4章10話が以前とは全く異なる内容になっておりますので、ご注意ください!
「環境省というのは、客に出す茶もこの程度か」
応接室のソファに浅く腰掛けて、お父様は湯呑みを置いた。
足元には大きな紙袋が一つ。中身は毛布と着替え類だという。環境省の寝床なぞ、ろくなものがないだろうというのが本人の弁である。一応ここは国の施設であり、自分の娘が数ヶ月働いている施設ではあるのだが、それを口にするほど野暮でもない。
「ありがとうございます、父上。使わせていただきます」
「うむ。……それで、心当たりはあるのか。なぜお前があの小僧に狙われねばならん」
「ありません」
小野寺凛にも同じことを聞かれ、同じように答えた。あの少年に名を覚えられる理由など一つしか思い当たらないが、それを報告する予定はない。
「家に戻れと言いたいところだが……」
「黄泉の部屋の近くまで入り込んだ相手です。屋敷に戻った所で、皆を巻き込むだけかと」
「分かっている。分かっているから、こうして毛布を持ってきたのだ」
本当に私を守り切るのであれば、この選択は下策ともいえる。徹底するなら小野寺凛や土宮神楽を常に私の家に泊まり込ませるのが一番だろう。家族が狙われる可能性もあるのだから尚更だ。
だが彼らの機動力を一つの屋敷に縛れば、今度は他の全てが手薄になる。誰をどこまで守るのかという線引きとしては、これが妥当なところだ。
その事を納得はしていないのか、不機嫌そうに鼻を鳴らし、お父様は声を落とした。ここからが本題らしい。
「先週の集まりでな、何人かが兄上に申し入れたのだ。黄泉はあの有様で、お前は対策室で実績を積んでいる。家督の件、再考の余地があるのではないかと」
「叔父様は何と」
「『決めたことだ』と。……それだけだ!顔も上げなかったのだぞ、あの男は!」
湯呑みの中身が揺れる。
聞くまでもない答えではあった。
分家の不満は順調に溜まっている。私の評判も、黄泉の評判も、望んだ方向へと動いている。小野寺凛との噂に至っては、私が手を下すまでもなく予想以上に勝手に広がってくれた。半年前なら考えられなかった数の関係者が、私の名前を口にしているはずだ。
それでも、叔父様は顔を上げない。
そもそも叔父様は、評判で黄泉を選んだわけではないのだ。評判で選んでいないものを、評判で覆せる道理がない。
もとより分の悪い勝負ではあった。あるいは、そもそも勝負の土俵にすら私は立っていなかったのかもしれない。
せめてあの発表が一年後であればと思わないでもないが、それも遅いか早いかの違いだ。
分家会議であの人が黄泉の名を告げた時点で、いや、あの人が黄泉に獅子王を渡した時点でこの未来はとうに決まっていたのだろう。
―――結局。運が悪かったという理由で、私は選ばれないのだ。
「まあいい。兄上がどう言おうと、お前が小野寺の倅を押さえれば話は変わる。あの家に泊まったのだろう?」
「ご母堂様のご厚意で」
「うむ、うむ。室長になる男だ。家柄は諫山に劣るが、その泊が付いているのは悪くない」
満足げに頷くお父様に、私は何も言わない。
小野寺凛を押さえた所で、結果が変わるとも思えない。そう簡単な話ではないだろう。室長の妻という肩書きは手に入る。風向きも変わるだろう。
だが、今回の決定は唯一無二のトップの独断だ。周囲を変えたとて、その一点が揺らがねば結論はかわらない。
結局のところ。答えは一つか二つしかないのである。
「だがその倅は大丈夫なのか。倒れたと聞いたぞ」
「過労です。ここ数ヶ月、都外の要請が続いていましたから」
「都外?室長候補をそんなに走らせているのか?」
「人手が足りないのです。都外からの要請は、今も多いようですが」
「お前の婿になるやもしれん男に、どこぞの山で倒れられても困るのだがな」
「私が口を出すことではありません」
「それはそうだが……」
お父様は腕を組み、何事か考え込み始めた。いつも通りの策略を考えているのだろう。
私は湯呑みに手を伸ばす。
なるほど、確かにこの程度の茶だった。
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「お父さん、来てたんですね」
廊下で待っていた土宮神楽が、エレベーターの方を見送りながらそう言った。本日の私の護衛である。
「ええ。少し顔を見に」
持たされた紙袋が、見た目よりも重い。どうやら食料類も入っているらしい。菓子の類が入っていたため、それを土宮神楽に渡して対策室の会議室へと歩を進める。
対策室に戻ると、二階堂桐が一人で端末を叩いていた。
「諫山冥。来週のシフトです」
差し出されたクリップボードを受け取る。週のうち五日に私の名前があり、その隣には小野寺凛だったり、土宮神楽だったり。その他対策室の面々の名前が並んでいる。案件が入れば、この組で出ることになるのだろう。
一覧の下の方には、シフトが一つも入っていない名前が一つ。
諫山黄泉。
外様の私がこの部屋に来てから、もう随分と経つ。
岩端晃司は現場判断の際にまず私を見るし、二階堂桐は何も言わなくても端末をこちらへ回す。望んで得た席であり、席としては十分に温まってきたと言っていいだろう。
だが、あの一行を消そうとする者はいない。
―――黄泉が居ない間、少しでもサポートになればと思いまして。
ここへ来た時、そう言ったのは他ならぬ私だ。誰もがその言葉通りに受け取り、その言葉通りの動きに感謝している。
視線を上げると、壁の予定表が目に入った。
月の終わりに、赤い丸が一つ。神宮寺菖蒲の丸い字で、その横に小さく書き添えられている。
『黄泉ちゃん復帰』
診断書の写しは読んだ。あの傷でこの予定通りに戻る、と本人が言っている。この部屋でそれを疑っている人間はいない。小野寺凛も、二階堂桐も、飯綱紀之も。
私も疑っていない。
あの子は戻る。その時、私がここで積み上げたものは全て「黄泉が居ない間、よく頑張ってくれた」の一言に収まるのだろう。
叔父様の決定は覆らない。
黄泉は戻る。
そして、この赤丸。
あと二十日足らず。その日に事を起こすと、三途河カズヒロは自ら宣言した。対策室の全戦力はそこへ向けられ、滅多にない規模の現場となる。不測の事態はいくらでも起きるだろう。
誰が死んでもおかしくない夜だ。そして親切なことに、探偵たちは、既に犯人の名前を知っている。
「何か気になる点でも?」
端末から顔も上げずに、二階堂桐が言った。
「いいえ。黄泉が戻る日を、確認していただけです」
端末を返し、紙袋を持ち直す。
「そうですか。あなたも狙われている当人です。無理をしないように」
「ええ。準備だけは、怠らないようにしておきます」
その夜、持たされた毛布を広げた。
環境省の備品よりも、随分と暖かかった。