11月の東京に、雪が降っていた。
予告の日。その当日が訪れていた。
午後になったにも関わらず降り注ぐ雪を眺め、朝から少しずつ入る自分宛ての電話に辟易としながらも、神宮寺菖蒲はコーヒーを一口啜る。
もっとも、朝になっても何かが起きたわけではない。三途河カズヒロが言い残したのは日付だけで、どこで何をするのかは一言もなかった。晴れていれば今夜は満月。
そう言ったらしいが、正午を過ぎた今現在でも、この空では月どころか太陽の位置すら分からない。雪雲に覆われ、東京は大混乱へと陥りつつある。
この一ヶ月を、対策室はただ待っていたわけではなかった。
カテゴリー A になり得るものを古い台帳から洗い出し、片端から手をつけた。地元や他の省庁の反対を押し切って再封印し、可能なものは破棄まで持ち込んだ。破棄の立ち会いは、小野寺凛が進んで引き受けた。報告書に載らない時間が少しだけあったが、それを気にする者はいなかった。
それでも、手の届かないものは腐るほど残っている。台帳に載っていないものを狙われれば、そこで終わりだった。
迂闊に動けば、遺物のありかをこちらから教えることにもなる。動きには細心の注意が払われた。調査には無駄足を混ぜ、報告には虚実を織り交ぜ、内通者がいた場合の動きまで想定して経路を分けた。
昨夜になって、茨城の筑波山麓で反応が膨らみ始めた。
滝夜叉姫の墓である。台帳には載っていたが、遺物としては死んでいるとされ、優先して手をつける先に挙がったことは一度もない。
事実小野寺凛達もそこは偶然一度調査しており、その際に満場一致で「復活の見込みなし」と片付けたのだ。加えて土宮神楽・諫山冥の両名にて結界の貼り直しも行っており、かなり安全な場所の一個のはずであった。
本当にここで起きるのかは、誰にも分からない。陽動の可能性もある。それでも、放っておける反応ではなかった。日が暮れるまでにこの場所を押さえ、起きる前に潰す。
対策室の顔は、外の空模様と大差なかった。二階堂桐は端末から顔を上げず、岩端晃司は火のついていない煙草を咥え、土宮神楽も今は静かにココアを飲んでいる。
室長の机の電話だけが、朝から思い出したように鳴っていた。そのたびに話が止まり、出発は午後へとずれ込んでいる。
その扉が開いたのは、午後1時を少し回った頃だった。
「ただいま戻りました」
肩と、闇夜と見間違うほど美しい黒髪に僅かに雪を乗せたまま、諫山黄泉がそこに立っていた。
腰には獅子王。一ヶ月ぶりに見るその姿はいつも通りで、部屋の空気が一度に揺れる。
その揺れが広がるより先に、一つの声が部屋の中を通った。
「おかえりなさい、黄泉」
立ち上がった諫山冥は、スーツの皺を軽く伸ばすと、これまで座っていた席からごく自然に一歩横へずれた。
「お待ちしていました。引き継ぎの資料はまとめてありますので」
「ありがとうございます、冥義姉さん。随分とお世話になったみたいですね」
「いいえ。私は貴女が戻るまでの繋ぎですから」
うわぁ、と小野寺凛は心のなかで呟いた。
交わされているのは、品の良い笑顔と品の良い言葉だけである。それでも部屋の何人かが、さりげなく手元の資料へ視線を落とした。
「黄泉ちゃん、おかえりなさい。もう、うちの子達はどうして休めって言うと休まないのかしら」
「室長、ご心配をおかけしました。本日より復帰します」
「お帰りなさい、諫山黄泉」
「ただいま戻りました、二階堂さん」
「黄泉さん、お疲れ様です。腕、もう大丈夫なんすか?」
「ありがと剣輔君。もう全然平気よ。ほら」
プラプラと腕を振る諫山黄泉の周りを、「対策室で見る黄泉久しぶりだ」と土宮神楽がぐるぐると回り始める。部屋の端では飯綱紀之が腕を組んだまま一度だけ頷き、神楽の頭を撫でる諫山黄泉が小さく笑ってそれに返した。
「遅かったな」
「予定通りよ」
小野寺凛の軽口に、諫山黄泉はそれだけ返して席についた。
「それでは、最終確認に入ります」
二階堂桐が端末を持ち上げる。その手がほんの少し右へ動きかけて、止まった。
その先にいた諫山冥が、資料に目を落としたまま、ちらりと諫山黄泉の方を見たからだ。
「諫山黄泉、まずこちらに目を通しておいて頂けますか」
「はい、ありがとうございます」
その目線に促されるように、二階堂桐が黄泉に端末を渡す。
少しして、岩端晃司が今日の前衛の話を始める。その視線は一度諫山冥へと向かい、彼女が顔を上げないのを見て、何事もなかったかのように諫山黄泉へ移っていった。
小野寺凛も、例外ではなかった。
「昨日の報告書って――」
書類をめくりながら顔も上げずにそう言いかけて、はたと止まる。
「既に。黄泉さんに渡された資料にあります」
何か、と言わんばかりの澄まし顔で、諫山冥が答えた。
誰にも悪気はない。一ヶ月かけて身についた癖である。
上手く溶け込んだものだ、と思いながらも黄泉は笑顔のまま資料をめくる。なるほど、よく出来ている。
確認は十分もかからなかった。他の地点には監視を残し、筑波へは対策室のほぼ全員が入る。正面に小野寺凛、脇を諫山冥と土宮神楽と弐村剣輔で固め、岩端と桜庭の班が周囲の掃討に回る。
「問題は、ここが本命でなかった場合です」
二階堂桐の言葉に、小野寺凛が顔を上げた。
「黄泉は東京に残ってくれ」
「戻ってきたばかりの人間に、お留守番?久しぶりに羽を伸ばしたいのだけれど」
「鵺が一番速いからな。筑波が外れだった時、一番早いのは黄泉だ。最初の一手で機動力高いやつを固定したくない」
バイクなんで俺は今日役に立たん、と述べる小野寺凛。確かにこの雪をバイクで飛ばすのは文字通り死に直面する問題だろう。
「そういうことなら了解。任せたわよ?」
ウインクをしながら、諫山黄泉はあっさりと頷いた。諫山冥は、資料から顔を上げなかった。
「じゃ、行きますか」
小野寺凛が椅子から腰を上げたのと、室長の机の電話が鳴ったのは、ほとんど同時だった。
「はい、神宮寺です。あら、ご無沙汰しております。……ええ、大変な雪で」
朝から何度目かの電話である。小野寺凛は上着に袖を通しながら、それが終わるのを待った。
「はい。……小野寺ですか?本日はこれから出発しようかと」
部屋の視線が、小野寺凛に集まる。
小野寺凛は上着を着たまま立っていた。朝から数えれば、5本は超えている。どの電話も一分とかからず、どの電話でも室長は穏やかに相槌を打つだけだった。
次が鳴る前に、室長は電話を眺めて小さく息を吐いた。
「凛ちゃん」
「……朝から何本か鳴ってますよね?室長直は珍しい。嫌な予感しかしないんですけど、どちら様です?」
「先生方とその秘書の方々が何人か。皆さんお忙しいでしょうに、朝から同じことをお聞きになるのよ」
車椅子の肘掛けに頬杖をついて、室長はにっこりと笑った。
「今日、小野寺君はどちらにいるのかしら、って」
「……今から筑波ですね」
「そうお答えすると、皆さん黙ってしまうのよねぇ」
部屋が静かになった。
「……今このタイミングですか?しかもなんで何故俺に?政治家の知り合いなんて、1度2度会ったことある人がいるぐらいですよ俺」
「有望な若い男の名前って案外すぐに広まるものよ。……今回と関係あるかはわからないけどね」
動くなと言った者は、一人もいない。
小野寺凛にも、その意味は分かっていた。断ればどうなるのかも、これから口にする問いに意味がないことも、分かった上である。それでも、聞かずに上着を脱ぐ気にはなれなかった。
「その人達から紙、出してもらえませんか。命令なら命令で従いますよ」
「紙にしたら、茨城で色々あった時に名前が残るでしょう?だから、お電話なのよ」
「じゃあ、聞かなかったことにして行くってのは」
「個人的には許可したいところかしら。行ってもいいわよ?あなたは誰にも怒られないもの」
あっけらかんという室長。車椅子の肘掛けの上で、室長の指が小さく動いた。
「ただ、皆が少し動きにくくなるかもしれないわねぇ」
二階堂桐が珍しく頭を振る。諫山冥と黄泉もやれやれと言った表情を浮かべる。それを皮切りに対策室の面々が明確に顔を歪める。
その「少し」がどの程度のものか、この部屋の全員が知っている。現場の判断を自由に通し、報告書一枚で済ませて来られたのは、そのたびに上との折衝をこの人が受けてきたからだった。
戦う力が物を言うこの業界で、車椅子に座り、誰も戦う姿を見たことのないこの女性に皆が従っている。それは、ひとえにその手腕によるものだった。
自分が行けば、何かが変わるのか。
変わる。それは断言できる。だが、
―――小野寺凛なら、この状況でも間違いなく出る。
本人もそう思っているし、周りもそう思っている。ならば、敵も同じことを考えているはずだった。
―――室長の首と筑波なら、筑波を選んでもいいですか。
喉元まで出かかったその一言を、小野寺凛は飲み込んだ。
心情だけで言えば、筑波である。だが、神宮寺菖蒲は替えの利かない人だ。小野寺凛はそう評価しているし、この部屋の誰に聞いても同じ答えが返ってくるだろう。
「―――それをしたら、次の室長はきっと凛ちゃんじゃないわよ」
飲み込んだ一言を見透かしたように、穏やかな声のまま室長は言った。
「電話の向こうの誰かが、連れてくる人。凛ちゃんの出番は……不死子お祖母様がどれくらい頑張るか次第かしらね?」
「……了解。東京に居ますよ、俺は」
声に、わずかに棘が混じった。そればかりは許してくれと、小野寺凛は思う。
室長の椅子そのものに、小野寺凛は興味がない。それは神宮寺菖蒲も同じだろう。
だが、一体どういう風の吹き回しだ。
政治家と顔を合わせたことがないわけではない。ただ、親しいと呼べるのは父である小野寺蓮司の知り合いくらいで、退魔師としての小野寺凛を知った上で付き合いのある者は少なかった。縁談を持ってきた者なら何人かいたが、こんな形で名前が使われるのは初めてだった。
十秒ほどそのまま天井を睨んでから、上着を脱いで、椅子の背に掛ける。その間に、机の電話がまた鳴り始めていた。
「よかったじゃない。羽を伸ばせるのは、凛の方だったみたいね」
資料を閉じた諫山黄泉が、小野寺凛の方を見ずに言う。
「お留守番は交代ね。筑波は私が片付けておくわ」
「……頼む」
「凛はここで、電話番でもしてなさい」
小野寺凛を残した一行が対策室を出たのは、それから二十分ほど後のことである。
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一行が筑波山麓に入ったのは、午後四時が近づいた頃だった。
東京を離れるにつれて雪はさらに深くなり、車両が進めなくなった所から先は徒歩に切り替えた。墓まで残り数キロ。そこで、前方の雪が内側から盛り上がった。
カテゴリー B が二体に、取り巻きの C が十数体。
やはりここだ、とその場の誰もが思った。
『黄泉、向かって2時方向に二体。冥さんは黄泉のバックアップ。神楽と剣輔は前線にカテゴリー C を絶対にいかせるな。抜かせるなよ?』
耳元の無線から、東京に残った小野寺凛の声が飛ぶ。
「了解」
「承知しました」
右から回り込んできた巨体の腕を、諫山黄泉が半歩だけ踏み込んで潜る。獅子王が走る。切断される右腕。まるでバターを熱々のナイフでなぞったかのように切り分けられたそれは、質量からは想像できないほど軽い音を立てて雪に転がる。
そのまま切り倒して進むかと思われたが、彼女はそこで刀を振り抜かず、するりと左へ流れて間合いを空けた。
その空いた場所に、横合いから薙刀が差し込まれる。
指示は一言も出ていない。切っ先は巨体の膝を断ち、崩れ落ちた胴を、戻ってきた獅子王が両断する。
二体目は、さらに短かった。
諫山冥の薙刀が、雪面すれすれを低く薙ぐ。狙いは踏み込んできた巨体の足首だった。軸足を払われた巨体が、つんのめるように前へ傾く。
その刃の上を、諫山黄泉が見もせずに飛び越えた。
もちろん、ただ避けたわけではない。前へ傾いた巨体の頭は、跳び上がった彼女の目の高さまで落ちてきている。跳躍の頂点で振りかぶった獅子王を、諫山黄泉は落ちる体の重さごと振り下ろした。
首が雪に落ちる。諫山黄泉が降り立つ先からは、薙刀を引き戻した諫山冥が、既に半歩退いていた。
目配せすらない。
「ねぇ剣ちゃん。あの二人、一緒に戦うのって初めてなんだよね?」
「……そのはずだけどな」
後ろの線で C を蹴り飛ばしながら、土宮神楽はぽかんと口を開けていた。
最後の C が雪に沈むまで、そう長くはかからなかった。
「状況終了です」
無線に告げる諫山冥の声に、息の乱れはなかった。
『……早くないっすか?こっちの図、まだ赤いのが三つ残ってるんですけど』
少し間を置いて返ってきた小野寺凛の声に、二人は顔も見合わせない。
この雪で、現地の観測は中継を挟んでいる。東京の分布図に届くのは、数十秒前の筑波だった。
「更新が追いついていないだけでしょう」
「そっちが遅いのよ」
どちらも素っ気なかった。
そこから先は、雪を掻き分けて登るだけの道になった。墓に近づくほど湧いてくる C を払いながら進み、古びた鳥居が見えたのは、日が落ちる少し前だった。
石標を退けるまでもない。近づく前に、その場の全員が分かっていた。
「……中身、ないよね」
土宮神楽の声は小さかった。
封じの外形は残っている。注連縄も、杭も、土も荒らされていない。それなのに、地下の空間は空だった。
骨壺がない。破壊されたのでも、持ち出されたのでもない。初めから何もなかったように、内側だけが抜け落ちている。
「どういうことだよ、これ。だって俺達はあの時―――」
弐村剣輔が穴の縁へ手を伸ばし、直後、地面が揺れた。
地震ではない。北から押し寄せた霊圧が、大気と山と、その場にいた全員の骨を同時に震わせる。
各自の端末が、一斉に警告音を上げた。
『――福島県いわき市、四倉。観測限界を超過しました』
二階堂桐の声が、一拍遅れて無線に乗る。
『カテゴリー B、C の反応、多数。―――A の反応も確認』
現場に一気に緊張が走る。筑波から消えた遺骨。いわきに現れた巨大な反応―――カテゴリー A。
自然災害と同列に語られるそれは、一体で戦術どころか戦略すらひっくり返す戦力を持つ。
それが福島に突如現れる。二つを無関係だと考える者は、その場に一人もいなかった。
「……生前の縁地」
諫山冥が呟いた。
滝夜叉姫は、この土地で死んだわけではない。如蔵尼と名を変えて余生を送り、最期を迎えたのは、いわきだと伝えられている。
『四倉に遺物の登録はありません。如蔵尼の墓と伝わるものは数件ありますが、いずれも後世の作り物です』
「作り物でも、長く拝まれれば土地には溜まります」
諫山冥の視線は、空になった穴へ落ちたままだった。
「ここで膨らんだものが、縁を辿って向こうで目を覚ました。今はそう考えるしかありません。墓を押さえに来た時点で、私達は」
その先を、諫山冥は言わなかった。
筑波から四倉までは百五十キロ近くある。しかも今自分たちが居るのは山だ。この雪の中を、車で間に合う距離ではなかった。
強い風が吹いた。
土宮神楽が目を庇って顔を上げると、諫山黄泉の背後で雪が巻き上がり、そこに黒い影が立ち上がっている。
「凛、聞こえてる?」
いつの間にか呼び出された鵺の背へ、諫山黄泉は片手をかけた。
「私が行くわ。残りはよろしく」
『無理に当たるな。―――やな言い方になるが、一人じゃお前でも
「はいはい」
諫山黄泉が鵺の背に跨る。飛び立つまでの、ほんの数秒のことだった。
数歩先にいるその背中へ、諫山冥は襟元の無線で話しかけた。
「お一人で大丈夫なのですか。復帰したばかりでしょう」
声を張るまでもなく届く距離である。それをわざわざ無線に乗せたのだから、東京にも、ここにいる全員にも聞こえている。
鵺の背の上で、諫山黄泉が小さく笑った。振り返らずに、こちらも無線で返す。
「あら、心配してくださるんですか?冥義姉さん」
「ええ。病み上がりの次期当主に何かあっては、諫山の名に障りますから」
「ご心配なく。足止めくらいなら、片手でも足りますから」
そう返してから、声が少しだけ変わる。
「それより、冥義姉さんの方です。私が抜けたら、護衛が一人減りますよ」
三途河カズヒロに狙われているのは、諫山冥の方である。
「大丈夫!」
答えたのは、諫山冥ではなかった。すぐそこにいる諫山黄泉に向かって、土宮神楽がわざわざ無線のボタンを押している。
「冥さんは私達で守るから。黄泉は前だけ見てて」
「任せてください。冥さんには指一本触れさせないっすよ」
弐村剣輔も、新たに受領した舞蹴を担ぎ直しながら、同じように無線で続けた。顔を見て言えば済む話を、二人とも全員に聞こえるように言っている。
諫山黄泉は、二人の顔を順に見た。
「……そう。頼もしくなったわね、二人とも。行ってきます。―――良いわね!凛」
『……ああ。……ちゃんと戻ってこいよ』
東京からの返事には、いつもの軽さが少しだけ足りなかった。
それを聞き届けたのかどうか。黒い影が、雪の空へ舞い上がった。
残された三人の周りで、雪が次々と盛り上がり始める。現れた群れは、誰の命令を受けたわけでもなく、揃って南を向いていた。
「……行きますよ」
薙刀を構え直しながら、諫山冥が言った。
「さっさと片付けましょう」
空になった穴の、さらに下。そこにまだ何が残っているのかを言い当てられる人間は、東京にいた。
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霊力分布図の上で、光の点が一つ、北へ離れていく。
図の更新は、相変わらず数十秒遅れて届く。小野寺凛がそれを見た時には、諫山黄泉はとうに筑波の空にいたはずだった。
一時間前、同じ図の上で、あの点はもう一つの点と並んでいた。戦闘の最中の動きは、図には残らない。更新のたびに赤い点が減っていき、最後には光の点が二つ、並んでいるだけだった。
それでも、間に何があったのかは見当がついた。
つい先ほど、無線の上で嫌味を交わしていた二人である。数時間前には、この部屋の空気を冷やしてもいた。
同じ家に生まれ、幼い頃から並んで稽古を積んできた二人だった。小野寺凛は知る由もないが、小野寺凛が前世で没してから発刊されたスピンオフで、二人の共闘が描かれている。想像ではなく事実として、二人は共に研鑽と実践を積んできたのだ。
小野寺凛が前世で見た物語の中で、二人は殺し合っていた。だが、元々はこうだったのだろう。背中を預けるかどうかという話ですらない。体が覚えている。
それは、相手の間合いも癖も、―――殺し方も全て知っているということでもあった。
小野寺凛は、その考えを頭の隅へ追いやった。
『本体、南下を開始。推定速度、時速六十キロ以上』
対策室の地図の上で、二階堂桐の指がいわきから大手町へと線を引く。
「……縁の地で復活は流石に予期しないってば」
小野寺凛は椅子から立ち上がっていた。
東京からいわきまでは二百キロ弱。今から出ても、本体の方が先に東京の入り口へ着く。それは小野寺凛にも分かっていた。ただ、線の途中には柏があり、松戸があり、迎え撃つのに都合の良い場所がいくつもあった。
「室長。せめて柏まで」
答えより先に、机の上の電話が鳴った。
室長は受話器を見て、小野寺凛を見て、何も言わなかった。
電話は鳴り続けている。
「……二階堂さん」
「はい」
「進行方向で都内で一番外に近くて、一番人がいなくて、一番広い場所」
二階堂桐の指が、線の上を少しだけ戻る。
東京都葛飾区、水元公園。
都内の北東の端、川を一本越えれば埼玉という場所だった。
「現状の縛りの上で選ぶなら、ここが鬼門の最終防衛ラインかつ、最前線防衛ラインになるでしょうね」
「そこ抜かれたら、平将門と娘さんが千年越しにご対面ってわけだ」
誰も笑わなかった。日本を代表する怨霊と、その娘がご対面だ。どれだけの事態になるかは想像もつかない。
たかだか16,17の少女・少年が東京の切り札として扱われる現代。それよりも昔の、神秘が濃かった時代の、その中でも選りすぐりなのだ。
都内で迎え撃つ以上、街から切り離さなければならない。ただの結界で閉じ込められる相手ではなかった。
『結界なら、案があるわ』
無線から、諫山黄泉の声がした。風を切る音が、絶えず後ろで鳴っている。
『中へ入れるのを、三人までに絞るの。その代わりに、中からは決して壊せないものにする。滝夜叉姫でも出られないわ』
「三人か」
『ええ。水元公園なら、地脈の条件も満たしてる。うちの書庫に、同じ土地で使った記録があったはずよ』
入れる者の数を絞り、出られる条件を絞る。その代わりに、閉じ込める力を引き上げる。
ハンター漫画で言う所の制約と誓約であり、某20本指漫画で言うところの縛りか、と小野寺凛は思った。前世で読んだ漫画の理屈が、この世界でもそのまま通るのは実証済みだ。
ただ、あの世界のように簡単に条件をポンポン変更したり、自分だけの力でできるわけではない。対策室のエージェントの力も総動員しなければ、そんな難しい結界なぞ作れるはずもない。
鵺の背で本体を追いながらの提案だというのに、諫山黄泉の声に乱れはない。その意図を汲んだように、二階堂桐がすぐに端末を叩き始めた。都内に残っているエージェントを、片端から水元公園へ回すつもりらしい。
「間に合います。動ける人員を、全員回せばですが」
「回してくれ。……よし、それで行く。中は俺と――」
『一つ、よろしいでしょうか』
小野寺凛は口を閉じた。
『黄泉は今、一人で本体を追っています。その足で中へ入れば、閉じた後は誰も助けに入れません。滝夜叉姫を倒すか、中の者が倒れるまで、一人で持たせることになる。今日の黄泉には、荷が重いのではないかと』
静かな声である。心配している声とも取れたし、ただ事実を並べているだけの声とも取れた。
二階堂桐の指が止まり、室長が地図の上の光点を見る。しばらく、風の音だけが無線に乗っていた。
『先ほども申し上げましたよ、冥義姉さん』
風に負けないように張られたその声は、笑っていた。
『その枠、私が頂きます』
「できるんだな」
『誰に聞いてるの?』
「じゃあ決まりだ。―――いいですね?冥さん。二階堂、書いといてくれ」
『出過ぎたことを申しました』
諫山冥はそう言って、あっさりと引いた。
二階堂桐の端末が、短く鳴った。
「本体、都県境への到達予測、二十時。水元公園への到達予測、二十時から二十一時です」
あと三時間と少し。
小野寺凛は椅子の背から上着を取り、袖を通した。
机の電話は、今も数十分おきに鳴っている。この豪雪がカテゴリー A によるものだとほぼ確定した今、その圧力はさらに強くなっていくだろう。
小野寺凛は、窓の向こうの空を見やった。
夜だというのに、雪雲はどこか明るい。満月は、どこにも見えなかった。