「―――は?」
突然、世界が斜めに傾いた。自分の口から出たとは思えない間抜けな声が、まるで他人事のように耳に響く。その瞬間、足元から崩れ落ちるような感覚に襲われ、失われる平衡感覚。
―――なにか喰らった?いや、これは……。
カテゴリーCの怨霊の打撃を避けようと、床を蹴って横に跳ぶ。そのはずだった。だが足に力を入れた瞬間、まるで酔っ払いのように視界が激しく揺らいだ。膝がガクガクと震え、立っているのがやっとの状態。
必死に思考を回そうとするが、頭の中に霧がかかったように思考がまとまらない。体の制御も全くままならない。手足が自分のものではないような、妙な浮遊感。
グニャリと歪んだ視界の中、怨霊の巨大な腕が振り下ろされるのが見えた。それでも退魔師としての本能だけは働く。両手を頭上に交差させ、必死にガードの体勢を取る。
ゴスッ――腕に響く鈍い衝撃。骨まで響く重い一撃。それでも致命傷は避けられた。上手くガード出来たとホッとするのと同時に、まるでスイッチを切られたように視界が一気に暗くなっていく感覚に襲われた。
ダメだ……戦場で意識を飛ばすなんて……。根性で持ち直そうと歯を食いしばるが、もはやその気力すら底を突いていた。膝から崩れ落ちそうになる体を支えきれない。
「凛!」
遠くから聞こえる冥さんの鋭い声。普段の冷静な彼女からは想像できないほど、切羽詰まった響きが含まれていた。
視界がどんどんブラックアウトしていく。意識の糸が細くなり、やがて完全に途切れた。
最後に感じたのは、自分に向かって駆け寄る足音と、冥さんの焦燥に満ちた声だった。
---
「……意識が戻ったようですね」
薄っすらと目を開けると、見覚えのある環境省の医務室の天井が見えた。白い蛍光灯の光が眩しくて、思わず目を細める。頭がぼんやりとして、まだ完全に覚醒していない感覚がある。体が鉛のように重い。
「ここは……」
「環境省の医務室です。気分はいかがですか?」
冥さんの声が、いつもより優しく響く。振り返ると、心配そうな表情を浮かべた冥さんと室長、二階堂が椅子に座ってこちらを見ていた。三人とも普段とは違う、明らかに心配している表情を浮かべている。室長はともかく、普段はクールな冥さんと、いつも皮肉っぽい二階堂まで心配そうな表情をしているのが珍しい。
「良くはないですね……。あの怨霊は?」
「片付けました。あなたが気を失った後、私が処理しましたから大丈夫です」
冥さんの声に、僅かな安堵の響きが混じっているのを感じる。俺が倒れた時、相当焦ったのだろうか。
「そうですか……すみません、迷惑をかけて」
起き上がろうとすると、軽くめまいがした。世界がぐるりと回るような感覚。まだ本調子ではないらしい。ベッドの縁に手をついて体を支える。
「……おっと」
「無理をしてはダメです。医師の話では、極度の疲労と睡眠不足が原因とのことでした」
冥さんが立ち上がって、俺の肩を優しく押さえる。
「疲労ですか。聞き慣れない言葉っすね」
軽口を叩いてみるが、声に力がない。自分でも分かるほど疲れ切っているらしい。
「この一週間で、まともに睡眠を取れていたのは何日ありますか?」
二階堂の問いかけに、考えてみる。確かにここ最近は、ほとんど毎日遅くまで作業をしていた。1週間どころか3週間ぐらいは睡眠時間も2、3時間程度だった気がする。食事も適当に済ませることが多かった。
若い体だから無理できるだろうと酷使していたが、流石にガタが来たか。
「……あまり覚えてませんね」
そう曖昧に答えると、二階堂が深いため息をついて、やれやれといった表情を浮かべる。室長と二階堂さんからは再三休めと言われていたが、無理くり現場に出ていたので、「だから言ったでしょう」という感じなのだろう。
「諌山黄泉のカバーと言えども流石に働きすぎかと。いい加減に休息を取ってはどうです?」
「そうねぇ。前々から言ってるけど、流石に凛ちゃん無理しすぎよ。若いからって無茶と無理は違うのよ?」
いつもの生真面目な口調ではなくやや優しめな声を出す桐さん。それに同調して室長が心配そうに眉を寄せる。……桐さんと冥さんには嫌味の一つでも言われると思ったが、ここまでガチ心配されるとは。……流石に無理しすぎたか。
「凛ちゃんは今日もう帰ること。この後仕事なんてしちゃ絶対にダメよ」
「聞いての通り、神宮寺室長からも、今日は絶対に帰って休むようにと指示が出ています」
「……後処理とか残ってると思うんですが」
「それは明日以降でも大丈夫です。今のあなたが無理をしても、かえって迷惑をかけることになりかねません」
そうピシャっと言い放つ二階堂桐。言葉は厳しいが的確だった。実際、今日の失態がそれを証明している。戦闘中に倒れるなんて、退魔師として最低の失態だ。
「……わかりました。今日は帰ります。俺のバイクの鍵は……」
本当に反省すべき点だし、ここは素直に受け取って反省しよう。
お言葉に従ってさっさと帰ってしっかり休もうと思い、ポケットを探る。いつものバイクの鍵を取り出そうとして――見つからない。
「あれ?鍵が……」
「バイクでしたら、まだ現場に残っています」
二階堂が説明する。
「あなたは倒れてすぐ車で運ばれましたから。現場の撤収時に回収予定ですが、一時的に放置状態です」
「あーそうか……」
そりゃ運転手である俺が別の手段で運ばれてるんだ。あんな1000CCある化け物バイクを簡単に運べるわけもないし、放置だよな。
今日は紀さんがジープに乗って移動してたはずなので、帰り持ってきてくれることを期待しよう。
バイクがないとなると、帰り方を考える必要がある。
「ご両親に迎えに来てもらうのはどうです?まだ貴方が倒れた件について連絡していませんので、私の方でかけておきますが」
「名案ね桐ちゃん。そうしましょう」
室長が提案するが、俺は首を振る。
「いえ、今日は運転手の人が休みで、親父はもう寝てると思います。母親は運転ができないんですよ」
「あら、そうなの?」
室長が困ったような顔をする。確かにもう11時だし、家族を起こして迎えに来てもらうのは申し訳ない。
「んじゃタクシーでも使うかぁ。経費はいいです。俺の戒めなんで自腹切りますよ」
そう言いかけた時、冥さんが口を開く。
「では、私がお送りします」
その言葉に、医務室に一瞬の静寂が流れる。
二階堂が僅かに眉を上げ、室長も少し驚いたような表情を見せる。俺も思わず冥さんを見つめてしまう。
「あら……冥ちゃん」
室長が少し戸惑ったような声を出す。
「対策室の手伝いをしてもらっている上に、凛ちゃんの家まで送ってもらうなんてホント失礼なんだけど……お願いしても良いかしら?一人で帰すわけにもいかないし」
室長の言葉には、本当に申し訳なさそうな響きが込められている。確かに人員不足の穴を埋めてもらってる上にエースを助けてもらって、なおかつその後始末をさせた上に尻拭いまでしてくれと言っている状態なわけだ。
「いやいや流石にそこまでしてもらうわけには……」
色々と罪悪感とかが襲ってきたので、断りを入れようとする。
「あなた一人で帰るのは危険です。まだふらつくでしょう?」
ただ、冥さんの中では決定事項のようで、ド正論パンチのストレートをいただく。確かにまだ頭がぼんやりしているし、立ち上がるとふらつきそうだった。車道に向かって倒れでもしたら、それこそ大事になってしまう。
ちらっと二階堂と室長を見やると、二人も頷いていた。というより、もし一人で帰ると言ったら、この二人も同時について来そうなぐらいの勢いだ。
「……じゃあお願いします」
素直に甘えることにした。普段なら意地を張るところだが、今日ばかりは大人しく従おう。
室長と二階堂に礼を言うと、俺はやおら立ち上がる。クラっとするのはまだ根本にある疲労が抜けてない証拠だろう。
冥さんに付き添われながら、環境省を出る。この時間なのにまだ煌々と光が灯っているのは流石の省庁というべきか。
そんなブラック企業の建物を出ると、外の空気が気持ち良く感じられた。ずっと消毒液臭い室内にいたせいか、深夜の冷たい風が肌に心地よい。
「車で来ているので、乗ってください」
環境省の入り口前に、艶やかな黒塗りの車が停まっている。街灯の光を反射して、まるで鏡のように光っていた。冥さんが手で合図すると、運転席から制服を着た運転手が素早く降りてきて、慣れた動作で後部座席のドアを開けてくれる。
「失礼いたします」
「ありがとうございます」
運転手に礼を言いながら、よろめきそうになる足を制御して車に近づいていく。やはりまだ足取りがおぼつかない。
冥さんも運転手に軽く会釈をして、車の反対側に回っていく。深夜の静寂の中、靴音だけが響く。車に乗り込む前に、ふと振り返ると、環境省の建物が暗闇の中にそびえ立っている。今夜はもうあの建物に戻ることはないだろう。
そっと息を吐く。白い息が夜気に溶けていく。
ドアを開けると、車内から漏れる温かい空気が冷えた頬を撫でる。革の匂いと、僅かに香る芳香剤の匂い。運転手は静かに待機し、俺が乗り込むのを辛抱強く待っていた。
「すみません、ありがとうございます」
一言声をかけて、上質な革張りのシートに身を沈める。シートが体を優しく包み込み、途端に再び襲ってくる強烈な眠気。なるほど、流石に俺も限界まで疲れているらしい。
住所を運転手に告げて、冥さんと何往復か言葉を交わしたのは覚えている。彼女の声が心地よく耳に響いていた記憶がある。が、その後車の振動と温かさに誘われ、強烈な睡魔に襲われ、俺は再び深い眠りの中に落ちていった。
---
小野寺凛が後部座席に座るのを見届けてから、私も反対側のドアから車に乗り込む。
改めて小野寺凛の横顔を見ると、やはり相当疲労している様子が伺える。先ほど倒れた時の顔色の悪さは少し改善されたものの、まだ本調子とは程遠い。目の下には深いクマが刻まれ、普段の精悍な表情も今は疲労に曇っている。
ほのかに皮の香りが残る車内。高級車特有の静寂と、僅かに香る芳香剤の匂い。服装がいつもと違うので違和感はあるが、座り慣れたそのシートに私も身を沈める。
「住所をお教えください」
「運転手さんお疲れ様です。住所は……」
小野寺凛が住所を伝えると、運転手が丁寧に復唱して確認する。エンジンが静かに唸りを上げ、車がゆっくりと動き出した。
「本当にすみません。迷惑をかけて」
車が環境省から離れていく中、小野寺凛が改めて私に謝る。その表情には疲労と申し訳なさが深く滲んでいる。眉間に寄った皺が、彼の責任感の強さを物語っていた。
「謝る必要はありません。体調管理も大切な仕事の一部です。今回のことで、それを再認識してもらえれば」
私は優しく答える。打算ももちろんあるが、それを除いても責める気持ちは殆どない。むしろ……小野寺凛がこれほど自分を追い込んでいることに、複雑な感情を抱いている。
退魔師として体調管理も仕事のうちではあるが、学生をやりながらここまでの業務量をこなしているのは流石に驚いた。これに加えて私の依頼にもあの精度で応えてくるのだから、大したものだと認識を改めたくらいだ。しかし同時に、なぜそこまでするのかという疑問も湧く。
「流石に戦闘中に倒れるのは予想外過ぎましたよ」
「誰にでも起こりうることです。大切なのは、これを教訓にすることです」
いつも飄々としている印象の男だが、流石に今回の件は堪えたのだろうか……?普段なら何か軽口の一つでも叩くところだが、今は静かに俯いている。
車内は適度に静かで、運転手も気を遣ってくれているのか、余計な話はしない。深夜の静寂の中、エアコンの低い唸りと、人通りの少ない道路を走るタイヤの音だけが単調に響いている。時折、信号待ちで止まる車のエンジン音が遠くから聞こえてくる。
「それにしても、本当によく働きますね。感心するほどに」
数分の沈黙の後、私がふと呟く。空白が怖くなったのではない。本当にふと、そう思ったのだ。
私のように生まれながら家督に縛られていたわけでもない。土宮神楽のように喰霊白叡を継ぐことを強いられているわけでもない。それなのに、なぜこの人はこれほどまでに……。
そう思った瞬間、脳裏をよぎる黒髪の少女の影。諌山黄泉。
何故かチクリと胸の奥が痛む。その感覚を振り払うように、ふと隣を見やる。つぶやきに対する返答を期待していたわけではないが、何も返ってこないというのも妙に気になった。
「……」
「凛……?」
車が信号で止まる。街灯の淡いオレンジ色の光が車内に差し込んで、小野寺凛の疲れ切った横顔を仄かに照らす。
返事がない。ふと見ると、小野寺凛は頭を少し傾けて、静かで規則正しい寝息を立てている。極度の疲労で、車の心地よい振動に誘われて眠ってしまったのだろう。
そっとこの人を見つめる。普段の凛々しく、時に挑戦的な表情とは違う、無防備で穏やかな寝顔。睫毛が長いことに、今更ながら気づく。
車が動き出すと、小野寺凛の頭がふらりと不安定に揺れる。このままでは首を痛めてしまいそうだ。
少し迷ったが……そっと自分の肩を小野寺凛に寄せる。重みのある頭が私の肩に静かに寄りかかった。温かい体温が、黒のスーツ越しに伝わってくる。
運転手がバックミラーで気づいたのか、より一層丁寧にアクセルとブレーキを操作してくれるようになった。
窓の外には深夜の街が静かに流れていく。煌々と照らす街灯の光が等間隔で過ぎ去り、時折見える24時間営業のコンビニの看板が夜の街に青白い彩りを添えている。人通りはほとんどなく、信号機だけが律儀に赤と青を繰り返している。遠くに見える高層マンションの窓にも、まばらにしか灯りは点いていない。
静かなエンジン音と肩にかかる心地よい重み。そして僅かに香る、他人の匂い。私も目を閉じて、この静寂を味わった。
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「凛、着きましたよ」
「……あれ?いつの間に……」
そっと頭を自分の肩から外し、小野寺凛がゆっくりと目を開ける。
ぼんやりとした表情で辺りを見回す小野寺凛。当然だがまだ完全には目が覚めていないようだ。
車から降りて、小野寺凛が降りるのを手伝う。
「大丈夫ですか?一人で歩けますか?」
「はい……大丈夫です。冥さん、今日は本当にありがとうございました」
お礼とともにそう答える小野寺凛だが、足取りはまだふらついている。気づかれないよう、さりげなく近くを歩いてこの人を支える。
家の前まで来ると、玄関のドアが開いた。
「あら、凛!早いのね。って……」
出てきた凛の母親が、小野寺凛の後ろにいる私に気づいて驚いたような顔をする。
「諌山冥と申します。夜分遅くにお邪魔してしまい申しわけございません。御子息が体調を崩されたので、お送りしました」
私は丁寧に頭を下げる。
「まあ!体調を?大丈夫なの凛?」
「ちょっと目眩がしただけだよ。大丈夫大丈夫」
まだ眠そうな声で答える小野寺凛。完全には現実感が戻っていないようだ。
「……目眩どころではなく、気絶でしょう」
母親の心配に対して何でもなさそうな感じで誤魔化そうとしたのを感じた私は、ぼそっと、しかしながら確実にご母堂に聞こえるようにそう呟く。
「気絶!?大したことじゃない!……入りなさい、すぐに!」
小野寺凛の母親がその小柄な体に似合わない勢いで息子の腕を引く。よろめく小野寺凛を、私がそっと後ろから支える。
「冥ちゃんも、よろしければ中でお茶でもどう?送って頂いて、きちんとお礼もしたいですし」
千景さんの申し出に、一瞬迷う。本来なら丁重にお断りするべきところだが……。
「お気遣いなく。お時間も遅いですし」
「遠慮しないで。さあ、入って入って!」
一度断ったのだが、その温かい笑顔と、有無を言わせない優しい強引さに、私は押し切られる形で家の中に入ることになった。
というより物理的に腕を取られて家の中に引っ張り込まれたというのが一番正しい。いや、正しいどころか、文字通りだ。
破天荒なご母堂だとは聞いていましたが……。と思いつつその力には逆らわず家の中にお邪魔する。
玄関を入ると、生活感のある温かい空気が私を包む。家族の写真が飾られた棚、子供の描いた絵、そして何より、家族が住んでいる空間特有の安心感。
「凛は先に横になりなさい。冥ちゃんには私がお茶をお出しするから」
「いや、俺は大丈夫だけど――」
「いいから寝なさい!華蓮!お兄ちゃんを部屋まで送って!」
廊下の奥から小さな女の子が現れる。話に聞いていた小野寺凛の妹だろう。既に23時を回っているというのに、随分長く起きているものだ。
「はーい!あ、知らないお姉さんだ!きれー!」
溌剌そうな見た目と愛嬌のある笑顔。そこから響く無邪気な声に、思わず微笑んでしまう。
「こんばんは」
「お姉さんお名前は!お本読んで!遊ぼう!」
キャッキャと言いながら足元に突撃をしてくる妹さん。
こら、はしたない!とご母堂が叱るが、かまわずガラス玉のような純粋な目で見上げてくる妹さん。
「諌山冥です。はじめまして」
「華蓮だよ!」
遊んで遊んで!と夜の11時を過ぎているのに元気なものだ。
「こーら華蓮、わがまま言わないの!さ、華蓮、お兄ちゃんを寝室まで連れてって!」
「あーい!じゃーね、お姉さん!お休み!」
「おやすみなさい」
「ちょ、華蓮服引っ張んないで、って力強いなお前!?冥さん、ありがとうございました!」
とんでもない加速力で兄のもとに走った妹さんは、その突進力そのままに兄を寝室へと連れて行く。……目眩を起こした人間をあんなに強い力で引っ張って大丈夫だろうか。
ドタバタとした足音を響かせて、一瞬で居なくなる兄妹。あの破天荒さはご母堂譲りなのだろう。血縁というものの繋がりを、この数分で強く感じることになった。
「改めて……お茶、飲んでって。寒かったでしょう?」
さ、さ、と促されて居間に通される。すばしっこいという比喩表現がピッタリな動きで、テーブルに二つ湯呑みが置かれる。
「お気遣いなく。本当に少しだけのつもりでしたので――」
「いいのいいの。送ってくれたお礼くらいさせて。ほら、座って」
有無を言わせぬ柔らかい圧。その圧に逆らう理由も特に見当たらず、私は素直に腰を下ろす。お茶が注がれた湯呑を両手で包むと、冷えた指先にじんわりと温度が移っていった。
「冥ちゃん、でいい?私は小野寺千景!凛がいつもお世話になってます」
「諌山冥です。こちらこそ、いつも御子息にはお世話になっております」
言いながら、喉にひと口。渋みの奥に甘さがある。非常に美味しい。そういえばパタパタしていて水分を取っていなかったことを思い出す。
私が一口頂いたのを確認すると、興味津々といった顔をした小野寺千景が、矢継ぎ早に質問を繰り出してくる。
二十分程度は雑談していただろうか。小野寺凜の過去の話、華蓮の話、私の今の仕事の話。それを期間銃のように話す小野寺千景。
なるほど。あの子―――華蓮と言ったか―――が太陽のように育つのもわかる。おおよそ退魔師の家系にいるようなタイプの人間には見えない。
ただ確か小野寺はこの人の家系であるはずなので、退魔師の家系の直径はこの人なのだと思い出す。小野寺凜も退魔師の枠からは大分外れた考え方をするが、この人の影響なのだろうか。
そんなことを考えていると、ふっと千景さんが思い出したように話題を変える。
「ねえ冥ちゃんってさ、彼氏いるの!?」
「……いえ。今は」
「じゃあさ、凛とは?付き合ってるの?」
「えっと、付き合っては、いません」
大人の女性相手の対応は手慣れているつもりだったが、ここまで裏表のない好意らしき感情と好奇心を全開でぶつけてくる人は珍しく、内容も内容だしやや狼狽えてしまう。
本音を出しているようで心の底を話さない小野寺凜とは真逆とも言えるやりにくさ。意外と不快ではないが、こちらのペースに持っていって丸め込めるようなタイプでも無いのが、やりにくさを感じる理由だろう。
「えーっ。もったいない。ダメじゃないあの子!積極的にアタックしなきゃ」
「……ええと」
「で、タイプは?年上?年下?それとも『無口で優しいけどたまに抜けてる男』とか?」
「質問が具体的すぎます」
カラカラと楽しげに笑う小野寺千景。私は湯呑へと逃げ場を求める。温度はちょうどよく、喉が素直に動いた。
「いいじゃん教えてよ!……ってあら?もう少しおしゃべりしたいけど、もう流石に時間が遅いね」
ボーン、ボーンとなる時計の音に気がついた小野寺千景が、あちゃーといいながら頭を掻く。
少し身を乗り出し、いたずら前の子どものような目になる。
「流石に遅いし、泊まっていきなよ!」
「……え」
予想していなかった直球に、湯呑を持つ手がわずかに止まる。私は姿勢を正し、いつもの調子で断りの文句を用意する。
「お気持ちは嬉しいのですが、夜も遅いですし、車も待っています。ご迷惑でしょう」
「迷惑なんてとんでもない。客間、片付いてるし、お布団もすぐ出せるよ。パジャマは……私のじゃ合わないかな?」
「いえ、その……」
「それにね、女の子ひとりでこの時間に帰すなんて、母として許せません!お父上とはうちの旦那が知り合いだし、明日連絡してもらいましょう!」
ふん、と言いながら誇らしげに胸を張る千景さん。柔らかい口調のまま、芯だけは一歩も退かない。私は小さく息を吸い、湯気の向こうで自分の心の板底を覗く。
――礼儀として一度断ったが、正直、断る理由はない。
小野寺家との接触はいずれ考えていた。効果のある関わり方を考えていたが、渡りに船とはこのことだろう。まさかこんな好都合に機会が降ってくるとは。
小野寺家との交流も深め、外堀を埋めていく。そのために彼の家に一泊したという事実を作ることは私に取って有益がすぎる。その打算は、ある。
だが、同時にもっと浅くて、言葉にしづらい衝動もあった。この空間の温度を、ただ味わっていたいという欲求。湯気、足音、家族皆が同じ方向を見る感覚。言葉にしにくいそういうものの総体。
父・幽の愛情が偽物だと思ったことはない。あれは確かに私に注がれてきたものだ。私としても父に対する、肉親としての愛情はある。
ただ――諌山の家に満ちるそれは、義務や誇りや歴史に磨かれた硬い光を帯びていて、今、ここにある柔らかな灯りとは違う。
「……では、ご厚意に甘えます。朝にはお暇しますので」
その申し出を受けることにする。急な申し出で驚いたが、断ってもしがみついて来そうだし、身だしなみの用具や替えの者も車にはおいてある。諸々さほど問題はないだろう。
「やった。そうこなくちゃ」
パッと立ち上がると私の手を引いて「こっちこっち!」と客間へと私を誘う。一階の奥の方にあるその客間は、一人で使うには持て余すぐらいには広く、立派なものだった。
勢いよく押し入れを開け放つ千景さん。畳に綿の匂い。生活の音は、どうしてこうも安心を連れてくるのだろう。
「お布団これ使って!今週洗ったばっかだから綺麗だよ!あとはゆっくり休んでね!」
「お気遣いなく。ありがとうございます、お手伝いします」
小さな身体で布団を出そうとするのを横から手伝う。そういえば小野寺凛と初めて出会った時の身長がこの人ぐらいだったろうか。
「よし、布団オッケー!……って、ちがーう!ご飯は食べてきた?それともお風呂がいいかな?冥ちゃん、先に入っちゃいなよ!」
「ご飯は既に頂いてきましたが……」
「うん、じゃあお風呂だ!さっき入れ直したばっかだから、今お湯加減丁度いいよ!タオルはこれ使って!ドライヤーは洗面台の下!メイク落とし使う?化粧水もあるよ!パジャマは来客用、探しておくから!」
「あ、ありがとうございます……お借りします」
否と言わせる気の無い千景さんの猛攻に、流石に気圧されてしまう。嵐のような人だ。だが悪い気分ではない。
「はいはい、こっちこっち!」
千景さんに肩を軽く押され、洗面所の前まで連れていかれる。
「ここ使って!あとは一人で大丈夫そう?一緒に入ろうか?」
「……いえ。流石に大丈夫です。夜も遅いですし、ご母堂様はもうお休みください」
千景でいいのにー!ゆっくりしていってね!おやすみ!と言葉を残し、ドアを閉める小野寺千景。ふと顔を上げると、困惑した顔をしている自分と鏡越しに目が合う。
……ご相伴に預かれるのはありがたいが、流石に申し訳無さが勝る。
とはいえ、厚意は厚意だ。素直に受け取るのが礼儀だろう。
「――私ですが。本日はもう上がっていただいて大丈夫です。私の荷物だけ玄関前に置いておいていただけますか?……はい、ご相伴に預かることに。明日朝また連絡いたしますので」
運転手に電話で一報入れし、帰宅するように伝える。お父様はもうお休みだろうから、留守電を入れておく。
小野寺凛の介助もあり、本日はさすがに疲労が色濃い。
――ひと息つく。家のどこかで戸が閉まる音がして、洗面所には私だけが残った。
天井灯を一段落とす。換気扇の低い唸りと、湯気の気配が曇りガラスの向こうに漂っている。
ジャケットの肩を外してハンガーに掛け、襟と裾の皺を指先で伸ばす。
ブラウスのボタンを緩めると、開放された感じがして心なし呼吸が深くなる。鏡の前で、落ち着いた表情に戻っているかだけを確認する。
肌着も脱ぎ、冷えを呼ばないよう、バスタオルで胸元をそっと押さえる。
和風様式な戸を押す。ここにあるのは、義務ではなく、誰かのために用意された温度だ――そんなことを一瞬だけ思う。
心なしいつもの湯よりも暖かさを感じながら、私はお湯に身を委ねた。