤村先生の立場無いだろうし」
「だよなあ……いくら葛木先生が協力してくれてるとは言っても反対した先生方もいるだろうし、藤ねえがどれだけ頑張ったのかは考えるまでもない」
普段なら延期という選択肢もあるのだが、今回ばかりはそれはだめだ。
藤ねえがどれだけセイバーの事を想ってこんな無理を言ってくれたのは俺にだってわかる。そんな藤ねえの顔を潰すのは許容できない。
となれば交渉しかあるまい。
「セイバー」
「シロウ……」
ふすまの前まで歩く。いきなりバーン、と開けてしまってもいいのだがそれはよろしくない。下手をすればセイバーが自室に引き篭もってしまう可能性すらある。
ということで隙間から覗くアホ毛一本のみを見て話をするというかなり珍妙な事態になっている。
「セイバー、そんなに恥ずかしがらなくていいから学校いこう? 大丈夫、なにかあったらちゃんと俺が庇ってやるから。それとも学校行くの嫌になっちゃったか?」
「――! ち、違うのですシロウ! 私も学校には行きたい! しかし……」
「しかし?」
アホ毛がピョコピョコと、まるで抗議の意思を示すかのように激しく揺れる。
「私がこのような格好をしてご学友に笑われやしないかと心配になってしまったのです……私はリンやサクラのように可憐な少女ではない。とてもこのような姿を大勢の前に晒すなんて……」
「……」
セイバーが可憐じゃないというのなら、その可憐というとんでもなく高いハードルを超えられる可能性があるのはそれこそその二人くらいなものだ。
「そ、それに私は学校という集団で過ごしたことがない。今までは休日に覗く程度でしたが今回は何百人という生徒がいる学校で同じように過ごすのでしょう? 私のような者が混ざっては皆に迷惑をかけてしまうのではないかと思うと気が気ではなくて……」
「ねえ士郎? 私ちょっといらいらしてきちゃった。なにこれ? 分かってるけどとんでもない嫌味にすら聞こえるんだけど。マリッジブルーの新婦でももうちょいマシだと思うわ」
「遠坂は黙ってろ……なんとかするから」
いつの間にか隣で素晴らしい笑顔を浮かべていらっしゃる遠坂。
なぜここまで苛ついているのかは明白だ。いつの間にか時計は8時を回っている。これ以上時間を使ってしまえば遅刻の危機だ。
成績優秀容姿端麗品行方正をモットーとする遠坂からすれば遅刻は許されることではない。
このままではあまり交渉に割く時間はないかもしれない。
「大丈夫だって。セイバーが日本の事とか学校の事あまり知らないって藤ねえがちゃんと説明してくれてるから。だからセイバーは堂々としてていいんだぞ? 分からないことは分からないで良いんだ。別に皆と一緒に出来なきゃいけないなんて理由は無い」
「ですが……」
少しばかり焦り始めた俺を尻目に今日のセイバーは難解である。
なんと言うか……いつもの覇気が欠片もない。こんな時にライダーでもいてくれれば上手く挑発してもらって無理やり元気を出させるという荒療治もあったのだが残念ながら彼女もバイトへと出てしまった。
「セイ――」
「あーもう! 焦れったいのよ!!」
次はどうしようかと思った所で、火山が噴火した。
ガーッ! と気勢を上げた遠坂がスパーンっと両手でふすまを開け放つ。
「リ、リン!?」
「――」
そうして、その噴火を直に受けた俺は機能を停止した。
「シロウ! これは、その! 見ないでください……!」
何だろう。どちらも単体なら見慣れているというのに、重なるとどのような化学変化を起こしたのかまるで人の領域を超えた存在に――いや、そもそもセイバーは人間というよりは。いや、そんな事よりもこの可愛さは……
「――!! お、お願いします……そんなマジマジと見つめないでください……恥ずかしい……」
100%制服で覆われているというのに手で身体を庇うようにしてしゃがみ込んでしまったセイバー。
顔はこちらに向いているが、涙目になりながら真っ赤に頬を染めたそのあまりの愛しさに俺は吸い込まれそうに――
「ええい! もういい加減にしなさいよ二人共!」
「いたっ!?」
「シロウ!」
そんな夢見心地は一瞬のことだった。
脳天を突き刺す衝撃(物理)に頭を抱える。
くそ、あのあくまめ……無抵抗な人間に全力チョップ食らわすか普通!?
結局こうなってしまうのか、遠坂の強行突破によってあわれにもセイバーの羞恥心、そして俺の交渉にかけた時間は全て無に帰したのだった。
「ほら! セイバーも立つ! 今の士郎見たらわかるでしょ? 大概の奴ならセイバーには一目でメロメロよ!」
「め、メロ――」
「ほら! 士郎もボサっとしない! もう時間ぎりぎりなんだから!」
「ちょ、とおさ――」
俺とセイバーの腕を掴んで遠坂が玄関へと向かう。というよりも引き摺る。そしてこちらへ首だけ向けると堂々と言い放つ。
「学校行くわよ! 遅刻なんてしたら承知しないんだからね!」
はじめまして、の方も。またお前か、という方も。どうもfaker00です。
まあなんというか勢いですね。あっち書いてたらなんだかビビビっときたのです。あと日常を書きたくて……
こちらの作品はkaleid saber Dancing nightとは違い短めになっております。おそらく10話もかからないかなーと。
元ネタはホロウのセイバーさんの学校見学です。あの時果たせなかった約束というか願望が叶うとどうなるのか……聖杯もなければ派手なバトルも無い完全に平和な作品になりますがお楽しみ頂ければ。
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