「ただいまー……」
「にーちゃ!お帰り!」
「おっと。ただいま、華蓮。まだ起きてたのか」
夜の11時。24時間表記だと23時。
昼間学校を早退してお勤めに向かい、そのまま3件連続で各地の特異点を沈めてきたのだが、その沈めた特異点の難易度や、地理的な関係から時間がかかってしまい、こんな時間に帰宅することになってしまったのだ。
今回は黄泉と神楽はお休みで、俺と岩端さんのツートップであとは所謂下っ端の方々(言い方は悪いが)を引き連れて鎮圧に向かった。
俺は対策室の息のかかった高校に通っていることもあり、神楽や黄泉よりも学校側に融通が利きやすい。
加えて成績も悪くないため、休んでも問題ないだろうと室長が判断し、駆り出される回数と頻度が神楽たちより結構多いのだ。
あの女狐は俺には結構無茶を言ってきやがるし、今回も俺一人で何とかなるような内容であったために二人には待機をしてもらって俺だけ出動したのだ。
……それにしても最近出動が多すぎる。
特に俺が出勤する時に難しい案件が重なりすぎなのだ。前々から思っていたことだが、俺はとことん運がないらしい。せめて人並みにラックが欲しいものだ。
「にーちゃ、あそぼ」
「こら華蓮。もう寝なきゃダメだろ。明日起きれなくなるぞ」
俺が玄関をくぐるなりタックルをかましてきて俺にしがみついたままになっている華蓮にそう言う。
こんな時間まで起きているとは珍しい。長く起きていても大体8時には完全に意識をシャットダウンしているのが普通だというのに、こんな時間まで起きているなんてなかなかないことだ。
「おかえりなさい、凛。今日も遅かったのね」
「ただいま。結構面倒な案件で長くなっちゃったよ」
華蓮の遊んで攻撃を華麗にスルーしていると、台所から母親が現れた。
華蓮に合わせて大体いつも早く寝ているのだが、俺が帰ってこないときはこうやって毎回起きて待っていてくれているのだ。
寝てていいと何度も言っているのだが、毎回ご飯を温めて待っていてくれる。
……うちの母親は時折張り倒してしまいたくなるくらいのアホの子になることがあるのだが、それを抜かせばとんでもなくできた母親である。アホの子ではあるが。
「ご飯どうする?残してあるけど」
「食べる食べる。晩飯食べたのは食べたんだけど、腹減っちゃった」
腰に抱き着いて宙ぶらりんになっている華蓮を引き連れて台所に向かう。普通なら居間で食べるところだが、この時間だし、何時も遅くなった時は台所で食べているのだ。
うちは金持ちだし、台所もちゃんとご飯を食べれるスペースがあるので、そこら辺は地主であることに感謝したい。
「そういやなんで華蓮この時間まで起きてんの?お母さんが起きてるから寝てない感じ?」
「違う違う。今日鈴木さんの所に遊びに行ったんだけど、そこで疲れて昼間たっぷり寝ちゃったの。それで今目が冴えてるみたい」
「あーなるほど。鈴木さん好きだもんね、華蓮」
腰に抱き着いて離れない華蓮のほっぺをこねくり回しながら母と会話をする。
……なんと柔らかくしっとりとした肌なのだろう。神楽のほっぺとかも柔らかくてすべすべなのだが、この赤子の肌はレベルが違う。この世の神秘と言ってもいいだろう。いつまでもこねくり回したくなってしまう。
ちなみに鈴木さんは近所のおじいちゃんのことだ。孫が、というより子供自体がいないらしく、華蓮のことを凄い可愛がってくれるのだ。
俺も小さいころは結構可愛がってもらったものであるが、やっぱり孫くらいの女の子はお爺ちゃんにとって特別なのだろう。ものっそい可愛がってもらっている。華蓮も懐いているし、信頼できるご近所さんである。
「凛、どのくらい食べる?夜遅いし、少なめにしようか?」
「いや、大盛りでお願いします」
コンビニのおにぎりなどで晩飯を補給した程度で俺の消費エネルギーが補えるはずもなく、俺は今お腹がペコペコなのだ。深夜帯に大量に食べるのは体に非常に悪いとわかってはいるが、大食漢な俺としては食べない方が体に悪い。
「にーちゃ!バイク乗りたい!」
「だーめ。夜遅いし、まだ危ないからダメ」
「じゃ絵本!」
「バイクはあっさり引き下がるんだな。いいよ、ご飯食べ終わったら読んであげる。俺の部屋おいで」
中学までは両親と一緒に寝ていたものだが、高校に入ってからはようやく個室が与えられて、そこで寝るようになった。
俺が、というより母親が俺離れできていなかったのだが、親父と俺の説得もあって、高校になってからようやく一人で就寝できるようになったのだ。
華蓮は母と一緒に寝ているのだが、時折俺の布団に潜り込んでくるときがある。今回も多分そうなるだろう。
「そういや親父は?もうおねむ?」
「おねむって。明日早いみたいでもう寝てるよ。10時くらいまでは凛のこと待ってたんだけどね」
そういってカレーをくるくるかき混ぜる母親。
結構この人だけが過保護かと思いきや、親父も親父で過保護なのだ。自分が息子を痛めつける分には自分の管轄だから問題ないらしいが、自分の目の届かないところで傷つくのがどうしても嫌らしい。
本当に俺は今世でも親に恵まれたものだ。
親父とは結構喧嘩もするが、やはりいい親である。
「にーちゃ絵本」
「華蓮ちょっと待ってね。ご飯まだ食べてないんだ俺」
「ホントに華蓮はお兄ちゃんっ子ね。……そうだ凛、お風呂まだでしょ?華蓮もまだだったりするから、一緒に入れてあげてくれない?」
「あいよ。ってかまだお風呂入ってなかったのか」
「凛が帰ってくるまで入らないってダダこねちゃって。だからお願いね」
本当に愛いやつである。お風呂用の絵本が多量にあったはずなのでそれを読んであげよう。
……ちなみにその絵本は黄泉からの寄贈だったりする。時折俺の家に遊びに来た際に、華蓮が泣きながら帰らないでと駄々をこねるのでお風呂に入れてお茶を濁してくれたりしているのだ。
奴自身も楽しんでいるらしく、俺の家に来るときに防水の絵本を結構買ってくるために俺の家には相当な絵本の蓄積がある。
風呂上がりの黒髪美少女を眺めることができるという役得環境下にあるわけだが、こればかりは華蓮に感謝してもしきれない。
安達にこの話をしたときはコンパスが飛んできたくらいだ。黄泉が俺を完全に弟枠として見ていないことを嘆かなければならないというオプション付きではあるため、手放しで喜べはしないのだが。
「食べ終わったらゆっくりあったまってきなさい。今お風呂温めてくるから」
「ありがと。んじゃいただきます」
目の前に運ばれてきたカレーに意気揚々と俺はスプーンをつける。
我が家のカレーはルーを使わずにスパイスを使って作っているため、非常においしい。下手な店に行くよりも母親のカレーを食べる方がおいしかったりするのだ。
……料理のうまい母親を持って俺は幸せ者である。
「ひとくちちょうだい!」
「これは辛いからダメ。もう夜遅いんだから我慢しなさい」
おねだりしてくる華蓮をかわしつつ、カレーを口に運ぶ。
……幸せである。口の中から幸福感があふれてくるとはこのことだ。
家族の作った料理ながら最高の評価を下し、舌鼓を打ちながらそれを味わい、沸かされた風呂に華蓮と入って、俺は今日一日を終えたのであった。
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「ういーっす。ってあれ?いい匂いがする」
とある日。俺が対策室の扉をくぐると、女性らしい何とも香しい匂いが俺の鼻に届いてきた。
デパートなどでよくある香水コーナーの香り。俺は香水の匂いが結構好きなタイプの人間であるため、この匂いは非常に心地の良いものだった。
「ほら、凛ちゃんも言ってる!それに、ナブーさんの鼻は誤魔化せないよー」
おや?と思う。神楽が黄泉を壁際に追い詰め、じとっとした目で黄泉に迫っている。
それに黄泉からするいつもとは違ういい匂い。いつもどうしてそんなにいい匂いがするのかよくわからないほど女の子らしいいい匂いを漂わせている黄泉ではあるが、今回はそれに混ざって人工的ないい匂いもしている。
……ははぁ。これはあれだ。あの一幕だ。平和の象徴的なあれだ。
「……んぅ。……これ、さっき買ったの」
神楽の追及に、年相応の少女らしく恥じらいながら、さっき買ったという香水を取り出す黄泉。
なかなかセンスがいい香りの香水を買ったものだ。厭味ったらしくなく、それでいてしっかり主張するそんな香り。うん、俺的にはポイントが高い。
俺としてはもうそこで追及を終えてもいいのでは?と思ったのだが、神楽の追及はそれで終わらない。
「な、なによ!」
香水をカミングアウトした黄泉により顔を近づけてそのじとっとした視線を強く黄泉に向ける。
「……睫毛。いつもより長くなってる」
「……!いいじゃない!私だってお化粧くらいするわよ!」
「わかった!今日は紀ちゃんとデートだ!」
「違います!そんな予定はありません!」
神楽の指摘に真っ赤になりながらも反論する黄泉。
……なんと微笑ましき光景だろう。おっさん臭い感想ではあるが、これぞお洒落を覚えたての思春期女子の会話といったところだ。
「ちーっす」
「あ、紀ちゃん!」
なんともまあ女子高生と女子中学生らしい会話。そんな微笑ましい光景が繰り広げられている中、それをぶち壊す予定の、最高に空気の読めない男が入ってきた。
「……あれ?くっさくないか?」
「……!!」
とても信じられないレベルの爆弾発言。
顔を赤くして視線を紀さんからそむける黄泉。どんな感情が渦巻いているのか一瞬ではわからないが、少なくとも羞恥とその他もろもろの感情が入っているだろう表情だった。
「なんだこれ。化粧くさ」
空気が死んだ。それはそれは見事なまでに。死を直接見ることのできる魔眼であってもここまで見事に空気を死なせることなど出来やしないだろうという程の空気の死に方であった。
広辞苑に《飯綱紀之:空気が読めない男の意》として乗せたくなるほどの空気の読めなさ。まさに空気が読めない男の中の男。いや、あのタイミングで入ってきて空気を読むのは結構むずかしいから、間の悪い男の中の男とでも言うべきだろうか。
俺は人生を二回歩んでいて、合計すると40年近くなるわけだが、ここまで空気が凍った瞬間は経験したことがなかった。
「あ、ああ、それ私!ほら!これ!」
やるときはやる子、土宮神楽がすかさずフォローに入る。
……皆、言われずともわかっていた。黄泉が化粧をしてきたのはこの
それを誰よりわかっていた神楽は即座に姉のフォローに入ったのだ。
しかも神楽がその匂いをまとっていないことがばれない様に自分にスリープッシュくらいそのコロンを吹きかけるという気の利きようだ。
……出来る子すぎる。この瞬間、俺は知っている展開ながら神楽に心よりの賛辞を心の中で送っていた。
「なんだ神楽か。仕事場なんだからそんなもん持ち込むなよ」
苦笑いをしながら神楽にそういう紀さん……いや、紀之。この際このダメ男に敬称なんぞいるものか。
神楽のナイスフォローに気を取られてはいたが、ふと見るとコーヒーメーカーの近くになんともいえぬ無表情で近づいていた黄泉が、紀之の言葉に一瞬むっとした表情を見せる。
……そらあ神楽がフォローしてくれたっていっても言われてるのは自分のことなのだからいらっとも来るだろう。
その黄泉の様子に、ビクッとしてしまったのは内緒である。
「うちの家系は鼻が敏感だからさ」
「は、はーい」
ただ自然と煽るだけではなく、管狐がくしゃみを一発するという煽りオプション付きだ。この男は本当にダメな野郎だと俺の中で株がストップ安となった。
神楽はコーヒーを入れている黄泉の方をチラチラと伺いながら何とも言えぬ表情になっている。……というより、神楽だけじゃなくてここにいる対策室の面々が全員そんな表情となっていた。
神楽が一番きょどってはいるが、俺も似たようなものだろう。
「神楽、香水の使い方しらないだろ」
「ふぇい!?」
「あんまり付けすぎると、子供がはしゃいでいるみたいでみっともないぞ」
こいつ狙ってやってんじゃないだろうなと思う程的確に煽っていく飯綱紀之。
イラッとした黄泉の表情に神楽は冷や汗を流し、俺たち男衆は見ていられず下を向いてしまう。
「霧の中を潜るだけでいいんだ。あんまり付けすぎると、厚化粧のおばさんみたいな匂いになっちまうからな」
はっはっはと高笑いする飯綱紀之。
煽り検定一級の資格を俺直々に認定してあげたい。
何高らかに笑ってやがんだてめえは……!というのが何やらアツアツのコーヒーを準備している黄泉に気が付かず、神楽の頭を撫でている男に対する俺たち対策室の面々の総意であった。
朗らかな、なんの邪気もないような天真爛漫な笑み。
多分この男は本当になんの悪気もないのだろう。香水をつけているのは神楽だと本気で思っているし、アドバイスも的確なものをユーモアを交えてしてあげたと思っているに違いない。
だが、当然そんなユーモアは
そのとんでもない熱さを、発する大量の湯気が高らかに主張する黒い液体が、満面の笑みに降り注がれた。
「うおわっちい!!!!あちゃちゃちゃちゃちゃ!!!うお、っくお……!」
「ごめん、こぼした」
((((うっわぁ……。でも同情出来ねえ))))
地面を転がる紀之を、まるでごみでも見るかのような視線を向けながら見下ろす黄泉を見て、俺たち対策室の面々は寸分たがわずにそう心で呟いた。
その惨状を目の前で見ていた神楽に至っては顔面蒼白になってしまっている。俺らも顔面蒼白とはいわずとも全員同じような表情をしていた。
「うそつけぇ!お前なんか俺に恨みでもあるのか!」
「別に」
絶対零度以下の温度ってあるんじゃないの?と思わせるそんな心の底から凍ってしまいそうな黄泉の声。
カテゴリーBを三体相手取った時よりも俺の体が震えているのは気のせいではないだろう。
「何もないのに人にコーヒーかけるのか、お前は!」
何もなくないからコーヒーをかけられているわけだが。
そしてこの愚かな男はコーヒーをかけられた腹いせとばかりに、止せばいいのに気が付いた
「……っくう。……ん?なんだ、これお前の匂いかよ」
「……!!」
「自分で匂いまき散らしといて、神楽のせいにするなよ」
「してないわよ!」
うむ、確かにしていない。
いつの間にかコーヒーの被害から逃げてきた管狐を頭に乗せておろおろしている少女が勝手にやったことだ。
「でも、厚化粧してるのはホントだろ?」
「……!」
黄泉が手に持った何かを飯綱紀之に放る。
「おっと」
しかし相手は仮にも一流クラスに位置する退魔師。その程度の攻撃、食らうことなどなく軽く受け止めて見せる。
……受け止めない方が良かったかもしれないけどね。
「……あったま来た……!」
投げつけられたコーヒーミルクを握りつぶしてしまったことによって、顔と掌がべっとべとになってしまった飯綱紀之が喧嘩腰にそう発言する。
「頭に来たら、なんだって言うの?」
「あー?なんだと思う?」
悪のヒロインとして飯を食っていけそうな声色と視線で乱紅蓮を召喚する黄泉に、猛りながら管狐を大量に召喚する紀之。
両方とも悪役としてやっていけそうな迫力だ。
流石の俺もあの間に割って入って喧嘩を止めたくはない。ぶっちゃけ怖い。
「凛ちゃん、なんとかしてよー!」
「無理を言うな神楽。俺も怖いんだ」
いつの間にか俺の後ろに避難していた神楽がそう無茶ぶりをしてくる。
こいつは俺に死ねと言っているのだろうか。この間に入るとかムリゲーすぎるだろ。三途河を二体相手取る方が可愛いような雰囲気だというのに。
それにどちらかというと俺は黄泉側なので、参戦したら紀之vs俺と黄泉という構図になるだろう。そんなことになったら環境省のこの建物はぶっ壊れてしまうに違いない。
俺がいることなど流れにはなんの影響もないと雄弁に主張するかのごとく、喰霊-零-と同じ流れで火花を散らす二人。
……こええ。特に黄泉の目が怖すぎる。あれは人を殺せる目だ。俺が言うんだから間違いない。下手したら紀之死ぬぞこれ。
アニメを見ていてもかなりの緊迫感ではあったが、現実はこんな緊迫してやがったのかと思わざるを得ない。誰も動けなかったのが納得だ。
一触即発の雰囲気が流れる。東西冷戦なんて目じゃない緊迫感だ。
多分数秒のことだったとは思うのだが、見ているこっちからするともっと長く感じられた。
これは俺が犠牲になるしかないか?などと緊張していたからだろう。
「はいはい。事務所で霊獣を出さない。二人とも乱ちゃんとチビちゃん仕舞って仕舞って」
「神宮司室長ー!」
「「ナブー……」」
いつも無茶ぶりをしてくる室長が、何よりも神々しく見えたのであった。
五話は個人的にすごい好きなシーンです。