ゆっくりと身体が沈んでいく感覚が、確かにした。
睡眠とは生きているもの全てが長い短いに関わらず必要とするもので、私自身も夜明けを待って、ゆるゆると落ちる瞼を閉じた。
―――ああ、今日は眠れる。
古来、人はサルだった。そのサルだった自分は魚だった。そうしていつの間にか知恵を身につけ、食物連鎖の頂点へと居座っている。
ただ、人はすぐ死ぬ。
息が止まれば死ぬ、打ち所が悪ければ死ぬ。生きるということは常に死と隣り合わせであることを忘れてはいけない。
三大欲求が満たせてない今、これは死に似た感覚と同じではないか。
胸が苦しくて、藻掻けど藻掻けど纏わりつく水分と服に、このままでは死んでしまうという感覚。慌てて何かを掴むとそれを引き寄せると同時に自分の身体が持ち上がった。
「がっは…おぅえ」
飲み込んだ水は押し上げられて空っぽの身体の中から溢れ出る。
辺りは暗く、光る水面を囲む岩の表面をぬらぬらと照らし出した。ひたひたと素足に冷たい感覚があり、足元を見ればつるつるに磨かれた石の道が続いている。
周りに水辺はさっき上がってきた池のようなものしかない。それ以外は妙に舗装された石畳と、生い茂る草。声を上げれば暗闇に捕まってしまいそうだ。
それでも答えを求めてひやりとした石の上を歩き続けた。
生き物の、声がしない。
だからこそ、自分が生きているのか、死んでいるのか、そのどちらとも検討がつかない。
ある日母方の祖母が「三途の川を渡るには六文銭を持っていかないと」と言っていた。子供ながらに聞いていたので六文銭とは何ぞかという方が印象深い。
時代はお札を求めている。そして私が這い出てきたのは川ではなく池だ。
しばらく進むと大きな門が顔を出した。高さは160センチ程度の私の三倍ほどあり、横幅なんて人が何人横になって眠れるだろう。いや、こんなところで眠りたくなんてないだろうけれど。
「すいません」
夜も更けている。なるべく迷惑にならない程度の声で家主を呼ぶ。いやしかし、迷惑にならない程度の声では私は最終的にここで途方にくれ、寒さも凌げず野垂れ死んでしまうのではないか。
「す、すいません!誰か、い…」
先ほどより少し大きめの声を上げると、門はギギ…と軋みながら開いた。大きい上に自動で開く、なんてお金持ちなんだろうか。
一先ず「失礼します」と小声で声を掛け、門の柱の上で私を睨むカラスに気づいた。
「お休み中すみません…」
目で訴えかけられているような気がして、すごすごとその門を潜る。その瞬間、開くよりずっと勢いよく扉が閉まった。
ガシャンッという音に心臓も身体も飛び上がる。
さっきのカラスに視線を移すと、早く行けとでも言うように嘴で前を指されてしまった。
門を超えて少し進むと倉庫くらいの大きさ(あくまで一般家庭の、だが)の小屋がいくつか現れた。どこを目指しているつもりもないが、まるで寄り道でもするように、わたしはその小屋一軒一軒の扉に耳を押し当てた。
最初の二軒の扉からは何も聞こえないが、三軒目の小屋の扉に耳を当てると、中からはこそこそと話し声が聞こえる。
「―――森…ら……るよ」
「主…が……生……」
正直半分も会話が聞こえないので私は早々に諦めて、まだまだ続くであろう道のりをゆっくりと歩いていく。門を潜った後も相変わらず暗く鬱蒼とした中を進んでいった。最早、私にはそれしかない。
更にしばらく進むと荘厳な城が大きな顔を覗かせた。まるで中世ヨーロッパを彷彿とさせるその出で立ちに私は思わず「おお…」と声を漏らす。
ただ城内に入ろうにも人影はなく、辺りをキョロキョロとしていると、背後から「おい」と渋い声が聞こえて振り向いた。ここに来て初めて人に会う。随分長い道のりを歩いてきたような気がしていたけれど、ようやく言葉の通じる者に会えた。
しかし振り向いた先に人など居らず、壁に反射してもう一度声が聞こえた。
「何をしてる、ここだ」
「………カラスですよね」
「そうだ。ヘムシュタインさんと呼べ」
人間、そう付け加えるとヘムシュタインさんは優雅に歩き出した。そう、相手はカラスだ。私が人だと思って振り向いた先にはカラスがいた。おそらくだが、門の柱にいた目つきの悪いカラスはヘムシュタインさんだ。
「さっき門の上で…」
「そうだ。のろまなお前が大きな声で主を呼ぶのが耐えられなかった。とはいえ、お前は生きている人間だからな」
はて。生きている人間?
ここで私の頭の中に疑問符が浮かぶ。ここには生きている人間は私しかいないのだろうか。それともヘムシュタインさんがカラスだから単にそう呼んだだけなのだろうか。
「ここは冥界の入り口だ。本来ならば生きている人間はここまでたどり着けないが、お前は生きている。名は何という」
「あ、千田川、」
「せんだがわ…?随分と長い名前だな」
「ヘムシュタインさん程では…」
「ともかく、センダガワ。ここまでたどり着いたのも何かの縁だ。主にお会いできることを光栄に思え」
ヘムシュタインさんは大きな扉の前で立ち止まると、翼を広げて大声を上げた。
「我が主ペルセポネー様!人間をお連れ致しました!」
「うわあ、声でか…」
ギィ…と開いた扉の先は長く長く続いており、その道の端端に青い火が灯る。青い炎は綺麗だが、その温度は赤い炎より高い。ということはここに灯っている炎はめちゃくちゃ熱いということだろう。
なんて夢のないことを考えながら赤いカーペットの上を歩く。ヘムシュタインさん、ペルセポネーって言ってたな。
そこで私の頭の中は疑問符で埋め尽くされる。ペルセポネーと言えば冥府の王の妻。冥府の王女様だ。
そしてここには生きている人間がたどり着けない…。
「あっああああ…」
「恐れを為したかセンダガワ」
「だって、あの、ペルセポネーって…」
「馬鹿者!”様”を忘れるな!!」
どこまでも続いていきそうな絨毯の上を素足で歩く。見た目も高級そのものだというのに、肌触りも最高だ。ここならいつまででも歩いていたい。
そう思ったのも束の間、目の前に大きな椅子と大きな足。見上げれば見上げるほど暗闇。
「あ…」
大きい、人だ。
その時、ヘムシュタインさんが大きな声で「ペルセポネー様!」と呼ぶ。それを聞いて改めてこの巨人がペルセポネーなのだと確信した。ヘムシュタインさんの声に応えるように足の親指が動いて、けだるげな声で「はいはい」と返事が返ってきた。
「この人間の生者、センダガワです」
「せ、千田川…コヨミです…」
「お前、どっちが名前だ」
ズイと暗闇から降りてきた顔は端整で、本当に美術館で見る彫刻のようだ。肌は白く、髪は黒檀のように薄黒い。しかしながら大きい。危うく食べられてしまいそうで、私は大慌てで「コヨミです!!コヨミが名前です!!」と絶叫してしまった。
「そうか、コヨミ」
満足そうに彼女は顔を引くと、これまでの経緯を話す羽目になった。ただ私は眠っただけだと、言うのに。
「ともあれコヨミ。お前は選ばれた。これからは安易に死す事、命を投げうることは叶わない」
彼女の顔はもう見えない暗闇にあるが、それは笑っているような声色だった。
「この地に足を踏み入れたお前は、もう不死身のようなものだからな」
小屋の住人の会話を思い出した。それは断片的だが、確かにそう言ったのだ。どくどくと血が廻る。不死身とは、どういうことなのか。私はまだ、生きているんじゃなかったのか。
「―――森から生者が来るよ」
「主様がまた生贄を…」
森から来た生者は生贄になる…?
私の頭はぐるぐると回るばかりで、身体はぴたりと動けなくなった―――。