蝉の鳴き声が遠くの空気を震わせていた。
だが蝉の姿は見えなかった。
あるいは既に抜け殻だけを残し、昇天していたのかもしれない。
碇シンジは団地のベランダで洗濯物を干していた。
シャツとタオルが風に舞う。
彼の指先には洗濯バサミが絡みついている。
それが少し暑い。そして何よりだるい。
室内に戻ると、テーブルの上に封筒がある。差出人は特務機関ネルフ──父親の名前はない。
封筒の裏側を一度だけ見てから、彼は冷蔵庫を開けた。
麦茶のペットボトルを取り出し、そのまま口をつける。
喉が鳴る音が蝉の声に重なった。
封筒は未開封のまま隅に押しやられた。
玄関のチャイムが鳴る。まるでタイミングを見計らったように。
ドアを開けると、制服姿の少女がいた。
白い肌、赤い目。そして無表情。
「あなたが碇シンジくん」
綾波レイが言った。声は小さく、しかし拒絶を許さない圧があった。
「……君は?」
「綾波レイ。命令。迎えに来るようにと」
「それ、父さんの?」
「副司令」
なるほど、とシンジは思う。
父が命じたのではなく、副司令の独断というなら──多少は話が通じそうだ。
だが次の瞬間、彼女が言った。
「今すぐ出て。発進命令が下りるかもしれないから」
「え、戦闘あるの? 今、襲来?」
「わからない。ただ空が騒がしい」
レイが言うと確かに空の向こうで戦闘機のような音が響いていた。
だが蝉の鳴き声の方がまだ勝っている。
「着替えの時間はありますか?」
「十分なら」
その十分が戦争を左右するかもしれない──そんな風に言うが、彼女自身は微動だにしなかった。
結局、シンジは学校の鞄に何も詰めないまま、エレベーターに乗った。
途中、赤ん坊を抱えた主婦が「大変ねえ」と笑っていた。
シンジは曖昧に笑い返した。
エントランスを抜けると、ネルフの公用車がアイドリングをしていた。
運転席には黒スーツの男が乗っている。無言だ。
後部座席に並んで座る。綾波レイは車の振動に合わせて、わずかに身体を揺らしていた。
「君ってさ……普段、何してるの」
「命令を待っている」
「暇じゃない?」
「それが仕事」
なんというか、シンジは言葉を失った。
暇で仕事。命令を待ち、発進を待つ。
「会社みたいだね。潰れそうな会社」
「ネルフは倒産しない。国連直属だから」
彼女はそれだけを言った。
その言葉が、どこかで聞いた台詞と重なった。
喫茶店。カフェオレの氷。父の眼差し。
あの日、父は笑っていなかった。そして今日も父は迎えに来なかった。
「ねぇ、君は父さんを……信じてる?」
「信じる必要はないわ。命令に従うだけ」
沈黙。車のエンジン音と蝉の声だけが、シンジの中に残った。
使徒は、来なかった。
月曜日の正午。サイレンは鳴らなかった。
モニタールームには空白の空が映され、軌道上の監視衛星は沈黙している。
マヤは腕を組み、「こんな時に限って、冷蔵庫が壊れるのよね」と呟いた。
「結局、先月の警戒態勢は何だったんですか?」
「神のみぞ知るわ。あるいは……ゲンドウ司令の焦りかもね」
リツコはコーヒーにミルクを注ぎながら答える。
ネルフの備蓄は底をつき、今月からは「市民用レトルト」の支給が始まった。
広報担当が発行する『ネルフ月報』には、さも人道的支援であるかのように書かれていた。
一方で、国連軍と自衛隊は淡々と整備を進め、被災地への医療物資を安定供給し、仮設住宅の拡張と学童保育の支援体制まで整えていた。
そのせいか、世論はこう口にする。
「ネルフって、なんか大袈裟なだけで役に立ってないよね」
その評判を耳にした冬月副司令は、いつもの碁石を握ったまま言った。
「……市民は非常時にこそ平穏を求める。騒ぎ立てる我々は、むしろ不安の象徴なのだよ」
ゲンドウはその言葉を聞き流しながら、書類にサインをしていた。手元の一枚には第3適格者 再配属申請と書かれていた。
その翌朝。ネルフの正面ゲートに、嫌そうな顔の少年が現れた。
「……来たくなかったんだけど」
碇シンジ。言葉の通り足取りは重い。
首にはポータブル音楽プレイヤー、鞄の中身はほとんど空。
だが一応、呼び出しには応じた格好だ。
受付の女性職員が面倒そうに笑って言う。「まあまあ、倒産しない会社ですからね」
シンジは曖昧に笑った。
その笑いが乾いていることに、自分でも気づいていた。
昼。演習は延期。
予定されていた第5シェルター内での非常通路閉鎖訓練は中止となった。
時間が空いた。
「ラーメンでも食べない?」
綾波レイが言った。ネルフ第2食堂。
自販機が少し古びて、時折うなり声をあげる。
「君がラーメンなんて食べるのか?」
「命令がない時は自由時間。昼食は選べる」
「ふーん……」
シンジはメニュー表に迷っていた。綾波は即座に味噌を押した。
「早いね」
「無難だから」
自販機から湯気の立つカップがせり出してくる。
ふたりは並んで備え付けのカウンター席に腰掛けた。
「……こうしてると、戦争中って感じがしないね」
「今は、してない」
「まあ、そうだけどさ」
ふたりとも黙って麺をすする。ネギがふよふよと浮いている。
背後ではネルフ職員たちが「スイカ畑の地下水のpHが」と真面目な顔で話していた。
「なんで僕、戻ってきたんだろう」
「わからないの?」
「うん。なんとなく……断りきれなかっただけ」
綾波は、箸を止めずに言った。
「私は、あなたが来てくれて嬉しいと思う」
「……本気?」
「うん。ラーメン、ひとりで食べるより、あなたと食べる方が、少しだけ……美味しい」
シンジはしばらく何も言わなかった。ただ、レンゲを置いて微かに笑った。
「じゃあ、今度は塩にしよう。二人で」
ミサトは、食堂奥の窓際席で缶ビール片手にそれを見ていた。
勤務時間というのは言いっこなしで、どうせ使徒はこないと誰しもが思っている。
「……なんか、似てるわね。アレ」
「性格とかですか?」
隣に座るマヤが訊く。ミサトは首を傾げてから、軽く否定するように肩をすくめた。
「ううん。沈黙の仕方が、っていうか──お通夜かってくらい静かじゃない?」
「むしろ落ち着いて見えて、いいと思いますけど……」
「そう? あたしはもっと若者らしく、ラーメンをすすって、『くっそ熱っ!』って言って欲しいけどねえ」
ミサトはそう言って笑ったが、その視線は優しかった。
ラーメンを食べ終えた頃、ミサトはカウンター席に向かった。
「お疲れ〜。二人とも、仲良くラーメンしてたじゃない」
シンジは微妙な顔でスープを見つめ、綾波はカップを片づけていた。
「ミサトさんも、食べます?」
「ううん、ビールでお腹膨れちゃった」
「昼からですか……」
「いいのよ、どうせ今日も演習中止なんだから。お腹壊しても誰も怒らないわよ?」
綾波が小さく瞬きした。
「食中毒ですか?」
「そういう想定じゃないから! 真面目ね、あんた」
ミサトは笑ってから、ふとシンジを見つめた。
「ねぇ、シンジくん。あんた普段、何食べてんの?」
「……え?」
「レイちゃんは、もう分かるのよ。ミールキット派でしょ?」
「はい。栄養バランスが、整ってるから」
「だと思った。問題はこっち」
ミサトが親指でシンジを指す。まるで小学校の家庭訪問のようだった。
「え、えっと……冷凍パスタとか、カップ焼きそばとか……あ、サンドイッチも」
「ふーん……野菜、食べてないわね?」
「たまに、レタス入りのやつ買いますけど……」
「コンビニの1/8玉ね。はいはい、分かった。こりゃダメだ」
ミサトは面倒くさそうに、でもどこか楽しそうに言った。
「シンジくん、あんた、今夜うち来なさい」
「えっ」
唐突すぎる。
「うちのキッチン、最近ミサト家女子力UPキャンペーン中だから。レイちゃんも来る?」
「私は、招待されていません」
「じゃあ、今したわ。正式に。ほら、レイちゃんって、盛り付けだけやたら上手そうだし」
「……努力します」
シンジは少しだけ笑った。肩の力が抜けていた。
その日の夜、ミサトの部屋のキッチンでは、タマネギを切るシンジと、火加減を黙って見守る綾波レイがいた。
テレビではニュースキャスターが言っていた。
「本日も使徒の兆候は確認されませんでした。引き続き、国連および自衛隊による災害支援が継続中です」
静かな夜。穏やかな報道。炒め物の香りと、炊き立てのご飯の湯気。
誰も戦っていない。だが誰も完全に休んでいるわけでもなかった。
電子レンジの音が鳴った。炊きたての白米に、炒めたピーマンとベーコン。
ミサトの部屋にしては珍しく、テーブルの上が食事らしく整えられていた。
「ほら、シンジくん、遠慮しない。レイちゃんもね」
ミサトがエプロンを外して椅子に座る。シンジは「いただきます」と小さく言い、綾波も真似をする。
グラスに注がれた麦茶、冷蔵庫で冷やされたきゅうりの浅漬け。
そこには、確かに平和な食卓があった。
──コンコン。
ドアを叩く音がした。3人の動きが止まる。
「……宅配頼んでないよね?」
「複数の足音です」
レイの冷静な一言に、ミサトが慌てて立ち上がる。
ドアを開けると、白衣姿のリツコが立っていた。
そしてその後ろに──
「こんばんは。いい匂いがしたのでな」
冬月副司令が、さりげなくスーパーの袋を提げて立っていた。
「司令もこちらにおります」
振り返ると、無言でゲンドウが缶ビールと刺身盛り合わせを抱えていた。眼鏡が夜でも反射している。
「……やだ、職場の偉い人たちが、なんであたしの家で合宿始めてんのよ」
「リツコが誘ったのだよ。気晴らしになるかもと」
「気晴らしって……よりによって、うちで?」
ゲンドウは無言で冷蔵庫を開けた。勝手知ったる様子だった。
リツコは炊飯器を見て、「2合じゃ足りないわね」と呟いた。
数分後、ミサトの部屋のテーブルは若干キャパオーバー気味になっていた。
司令、副司令、技術部長、作戦部長、パイロット2名──つまり、ネルフ中枢が一室に集まっていた。
「この人数でパーティーって、ちょっとシュールすぎじゃない?」
ミサトがそう言いながら機嫌よく、缶ビールのプルタブを引く。
すぐ横ではリツコが、焼きナスを丁寧に盛っていた。
シンジはというと、炊飯器の前で給仕役にされていた。
綾波は静かに酢の物を小鉢に分けている。
「……この状況、なんて言えばいいのかな」
「異常事態下における臨時人間関係の形成。あるいは、疎結合な戦時共食」
「レイ、情緒が無いぞ。タコの内臓は要らないぞう……なんてな」
ゲンドウは刺身のタコを取りながら、言った。
「シンジ。今夜は話がある」
「……今じゃダメですか」
「いや、今がいい」
「そんな空気じゃないでしょ!」
ミサトが言ったが、ゲンドウは動じない。
冬月が苦笑しながら言う。
「……まあ、いいではないか。今夜は、ネルフも倒産しないと信じて、飲もう」
「そのジョーク、笑えませんよ、副司令」
リツコが冷酒を開けながら、苦い顔をする。
綾波は、なぜかタコの刺身をシンジの皿にそっと置いた。
「……いらない?」
「いや、ありがとう……」
窓の外では遠くで花火の音が聞こえていた。夏祭りの残り香かもしれない。
けれどこの部屋では、誰も花火を見ようとは言わなかった。
その代わり、冷蔵庫に詰められたものと、冷めていく味噌汁が、今夜の全てを物語っていた。
朝の光がレースのカーテンを透かして差し込んでいた。
ミサトの部屋。そこには寝息が交錯する、いびつな静寂があった。
テーブルの周りに敷かれた毛布と座布団、畳まれていないタオルケット。
ゲンドウは仰向けに寝ていた。肩に新聞がかかっていたが、内容は天気予報だけで、全国的に晴れときどき曇り。
冬月はソファで体育座りのような姿勢で居眠りしていた。目元に乗っているのは、湿布だった。
リツコはローテーブルに頬をつけて眠っていたが、朝の気配に目を開ける。
「……まずい。何時?」
腕時計を見る。7時43分。
ネルフの出勤時間には、すでに微妙な遅刻だ。
「出なきゃ。起きて、準備して、電源系統の点検して……」
立ち上がろうとしたリツコの足に、何かが引っかかった。
「……ビール缶?」
空き缶がコロコロと転がる。ミサトが寝返りを打ち、顔だけ出してぼんやりとこちらを見た。
「……んー……リツコ、もう起きるの?」
「ええ。出勤しないと。あなたも作戦部の朝会あるでしょ」
そのとき。
「……今日は休みにしよう」
無言だったゲンドウが、天井を見たまま口を開いた。
「おい、碇……」
冬月が声をかけようとしたが、すぐに続いた言葉で黙った。
「天候も問題ない。使徒の兆候もゼロ。現場は自動監視に任せる。……今は無為の効用を優先するべきだ」
「……でた、司令の屁理屈理論」
リツコが苦笑混じりに言う。ミサトは毛布を抱えたまま、くすくす笑った。
「でも……ありがたいわ。正直、朝から副司令の湿布を見たら出勤意欲ゼロよ」
「余計なお世話だ」
冬月が咳払いするが、表情に怒気はない。
ふわっとミサトが体を起こして頭を下げた。
「じゃあ……今日は、ありがたく休ませていただきます。司令。副司令」
有給か代休申請で。
「勝手にしろ」
「……ふたりとも、ネルフの上層部がここまで私生活ダダ漏れでいいのかな」
リツコが呆れて言うと、ミサトが得意気に笑う。
「人間味って大事なのよ。ね? シンジくん──」
シンジは、壁際の座布団にうつ伏せになったまま片目だけを開けていた。
起きた瞬間から騒がしい大人たちの声。
ビールの匂い、焼き魚の皿、湿布、新聞、脱ぎっぱなしの白衣。
「……だめだこいつら」
小さな声でつぶやいたが、誰にも聞こえなかった。
朝の光が、静かにリビングを照らしていた。
雑魚寝のままのネルフ中枢。彼らが地球を守っている。