最終話 未踏峰 ←今ここ

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最終話 未踏峰 ←今ここ


未踏峰

 時々考えることがある。ここなちゃんの見ている景色は、私とは全く違うものなのかもしれないって。富士山に登った時から、もしかしたらとずっと思っていた。吐いた息さえ凍り付くこの未踏峰でさえ、わずかに顔をしかめることのない彼女の姿。私はそんなここなちゃんを、ただ神々しいとしか表現することができない。

 彼女に対しては、嫉妬したり卑屈になることはずっと昔にやめてしまった。憧れる気持ちさえ抱いていないのかもしれない。この高揚は、多分人が人に抱くものじゃなくて、きっとそれを越えたもの。だから彼女は、私にとって神様と同じ存在かも知れなかった。

 

「あおいさん、聞こえますか、あおいさん」

 

 薄れゆく意識の中で、彼女のはりのあるはっきりした声がこだましている。声はやがて全身の血液に溶け込んで、意識と共に忘れていた耐え難い疲労感と緊張を体中に巡らせた。私はまだ生きている。彼女の声はその証だ。

 

「あと少しです。この壁を登り切ったとき、私達は、人類がまだ辿り着いたことのない世界に立っているんです」

 

 ここなちゃんは、分厚いフードの上から、左手でペチペチと私の頬を叩いた。氷に突き刺したピッケルを握りしめる右手だけで、全体重を支えながら。彼女が作ってくれた足場でわずかな休息をとるうちに、私は意識を失ってしまったようだ。

 

「ごめんね、ここなちゃん。もうこれ以上は進めないよ。息を吸い込むと肺の中まで凍っちゃいそうだし、それでもがんばって深呼吸をしても、頭がぼーっとしてくるんだ。一歩でも上に登れば、気を失っちゃうかも」

 

 夢と現実の境界が曖昧になりつつあった。根源的な疑問が脳裏をかすめる。私は今、本当に山に登っているんだろうかと。

 何もかもが想像を絶する氷の世界。そこは生けとし生けるものを拒絶する神の座。人が生きるために必要なあらゆるものが不足している。加えてこの数時間は、ほんの一瞬でも気を緩めれば飛んでしまいそうな強風が吹きつけていた。まるで、地球が私の存在を拒絶するかのようで。

 全てが静止した白の中で、ここなちゃんという生命だけが、唯一私の存在を温かに肯定し維持してくれている。あの日、頂上(ヒラリーステップ)で"山になった"はずのここなちゃんだけが。

 

「弱気になっちゃダメです。思い出してください。あおいさんは、どうして山に登るんですか?」

 

「山に……上る……理由?」

 

 私は山になんて上りたくなかった。あの日、ひなたに誘われなければ、きっと一生山に登ることはなかった。山に登りたいと思うことだってなかったはず。だけどひなたは、強引に私を山に連れて行った。天覧山、高尾山、三ツ峠山、富士山……そして約束の山、谷川岳。それから、私達4人は数えきれない山を登って来た。インドア派で一人遊びばかりしていた私が、いつの間にか"登山家"と呼ばれるようになっていた。

 七大陸最後にして地球の頂点、エベレストの頂に立った日。それは私達4人の夢が叶った最高の日で、だけどここなちゃんが消えてしまった日でもある。エベレストを降りた日、私は二度と山に登らないと誓った。それでも私は今、未踏峰の北壁にピッケルを突き刺している。幾度となく味わった死と生の境目に、性懲りもなく突き進んでいく。ひなたも、かえでさんも、あれ以来山には上らなくなってしまった。一番山に消極的だった私だけが、この地獄へと舞い戻ったんだ。

 

「楽しい……から……」

 

 声を出すだけで、心臓が止まってしまいそうだった。死は私にとっては、この苦痛から救われるための甘美な誘惑にさえなっていた。それでも何かが、私の意識を地上に繋ぎとめていた。私以外の誰かが、私の心臓を脈動させていた。

 頭と足が痛い。いっそ、死んでしまいたい。なのにここなちゃんを見ていると、何で楽しいって思えるんだろう。まだ生きていたいって、思えるんだろう。ああ……やっと思い出した。それは私達が交わした最後の約束。私が……未踏峰(ここ)に居る理由。山に登る理由。

 

「それ……と……朝日を見に来たんだ……ひなたと……かえでさんと……ここなちゃんとの約束で」

 

 誰も見たことのない朝日を、誰も辿り着いたこともない山の上から見る。その願いを、3人が果たせなくなってしまった夢をかなえるために、私はもう一度山に上ろうと思ったんだ。

 

「あおいさん、私と一緒に見に行きましょう! 誰も見たことがない、世界で最初の朝日を! きっとそれは、世界で一番綺麗で、今まで見たどんな朝日よりもまぶしいご来光です」

 

 そう言うと、ここなちゃんは、右手もピッケルから放して、両手を私の頬に添えた。重さを感じなかった。だけどここなちゃんは、確かに私の前に、燃えるような血潮として存在していた。その姿はあるいは、全ての登山家の夢が、ここなちゃんという形をとって顕れたようで。

 

 彼女はそのまま私に顔を寄せる。温かな唇が、凍傷を起し始めた唇をじんわりと溶かす。送り込まれた灼熱の空気が、死にかけている肺と気管を蘇らせる。復活した肺から取り込まれた濃い酸素が、神経細胞を猛烈な勢いで発火させる。夢じゃない。ここなちゃんは、"居る"んだ。

 

「うん! ここなちゃん、登ろっ!」

  

 




ごめんなさい。

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