インフィニット・ストラトス ~宇宙からの来訪者~ 作:国産茶葉
「はい、これで良いわよ」
手際よく本音の
包帯に隠れているが、理津子の拳を受け止めた箇所は見事に赤く腫れており、鎮痛作用のある冷湿布が貼られている。
幸枝が触診する限り骨折してはいないが、打撲になっているので三日間は冷湿布で腫れを抑え、以降は温湿布で血行を促進して療養するように言われていた。
もし三日以降も痛みが引かない場合には骨折の疑いがあるので再度来るようにという申し付けも加えて。
「ありがとうございますー」
患部が冷やされた事で痛みが小さくなり、ニコニコと笑顔を浮かべながら診察椅子に座っている本音は嬉しそうに礼を述べる。
そんな彼女を微笑ましそうに幸枝は見ていたが、その背後に立つ人物に顔を向けると気遣うように表情を変えた。
「さっそく絡まれたのね」
「そうだな」
幸枝の言葉を肯定し頷く遥香。
治療を優先した為に詳しい経緯を説明しなかったが、IS学園内に知己の生徒がいない遥香が一緒にいた事で事情を察したのだろう。
「そうならないように織斑先生が迎えに行って頂いたはずなんだけど、織斑先生はどこに?」
「突然用事が入ったらしくてな、本人も不本意だったようだが駅で別れた。その用事に同行しても良かったらしいが、長引けばクラスのオリエンテーションに欠席すると聞けば流石にな」
「そうなの」
溜息を吐く幸枝に、頭上を超えてやり取りされる親しそうな会話に目を白黒させた本音が口を
「石田せんせーはハルハルと知り合いなんですか?」
答えは目の前の人物からではなく、背後から与えられる。
「知り合いと言えば知り合いだな。カウンセラーと患者の関係だが」
「えっ!? あー……そのー」
驚いて背後に振り返った本音はそれがどういった関係なのかすぐに察し、取り繕うと言葉を探す。けれども鬱陶しそうに眉を寄せ一蹴する遥香。
「本人が気に留めてない事をいちいち気にするな。適当に聞き流せ」
困惑した本音が幸枝に顔を向けるも、苦笑する彼女が頷くのを見て問題ないのだと納得する。
ここで遥香達から解離性障害の話をしないのは、わざわざ話を大きくする必要がないからだ。以前の遥香を知る人物がIS学園にいないのだから、元の人格だろうが後の人格だろうが関係ない。
余計な騒動を抑え、元の人格が復活したら改めて周知するという話になっていた。
「そう言えばわたしー。ハルハルに余計な事したのかな~?」
「何がだ?」
目を瞬かせる遥香に本音は包帯を巻かれた腕を指差す。
「咄嗟に庇ったけどー、ハルハルはキックを普通に手で止めてたから、言葉は喧嘩腰だったけど穏便に対応したのかなーって思ってさー」
己に向ける本音の評価にクスッと笑いを遥香は漏らす。
「まぁ、本音が間に入らなくとも何とか出来たと思うから、私に関して今後はああいった事は不要だ。庇おうとしてくれる気持ちは嬉しいが、本音が傷を負う方が気分が悪い。それで穏便に対応したかどうかの話だがな、あそこで本音が間に入ってなかったら――」
柔らかい笑みを浮かべていた顔は豹変する――牙を
「骨の一本か二本は折るつもりだった」
それが遥香の偽らざる考えであった。
拳を振り上げられて大人しくしていられる様な性格ではない。他にも理津子の様なタイプは相手を弱いと判断すると、さらに強気に出てくる。
そうならない為に手出しする事でリスクがある事を身体に教え込む必要があった。
「ええっ!? 冗談だよね~!!」
慌てる本音に気を良くした遥香は表情を戻し笑う。
「本音がそう言うなら冗談――ということにしておこうか」
「う~~。ハルハルがわたしを
遥香の様子を医師として観察しながらも良好な関係を築き始めている二人に頬を緩ませるが、和気藹々とする二人を止める為に手を打つ幸枝。
「はいはい。もうすぐ入学式の時間だからそこまでにしなさい。水瀬さんは何か問題が起こるようなら織斑先生や周囲の先生方に助けを呼ぶように」
一週間後に絡んできた先輩と模擬戦をすることになっているなど露知らず、幸枝はそう締めくくる。
遥香も訓練機用ISを借りられるか千冬には相談するつもりであったが、戦い自体は止めるつもりはなかったので口にする事なくその場は濁した。
「お世話になりましたー」
そう言って頭を下げた本音を連れて医務室の扉に手を掛けようとした所でタイミング良く扉が開き、一人の男性が現れる。
「石田先生。まもなく入学式ですが――」
赤ネクタイとYシャツに白衣と言った装いは、典型的な科学者の格好である。ただ、濡れたようなストレートの黒髪をセンターパートにし、横に細長く伸びる眼鏡が理知的な顔に見せ、左耳に着けるピアスがただの学者然とした雰囲気を消している。
彼は入学式会場に来ない幸枝を迎えに来たようだが――それは予期せぬ出会いであった。
後数分遅ければ――そうでなくとも手を伸ばせば届く距離で鉢合わせにならなければ、過剰に反応する事もなかっただろう。だが運命という物が存在するとしたら二人の出会いは約束された事だったのかも知れない。
「死ね」
医務室の扉を開ける時には欠片も存在しなかったはずの殺気と、皮膚を容易く貫くだけの力が籠った
それは貫手を放つ遥香自身にしても不測の事態だった。
彼を見た瞬間に身から爆発的に生じた衝動が、心を置き去りにして突き動かされる身体――殺せ、殺せと本能が叫ぶのだ。
表情は先ほどの餓狼と表現した獲物へ牙を剥く、お遊びのような代物ではない。
純粋な殺意に染まり、冷酷に命を奪うだけの
遥香は肉体を操る性質上、その気になれば自壊を防ぐ為に備わっているリミッターを任意に解除できたりもする。
幸いにも今放たれた貫手は肉体のリミッターを外した自壊するような攻撃ではない。
しかし、世にいる達人と呼ばれる者が
遥香の腕から繰り出され、喉を狙った貫手が温かい物に包まれる。
「……み、みな……せ……さん」
幸枝の声が震えているのは部屋を満たす殺気のせいだ。
それでも直接向けられる彼に比べれば余波に過ぎないのだから如何程の殺気なのか。まして対象以外にも感じられる殺気を漏らすなど、遥香が自覚していれば不細工な殺気だと自らを嗤ったに違いない。
反応を返さない遥香の代わりに答える者が現れる。
「そろそろ力を緩めて貰えないかな」
それは遥香に攻撃された男性だった。
喉を貫くはずだった貫手は
声を切っ掛けに遥香は正気に返る。
「っ!? はっ、離せ。――離せ!!」
力尽くで引き抜いた逆の手を胸に置き、激しく動揺する心を鎮めようとする遥香。
室内から殺気は霧散し、衝動は消え失せえていたが男性への不快感は未だ存在する。一流と呼ばれる傭兵の仲間入りをしてからは一度も自らの
男性は男性で出会い頭に殺され掛かっただけに、表情には出さないが心臓は早鐘を打ち遥香から視線を外す事ができない。
正直、貫手を受け止めることが出来たのは奇跡だと思っている――十回に一回の割合で成功する隠し芸が、本番で運良く最初の一回で出来たと表現するのは少し的外れだが大きく外れてもいない。
遥香の事を自らの研究を危険視した女性至上主義者が強硬手段を取る為に送り出した人材かと思いもしたが、今の様子を見る限り本人も意図していない行動だったと察せられる。
「失礼する!」
逃げるように医務室を出て行く遥香が扉の影に消え、
◆ ◆ ◆
校舎の廊下を曲がる毎に遥香との距離を離され、中庭に入る後ろ姿を最後に本音は遥香の姿を見失ってしまう。
入学式が始まる時刻はとうに過ぎており、それでも探し回っているが学園内は広く遥香の姿を見つける事が出来ないでいた。
今日出会ったばかりの相手の為に馬鹿な事をしているなと自覚していたが、自信に満ちていた遥香が保健室を出ていく時には酷く小さく見えて心配だった。
彼女から感じた殺気は身が凍える程に怖かったが、自身に向けられた訳でもない殺意で彼女を忌避するような事はせず、受けた優しさを忘れた訳ではない。
むしろあの歳であれだけの殺意と功夫がある事をすごいと思えるのは、実家が裏稼業に足を染める家に代々使えていたからだろう。純粋に心配する心とある種の打算に背中を押され、本音は探し続ける。
やがて中庭に出戻ってきた所で不安に駆られる――もしかして既に学園を出てしまったのか、それとも入学式に普通に参加しているのではないか、と。
会場に向かってみようと足を向けた所で背後から声を掛けられる。
「そこで何をしている。生徒は入学式に向かわなければならないはずだが」
声は女性の物だったが、優しさを感じられない厳しい口調に恐る恐る振り向けば、有名人が立っており本音は目を見開き驚きを露わにする。
IS学園に既に入学している幼馴染や姉の口からその人物がいる事を聞いていたが、実際に目にすると想像以上に驚いてしまった。
「織斑せんせー。あの……友達を探していて……」
「お前は……布仏だったな。それで誰を探している?」
「ハルハル、あっ、えっと……水瀬遥香さんですー」
遥香の名前を聞いて千冬の表情が一瞬反応するが、微細な変化だった為に本音は気付かない。
駅からの短い間に友達と言える存在を作った事が千冬には意外だったが、存外社交性があったのだな感心していた。
「代わりに私が探しておこう。お前は入学式に参加すれば良い」
「えっ、でも――」
反論は許さんとばかりに千冬は遮る。
「二度は言わん。入学式に参加しろ。良いな」
「……はいー。後はお願いしまーす」
頭を下げた本音がとぼとぼと歩いて会場に入る姿を見届け、千冬は中庭の中に足を向ける。
道を外れ校舎のどこからも視線が届かず、少しだけ開けた場所に辿り着くと木に背中を預け腕を組む。中々悪くない場所を見つけたものだと再び感心しながら口を開く。
「入学式をさぼって昼寝とは良いご身分だな」
千冬の視線の先には芝生の上に行儀悪く寝転ぶ遥香の姿があった。
組んだ両手を枕にして目を閉じているので寝ていると勘違いしそうになるが、感じる気配から起きているのは間違いない。ただ、雰囲気からどこか変調を
黙ったまま答えようとしない遥香に千冬はさらに言葉を紡ぐ。
「布仏には感謝を伝えておけ。入学式を欠席してまでお前を探していたんだからな」
そこで漸く瞼を上げた遥香が、視線を綺麗な青空に固定したまま口を開く。
「退学だと思っていたんだが、まだ保留の段階か? それなら伝える機会はありそうだな」
そこには先日や今日の朝に会話した時のような張りのある力強さがない。道に迷った子供のように、泣きはしないが途方に暮れているという感じだ。
「お前の言う通り判断を保留中だ。それで何があった? 物騒な事をよく口にするお前だが、本気で口にしているとは思っていない。ましてや男性だからという理由でもあるまい」
千冬がここにいるのは用事を済ませて学園に帰ってきて早々、幸枝から連絡を受けたからだ。
酷く動揺していて説明が要領を得ないので状況を掴み切れなかったが、遥香が人を殺し掛けた事と、幸枝が遥香に対して怯えている事は分かった。
パニックになりかけている幸枝を
遥香を探すこと自体は簡単だった。彼女に襲われた男性の
彼に頼むとすぐに位置を割り出し、中庭に来れば気配を隠している訳でもなかったから見つけるのはすぐに出来た。
問題は遥香が人を殺しそうになった理由だ。
入院当初は男性との接触を故意に断ったが、徐々に緩めて問題ない事を周囲も確認していた。
それなのに今回は過剰に反応し、二人の学園関係者――一人は何度も顔を合わせて世話を焼いていた人なのに――が危険と判断してしまった。原因をきちんと把握しない訳にはいかない。
「正直、私にもあんな事をしでかした理由は分からん」
「どういうことだ?」
上半身を起こし、片膝を抱えて遥香は視線を千冬へと合わせる。
「私は
「おい、それは問題発言だぞ」
ジト目を送る千冬に少しは調子が戻ってきた遥香は笑う。
「例え話だ聞き流せ。それで、だ。その根底にあるのは『自由』だ」
「『自由』?」
殺伐とした内容と解放的な言葉の不釣り合いに千冬は眉を寄せ、遥香は頷く。
「『
「それが理由が分からんこととどうつながる?」
内側に澱んでいた物を吐き出すように遥香は溜息を
「衝動に突き動かされ明確な殺意を持って男性を殺そうとした。今も胸に疼く殺意がある。これは否定しない――だが衝動が起こる理由が欠片も思い浮かばん。そんな『自由』とは言えない状態で殺そうとするなどあり得ない」
「――だが現実は違う。そうだな」
「ああ、だから理由を探していた。それで少しだけ分かった事がある。あれは――」
続きを口にしようとした所で遥香の雰囲気は一変する。
泰然とした雰囲気は消え失せ、長年の怨敵に出会った者のように殺気をまき散らす。風もそれ程ないはずなのに、殺気に呼応するかのように枝葉が騒めき始めていた。
(これは確かに危険だな)
幸枝が味わった状況を目の前で確認でき、危険と判断した二人を千冬は肯定する。
これ程の濃密な殺気は千冬にも数える程しかなく、一般人が浴びればパニックになるのも不思議ではないと納得する。千冬も身構えていないように見えて、実際には瞬時に動けるように樹に預けていた体重を身体に戻していた。
「――盗み聞きとは良い趣味をしているな。隠れていないで出てこい」
人が殺せそうな冷たい目つきで睨み付けると、樹の影から現れる先程の男性の姿。出で立ちは先ほどと変わらないように見えて大きく異なる点が一つある。金属製の鋭角的なヘルメット――旧世代の特撮ヒーローのような被り物――を脇に抱えていたのだ。
(あれはまさか……)
ヘルメットの正体について心当たりが遥香にはあったが、表情に出すような失態はしない。
「悪いな。盗み聞きするつもりじゃなかったったんだが、殺されそうになった理由を知りたいと思うのは当然だろ?」
「ふん。それでその奇妙なヘルメットを防具代わりに持ち込んだという事か。それでは喉や頭を守れても他が無防備では意味があるまい」
「いや、こいつは――」
その言葉の続きを奇妙なヘルメットが遮る。
『初めまして、水瀬遥香。私は『
男性――椿定光が持つヘルメットがそう自己紹介するのを聞きながら遥香は自分の予想が正しかった事を知る。
随行体。それは流刑体の管理――具体的には監視と回収する者達の総称である。
二千万の流刑体が地球に衝突するのは範疇外の事だが、少数の者が何らかの理由により解放される事態は想定されていた。
流刑体と同じ軌道で同行し、その時に回収の任を負うのが随行体の役目であり、目の前のヘルメットもその一部である。
ただ流刑体の刑期は半永久であり、寿命を持つ有人では運用に限界があるから無人に全て移行していたはずだ。
それが四肢を伴わずヘルメットのみで活動しているという事は、トラブルでも起きて現地人に協力してもらって有人で運用しているのだろう。
ヘルメットには損傷の形跡がみられ、その時に無人運用に必要なデバイスを損壊させたのかもしれない。
「喋るヘルメットとは随分変わった物を持っている。まぁいい」
遥香は発散させていた殺気を内側に抑えつけ、立ち上がると定光が来た方向とは逆へ歩き始める。
不快感は胸の内で未だ疼いていたが、不意に遭遇しなけば衝動に突き動かされて襲いかかるようなことはない。
将来的に殺す事になるかもしれないが、それは自身が納得できる理由を見つけてからだ。見つけるまでは不快感に悩まさるとしても、『自由』である為に意地でも耐えることを遥香は決める。
「おい、どこに行くつもりだ?」
千冬に後ろから話しかけられても遥香は足を止めずに歩き続ける。殺さないと決めたが一緒にいると不快感が増してイライラが募るからこの場に居たくはなかった。
「ここにいても殺意が溜まる一方だから入学式に参加してくる。――私が危険人物になるのはその男が近くにいる時だけだ。出会い頭に会わなければ襲うようなことはないから安心しろ」
「水瀬、そんな態度だと退学にするぞ。いいのか?」
「そうか。決まったら教えてくれ」
動じる様子のない遥香に千冬は溜息を吐く。
言葉通りいっそのこと退学にしてやろうかという思いがない訳ではないが、教育者に必要なのは忍耐と根気だ。安易な方向ばかり選ぶようでは、その者の下から飛び立つ
遥香を引き留める事を諦め、先ほど中途半端になった言葉の続きを千冬は質問する。
「行くなら少しだけ分かったという襲った理由を話してからにしろ」
その言葉が耳に届くとぴたりと立ち止まる遥香。
空を見上げて逡巡していたが、諦めがついたのか息を漏らすと千冬達に顔を合わせないまま言葉を紡ぐ。
「あれは――――羨望だ。椿定光という存在に対してのな。それがどういう羨望かは皆目見当が付かんが」
それ以上を口外することなく遥香は立ち去り、その場に沈黙が訪れる。
「羨望だと?」
遥香の言った言葉を千冬は繰り返すが、答えを返してくれる者はいない。
「本人にも分からん事が分かるはずもない、か。――定光。水瀬に襲われたと聞いたが怪我はないのか?」
答えを出す事を諦め、定光へと顔を向けると教師としての仮面を外した千冬は親し気に話す。
そこに生徒の前に常に纏っている固さはなく、僅かばかりながら心配する雰囲気さえあった。
「ああ、怪我一つしてない。だがあれは、怒らせた千冬並に怖いな。本気で死にかけた」
高校時代からの旧友の感想に千冬は眉を寄せる。
もう一人の親友には頭脳で一歩届かず、ど突き合いの喧嘩でも千冬に一歩及ばないが、人類最高峰と評しても問題ない頭脳と戦闘技能者と比較しての話だ。
頭脳と戦闘技能を高いレベルで身に着けているのだから、彼も間違いなく人類でトップクラスの人間には違いない。
そんな人間が怖いと表現するのだから遥香の戦闘技能は相当に高いのだろう。
「それ程の腕か。格闘技能と危険度を上方修正したほうが良さそうだな。――ただ、そんな話がありえるのか?」
「何がだ?」
千冬は守秘義務違反と知っていながら遥香の情報を話そうと決めたのは聞いてみたかったからだ。内因で済ませる医師ではなく、外因も含めて考えられる科学者としての意見を。
「今から話す事は他言無用だ。水瀬の人格は先の強姦事件を切っ掛けに生まれたらしい。石田先生などは解離性性同一障害と診断してスクリーニングテストを行い、裏付ける検査結果が出ている。だが事件以前に水瀬が格闘技を習っていたという経歴は存在しない」
「なるほど。多重人格と言えども基本はその人物の人格や記憶から別の人格を生み出す訳だから、貫手の映像を見ていたとしても見様見真似ならともかく、あれ程のレベルで再現するのは確かに難しいな。あの貫手は範士とは言わないまでも、教士以上範士未満と言ったところか」
定光の言葉に千冬は頷く。
「別人の成り済ましを疑ったがDNA検査は白。それでも一般人だった人間があの殺気を放つというのは不可解だ。お前はどう思う?」
顎に手を当てて暫く考え込み、結論が纏まった定光は面を上げて言い放つ。
「――率直に言おう。見当もつかん」
それを聞いた瞬間、千冬の額にしっかりと青筋が浮かぶのも仕方がない。守秘義務を破ってまで相談したのに、帰った来た答えがそれでは親しい分だけ頭に来る。
「――そこに首を晒せ。考える気もない頭など切り落としてやる」
どすの籠った千冬の声に定光は肩を竦めながら苦笑する。
「記憶や人格、経験と言った物は所詮、脳内の神経細胞の配列パターンに過ぎない。人為的に複写や操作が出来れば記憶を植え付ける事や格闘技を覚えさせる事も理論的には可能だ。他にも集合的無意識から生まれた人格とか、クローン人間を製作して本人の人格を植え付けたとか、脳だけを外科手術で取り換えるなんてのも思い浮かぶが。――千冬、俺の言いたい事が分かるか?」
怒気を抑えた千冬が定光の言葉に渋い顔をする。
「考えるだけ無駄と言いたいのか?」
「そこまで言うつもりはない。俺が思うに水瀬の人格の存在理由を知るよりも、目的を知る方が重要だと考えるだけだ。目的を知っていれば対処方法も考えやすいだろ?」
「まぁ……そうだな」
割り切った考えをする定光に腑に落ちない千冬だが、言われた事が的外れでもないだけに複雑な思いをする。
存在理由を無視するという事は、遥香という存在自体を無視しているようで気分が良いものではない。だからと言って目的を無視して良いという物でもないのだが。
「取り敢えず水瀬の事は学園長に保護観察と報告する。定光はポンコツを傍に置いてばったり出くわさないように注意しろよ」
「ああ。ポンコツ、頼むぞ」
『サダミツが私を置いていくような事がなければ対処しよう。――ただ疑問が一つある』
二人の視線を浴びながらポンコツは言う。
『水瀬遥香は何時サダミツの事を知ったのだ?』
「どういう意味だ?」
『『條々之束』や『織斑千冬』と違ってサダミツの名は一般人の中での知名度はないと言っても良い。だが彼女は定光のフルネームを知っていたぞ』
「そうだったか?」
記憶が朧げな二人の為に記録した音声をポンコツは再生する。
『「あれは―ーー―羨望だ。椿定光という」。――サダミツ、君は『水瀬遥香』と会った記憶はあるか?』
定光は記憶を振り返るが遥香と会ったと思い当たるような事は浮かび上がらない。
「いや…………ないはずだ。向こうが一方的に知っていたという話だと余計にな」
「ふぅ。水瀬の不可解さが増したな。直接問いただす以外調べようがないのも頭が痛い。学園長に再調査出来ないか提言してみる」
『ああ。サダミツの安全の為にも頼む』
その言葉で話を締めくくり、二人は入学式へと足を向けるのだった。