喰霊-廻-   作:しなー

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第9話 -接触-

「凛ちゃん」

 

「はい」

 

「目が死んでるわよ」

 

「運動不足なんですよ、室長」

 

会議室の隅で、小野寺凜は端末の画面から顔を上げた。

 

壁面のモニターには、関東圏で発生しているカテゴリー C の反応がいくつか表示されている。どれも即座に警報を鳴らすほどではない。だが、対応する側からすれば数が多いだけで十分に面倒だ。

 

「ホントに体力お化けよねぇ。ちょっと前に倒れた経験がある人間を、働かせ続けるの本当に良くないんだけど」

 

神宮寺室長が、コーヒーの紙コップを凜の前に置く。

 

「ありがとうございます」

 

「ブラックで良かった?」

 

「はい。砂糖入れると眠くなるので」

 

「大人みたいなこと言っちゃって。ホントに可愛げがないわよね、凛ちゃんって」

 

「馬鹿言いますね?俺ほど可愛い部下も居ないでしょう。命令に忠実で仕事はできますよ、俺。……そしてそんな可愛い部下からのお願いなんですが、そろそろ現場出してくれません?」

 

「どこが従順なのかしら。小生意気な態度続けてるなら、冥ちゃんにお説教してもらおうかしらね?」

 

「なんで冥さんなんですか。一時バイトですよ冥さん」

 

ちらりと冥を見る凛。感情を覗き見ようかと思ったが、冥は澄ました顔をしていて、その感情を読むことはできない。

 

「あなたは諌山冥の名前を出されると矛を収める傾向にありますね」

 

二階堂桐が小野寺凛の前に資料を置きながら、これまた表情を一切変えずに顔も上げずに言った。

 

「……お前、この前近くのゲーセンでプリクラ撮ってたのバラすぞ」

 

「んな!?ですから貴方はそういうのなぜ知って―――」

 

顔を真っ赤にする二階堂桐。それを土宮神楽が「また凛ちゃんが桐さん虐めてる」と呆れた顔をしながら作業を行い、桜庭一樹が腹を抱えて笑い、二階堂桐から人睨みされて視線をそらす。

 

よくある超自然災害対策室の日常。諌山黄泉か居ないことを除けば以前とほぼ変わりのない光景がそこにはあった。

 

「んで二階堂さん、茨城側の反応推移は」

 

ひとしきり誂って飽きたのか、唐突に小野寺凛がはしごを外す。

 

「貴方は―――!……茨城はカテゴリーCの反応消滅を確認。再出現の反応も出ておらず浄化も完了しているため、撤収させています。……そういえば先ほど話していた栃木側の異常はどうですか?」

 

「室長と話して、ナブー兄弟に向かってもらうことにしましたよ。あまり難易度が高くなさそうなんで、紀さんには休んでもらうことにしました。到着まで十五分だそうで」

 

「ナブーさん達二人でも少し過剰かもだけどね。万が一ってこともあるし、二人にいってもらうことにしたの。岩端さん、昨日の雪山の現場の監視情報は上がってきてる?」

 

「ええ、室長。異常なしですね。C の残存もなし。あの辺りはしばらく巡回をさせますが、現場としては終わりといっていいかと」

 

岩端晃司が腕を組んだまま、低く答える。

 

諫山冥が見つけた古い石標についても、位置情報と写真が資料として追加されただけだ。再調査を行っているエージェントからも問題なしとの報告が上がっている。

 

その旨も室長に対して岩端が伝えると、彼女は満足そうに頷いて、

 

「そういえば神楽は?そろそろ帰さないと俺が黄泉に怒られるんだけど」

 

「貴方のその言葉を警戒して身を隠したようですよ」

 

後ろ側から、諫山冥の声がした。小野寺凛の眼の前のデスクに、二階堂とは逆側から資料が置かれる。

 

その声に、誰も疑問を示さない。

 

二週間前なら、諫山冥が口を挟むたびに、室内の空気はほんの少しだけ硬くなっていた。

 

外様であり、諫山家の人間であり、そして餓者髑髏の一件以降、どう扱うべきか判断の難しい相手でもあったからだ。

 

「こちら、室長と貴方から依頼された資料です。まとめ終わったのでチェックお願いします」

 

「さっき依頼したばかりなのに、早いわね、冥ちゃん」

 

「あのくらいならばいつでも」

 

だが今は、その一瞬の硬さもほとんどない。

 

神宮寺菖蒲が資料を受け取り、二階堂桐が横から覗き込み、小野寺凜が当然のようにページをめくる。誰かが冥の立ち位置を確認することもなく、話はそのまま仕事の続きへ流れていった。

 

「昨日の石標の件です。諫山側の記録では滝夜叉姫の墓標、対策室側の古い台帳では封印跡として扱われていました。どちらも危険度を上げるような記述はありません」

 

「表記揺れ?」

 

凜が紙面から顔を上げずに尋ねる。

 

「ええ。墓、祠、石標、封印跡。資料ごとに呼称が違います。あなたの検索条件では抜けるものがあったので、こちらで拾っておきました」

 

「助かります。検索条件、後で共有してもらっていいですか」

 

「そちらも資料の中に記載してプリントアウトしてあります」

 

「仕事が早い」

 

相変わらず、仕事が丁寧な人だと凜は思う。抜け落ちそうなところに、先回りして細い糸を通しておくような仕事の仕方をする。

 

「凛」

 

「はい」

 

「顔色が悪いですよ」

 

「さっき室長にも似たようなこと言われました」

 

「なら、二人に言われたということですね」

 

「多数決で俺の負けですか?」

 

「ええ」

 

「民主主義って残酷だなぁ」

 

凜は珍しく「ふふっ」と笑う冥から端末に視線を戻し、コーヒーを一口飲んだ。

 

その横で、神宮寺菖蒲が冥から受け取った資料を二階堂へ回す。二階堂は無言で一枚目に目を通し、必要な箇所へ付箋を貼った。冥はそれを見届けると、次の資料束を揃えて机の端に置く。

 

現場に出してほしいと懇願する神楽を、諌山冥が岩端と自分で引率するからと意外にも援護し、それを凛が渋り、二階堂と室長が許可する。

 

凜が現場に出なくても、対策室は回る。諌山黄泉が居たときと同じように。

 

その形は、少しずつ対策室の日常になり始めていた。

 

 

---

 

 

諫山家の夜は静かだ。

 

それは単に音が少ないという意味ではない。

 

古い家には、古い家なりの呼吸がある。廊下を渡る風の細さ。柱が湿気を含んで軋むわずかな音。庭木の葉が揺れる感触。そういった音が折り重なり、一つの音となることで、人間の耳にはここちよく感じる音となる。

 

その沈黙の中で、私は目を開けた。目に映るのはいつもの道場。神楽や凛と鍛錬を行っている、諫山の敷地内にある木の香りのする建物。精神統一を兼ねて、私は正座で佇んでいた。

 

深呼吸を一つ。すると走る鋭い痛み。

 

左腕が痛む。もう傷はほぼ癒えているはずなのに、時折こうして痛みを主張してくる。

 

痛みと言うより、もしかしてこれは恐怖なのだろうか。苦しくなるような、でも鋭い、傷の奥に細い針を差し込まれているような感覚が、身体を走り抜ける。

 

あの時も夜だったからなのだろう。夜になると、この無いはずの痛みが増す気がする。

 

今度はため息を一つ。餓者髑髏の一件から、こういう夜は珍しくない。

 

「……覗き見とは感心しないわね」

 

私はそう、背後に向かって声をかける。精神統一をしていたのに邪魔をしてくれるものだ。

 

そこに居るのは数分前から分かっていた。

 

本来なら、その時点で声を上げるべきだったのだろう。父に知らせるべきだし、神楽を起こすべきだ。それに家の結界を本格的に起動し、戦う姿勢を見せるべきだったのかもしれない。

 

けれど私は、そうしなかった。

 

「居るんでしょう?出てきたら?」

 

そう呼びかけると、障子の向こうで気配が笑った。

 

「こんばんは、諫山黄泉」

 

声は幼い。

 

けれど幼さの奥に、曲がりくねった刃物のような何かがある。人を目的のための駒としてしか見ていない、人を傷つけることでしか何かを成し遂げられない思っている、悪意という名の凶器が。

 

「こんな夜更けに、随分と無作法ね」

 

「ごめんね。ちゃんと玄関から入ろうかとも思ったんだけど、君の家は少し面倒でさ」

 

障子に映る影が、ゆるりと揺れた。

 

小柄な影。

 

子供の姿をした、子供ではないもの。

 

「背中を取った私を、こうしてあなたが私を襲っていないのもそれが原因かしら?」

 

「わかってて聞くのは性格がわるいね。取らせたんだろう?予想よりずっと面倒だよ、これは」

 

人差し指を、円を書くように回したのが障子越しにわかる。その人差し指が空気に触れるのと同時に、ジジジっという音を立てて青白い火花のようにものが弾ける。

 

一時的に中和しているのか。器用なことだと思う。だが、それ以上は難しいのだろう

 

三途河カズヒロは、ここまで来ている。諫山家の敷地に入り、私の部屋の近くまで辿り着いている。だが明確に攻め込んでは来ない。

 

「とんでもない術だね。この僕が中和するので手一杯だ。これは君が?」

 

「……」

 

「そうか、彼なんだね。相変わらずおもしろい発想をするね彼は」

 

障子の向こうで、三途河が楽しそうに息を吐く。

 

「やっぱりそうだ」

 

「何が、やっぱりなのかしら」

 

「君は彼に守られている」

 

静かな言葉だった。

 

一瞬挑発なのかと考えたが、挑発というより、彼のニュアンスには確認に近いものが感じられた。

 

「彼は君を守ろうとしている。君の周りを、君の家を、君の未来を。なぜ彼は君にそんなに肩入れをするんだい?」

 

「知ったようなことを。あなた程度が、あの子と私を語らないで」

 

「怖いな」

 

楽しそうに、三途河は言った。

 

「でも、間違ってはいないだろう?―――君を壊せば、彼は壊れる。僕にはそう見えるんだけど?」

 

「共依存とでも言いたいの?それとも、ただの勘違い?」

 

「強がりかい?それとも、僕には出来ないと思っているのかな?」

 

「んーどうかしらね。―――試してみる?」

 

私はそう返して、膝の上に置いた右手を少しだけ動かした。

 

畳の目を撫でるように、指先で一筋なぞる。

 

その動きに合わせて、道場の隅に仕込まれている護符が小さく鳴いた。音と言うほど明確なものではない。けれど、障子の向こうにいる三途河には届いたはずだ。

 

ここは諫山家だ。

 

私の家であり、父の家であり、神楽が眠る家だ。

 

この場所に張られた守りは、諫山のものだけではない。

 

あの子が諫山の結界を見て、いくつも口を出した。私と、それを聞いたお父さんはしきりに感心しながら、自由にやってほしいと私たちに一任した。

 

その結果が、これだ。

 

「……」

 

押し黙る彼を無視してもう一度、指先で畳をなぞる。真言と手印を簡略化してもう一つの術式が起動する。

 

それをみて、後ろの彼が少しまた私から距離を取った。

 

三途河カズヒロは、諫山家の敷地に入り、この道場の近くまで来ている。私の背後を取って圧倒的に有利な状況に居るはずだ。けれど、障子一枚を隔てたまま止まっている。

 

踏み込まない。

 

いや、踏み込めない。

 

障子の向こうで、三途河が笑う。

 

「それで?貴方は何しにきたの?せっかく来たんだし、話ぐらいは聞いてあげる」

 

「なら、僕は招かれた客というわけだ。お茶の一杯でも所望していいのかな?」

 

「不法侵入者よ。勘違いしないで」

 

「ひどいな」

 

「犯罪者が何を言うのかしら」

 

軽口の応酬。まるで凛とやるかのような感覚を覚えて、少し懐かしくなる。もう三か月は対策室と距離をおいている。

 

彼の顔を思い出す。今頃は冥さんと働いているのだろうか。あの職場で働くお義姉さんの姿が想像できないが、凛のことだからうまくやっているだろう。

 

「いや、大した用事ではないよ。君とお姉さん、どっちを利用したほうが小野寺凛が動揺するか見極めようと思ってね」

 

「―――なるほど?」

 

その言葉で今までの彼の言動が腑に落ちる。

 

「私と冥義姉さん、どっちが凛の本命かわかんないんだ?―――女はまだ知らないのかな、童貞クン?」

 

「やすい挑発だね。でもそういう勝ち気なのは嫌いじゃないよ」

 

一拍、三途河が時を置く。

 

「諫山冥」

 

そう一言、障子の向こうの少年は呟く。

 

「彼女を狙うつもりなんだ、僕は」

 

「三途河」

 

「怖い声だ」

 

「怖がっているようには聞こえないわね」

 

「怖いよ。だから、まだ障子の向こうにいる」

 

「確かに女を襲わないと凛に挑めもしない臆病者だものね」

 

「面白い挑発だ。―――不利なのは小野寺凛だって、わかってるんだろう?」

 

私は沈黙で返す。実際にその通りだとわかっているから。

 

「一方的なのはつまらない。だから、ヒントをあげてるんだ」

 

「それが本当だとするなら、貴方の敵はあなたの口ね。私、こう見えても裁縫は得意よ?」

 

肯定の言葉も、否定の言葉も私は紡がず軽口で返す。

 

「それに、このことを私達に話す意味は何?メリットが無いでしょう?」

 

「プライド、かな」

 

「ブライド?」

 

「そう。プライド」

 

そう、三途河カズヒロが真っ直ぐ私を見ながら言葉を紡ぐ。背中越しでもそれが伝わった。

 

冥義姉さんを狙うことを、私たちに知らせること。それがプライド。

 

それが本当だとして彼のそれは誰に対するどんなものなのか。それは何となく推測できるし、理解もできる。だが、その事はどうでもいい。

 

軽いトーンの軽い言葉。だがこの彼の一言が、今日彼が発する中で一番重い言葉なのだろうという、そんな直感があった。

 

「三途河カズヒロ」

 

私は、獅子王へと手を伸ばす。

 

どんな得物よりも、筆記用具よりも、箸よりも長い時間、この手に握ったその柄。それをゆっくりと引き抜く。

 

この月明かりのみの闇の中でも、存在感を主張する黒いその刀身。鈍くひかり、その中に私の顔を映し出す。

 

「冥義姉さんに手を出すつもりなら、少し待ちなさい」

 

困惑。

 

そう形容するしかない空気が後ろから伝わってくる。

 

「待つ?」

 

やめろじゃなくて?と尤もな言葉を私にかけてくる彼。

 

それに対して、そうと返す。

 

「面白いものを見せてあげる」

 

沈黙。しばらくの、今日彼と話してから最も長い静寂がひびく。

 

冬の冷たい空気が窓を叩く音が、やけに激しく聞こえる。

 

それから、くすりと笑う声。

 

「君が、僕に?」

 

「ええ。私が、貴方によ」

 

「面白いね。何を見せてくれるのかな」

 

「せっかちね。童貞クンは堪え性がないのかしら」

 

それ以上は言わない。

 

言う必要もない。

 

だが、三途河は理解したようだった。

 

「君が冥を斬る?」

 

「さあ」

 

「殺す?」

 

「さあ」

 

「殺さないかもしれない?」

 

「さあ」

 

短く返すたびに、障子の向こうの気配が楽しそうに揺れる。

 

「いいよ」

 

三途河は言った。

 

「待ってあげる」

 

「随分と素直ね」

 

「面白そうだからね。それに、もし君が彼女を殺すなら、僕の手を汚さなくても良いだろう?」

 

「悪趣味だし、性根も腐ってるってよく言われない?」

 

「どうだろう?もしかすると、その人達はもう喋る口を持っていないのかもね」

 

青い蝶が、ふわりと飛び立ちはじめる。

 

「いつだい?見返りとして、見学くらいはさせてくれるんだろう?」

 

「決まってないわ。一ヶ月後くらいかしらね」

 

「なるほど、きっかけが無いんだね。―――いいよ。僕が作ってあげる。ちょうど1ヶ月後の今日にしよう。晴れていれば、満月だね?」

 

 

人型が崩れ始める。前にみた、蝶になって消えるあの不思議な術を使っているのだろう。

 

やはり逃がすべきではないかと、術を起動するかどうか悩んで、やめた。この諫山の敷地内でもリスクが小さくないし、打算もある。

 

「少しくらいは邪魔してくるとおもったけど?」

 

そんな私の内心を見透かしたかのように言ってくる彼の言葉に、私は少しだけ笑った。

 

多分、障子の向こうにもそれは伝わった。

 

「逃がしてあげるのよ」

 

道場の隅で、護符がもう一度小さく鳴る。ここから逃さないことも多分できる。だが、その護符を私は納める。

 

「余裕だね」

 

「場所が良いもの」

 

「なるほど。怖いな、諫山家は」

 

「覚えて帰りなさい」

 

障子の向こうにあった気配が薄れていく。家の結界を壊すことも引っかかることもなく、居なくなることだけが私に伝わる。

 

「楽しみにしているよ、諫山黄泉」

 

最後に、三途河の声だけが残り、その言葉を最後に、気配は消えた。

 

私はしばらく畳の目を見ていた。

 

獅子王の柄を握った指を、ゆっくりとほどく。

 

あの男は待つと言った。信用などできない。けれど、勘だが彼はあの約束を守るだろう。

 

私は携帯電話を手に取る。

 

時刻を見て、ほんの少しだけ躊躇した。こんな時間に連絡を入れれば、凛はきっと眠れていなかったとしても、眠れなくなる。

 

それでも、連絡しない選択肢はなかった。

 

発信。

 

数コールの後、耳元に少し掠れた声が届く。

 

『黄泉?』

 

「凛」

 

『どうした?何かあった?』

 

「三途河が来たわ」

 

電話の向こうで、呼吸が止まった。

 

『どこに』

 

「諫山家」

 

短い沈黙。

 

それから、低い声。

 

『怪我は』

 

「ないわ」

 

『神楽は』

 

「眠っている。お父さんもなんともないわ。侵入には気が付かずに寝ているみたい」

 

『……結界抜かれたのか』

 

「完全には抜かれてはないみたいね。中和で精一杯ではあったみたいよ。でも、近くまで来た」

 

私は障子を見る。

 

さっきまで青い蝶が止まっていた場所には、もう何もない。

 

「凛」

 

『何』

 

「冥義姉さんから、目を離さないで」

 

『冥さんから?』

 

「そう。名前が出たわ」

 

『……そうか。……黄泉も頼むから気をつけてくれよ』

 

そう凛が声を絞り出す。

 

だから私は、彼を安心させるためにも少しだけ笑った。

 

「大丈夫よ」

 

嘘ではない。

 

大丈夫にするつもりだった。

 

『無茶するなよ』

 

「あなたにだけは言われたくないわ」

 

『俺も今、言ってから思った』

 

ほんの少しだけ空気が緩むが、けれどそれは一瞬で消える。互いにわかっているのだ、空気が重くならないための形式上の軽口合戦だということを。

 

電話を切る直前、凛は低く言った。

 

『冥さんから目を離さない。三途河のことも、こっちで洗う。黄泉も何かあったらすぐ連絡して』

 

「ええ」

 

『絶対だぞ』

 

「分かっているわ」

 

通話が切れ、沈黙が流れる。

 

今日の夜は静かだ。

 

単に音が少ないだけではない。

 

三途河カズヒロと、凛と話した後だから耳が大きめの音に一時的に慣れて、相対的に周囲の音が小さく聞こえる。空気が動く僅かな音に、木の軋む音、風が窓に当たる音。

 

沈黙の中、目に映るのはいつもの道場。神楽や凛たちと時間を過ごす、木の香りのする建物。星座で座り、木の呼吸を感じながら、私は携帯電話を握ったまま、しばらく月明かりを見ていた。

 

 

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