筑波の山を下りた車両が、土浦北インターから常磐道に乗ったのは、午後五時半を回った頃だった。
このまま常磐道を南へ下り、三郷で降りれば、水元公園までは目と鼻の先である。晴れた日なら一時間もかからない道のりだった。
もっとも、高速に乗ったところで速度は大して変わらない。速度規制の電光表示が五十を示したまま、除雪の追いつかない路面には轍が二本あるだけで、前を行くトラックのテールランプは、雪の向こうで滲んだまま一向に近づいてこなかった。除雪の追いつかない路面には轍が二本あるだけで、前を行くトラックのテールランプは、雪の向こうで滲んだまま一向に近づいてこなかった。
運転席では、環境省の職員が無言でハンドルを握っている。助手席の諫山冥は、先ほどから端末で二階堂桐とやり取りを続けていた。
後部座席では、土宮神楽がコンビニのおにぎりを開けている。
「……神楽、それ何個目だ」
「三個目。だってお昼食べてないもん。剣ちゃんも食べなよ、まだあるよ」
「いらねぇ」
弐村剣輔は、窓の外を見たまま答えた。膝の間には、受領したばかりの舞蹴が立てかけてある。
筑波で見た墓のことが、頭から離れなかった。
あの墓には、一度行っている。小野寺凛の指示で、確かに骨壺があるのを見て、遺物としては死んでいると全員で確認した。結界を張り直したのは、土宮神楽と諫山冥である。
それが、骨壺ごと抜け落ちていた。
張り直した結界は壊れていなかった。注連縄も杭も、荒らされた形跡はない。つまり、外から何かが入ったわけではない。
……だから何だ、という話でもある。
墓の下で溜まっていた力が、遺骨ごと縁を辿って向こうへ移った。諫山冥はそう言ったし、筋は通っている。筋が通っているから、弐村剣輔にはそれ以上何も言えない。
ただ、もう一つ引っかかっていることがあった。
黄泉が飛び立ってからしばらくして、無線に乗ったやり取りである。荷が重いのではないかと言った声も、その枠を頂くと返した声も、弐村剣輔は戦いながら聞いていた。
嫌味を言う時と、心配する時で、声の温度がまるで違う。片方は鵺の背に向けてわざわざ無線に乗せた嫌味で、もう片方は、対策室の全員に聞かせた心配だった。
どちらが本音なのかは分からない。分からないが、心配の方が平らだった、ということだけは耳に残っている。
『――冥ちゃん、聞こえる?』
車内のスピーカーから、室長の声がした。諫山冥が端末を操作し、後部座席にも聞こえるように音量を上げる。
「はい、聞こえております」
『結界の話なんだけどね。中から出られないようにするなら、中からの力に耐える支えが要るって、桐ちゃんが』
『補足します。要の場所は、地脈で既に決まっています。公園の西の端、南の入口の脇、それから北東の端、都県境に面した古い封じの地。この三箇所が結界の強度を支え、結界の境目は杭で引きます。結界そのものは、外から叩いても簡単には壊せません。ただし、要を一つでも壊されれば、その時点で結界は崩れます』
二階堂桐の声が続く。
『問題は範囲です。水元公園は、東京ドームに換算して二十個分ほどあります。全域を囲えば、要一つあたりにかかる負荷がそれだけ大きくなる。中で滝夜叉姫が暴れれば、要の方が先に保たなくなります』
『それで、冥ちゃん。どこからどこまで囲うか、人をどう置くか。何か案ある?』
諫山冥は、膝の上の端末に目を落とした。
「全域を囲う必要はないかと。本体が向かっているのは、あくまで大手町です。放っておけば、この公園を通る理由はありません。黄泉と現地のエージェントの方々が、都県境を越えたところで北東から公園へ引き込む手筈になっています」
一度言葉を切って、諫山冥は続けた。
「であれば、入ってくるのは北東からです。そこから奥の、森と水面に囲まれた一帯に範囲を絞れば、要にかかる負荷は半分以下で済みます。街から中の様子も見えません」
『……その範囲であれば、要は保ちます』
端末を叩く音の後で、二階堂桐が答えた。
結界の壁は、外から叩いても割れない。割れるとすれば、要が落ちた時だ。だから要には対策室の班を置き、都内から集めたエージェントでその周りを固める。三つのうち一つでも落ちれば、それで終わりである。
『要の方は?』
「西の要は岩端さんの班が妥当かと。街に面していて、人も物も一番回しやすい場所です。南の要は桜庭さんの班に。入口に近いので、人と物の出入りもお任せできます」
『北東の要は?』
「あそこは古い遺物の上に要を据えることになるので、三箇所の中で一番筋が乱れやすい。それに、本体を引き込む入口のすぐ脇です。後ろからついてくる群れが最初に当たるのも、あの場所になります」
諫山冥は、そこで一度言葉を切った。
「ここは私が担当します」
無線の向こうで、一拍の間があった。
『……冥さん』
小野寺凛の声である。
「三途河カズヒロの狙いが私であるなら、結界から離れた場所で引きつけることもできます。土宮神楽と弐村剣輔をお借りできれば」
返事は、しばらく来なかった。
一番崩れやすい要に、一番狙われている人間を置く。護衛としては全力で嫌な話だろう。ただ、黄泉は結界の中に入る。代わりを出そうにも、出せる人間がいなかった。
「あの、いいすか」
弐村剣輔は、窓から視線を外した。
「遺物の上って、そっちは大丈夫なんすか?」
「既に死んでいます」
諫山冥は、振り返らずに答えた。
「以前、確認しました。記録も残っています」
「……そうっすか」
筑波の墓も、死んでいると確認した場所だった。
その言葉を、弐村剣輔は口にしなかった。口にしたところで、筑波は筑波、要は要である。それに、確認したのは諫山冥一人ではない。自分も、その場にいた。
『了解です。続きは公園で』
小野寺凛の声は、それだけ言って切れた。
「冥さん、また私達が一緒ですね」
おにぎりの包装を丸めながら、土宮神楽が笑う。
「ええ。頼りにしていますよ、神楽さん」
その声は、柔らかかった。土宮神楽が袋の底から最後のおにぎりを差し出すと、諫山冥は少しだけ迷ってから、断らずに受け取った。
ふと視線を上げると、バックミラー越しに諫山冥と目が合った。
先に逸らしたのは、弐村剣輔の方だった。
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閉鎖された水元公園は、雪の中で別の場所のように静まり返っていた。
メタセコイアの森も小合溜の水面も白く均されて、どこまでが地面なのか既に怪しい。その白の上を、環境省の術者達が等間隔に杭を打ち込みながら進んでいく。都内に残っていたエージェントを、文字通り片端から掻き集めた結果である。
小野寺凛が公園に入ったのは、午後六時を少し過ぎた頃だった。
都内の道も、雪で死ぬほど混んでいる。それでも同じ都内から向かう分、筑波から戻ってくる組よりはずっと早い。
東京から出られない人間にできることは、それほど多くない。杭の並びを確かめ、配置を確かめ、無線を聞き、また杭の並びを確かめる。それを三十分ほど繰り返したところで、頭上で雪が渦を巻いた。
黒い影が、杭の列の向こうへ降りてくる。鵺の背から飛び降りた諫山黄泉は、髪についた雪を払いながら、何事もなかったように歩いてきた。
「ただいま」
「おう。本体は」
「向きはもう変わらないわ。ここに来る」
諫山黄泉は、雪の上に指で線を引いてみせた。
「いわきを出てから、ずっとあれの鼻先を飛んでたのよ。最初に目に入ったのが私だったみたいで、それからは一度も目を離さない。よっぽど鬱陶しいんでしょうね」
「それで引っ張ってきたのか」
「私だけじゃないわ。柏の手前から、現地のエージェントが南と西の道筋に片端から札を張ってくれてる。あれにとって通りやすい筋は、もう北東から公園に入る一本しか残ってない」
指先が、線の先を公園の北東の端で止める。
「念のため、土浦を過ぎたあたりで離れてみたの。それでも向きは変わらなかった。私を追う理由がなくなっても、通りやすい筋を選ぶ。もうここ以外には行かないわ」
『補足します』
無線から、二階堂桐の声が入った。
『進路の予測幅、公園の北東に収束しました。到達予測、二十時半。誤差は前後十分以内です』
「……よし」
小野寺凛は、短く息を吐いた。
これで、全員をここに寄せられる。筑波から戻ってくる組も、要に付く班も、どこへ散らす必要もなくなった。来ると分かっている場所で、来ると分かっている時間に、待てばいい。
「怪我は」
「ないわよ。片手で足りるって言ったでしょ」
いつも通りの声だった。少なくとも、そう聞こえる程度には。
ただ、鵺から降りた時、諫山黄泉は着地の衝撃を肩で殺していなかった。雪を払う手も、右と左で高さが違う。
肩だった。
前に傷を負ったのは腕の方である。そちらは、プラプラと振ってみせた昼と同じように動いている。ということは、これは今日、あの化け物の鼻先を飛び回っている間に新しく貰ってきたものだ。
小野寺凛は、それ以上聞かなかった。
聞いたところで、この人は同じ答えしか返さない。それに、浅い傷なのは動きで分かる。鼻先を何時間も飛び続けて、この程度で済ませてきたこと自体が、むしろおかしいのだ。
「……そうかよ」
「そうよ」
諫山黄泉は、何事もなかったように、これから結界が張られる森の方を見やった。
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筑波から戻った車両のライトが雪の向こうに見えたのは、午後八時の少し前だった。
常磐道を三郷で降りてからの道が、一番混んでいたらしい。
「凛ちゃん!」
車両が止まるより先に、土宮神楽が飛び降りてくる。その後ろから、弐村剣輔が舞蹴と荷物を抱えて降りた。
「おう。お疲れ。筑波の残り、全部片付けたんだってな」
「うん!剣ちゃん、舞蹴もう使いこなしてたよ。受け取ったばっかりなのに」
「使いこなしてねぇよ。振り回されてたんだよ」
気を抜くとすぐガス欠になっちまう、と述べた弐村剣輔が抱く得物に、小野寺凛の視線が向いた。
一見すればただの刀だが、その刀身から柄まで全て一つの金属で出来たその有様は、よくよく見ると異様である。その鞘にはまだ筑波の雪が溶け残っていて、新しい塗りの上には、早くも細かな傷が幾筋か走っていた。それでも弐村剣輔は、それを荷物と一緒くたにはせず、雪の上にも置かず、肩から下ろそうとしない。
舞蹴レボリューション。
刀への愛と、生半可ではない覚悟。その二つがなければ、抜くことすらできない刀である。
前世で見た物語の中で、あれが弐村剣輔の手に渡るのは、もっと先の話だったはずだ。少なくとも、あと二年は。
渡される時の言葉も、確か違っていた。物語の中の刀匠は、もっと試すような渡し方をしていた気がする。少なくとも、受け取った本人が、こんな顔で担いでいるような場面ではなかった。
「……なんすか、その顔」
「いや。似合ってるなと思ってな」
嘘ではない。
あの刀を、弐村剣輔はもう抜いている。抜けるだけの覚悟を、二年も早く持ってしまったということだ。それは素直に誇らしいし、少しだけ眩しくもある。
ただ、それだけでもなかった。
二年早く渡ったものがあるなら、二年早く来るものもあるのかもしれない。物語を知っているというのは、物語の通りに進むのであれば、という話でしかない。そしてこの世界が物語から外れていく理由に、小野寺凛は一つだけ心当たりがあった。
「お疲れ様です」
最後に降りた諫山冥は、肩の雪を軽く払っただけだった。筑波であれだけ動いた後だというのに、顔色一つ変わっていない。
荷物を下ろしながら、土宮神楽が杭の列を見回す。
「―――はえー。すっごい数。……剣ちゃん確認なんだけど、入れるのは、要に名前を記した人だけ。三つのどこで記してもよくて、中からはどうやっても壊せなくて、出られるのは中の怨霊が全滅するか、中の退魔師が全滅するか。そのどっちかになったら、いつでも壊せる。……で合ってる?」
「合ってる。あと、壁そのものは外から殴っても割れないらしい。ただし、支えてる要が三つあって、そのうち一個でも壊されたら全部終わり」
「じゃあ、私達が行く北東が一番大事ってことだよね。群れが最初に来るの、あそこなんでしょ」
「……そういうこと」
杭の並びを確かめながら、小野寺凛は内心で頷いていた。
中からはどうやっても出られず、壁は外から殴っても割れない。その代わり、支えを一つ壊されればそれで終わり。こうなるともう、某20本指漫画の帳である。
ただ、あちらの帳のように、術者が一人でぽんと降ろせるものではない。要の一つ一つに対策室の班が付き、その周りを都内から掻き集められたエージェントが固めている。三つのうち一つでも落ちれば、それだけで全部が崩れる。
到達予測まで、もう三十分ほどしかない。
荷物を置いた弐村剣輔が、杭の列の際に立つ諫山黄泉の方へ向かった。
「黄泉さん、ちょっといいすか」
「何?」
「剣ちゃーん!冥さん、もう出るってー!」
「今行く!」
土宮神楽の声に振り返って怒鳴り返した弐村剣輔が、それから諫山黄泉へ向き直り、何事か短く続ける。雪が音を吸って、その声は小野寺凛のところまで届かない。
諫山黄泉は美しい笑みを浮かべ小さく頷いて、それから、すぐ傍の南の要へと歩いていった。
要の石組みに指先を当て、霊力で自分の名を記す。一人目の名が刻まれた石組みが、ほんの一瞬だけ淡く光った。三つの要は繋がっていて、どこで記しても、残る二つにも同じ名が浮かぶ。
それを見届けてから、諫山黄泉は杭の列を越え、結界が張られる森の方へと歩いていった。
北東の要へ向かう車両の前で、諫山冥は肩の雪を払っていた。その後ろでは、土宮神楽が荷物を積み直し、弐村剣輔が地図を確認している。
北東の要は、結界の外、公園の北の端にある。距離にすれば大したことはないが、雪に埋もれた園内の道を迂回していくので、車でも二十分は見ておく必要がある。降り続ければ、もう少しかかるだろう。
「気をつけてください。三途河が出たら、とにかくすぐ呼んでください」
見送りに来た小野寺凛に、諫山冥は静かに頷いた。
「ええ。何かあれば」
「まあ、呼ばれなくても行きますけど」
いつも通りの軽口だった。少なくとも、小野寺凛の方はそのつもりだった。
諫山冥の手が、一瞬だけ止まる。
雪の向こうから小野寺凛を見たその目は、やはり何も読み取らせない。
「……ええ」
小さく微笑んで、諫山冥は車両へと乗り込んでいった。
「存じています」
扉が閉まる。
テールランプが白い闇の中へ遠ざかっていくのを、小野寺凛はしばらく見送っていた。
その耳元で、無線が短く鳴る。
『本体、都県境に接近。水元公園への到達予測、二十時半』
小野寺凛は振り返った。
雪の中に並んだ杭が、端から順に、淡く光り始めていた。