ワールドトリガー 《ASTERs》   作:うたた寝犬

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第101話「チョコレートパニック」

 不知火を探して月守が真っ先に向かったのは、開発区画にある彼女の研究室兼自室だった。まず間違い無く、今そこには居ないだろう。しかし不知火が本部に来てから絶対に足を運んだ場所ではあるため、手がかりがあるとしたらそこしかないのだ。

 

 そんな考えで研究室に向かった月守は早速、例のウイスキーボンボンの被害を目の当たりにする。開発区画の職員のデスクや資料が並ぶ部屋に差し掛かった時、

 

「室長! 落ち着いてください!」

 

らまれぇ! (黙れぇ!)わしはみろめんぞぉ! (ワシは認めんぞぉ!)

 

明らかに酒に酔って顔を赤らめて暴れるように叫ぶ鬼怒田を、必死になって抑える寺島の姿が目に入った。

 

「寺島さん!」

 

思わず月守が駆け寄ると、寺島はパッと振り、

 

「月守! お前は酔ってるか!?」

 

疑いの目で月守がシラフかどうかを確認してきた。

 

「酔ってません!」

 

「よし! なら鬼怒田さんを抑えるのを手伝ってくれ!」

 

「は、はい!」

 

 不知火を探す前に目の前の危険をどうにかしなければならないと判断した月守は、素早く寺島のサポートに入った。

 

「鬼怒田さんは悪酔いすると、暴れると落ち着くのサイクルを繰り返す。だからひとまず抑えるだけでいい。オレは左側を抑えるから、月守は右側を頼む!」

 

「わかりました!」

 

寺島の指示に従って月守は鬼怒田の右半身を抑えようとしたが、

 

「バカ者! なぜここに来た!?」

 

鬼怒田が視線を向けたと思った途端、鬼の形相で怒鳴られた。まるで悪い事をした子供を叱る父親のような迫力に月守はたじろぐが、寺島が「気にするな!」と叫ぶ。

 

「こうなった鬼怒田さんは、周りの人が奥さんか娘さんに見えてくるらしい。多分今のも、君のことが娘さんにでも見えて叱ったんだろう」

 

言われて月守は、そういえば鬼怒田さんには離れて暮らす家族がいたな、と思い出した。

 

(そりゃ、もしかしたら死ぬかもしれない職場に娘さんとか奥さんが来たら、思わず怒鳴っちゃうだろうけど……いや、ていうか娘さんと間違うくらいに酔ってるのに自分がいる場所は把握できてるってどういうことだ?)

 

月守はそんな事を思うが、日頃から彼の前で酔っ払う(自称)25歳児の事が頭をよぎり、酔っ払いに理屈は通用しない事を改めて認識した。

 

 暴れる鬼怒田をなんとか抑えると、寺島の言う通り数分で勢いが収まり、椅子の背もたれにぐったりと身体を預けてひと段落した。

 

「助かったぞ月守」

 

「いえ。どうにも今回原因はウチの人みたいですし、俺が出来る限りどうにかしなきゃいけないので……」

 

「そうか……」

 

 日頃から不知火の言動に振り回されている2人は同時にため息を吐いた後、気持ちを切り替えて行動に移った。

 

「ひとまず、オレはこの近くで酔った人達をひたすらこの部屋に集めて隔離させる。今、オレの班のメンバーがこの近辺を駆け回ってるところだ」

 

言われて月守は改めて周囲を見渡すと、確かに白衣姿のエンジニアたち数名が呻きながらそこかしこに倒れていて、さながらここは隔離病棟だなと思った。

 

「わかりました。俺は本部内のどこかに隠れてるあの人を見つけ出します」

 

「頼んだ。正直、これはあの人を見つけたからってどうにかなるような問題じゃないが……それでもあの人にはちゃんと反省してもらわなきゃならないからな」

 

「ええ。きっちり見つけた暁には、1週間はアルコールを与えない生活にします」

 

 度数10%以下なんて水! と自宅で力説する不知火からアルコールを1週間取り上げるのはかなりの拷問になるのだが、月守にはそれをやる覚悟があった。それをしっかりと感じ取った寺島は、不知火を探すためにこの部屋を走り去ろうとしている月守に、1つ忠告をすることにした。

 

「月守、例のウイスキーボンボン……あれは本当に気をつけるんだ。オレは昼過ぎにあの人が置いていったアレを食べる直前に、妙な胸騒ぎがしたから念のために割って中身を確認したから、酔わずに済んだけど……ハッキリ言って異常だよ。あれは、人を酔わせるための食べ物だ。ここから先で出会った奴には、まず酔ってるかどうか確かめた方がいい」

 

冗談だと思いたい内容の話を至極真面目にする寺島を見て、例のウイスキーボンボンの効果が事実なのだと月守は実感した。

 

(いや、本当に何作ってるんだよあの人……。ただの劇薬じゃん……)

 

 その頭脳と才能の使い方を全力で間違ってる不知火に呆れたところで、呻いていた人影の1つが、むくりと起き上がった。

 

「……ここは、本部か……?」

 

酔っていた人物……風間蒼也は不思議そうにそう呟いた。月守は一瞬、なぜここに風間がいるのかと思ったが、先程寺島が近辺で酔っ払った人間も保護していると言っていたのを思い出し、風間がそうなのだろうなと納得した。

 

 酒にやられてトロンとした目で周囲を見渡していた風間は、やがて寺島に焦点を合わせると、口角をほんの少しだけ吊り上げた。

 

「まさか……こんな所までネイバーの侵入を許すとはな……しかも寺島に成りすましたか……」

 

辛うじて呂律が回る口で風間がそう言うと、月守と寺島は同時に風間の状態を理解した。

 

(風間さん、なんでか寺島さんの事をネイバーだと思ってる……?)

 

(鬼怒田さんもそうだけど、なんで居場所は正確に判断できるのに人の認識はできなくなるんだよ……)

 

これだから酔っ払いは、と寺島は思いながらも風間を落ち着かせるべく話しかけた。

 

「風間、落ち着け。オレは偽物じゃない、本物の寺島だ」

 

「……声や話し方まで模倣するとはな。手が込んでいるが……お前は致命的なミスをした」

 

頑なに寺島を偽物だと言い張る風間は、酒による根拠のない自信を漲らせてその根拠を語る。

 

「寺島は……そんなぽっちゃり体型じゃない。あいつはもっと細身で、弧月を構えた立ち姿が絵になるやつだ」

 

風間の言い分を聞いた寺島は咄嗟に、

 

「それはエンジニアになる前のオレだろ」

 

身体がスリムで軽やかだった頃を思い出しながら食い気味で答えた。

 

 しかし寺島の真実の言葉はアルコールの壁に濁され、風間の心に届かない。

 

「嘘もここまで来ると滑稽だな。あいつの姿を使った事を後悔させてやろう……トリガーオン」

 

酔って意識が朦朧としている筈だが、風間はトリオン体へと換装する。寺島がもしかしてと思った次の瞬間、風間はほんの少しだけ足をおぼつかせながらも目の前にあるデスクを踏み越え、寺島へと接近してきた。

 

「マズい……っ! トリガーオン!」

 

 身の危険を感じた寺島は、今回の騒動が起こった時点で自身の安全を確保するために懐に忍ばせていた戦闘用トリガーを起動させる。

 

 寺島の身体は一瞬でトリオン体に……酔った風間が言うところの『細身で弧月を構えた立ち姿が絵になる』姿に換装され、素早く鯉口を切って弧月を抜いてスコーピオンを構えた風間に対応した。

 

 研究区画に似つかわしくない白兵戦が幕を開け、両者はジリジリと力比べをするように刃を重ねる。

 

「今更寺島の姿になっても遅い……。お前は俺が斬る」

 

 かつての良く知る姿を見ても、酔った風間は目の前にいる寺島を偽物だと決めつけており、説得は不可能だと寺島は悟った。

 

「月守! 風間はオレが相手をする! だから、ここはオレに任せて先に行け!」

 

「……! わかりました!」

 

 その言葉には強い覚悟が込められていて、それを感じ取った月守は余計な言葉は野暮だと踏んで、素早く反転して不知火の捜索へと戻った。

 

 月守の姿が部屋から消えたところで、2人は互いに刃を弾いて距離をとった。戦闘など想定していない部屋であるため、間合いや足場を確保することが難しい中、2人は着地で体勢や構えを崩さなかった。

 

 デスクの上にあった無数の書類が舞い上がる中、両者は相手から視線を外す事なく保ち続ける。一瞬の沈黙が流れたが、それを寺島が破った。

 

「まさかこんな形で戦う事になるとはな。……流石に酔っ払ったお前には負けられない。現役時代(あの頃)の借りを、この際少し返そうか」

 

言い切るや否や寺島は踏み込んで攻勢に移る。

 

 

 後に、この部屋に設置していたカメラの録画映像を見た新米エンジニアたちは風間相手に一歩も引かない寺島の勇姿を見ることになり、寺島が一層彼らから慕われる事になった。

 

*** *** ***

 

 案の定、不知火の姿は研究室になかった。月守は不知火がいそうな場所を片っ端から探し、本部内を駆け巡る。今のところ手がかりは無いが、幸いにも救いはあった。

 

(忍田さんと寺島さんが言ってたけど、やっぱり例の劇薬をあの人がここに持ち込んだのは昼過ぎか)

 

 不知火お手製ウイスキーボンボンの事を躊躇いなく劇薬と脳内変換しつつ、月守は考察を続ける。

 

(そして昨日の夜……俺が最後に家の冷蔵庫を開けた時、そんな劇薬の下準備らしいものは無かった。今朝もそう、お菓子の匂いはあったけど、そんな異常な酒の匂いは無かった。つまり、劇薬が作られたのは俺が学校に向かってから昼まで。だから劇薬の数自体はそこまで膨大じゃない。被害者の拡大はあまりない……はず)

 

 月守がそうして一筋の希望を見出した時、スマートフォンに着信が入った。画面に表示された『真香ちゃん』という文字ごとスライドさせて、月守は電話に出た。

 

「もしもし?」

 

『和水です。月守先輩、大丈夫ですか? 酔ってませんか?』

 

「大丈夫。真香ちゃんは?」

 

『ひとまず無事です』

 

真香の安否を知って安心した月守だったが、

 

『でも……すでに上層部でも何人か酔ってる人はいます。私、城戸司令のあんな笑顔初めて見ました……。あと、唐沢さんがラグビーラグビーってずっと連呼してます』

 

報告された内容に心を折られて、思わず頭を抱えてしゃがみこんだ。

 

 自分の母親がしでかした行動を嘆いている間に、真香は電話を忍田へと手渡した。

 

『忍田だ。月守、一応確認だが……不知火を匿ってはいないな?』

 

「もちろんです。むしろ今、一刻も早く見つけて首根っこ掴んで、忍田さんの前に連れて行きたい気持ちです」

 

『それは助かる。……現状、司令室では被害状況の確認と被害者の隔離、そして不知火の捜索を並列して行なっている。月守、手伝ってもらうぞ』

 

 忍田の問いかけに月守は「当然です」と答え、開発区画での出来事を掻い摘んで説明してから現在に至るまでの移動経路を話した。

 

「そして今は、ソロランク戦ブースに繋がる通路にいます」

 

月守の居場所を確認した忍田は「そうか……」と小さく呟いてから数拍の間を開けて考えをまとめて、それから指示を出した。

 

『月守。すまないがランク戦ブースの状況を確認して、被害状況が軽いと踏んだら各隊の作戦室に向かってほしい』

 

「各隊の作戦室ですか?」

 

『そうだ。さっきの放送で泥酔者が出た場合は自隊の作戦室に隔離するようにと通達したが……それ以降、各隊の被害状況が掴めない。すぐに無事が確認できた隊員を派遣するが、事態は一刻を争う……。悪いが、各隊の被害状況の確認と報告を頼む』

 

「わかりました、任せてください」

 

忍田の指示に月守は二つ返事で了承し、ソロランク戦ブースを経由して各隊の作戦室を目指すことにした。

 

「無事……っぽいな」

 

ソロランク戦ブースに辿り着いた月守が抱いた第一印象はそれだった。一見、目立った泥酔者はおらず、何なら普段通りにすら見えた。

 

 だが、その中に月守はほんの少しの違和感を感じ取った。

 

(……?)

 

その違和感の正体を知るべく目を凝らすと、ブース内に休憩目的で置かれている椅子の影に、手を伸ばして倒れている人影があった。

 

 月守は慌ててその人影のそばに駆け寄る。倒れていたのは、月守もよく知る人物だった。

 

「太刀川さん! 大丈夫ですか!?」

 

「……う……。月守……だな?」

 

焦点が合わない目で見つめられた月守は、青ざめた顔から滲み出る脂汗を確認し、ただ事でないと察した。

 

「例のチョコですか?」

 

太刀川を椅子に座り直させた月守は、念のため手首で脈を確認しつつ、意識確認も兼ねて問いかけた。

 

「そうとも言えるし……そうじゃないとも言えるな」

 

「どっちですか?」

 

 ひとまず受け答えがまともな事に安堵した月守は、続く太刀川の言葉に耳を傾けるが、

 

「ふ……。例のチョコ……俺は食べてないが、加古のやつが食っちまってな……。酔っ払った加古は、いつも以上のヤバいチャーハンを大量に作り始めて……」

 

 そこまで言われて、月守は理解した。

 

「つまりは炒飯で腹壊してるだけってことですね?」

 

「そういう事だ……。加古の作戦室で食べたのは覚えてるが……それからどうやってここまで逃げてこれたか、記憶にない……」

 

記憶障害が出る炒飯は流石に危険だなと月守は思ったが、ひとまずチョコによる直接の被害ではない事に加え、太刀川の受け答えや脈が正常だった事に安堵した。

 

「まあ、とりあえず意識はあるみたいなんで、太刀川さんはここで休んでて下さい。俺は、他の作戦室回って被害を確認して来いって言われてますから」

 

 太刀川にそう言い残して移動しようとしたが、太刀川がその月守を呼び止めた。

 

「まて、月守。……これから作戦室を回るなら、頼みがある……」

 

「頼み、ですか?」

 

「ああ……」

 

 神妙な顔つきで、太刀川は月守に頼み込む。

 

「……加古が酔った時、俺は堤と一緒にいたんだ。……当然、チャーハンも奴と一緒に食べた。……だが、堤は今、ここにいない。……って事は恐らく、堤はまだ作戦室にいて、チャーハンを延々と食わされてる可能性がある……」

 

太刀川の口から出た可能性に、月守は背筋がゾッと冷えた。

 

 昔、一度だけ月守は加古の外れチャーハンを口にしたことがある。加古曰く「鯖味噌ホイップクリームチャーハン」との事だったが、正直思い出すのが憚れる味と風味であった。

 

 そんなチャーハンを延々と食べさせられるところを想像すると、それだけで月守の胃袋はキリキリと痛んだ。

 

「だから、頼む……。加古隊の作戦室に行って、堤を助けてやってくれ……」

 

 太刀川はそれを言い切ると、力を使い果たしたかのように椅子に倒れこんだ。倒れ込んだ太刀川を月守は一瞬心配するが、呼吸が安定しているため、ただ横になっただけだと判断して踵を返した。

 

 

 

 ランク戦ブースには太刀川以外の被害が無かったものの、本番はここからだ。

 

「さて……とりあえず虱潰しに行くしかないかな」

 

 太刀川に頼まれた加古隊の作戦室は気になるが、そこに辿り着くまでにも他のチームの作戦室がいくつもある。月守は手近な作戦室のインターホンを押して、反応を窺う。防衛任務に出ていたり、単に留守にしていたりと無人の作戦室が多いと踏んでいたが、意外にも1件目から反応があった。

 

 インターホンを押して数秒後、スライド式のドアがほんの少しだけ……人の顔が半分だけ見える程度に開いた。

 

「……月守、か?」

 

「はい。……えっと、大丈夫ですか、村上先輩」

 

 作戦室の扉から少しだけ顔を出した村上に向けて、月守は思わず大丈夫かと問いかけた。普段から無表情とまではいかないが感情の起伏が顔に出にくい村上が、分かりやすく疲弊しきった表情をしていたのだ。

 

 村上は疲れ切った声をなんとか絞り出して答える。

 

「ああ……なんとか」

 

「すごく疲れてるみたいですけど、一体何があったんですか?」

 

 事情を問われた村上は、チラッと視線を自身の背後に……作戦室の中へと向けた。月守もその視線の動きにつられて鈴鳴第一の作戦室の中に目を向けると、凄惨たる状況がそこにはあった。

 

 まるで中で暴風雨が発生したかのように散らかっている作戦室の中は、常日頃散らかっている太刀川隊作戦室が整って見えるほどであった。

 

「……まあ、見ての通りだ」

 

 説明する気力すら枯渇している村上はその一言で済まそうとしたが、生来の真面目さがそれを許さず、必要最低限の言葉で月守への現状説明を再開した。

 

「……例の、ウィスキーボンボンがあるだろう?」

 

「はい、今本部内で騒がれてるやつですね。俺は忍田本部長に頼まれて、各隊の泥酔者を確認するようにって言われてきたんですけど……」

 

「そうか……。なら、伝えてくれ」

 

 月守の事情を理解した村上は端的に、この上なく分かりやすく現状を伝える。

 

「……鈴鳴第一、泥酔者1名。太一が、酔って暴れたんだ……。今は疲れて寝てるが……月守、それで察してくれ……」

 

「ああ……」

 

 理解した。月守は村上がここまで疲弊している状況を、想像の範疇ではあるが理解することができた。

 

 鈴鳴第一のスナイパーである別役太一は、悪い奴では無い。しかし、やる事なす事が裏目に出やすい……言うなればドジっ子なのである。

 

 お湯を注ごうとしたカップ麺の中身をうっかり溢してしまったり、ポットのお湯が残り少ないのにカップ麺に注いでしまったり……悪気は全く無いのにもかかわらず、()()()()()()()を取ってしまうきらいがあった。

 

 そんな太一が、例の劇薬を食べて酔っ払ったという。

 

 共に未成年であるため、月守は太一が酔っ払ったらどうなるのかは知らない。しかし、村上が荒れ果てた作戦室の現状を指して『太一が酔って暴れた』と言った以上、()()()()()()なのだろうと月守は思った。

 

(太一……きっと、ドジが加速度的に悪化するんだろうな……)

 

 詳細を尋ねても良かったが、月守には時間が惜しかった。1軒目からこの惨状であるため、可及的速やかに他の部隊も確認しなければ危ないと判断し、月守は忍田から課せられた役割を優先させた。

 

「村上先輩、上には伝えておきますので……俺は他の部隊の確認に向かいます」

 

「ああ、頼む……」

 

 言葉を多く交わすことなく、月守はそれで踵を返す。村上もまた、月守の後ろ姿を見て速やかに扉を閉める。

 

 パタン、という音と共に扉は閉じられたが、その音にかき消される形で、

 

「うぅ……ん」

 

 泥酔した真の悪が、微睡みから覚める声を上げたのであった。

 

 *** *** ***

 

 ボーダー本部が劇薬に等しいウィスキーボンボンで揺れる中、天音神音は我関せずといった無表情で本部内をテクテクと歩いていた。

 

 なんか騒がしいな、と、天音は思っているが、学校から一旦帰宅してから本部に顔を出したため、その騒がしさの理由は知らない。

 

 そんな彼女は今、不知火の研究室に向けて移動していた。最初は地木隊作戦室に向かおうとしていた。だが、もしそこに全員揃っていたらと思うと……どんな顔でチョコを渡せば良いか分からず、気恥ずかしさを覚えた天音は、逃げるように不知火の研究室に行き先を変更した。

 

(……うー……、チョコ、どうしよ……)

 

 バレンタイン当日特有の悩み事で頭がいっぱいの天音は、途中のフロアで倒れるように寝ている寺島や風間、その他エンジニアの人たちに気づくことなく、不知火の研究室に到着した。

 

「こんにちは……」

 

 控えめな声で挨拶しながら足を踏み入れた天音だが、そこには誰もいなかった。

 

「……? 不知火さん、いない……」

 

 てっきり不知火がいると思っていた天音にとってまさかの展開であり、どうしようか頭を悩ませた。

 

 2分ほど悩んだ結果、家主が不在の部屋に居座る事に対して居心地の悪さを覚えたため、天音は研究室を出ることにした。

 

 だが、そんな天音の視界に、とあるお菓子が飛び込んできた。

 

「……チョコ?」

 

 テーブルの上に置かれた、丁寧に包装された一口サイズのお菓子。既製品ではなく、ところどころから手作りなのが窺えるお菓子であった。

 

 普通なら、家主の断りなしに部屋のお菓子を食べるのは憚れる。しかし天音は病気の検査のため度々この部屋を訪れる上に、不知火は、

 

「ここのお菓子は自由に食べていいからね」

 

と日頃から言っていたため、天音はこの部屋に限ってはお菓子を食べる事に躊躇いはなかった。

 

 ゆえに、天音神音は、

 

「……」

 

美味しそうに見えた、という理由だけで何の疑いもなく、

 

「……いただきます」

 

不知火が自室のテーブルの上に放置していたウィスキーボンボンの1つを手にとって、食べてしまった。

 

*** *** ***

 

 被害は思った以上に深刻なものだった。確認が取れたものはその都度真香に報告しつつ、月守は被害の深刻さに頭を悩ませる。

 

 鈴鳴第一の他には加古隊、那須隊、柿崎隊のみだが、それだけでも十分すぎる被害を物語っていた。

 

「酒って怖いな……。加古さんは殺人炒飯作りまくって堤さんを何回も気絶させてたし、玲姉さんは熊谷先輩を襲ってたし、泣上戸だった柿崎さんを照屋は一人でなだめてたし……」

 

 4分の4の確率で被害が出ているこの現状に深刻さを覚えた月守は、怒りにも似た感情を原因たる不知火へと向けた。なんとかして不知火を見つけなければと、月守は歩きながら思考を回す。

 

(あの人は本部のどこに隠れてる……? 俺があの人なら、この状況でどう隠れる?)

 

 不知火が保護者であり生活を共にする以上、月守の思考パターンの根幹の形成に一番大きな影響を与えているのは不知火だ。故に、似たような状況に放り込まれれば似たような行動を取ると判断した月守は、脳内で立場を逆転させてシュミレートする。

 

(この状況で逃げるとしたら……。理想は、探す側の意識の外にある場所。自分がどんな風に捜索されてるか把握できる場所。絶対に見つからないって自信がある場所……)

 

 俺が不知火さんなら、という前提の思考は徐々に深く、それでいて確実に精度を増し、本物へと近づく。

 

(状況を把握するなら、指揮を執ってる忍田さんがいる場所……本部司令室。そうじゃないなら……一番自分を見つけそうな人……俺でも絶対に探さない場所ってことか)

 

 自分の事をよく知る人物が、絶対に探さない場所。月守は思考の矛先をそれへと絞る。

 

(俺が探しに行かない場所……。俺が探そうと思わない場所……。絶対いないと確信してる場所、思い込んでる場所、2周目3周目をしても探さない場所……?)

 

そんな場所があるか? と月守は自己の思考を疑う。

 

 その結果、

(もしかして……っ!)

1つの答えにたどり着いた。

 

 だが、その瞬間、

「……つきもり、せんぱい?」

聞き慣れた声で、背後から呼び止められた。

 

「……」

 

 聞き慣れた声のはずだが、それには大きな違和感と、確信に限りなく近い嫌な予感が同居していた。

 

「つきもり、せんぱい……?」

 

無言の月守に対して、彼女は再び呼びかける。

 

 いつもより舌足らずで、幼さを感じさせる声で呼ばれた月守は、ゆっくりと振り返る。

 

 違ってくれと願いながら、この予感が外れてくれと強く祈りながら、月守は振り返って、彼女の名前を呼ぶ。

 

「神音……」

 

 予想を何一つ裏切る事なくそこにいたのは、天音だった。

 

 普段とは違う、どこかトロンとして焦点の合ってい碧みがかった黒い瞳に、熱に浮かされたようにほんのりと朱色が刺す頰。

 

「えへへ……つきもりせんぱい」

 

 名前を呼びながら、天音はおぼつかないフラフラとした足取りで月守に近づく。

 

 もう、ここまでで確定だった。極め付けには、天音が近寄るごとに香りを強めるアルコールの匂いで、月守は確信してしまった。

 

 天音神音が、例の劇薬で酔っ払った事を。

 

 




ここから後書きです。

バレンタインの思い出なにかあったかなあと記憶を探りましたが、学校がことごとくテスト期間を被せてきたことしか覚えてなかったです。

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