ガンダムビルドファイターズ Evolution   作:さざなみイルカ

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 そこには、水がなかった。

 代わりに、太陽の日差しと、優しい潮風と、静かな波の音が、その世界を満たしていた。

 これが、地上――――。

 アクアの翡翠色の瞳に映る、まだ見ぬ未知の世界。彼女は慣れない足取りで、一歩踏み出した。虹色の真珠の力で得た二本の脚から伝わる、大地の感触。
 それは|




 ~佐々波イルカのパソコン 執筆中の文章より~



01話-03「佐々波イルカの素顔」

≪③≫

 

 

 話題作『水の国のアクア』の著者、佐々波イルカは謎に包まれている。

 

 本名や容姿は勿論のこと、年齢、性別、職業、その他一切が明らかにされていない。ある者は知性溢れる美女だと信じ、ある者は優れた感性をもつ美男だと想像する。豊かな人生経験を極めた老婆と予想する者がいれば、天賦(てんぷ)の才に恵まれた男児だと噂するものもいる。果てには同一性障害者、人気アイドルの裏の顔、幽霊、宇宙人という説まで出てきている。

 

 どの流言が真意なのか、大衆は未だにその答えを知らない。

 

 ただ明確なのは、佐々波イルカの被る「謎」という仮面が、小説の内容に輪をかけて人気と注目と話題を呼んでいるという事実だ。

 

 

 

 海嶋ミコトは、インターネットで佐々波イルカの正体について議論されたトピックスを読んでいた。

 

 

6: 名無し 20XX/04/10(日) 18:23:21.30 ID:××××

きっと綺麗な人!!間違いない!!じゃないと死ぬ!(>ω<)

 

8: 名無し 20XX/04/10(日) 18:29:05.00 ID:××××

女の人じゃないの?もし、男の人だったら相当な才覚の持ち主

 

17: 名無し 20XX/04/10(日) 18:42:36.71 ID:××××

イルカは私の王子様

 

22: 名無し 20XX/04/10(日) 18:44:50.47 ID:××××

アナハイム出版社編集部の友達から聞いた。

佐々波イルカの正体→(http://www.▲▲▲▲.com/▲▲▲▲/××××.htm)

 

24: 眼帯ストーカー 20XX/04/10(日) 18:46:25.20 ID:G.F.Ready Go!

いやはや、興味をそそられますねぇ

 

 

 

 自分の部屋の、ノートパソコン。ディスプレイから放たれるブルーライトに顔を照らされつつ、彼女は画面をドラックさせる。

 

 18時44分の書き込みの中に載っているURLは、おそらく、アダルトサイトにでもつながっているのだろう。

 アナハイム出版は、イルカのミステリアス性を商品武器として重宝している。秘密保持のため、担当を除いて編集部であってもその正体を知らない。

 

 その担当者の人となりを知っているミコトは、その人が口外するなんて、想像できなかった。

 

 もしも、『水の国のアクア』の読者が、佐々波イルカの正体を知ったらどう思うのだろう。自分みたいな、地味で、臆病で、別段綺麗なわけでもなく、知性も感性も平凡な普通の女子高生だと知ったら。 

 思い浮かべた瞬間、ミコトの背筋に激しく冷たい兇夢(きょうむ)が走る。

 

 佐々波イルカは、彼女のペンネームだった。彼女こそが、『水の国のアクア』の作者なのである。

 

 

 ウィンドウを閉じ、その下にすでに開いていたワープロソフトと顔を合わせる。そこには、描き差しの原稿があった。

 

 主人公・アクアが、ついに地上世界に足を踏み出した。

 

 その心は、目的に向かって突き進む、強い意志で満たされていることだろう。きっと彼女はこの先、様々な出会いを経て成長し、兄との再会を果たし、海の平和を取り戻すに違いない。

 ミコトは、アクアの冒険の果てに、ハッピーエンドを用意して物語を作り始めた。作者である彼女自身、自分の殻を突き破って外の世界に踏み出した人魚姫が、最後に幸せを掴む姿が見たかったのだ。

 

 しかし今、彼女()の物語は止まっている。書籍が発売される2週間前から、佐々波イルカの更新は止まってしまっていたのだ。

 

 ダイオウ貝を倒して、手に入れた虹色の真珠。その真珠の力によって、地上に踏み出すための脚を得たアクア。

 生まれて初めて踏む土の感触。

 

 それは、“何”なのか―――。

 

 アクアの成長の証?未知の世界に来たという象徴?それとも、新しい冒険の予兆?

 

 自問自答した結果、頭に浮かんだいくつかの回答。それらをそれぞれ、反芻(はんすう)した。それらは、どれも状況に合っていたが、正解とは思えなかった。

 

 もう一度、自分の感性の泉に光を当ててみる。彼女はなんとしても、本当の正解が欲しかった。自分が納得できる文章が。

 

 作った作品が人気を博し、書籍化されたという栄光。それは、佐々波イルカである少女に、大きな使命感と、それを上回るさらに大きな重圧を与えていた。

 

 パソコンの前で座り尽くすミコト。

 すると母親が、丁寧に畳まれた衣類を持って彼女の部屋に入ってきた。

 

「ミコトちゃん、洗濯した衣類どこ置こうか?」

 

「ご、ごめんなさい!お母さん」

 

 すぐさま立ち上がり、彼女の抱えていた自分の衣類を受け取るミコト。

 

 家族に対する態度にしては、かなり他人行儀の、畏まったものだった。

 それもそのはずである。何故なら、実際数年前までは、お互い面識のない赤の他人だったのだから。

 

 

 この家に住む前、ミコトは実の兄と共に児童養護施設にいたのだ。今の母親と、その旦那は、彼女の里親である。

 

「ミコトちゃん、高校はもう慣れた?」

 

 母親は、穏やかな声と表情でミコトに話しかける。

 

 白髪まじりの頭髪、口と目元にくっきりできた皺。母親というよりも、祖母に近い年齢の彼女。温和な性格の持ち主で、血の繋がりのない娘に暖かく接する優しい人格の持ち主だ。

 

「はい。学費まで出していただいて、本当にありがとうございます」

「何を水臭い。私たちは家族なんだから。それよりも、今の高校生って何かと大変でしょ?いじめとか……。ミコトちゃんは良い子だけど、悩みごととかあったら何でも相談してね」

「本当に、大丈夫です。友達も沢山できて、とても楽しんでます」

 

 後半は嘘だった。いじめられているわけではないが、友達と呼べる人なんていないし、学校を楽しいととても思えない。毎日、存在感を殺して周囲の空気になるのが精いっぱいだ。

 

「そう……。それはよかったわ」

 

 しかし、自分に良くしてくれる両親の前に心配をかけさせたくない。問題がない体を装い、出来るだけ良い娘でいたかった。

 

『オカーチャン!オカーチャン!』

 

 母親の姿を、その小さな目で捉えた小型球形ロボット・ハロが、急に言葉を発する。

 タンスの上の充電機の上で、耳のような羽をパタパタさせ、丸くて青い身体を左右に動かす。

 

「あら、ハロちゃんはいつも元気ね」

「はい。いつも充電してますから」

『ゴハンマダ?オカーチャン!ゴハンマダ?』

 

 ミコトはハロを充電器から離し、畳の上に置く。

 すると、ハロはゴム毬のように身体を弾ませ、部屋中をぴょんぴょんと跳ね回り始める。

 

「それじゃあね。お風呂もうすぐ沸くから」

「はい」

 

 母親は、部屋を後にする。

 

 ミコトは再び椅子に腰を下ろし、小さく溜息をついた。

 

 すると、さっきまで飛び回っていたハロが、転がってミコトの足元までやってくる。

 

『ドーシタ!ゲンキ、ネーゾ!ゲンキ、ネーゾ!』

 

 そこに内蔵されている人工知能は、その主人を気に掛けてくれているようだった。

 

 ミコトは、ハロを自分の膝の上に置いた。

 その青い身体を撫でながら、これをプレゼントしてくれた兄のことに思いを馳せる。

 

 

 それは、ミコトが小学4年生だった頃の冬の記憶―――。

 

 

 

  ◇    ◆    ◇    ◆

 

 

 

 幼い頃は今以上に人見知りが激しかったミコト。

 同じ養護施設で暮らす他の子供たちが怖くて、いつも物置部屋の中に隠れて遊んでいた。

 

 そんな彼女に、歪んだ娯楽性を見出した一部の子供たち。ある日、物置部屋の鍵を閉めて、ミコトを閉じ込めた。

 暗くて寒い空間で、遊んでいたハロと一緒に監禁されたミコト。不安と恐怖で泣きわめき、必死にドアの向こうに助けを乞う。

 それから、1時間後。涙も気力も枯れ、部屋の隅で座り伏せていたミコトに、光が差し掛かる。

 

「ミコト!」

 

 兄だ。ミコトの兄が、鍵を開けて助けに来てくれたのだ。

 その姿を見た瞬間、枯れていた涙の水源は再び蘇り、彼女は無言で兄の胸に飛び込んだ。

 

 同じ養護施設にいる人の中で一番にして唯一信頼できる人。それが4つ年上の実の兄だった。名前は香澄(かすみ)

 

 ミコトは兄のことが大好きだった。いつも自分を守ってくれて、頼りになる。頭もよく、謙虚で、何より、全て包み込むような優しい包容力を持っていた。

 

 

 そんな兄には、妹以外は知らない秘密の楽しみが2つあった。

 1つがビリヤード。そしてもう1つが、ガンダムのプラモデルを使った戦い――“ガンプラバトル”である。

 

 学校が終わってから、施設の定めた門限6時までの間。いつも2人は、ある店に足を運んだ。雑居ビルの2階にある、ビリヤード場だ。

 大人ばかりが集うその店には、5つのビリヤード台の他に、ガンプラバトルの置き型バトルフィールドが1台設置されていた。

 

 兄はその店の常連で唯一の中学生で、どちらのゲームも強かった。

 特に、ガンプラバトルの腕は店を出入りする大人たちの注目を集め、毎日勝負を挑まれていた。中には、兄と勝負する為だけに足を運ぶ者もいたくらいだ。 

 

 一方ミコトは、ただの付き添いで、ビリヤードもガンプラバトルもしない。兄の戦う姿を見ているのが、何より好きだった。

 

 その日も、兄は客からバトルの挑戦を受けていた。

 

「行くぜ坊や!俺のゲルググの性能、見せてやるぜ!」

 

 蒼く輝く粒子の中で、広がる荒野。

 フレア状に広がった脚部と楕円状の盾が特徴的な、体格にボリュームのあるロボット。一つ目のそいつは、足裏の推進装置を吹かせて、兄のガンダムに迫りくる。

 その手に持っているライフルの口から、閃光が放たれる。3発。

 

 兄のガンダムは地面を蹴ってそれらを躱す。

 背に緑色の粒子を放つその機体は、戦いが始まったばかりなのにも関わらず、満身創痍だった。

 相手にやられたのではない。挑戦を受ける前からそんな状態だったのだ。

 

 青と白の身体に幾つもの傷。消失した左腕を布で覆い隠し、砕けた顔の半分は内装を向き出しにしたままだ。

 

「よし、もらった!」

 

 一つ目の機体は、ライフルを捨て、背中から筒状の武器を取り出す。刹那、その両端から光の刃が形成され、S字状の薙刀となった。

 その刀身を器用に振り回し、正面左側から距離を詰めてくる。

 

「ちっ……!」

 

 兄は瞬時にガンダムの身体を左に転身させ、同時に右腕に備わっている剣を出して、光の刃を受け止める。

 その剣も、先端が折れてなくなっている。

 

「あー、苦戦してるなぁ。香澄君」

 周囲の客も、キューを立てたまま、ガンプラ同士の戦いにくぎ付けになっていた。

 

「仕方ないよ。あのエクシア、ちゃんと修理できてないからな」

「ゲンさんも、むごいよ。腕のない左ばっかり狙ってる」

「いやいや、わからないよー?香澄君の実力は侮れないからね。あのエクシアも」

 

 椅子に座って観戦するミコトの隣で、数人の大人が話していた。皆常連の人で、兄妹とも顔見知りだった。

 

 養護施設暮らしの兄に、バトルで傷ついたガンプラを修復する道具をそろえることは困難だった。そのため、兄のガンダムは幾度の戦いでの傷を、その体に蓄積せざるを得なかった。

 

「よし!今日こそは勝たせてもらうぜ!」

 

 一つ目の機体は、袖付きの脚をガンダムの右腰に叩きつける。兄の機体は飛ばされ、地面に落ちた。

 追撃に飛んでくる敵。ボロボロのガンダムはよろめきながらも立ち上がり、防御態勢をとる。

 

 再び激突する2機。しかし、手足の数に劣る兄の機体はまたも突き飛ばされる。

 

「次でトドメだ。この勝負が終わったら、そのガンプラは俺が修理してやる。ちゃんとした機体の君と戦いたいしな」

 

 荒野に仰向けで倒れているガンダムに、一つ目の機体は歩み寄る。まるで、墓前に花を置きに行くかのように。

 

 薙刀の片方の刃を消し、もう片方の先端を、ガンダムの胸にある動力炉に向ける。

 

「それじゃ、ゆっくり休みな。エクシア」

 刀の先端が、落とされる。誰もが息を呑んだ瞬間だった。

 

 しかし刹那、兄の機体は姿を消した。

 

「!?」 

 

 一瞬の出来事に驚く大人たち。周囲を見渡す相手の機体。

 

 ガンダムは、一体どうなったのか。

 

 ミコトは、周囲の誰よりも、その姿を再見した。その技は、この店に通うようになってからは、まだ一度も見ていない兄の秘技だった。

 

「トランザムか!?」

 次にその姿を見つけた者が叫んだ。

 

 兄のガンダムは、その満身創痍の身体を、オーバーヒートさせたかの如く赤く輝かせている。

 その様を見た大人達はどよめき立つ。

 

 ガンダムは、真紅の残像を引き連れながら翔ぶ。次の瞬間、たじろぐ相手機体の腹に、蹴りが入る。

 そのスピードは、誰にも捉えられない。

 

 腹を抱えて後ずさりする機体。しかし、間髪入れずに後ろから体当たりが加えられる。さらにもう一度の蹴り、肘鉄、斬撃、(つい)には3発の射撃を喰らわせる。

 

「くそッ……!まったく動きが捉えられない!こんなに素早いトランザムは初めてだ!!」

 

 閃光のような動きと、度重なる連撃に動揺する対戦相手。

 何とか対処させようと、再び機体を動かしたのも束の間。一閃の斬撃が、一つ目の身体を真っ二つに切り裂いた。上半身と下半身に分けられた身体は四散し、決着がつく。

 

 兄が勝ったのだ。

 

「ふう……。ありがとうございました」

 ただの黒いテーブルに戻ったフィールド越しに、兄は対戦相手に言った。

 

「くそっ、負けた。ホレ、今日のジュース代だ。妹さんと何か飲みな」

 対戦相手だった男性は、財布から取り出した500円玉をフィールド上に滑らせる。

「ありがとうございます。でも、少し多いですよ」

「釣りはいらん。貯めてエクシアの修理費用にするなり、帰りのお菓子代に使うなりしてくれ」

 

 男性の好意にお辞儀をして、兄はフィールド台を離れた。ミコトの元に戻り、「何が飲みたい?」と尋ねる。

 

 そんな兄妹を見て、客が話し始める。

 

「決めた。今度のクリスマスに俺、香澄君に新しいエクシアをプレゼントする!」

「いや、原作に沿ってダブルオーだろ」

「いっそのこと、クアンタにしようぜ。もっと高度な機体を使わせないと、あの才能が勿体ない」

「いや、それよりも、来年発売するリペアポッドっていう粒子修復装置を買ってあげようぜ。みんなで金出し合ってさ。あと、コマンドデバイザーも」

「ばか!来年じゃ、クリスマスに間に合わないよ!」

 

 笑い合う大人達。

 兄は、店の客からとても愛されていた。それがミコトにとってとても誇りで、何よりも嬉しかった。

 

 

 門限が近づき、ビリヤード場を後にする兄妹。

 すっかり陽は落ち、寒さと共に深さを増す夜道。2人は手をつないで施設に向かう。

 

 楽しい時間は終わった――。そう思えてならないミコトは思わず呟いてしまった。

「あそこに帰るのかぁ……」

 帰りたくない。そんな気持ちで胸がいっぱいだった。

 施設の子供たちは怖い。年上であっても年下であっても怖い。あの家が、ミコトは嫌いだった。

 

 そんな妹の呟きに、兄は少し俯いた。養護施設で暮らすことになったことに、負い目を感じていたのだろう。

 

「ねぇ、お兄ちゃん。やっぱりお父さんと仲直り……」

 言った瞬間、兄の表情が一変した。

 

「それはダメだッ!!」

 言葉を遮った怒号に、彼女は出かかった語尾を飲み込む。繋いでいた手は、離れていた。

 

「あんな奴と暮らしていたらいつか絶対殺される!!謝罪なんて、一時的なものだッ!!俺たちを傷つけるのがあいつの本性なんだッ!!ミコトは優しいから、それがわかっていな……」

 

 その瞳に、怯える妹の表情を映したとき、兄は自分の中にある憎しみの刃が剥き出しになっていることに気が付いた。すぐにそれを鞘に納め、妹の手を繋ぎ、優しい“お兄ちゃん”に戻る。

 

「すまない……。つい、カッとなって……」

「ううん。私の方こそ、ごめん……。お兄ちゃんは、私を守ってくれたんだよね」

 

 

 

 この年の初夏。兄とミコトは実の父親から暴行され、刃物を向けられた。その事件がきっかけとなって、2人は養護施設に引き取られたのだ。

 

 父親は、普段は兄と同じで優しい人だった。ただ、少し人よりも神経質で、強い劣等感を抱いていた。そのため、些細なことで逆上し、罵詈雑言を口にする。始末が悪いときは暴力も振るう。

 一方、実の母親は堅実で真面目な人だったが、自分で結論を出すのを避ける傾向があった。家庭内で問題が起こると優柔不断になり、父に依存する。そんな母親の性格が、父親には無責任に思えたようで、毎晩のように彼女の人格を誹謗(ひぼう)した。

 ミコトが3年生の時、母親は家庭を捨てて逃げ出した。外の男と駆け落ちしたという事実が、父親の劣等感に火をつけ、家庭に取り残された子供たちへの虐待へと発展した。

 

 特に、ミコトに対する中傷が激しかった。ミコトの顔は母親似な上、性格も影響を受けていたので、父親は自分を裏切った女の影を感じていたのだろう。

 兄は、そんな父親に抗った。父親の暴言に反論し、妹を守ろうと全力で戦った。

 

 しかし、いや、だからこそ、事件は起こった。

 

 事件の日、ミコトは夜遅くに帰ってきた。そんな彼女を待っていたのは、機嫌を悪くしていた父と、頼まれていた用事を忘れていたという事実だった。

 

「まず、こんな時間までどこで何をしていたんだ?」

「これ、今日中に速達書留でこれ送ってくれって頼んだよな?」

「夕飯も作ってないってどういうことだ?」

 

 といった質問攻めに始まり、次に

 

「言ったことは必ずやれっていつも言っているだろ!?」

 

 といった怒号。そして、

 

「だからお前は何もできないんだ!!」

「そんなんじゃろくな大人になれないぞ!!」

「お前みたいな無責任な女はいつか路上で朽ち果てるんだ!!」

 

 といった罵詈雑言の嵐を、小学4年生の少女に数時間浴びせ続けた。

 

 当然、兄も飛び込んできた。しかしこの日の場合、ミコトにも非がないわけではなかったので、状況はいつも以上に深刻だった。

 妹の落ち度を理解しつつも、父を勢い付かせるわけにはいかないと判断した兄。結果、彼は父の暴言を暴言で応酬するといった“禁じ手”に出た。

 

「だから、アンタは母さんに逃げられたんだ」

「だったら、俺とミコトもアンタから逃げてやる」

「アンタこそ、これから全てを失うんじゃないのか」

 

 といった具合に。

 

 当時中学に上がったばかりの息子が放った言葉は、父の劣等感を限界まで逆撫でし、狂気に変えた。

 次の瞬間、父親は兄の頬を拳で殴りつけた。さらに倒れた兄の首を、両手で絞める。

 

 兄が、殺される――。

 

 そう察知したミコトは、全身の力を振り絞って父の身体を押しのけた。

 しかし、その行動が、父の狂気をさらに深い深淵にまで突き落としたのだった。反抗的な息子どころか、娘にまで裏切られたのである。父は、包丁を持った。

 

 襲い掛かる父を、今度は兄が抑える。

 

 命の危機を察したミコトは、家を飛び出し、偶然通りかかった近所の人に助けを求めた。その後、近所中の人が集まって父親の暴走を止め、やがて警察も到着し兄妹は保護された。

 

 事件の翌日、父から全ての狂気と殺気が抜け落ちて、自分の犯した過ちを猛省していた。だが、兄はそれを決して許さず、立ち会った保護観察官に父親と暮らす危険性を必死に訴えた。

 結果、2人は父と縁を切り、施設に入ることになった。あの後、父親がどうなったのか、ミコトは知らない。

 

 

 

 あれから半年近く経った今、兄は今のような状況になってしまったことを妹に深く詫びる。

 

「すまない……。ミコトに辛い思いばかりさせてしまって……」

「ううん、仕方ないよ。お兄ちゃんは何も悪くない」

「だけど、このままじゃダメだ……」

 

 それから1ヶ月経った、年が明け頃。

 

 今の両親が、ミコトの前に現れた。

 兄が、里子を探していたその夫婦に、妹を引き取ってもらうよう必死に嘆願したのだ。

 しかし、兄が一緒ではないと知ったミコトは、里子になることを拒んだ。すると兄は、彼女に言った。

 

「いいかい?よく聞くんだミコト。この施設を抜け出すには、それしかないんだ。君にここでの生活は向かない。あの両親ならきっと、ミコトを不自由なく育ててくれるだろう。そうだ!ハロも連れて行かせよう。これで淋しくないだろう」

 

「大丈夫。遠くに住むことになるけれど、お互い生きているんだから、また会える……」

 

 ミコトは、それらの言葉を信じた。そして、ミコトは5年生に上がるとき、海嶋という新しい性を手に入れた。

 

 

 

 

  ◇    ◆    ◇    ◆

 

 

 

 あれから約5年――――。

 

 あの日以来、ミコトは兄に会えていない。

 別れた半年後に一度だけ、兄に会いに施設を訪ねた。しかし、そこに兄の姿はなく、代わりに一通の手紙が、施設の職員に預けられていた。

 それによると、兄はミコトが里子に出された数か月後、通っていたビリヤード店の紹介で、ある家の養子になったという。施設の人の話によると、かなり裕福な家庭らしい。

 

 そして、手紙の最後にはこう綴られていた。

 

 ――……『新しい家の事情で、ミコトともう会うことはできない。本当にごめん。でも、ミコトにはその方がいいんじゃないかと、俺は考えている。あの家族の記憶なんて、ミコトの人生には必要ない。新しい両親のもとで、どうか幸せになって欲しい』

 

 

 泣いた。

 

 涙を流す以外、何もできなかった。

 自分の最後にして、最愛の家族を、彼女はその時失ったのだ。

 

 ミコトが物語を空想するようになったのは、その頃からだった。

 「兄とまた再会したい」という強い願望と、「行動する勇気がない」という臆病な現実が、童話的世界観の中で1つとなって、彼女の頭の中で1つのビッグバンを引き起こしたのだ。

 

 主人公・アクアが、生き別れの兄を探しているのは、ミコト自身がそれを求めているから。臆病な自分を変えたいと願うのは、ミコト自信がそれを望んでいるから。

 

 水の国の王が突如凶暴化したのは、実父の暴力。

 アクアが白皙の城を飛び出して冒険に出たのは、小説をネット上に投稿したこと。

 虹色の真珠は、書籍化という栄光。

 アクアが得た脚は、佐々波イルカという名前。

 踏み出す地上世界は、始まった高校生活。

 

 すべては、ミコトの日常を美化して反映させたもの。

 アクアはミコトの分身でもあった。『水の国のアクア』の物語は、ミコトが肌で感じた日常に沿って展開されてきたのだ。

 

 その物語が、今は停滞している。

 

 理由はそう複雑ではない。物語は、ミコトの実体験が元となって動いている。彼女の日々が動くから、連動的に物語も進んでいくのだ。

 ということは、彼女の日々が閉塞すると、物語も必然的に回らなくなる。

 

 彼女の今そのものが、停滞してしまっているのだ。

 

 

 ミコトはハロを見遣った。

 

 粒のような小さな目を点滅させ、円形の耳をばたつかせている。

 

「このままじゃ、だめだよね」

 

 佐々波イルカの素顔を持つ少女は呟く。

 

 そう、彼女はイルカ。佐々波イルカ。女の子達に夢と興味と感動を与えるべき、仮面小説家。

 彼女に、立ち止まることは許されない。

 

 

  ◇    ◆    ◇    ◆

 

 

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