ワールドトリガー 《ASTERs》   作:うたた寝犬

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第90話「空っぽを埋めたのは」

市販のカレールーでカレーを作る時に箱に書いてある手順書をきっちり守って調理した場合、コンビニのレジで売っている鳥の揚げ物はこの上ない調和を発揮する。

 

不知火はカレーとフライドチキンに関してそういう謎理論を持っていて、月守は地木隊で寿司を食べている最中に、

『晩御飯はカレー。帰ってくる時に例のブツを買ってきてくれ』

というメールを受け取った。

 

(今日帰ってくるとか聞いてないし、もっと言うなら晩御飯必要かどうか確認を取ってくれ)

内心そう思いながらも、カレーの分お腹は空けた上にきっちりコンビニでフライドチキンを購入していた。

 

カレー皿に温かいご飯をよそって、その上にフライドチキンを乗せてカレーをかける。不知火が帰宅したその日の夕食は毎回このメニューであり、ずっと代わり映えしないテーブルだった。

 

「「いただきます」」

向かい合わせに座った2人はそう言って、カレーを口にした。

 

「味はどう?」

ビール片手に不知火は月守にカレーの出来栄えを尋ねる。

「……前より辛いんですけど、ルー変えました?」

「変えたよ。辛い以外の感想は?」

「今回の方が好みですね。鶏肉との相性もいいですし」

「よし。やはり市販のカレールーとコンビニチキンの相性の良さは最高理論がまた証明されたね。ワタシはこれを学会に提出するつもりだ」

「また色んなところが騒がしくなるからやめた方がいいと思いますよ」

酒に酔っているとはいえ不知火の発言は冗談か本気かの区別が付きにくく、月守は冗談だと思ってはいるが念のため止めておいた。

 

月守は無言でカレーを食べ進め、不知火は水とビールを交互に飲み進め、2本目のビールに手を伸ばす。

「試合途中まで観てたよ。お疲れ様」

前置きなく、ランク戦について話を振ってきた。

 

「途中までってどういうことですか?」

「咲耶が柿崎隊に反撃したところまで」

「半端なところですね」

「反撃したところで勝っただろうなって確信したからね。ワタシのケルベロスプログラムを乗り切った君が、同じような状況に放り込まれたら打開できないわけがない」

「……まあ、1回ミスしたら終わりってこと以外は、ケルベロスプログラムの方がきつかったですからね」

「感謝したまえ」

「アリガトウゴザイマス」

「棒読みだが許そう」

わっはっはと笑う不知火を見るに、程よく酩酊していて気分が良いのだろうなと月守は思った。

 

話す話題も特にないまま食事は進むが、不知火が月守の食べるペースが普段よりも遅いことに気付いた。

「地木隊のみんなでご飯でも食べてきた?」

「回る寿司食べてましたよ」

「ありゃ、そりゃ申し訳ないことをしたね。……天音ちゃん、よく食べるでしょう?」

「食べますね。1人で20皿は食べてましたけど、まだまだ食べれるって感じでした」

「だろうねえ。天音ちゃんが検査で研究室に来る日はお菓子の減りが激しいし……。何より、若葉さんもよく食べる人だもの」

若葉さんという名前に聞き覚えがあった月守は記憶を探り、すぐに思い出した。

「神音のお母さん……ですよね?知り合いだったんですか?」

「うん、そうだよ?言ってなかったっけ?ワタシがまだ、ただのヤンチャだったころ度々お世話になった人さ」

「今でもヤンチャな気がしますが……」

「昔はただのヤンチャ。今は権力のあるヤンチャだ」

「タチ悪くなっただけですね」

会話しながら月守は自身の記憶を漁り、正月と天音が入院している時に会った天音の母である若葉の事を思い出す。

 

そして、疑問だった事を問いかけた。

「花奈さん。あの2人って本当に親子なんですか?」

「親子だよ?だって顔、似てるでしょ?」

「似てるどころか瓜二つじゃないですか」

「DNA全部お母さんから持ってきたってくらいに似てるよね」

「しかも若く見えます。神音の10年後って言われたら信じるレベルですよ」

「ついでにここ10年くらい、外見が全く変わらないんだよね。髪の長さがちょこちょこ変わる程度で……」

羨ましいなぁ、と、不知火は心底羨ましそうに呟く。

 

それを見て月守は、

「花奈さんだって、ここ4年くらい変わってませんよ。大規模侵攻で俺を……何もなかった俺を助けてくれた時と、変わってません」

お世辞ではなく、日頃から思っている事を伝えた。

 

4年という言葉でその月日を実感した不知火は、缶ビールをゆらゆらと揺らしながら会話を繋ぐ。

「懐かしいねえ。バムスターの死骸を片付けてたら、下敷きになった君がいて……。いやあ、あの時は焦ったよ。生きてるとは思わなくてね。君が動いたのを見て、咄嗟に『衛生兵!』って叫んでたよ」

「実際衛生兵なんていたんですか?」

「うんにゃ、いないね。おっかなびっくり作業してた自衛隊の人を呼びつけた」

再度不知火は声を上げて笑った。

 

笑いが止まったところで、酔いながらもそれなりに真面目な目つきになった。

「さて……一応確認しておこうか」

その目で月守を見据えて、問いかける。

 

 

 

 

「咲耶、()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 

 

 

その問いかけに、月守は迷いなく答えを返す。

「いえ、相変わらず何も思い出せないですね」

「これっぽっちも?」

「はい」

念を押すように不知火は確認するが、月守はあっさりと肯定した。

 

「そっかー……」

残念そうに言った不知火はグビグビとビールを飲み干した。3本目のビールを冷蔵庫から取り出して、流れるような動作でプルタブを開ける。

「知識としては頭に入ってはいたけど、全生活史健忘症を見たのは咲耶が初めてだよ」

「全生活史健忘症なんですかね。一応、自分の名前らしきものは覚えていたんですけど……」

「けどそれは、『さくや』って響きだけでどんな字なのかも覚えてないわけだし。そもそもそれ(さくや)が君の名前だって保証も無いからね」

「……ですね」

そう言って月守は、カレーを食べる手を完全に止めた。

 

*** *** ***

 

『さくや』には三門市にゲートが開いたあの日より前の、大規模侵攻以前の記憶が無い。

 

彼が思い出せる最も古い記憶は、大規模侵攻のあの日の、事切れて積み重なったトリオン兵の中に押しつぶされ身動きが取れない状態だった。

身体のあちこちの骨が軋んで痛むが、逃げることすらできない状況を不知火に助けられた。助けられて病院に運ばれる最中に、『さくや』は不意に、

 

『ここはどこで、ぼくはだれなんだろう』

 

自分のことが何1つ思い出せないことに気づいた。

 

自身に関することが思い出せないと自覚した瞬間、『さくや』は自分の身体のどこかが消失したような、得体の知れない喪失感に包まれた。どれほどのものを失ったのかは分からないが、大きなものを、大切なものを失ったことだけは、漠然と感じていた。

 

運び込まれた病院で怪我の治療をされながら、『さくや』は自身の記憶に関する事を医者から尋ねられた。『さくや』もそれが、自分の状態を確かめてもらっているということは理解していた。理解していても、1つ問いかけられる度、それに答えられない度に、『さくや』は自分が空っぽだという事実を嫌でも突きつけられ、それがとにかく嫌だった。

 

記憶のない『さくや』に家族も居なかった。元々居なかったのか、大規模侵攻で亡くなったのか、『さくや』を知る人物が病室を訪ねてくることは無かった。

 

何も持っていなかったあの頃の彼を支えたのは、唯一記憶に残っていた『さくや』という誰かの名前のような響きと、同じ病室にいた少女……当時は『姉』と呼び慕い、後に自身をしのぐバイパー使いとなる那須玲。そして、死んでいたかもしれない彼を見つけ、病室に何度も何度も足を運び、やがて彼の保護者となる不知火花奈だった。

 

*** *** ***

 

カレーを食べ終えた月守は無言で食器を洗っていた。不知火はとうに食べ終えて「風呂ってくるわー」と言い残して浴室へと消えていった。

 

自炊している月守だが、彼はある程度意識してカレーを作ることを避けていた。月守の中に、カレーは家族で食べるものという概念があったからか、1人でいる時はカレーを全く作らなかった。

実際に今洗っているカレー皿に触るのは、不知火が以前帰ってきた正月以来だった。

 

(……そもそも、なんで毎回カレーなんだっけ…)

 

普段より時間をかけて食器を洗い終えた月守はテーブルに戻り、そんな事を考えた。

 

気づけばそういう習慣になっていたが、その原点はなんだったのか月守は思い出そうとするが、

 

「なんだかんだ言って、家の風呂は落ち着くね」

 

思い出す前に不知火が浴室から出てきた。楽だから、という理由でジャージである。

 

鼻歌交じりに冷蔵庫を開けて、パッケージが水色のエールビールを取り出した。

「今日土曜日なんですけど?」

「水曜日まで待てない」

そう言って不知火は躊躇いなくプルタブを開けて、一気に缶の半分ほど嚥下した。

 

「咲耶ー」

「なんですか?」

「早く20歳になりなさい。そして仲良くお酒を飲もう」

「あと3年ちょっと待ってくださいね」

度々酒を酌み交わす約束をするが、毎回律儀に『20歳』の一言を付けるあたり、変に真面目だなと月守は思っていた。

 

幸せそうに酒を飲む不知火に向けて、月守は問いかけた。

「花奈さん、なんで毎回帰ってきたらカレーなんですか?」

「うーん?ワタシの少ないレパートリーの中で最も安定して作れるメニューだから。とりあえずカレー作って、料理感がどんなものだったかを思い出してるのさ」

「あ、ちゃんと理由あったんですね」

「ワタシが成すこと全てに理由がある」

ドヤ顔で宣言する不知火を見て月守は呆れ混じりに笑った後に「納得しました」と言った。

 

その後月守は浴室に向かい、1人リビングに残った不知火はビールをチマチマと飲み進めた。その合間に、

「相変わらず咲耶は、簡単に騙されちゃうねぇ。本当は、君が初めてウチに来た時……あの日作ったカレーを『美味しい』って言ってくれたのが嬉しかったから、ワタシは1食目をカレーにしてるんだよ」

やんわりと微笑みながら、照れ臭くて本人には言わない本当の理由を呟いた。

 

*** *** ***

 

誰もが持っているものを自分だけが持っていない、という事実は『さくや』の心に暗い影を落とした。自分が無くしたものは何だったのかと思う度に彼の心は揺れて不安定になり、やがてそんな状態が普通になった。

 

その不安定さから他人との関わりは慎重にするべきだと判断され、月守咲耶は中学校入学までの期間は家庭学習という名目で、学校に通わなかった。そしてその期間は半ば監視の意味合いも兼ねて、大半の時間をボーダー本部で過ごした。

 

だがその期間中、

 

「勉強?とりあえずワタシの研究室にそれっぽい本置いておいたから、適当に読んでればいいんじゃない?分からなかったら教えてあげる」

 

ほどほどに大雑把な不知火はそんな教育方針で適度に月守を放任して育てた。結果、同い年の子供が文字式の基礎や歴史公民などを学ぶところ、月守はそれに加えてメテオラが爆破する仕組みやハウンドの各弾速の誘導半径や弧月の構造など、受験には確実に役立たない知識を吸収していった。そのうち不知火は、

「咲耶今ヒマ?ちょっと新しいトリガーの試作品できたから試し撃ちしてくれる?」

堂々と月守に研究を手伝わせ始め、月守はその過程でトリオン体の操作を身につけていった。

 

空っぽだった月守は自らの空白を埋めるかのように、トリガーの知識やトリオン体の扱い方を貪欲に学び続けた。仮入隊となるのに時間はかからず、不知火の研究室とソロランク戦のブースと自宅を移動し続けるのが幼い彼の日常だった。

 

そんな生活がしばらく続いた後、4月の入学時期に合わせて月守は中学生になった。今までとは違う新しい生活が始まるという点では、月守は周りにいる新入生達と同じだったが、そのスタートである入学式で彼は再度自分が周囲から浮いた人間なのだと思い知った。

 

たった今会ったばかりなはずなのに、共通の話題を見出して会話ができる同級生達がひどく異質に思えたのだ。共通の話題(語るべき記憶)を持たない自分には絶対に出来ないことを平然とやってのける彼らは月守にとっては異質だが、周囲をどれだけ見渡してもそれが出来ていないのは月守だけだった。

 

騒がしい教室の中で孤立し続けた月守は、早く帰りたいという願望と居た堪れない思いで一杯だったが、そんな彼に、

 

「ねえねえ!君さ、ボーダーにいる人だよね?」

 

1人の少女が声をかけた。

 

小柄で華奢な体格に見合わない僅かにダボついたセーラー服。どことなく猫を思わせる真っ直ぐ射抜くような目。そして何より、今が楽しくて仕方ないと言いたげな明るい笑顔が目につく女の子だった。

 

彼女の問いかけに、月守はぎこちない声で答える。

「……そう、だよ。よく、ボーダーにいる」

「だよねだよね!ボク今月から仮入隊してるんだけど、君のこと遠目だけど本部で見かけたもん!」

「多分、ソロランク戦のブースだと、思うけど……」

「んー、まだよく本部のことわかんないけどきっとそこ!」

 

話しながら彼女はずっと笑顔で、月守にはそれが酷く眩しく見えた。良くも悪くも、羨ましかった。

 

彼女は笑顔のまま言葉を重ねる。

「あ!っていうか君、名前は?せっかく同じボーダーでクラスメイトなんだし、名前教えて!」

 

名前を訊かれた月守は一音一音丁寧に、自分の名前を告げた。

「月守咲耶……僕の名前は、月守咲耶です」

 

説明を受けて、少女はふむふむと言いながら頷いた。

「月守咲耶……つきもりさくや……うん!覚えた!なんかこう、いい名前だね!つきもりって響きが、すごい好き!」

月守は苗字なんだけど、という言葉が出かけたが月守はそれを言わずに飲み込んだ。

 

思わず苦笑した月守は自分が無意識に笑っていた事に驚いたが、少女はそんな月守に向けて、

「じゃあ、咲耶くん!ボクの名前は地木彩笑!これからよろしくね!」

紆余曲折の末にタッグを組むことになる相方に向けて、彩笑はそう名乗った。

 

*** *** ***

 

月守が風呂から上がってリビングに戻ると、不知火の姿はすでになく、テーブルの上に『明日は1日中寝てる予定』とだけ書かれたメモが残っていた。

 

(なんか適当にご飯作っておけばいいのかな)

 

メモの内容から月守はそんなことを考えながら冷蔵庫の中身を確認して、明日の朝食を何にするか検討する。

 

(卵の期限が近いから使い切りたいな。けどここで使い切ると月曜日の弁当が困る……。彩笑、卵焼き入ってないと拗ねるし……でも、どっちにしろ花奈さん帰ってきたんだから買い出し行かなきゃいけないから、卵は明日使い切って、買い物にも行こう。卵安いのは月曜日なんだけど、まあ仕方ない。あとは……)

 

そうしてしばらく考えて、食材の賞味期限や調味料などを鑑みて明日の朝食兼不知火の食事をタマゴサンドに決めた月守は、そのまま自室に向かう。

 

ギリギリ寝返りが打てる広さのベッドと、辞書と教科書が並んだ勉強机、衣服が種類ごとに綺麗に収納されているタンスに、キャパシティを越えそうなほど本が詰め込まれた本棚。それくらいしか家具が無い月守の自室だが、月守がその自室に戻ると、我が物顔で勉強机に座る不知火がいた。

 

てっきりすでに寝ているものだと思っていた月守は、意外そうな表情を浮かべながら尋ねた。

「何してるんですか?」

「うん?息子が部屋のどこにエロ本隠してるのかなと思って捜索してた」

「友達の家に遊びに来た男子のノリですね」

「気分を害したなら謝ろう。だが咲耶1つ言わせて欲しい。隠し場所がベッドの下と本棚の奥というのはさすがにちょっとベタ過ぎると思うんだ」

「さも見つけたような口ぶりですけど、俺の部屋にはそんなものは無いです」

「チッ。全く動揺しないね。これは完全に隠し持ってない反応だ」

「おふざけが過ぎるので、明日のご飯はセロリ、飲み物は炭酸水にします」

「やめろっ!ワタシを飢え死にさせる気かっ!?」

不知火はアルコールが含まれていないと炭酸が飲めなかった。あと単純にセロリが嫌い。

 

サイダーとセロリはやめてくれと駄々をこね続ける不知火に向けて「残念ながらどちらも冷蔵庫には無いです」と月守言うと、不知火は幾分か冷静さを取り戻した。

 

「……咲耶。確かにさっきはワタシにも非はあった。それは認めよう。だが頼む。何があってもアルコールが含まれていない炭酸飲料とセロリは食卓に並べないでくれ」

「わかりました。というより、俺も炭酸とセロリはあまり好きじゃないんで、多分買いませんよ」

「待て、多分って何だ多分って。食卓に並ぶ可能性はゼロじゃないのか!?」

「……食卓に並ぶ可能性はゼロです。ただ、彩笑が弁当のおかずで食べたいって言い出した場合は、買う可能性はあります」

「よし、だったら大丈夫だ」

セロリとサイダーが食卓に並ぶ可能性が無いことを確認して不知火は安堵し、同時にほどよい眠気を感じて、あくびをした。

「ふぁ……」

「もう寝たらどうですか?」

「うむ、そうしよう。……普段本部の中くらいしか歩かないから、久々の移動は疲れた」

「歳じゃないですか?」

「……眠いから今の発言は聞かなかったことにしよう」

地雷を踏み抜いたにも関わらず不発だったのを見て、月守は不知火が本当に眠い事を察した。

 

瞼を半分ほど閉じた不知火は、椅子からゆっくりと立ち上がった。

「というわけで、ワタシは寝る。明日は起こさなくていい」

「わかりました。サンドイッチ作り置きしますから、起きた時に食べてくださいね」

「ん、助かる……」

 

眠気で僅かに揺れる足取りで不知火は部屋から出ていき、

「そういうわけで、おやすみ」

最後にそう言って扉を閉めた。

 

月守は小さな声で「おやすみなさい」と言ったが、その声は不知火には届かなかった。

 

それからしばらくぼんやりしてから、月守は眠りについた。学校の課題が残っている事を思い出したが、

(どうせ彩笑も残してるし……明日作戦室で一緒にやればいいか)

という程のいい言い訳をして課題を明日の自分に託して、眠気に飲まれていった。

 

 

 

 

その夜、月守咲耶は懐かしい夢を見た。

『さくや』が『咲耶』となり、『月守咲耶』になった日の夢だ。

 

*** *** ***

 

消毒液の匂いが漂う中、『咲耶』は日が落ちて月明かりが窓から差し込む病室で、何も考えず静かな時間を過ごしていた。

 

-やあ咲耶くん、元気かい?-

 

病室で1人になってしまった『咲耶』のもとに、不知火花奈がやんわりとした笑顔でやって来た。

 

大規模侵攻で自分を助けてくれただけでなく、こうして入院している自分に何度も会いに来てくれる不知火は、『咲耶』にとってとても不思議な人だった。不知火は「自分が助けた子供が心配だからって言えば上も強く止めないからね。堂々とサボれる」と会いに来る度に言っていたが、『咲耶』にとっては会いに来てくれれば理由はさほど重要じゃなかった。

 

-おや?玲ちゃんは?-

 

『咲耶』は那須が今日退院した事を告げる。

 

-なるほど。じゃあ君は、また1人ぼっちになったわけか-

 

悪びれもしない言葉に『咲耶』は悲しそうに俯くが、不知火は遠慮なく彼のいるベッドの隣にある椅子に腰掛ける。

 

-さてと……ちょっとワタシとお話ししてくれるかい?-

 

返す言葉は無いが頷いて『咲耶』は肯定を示して、不知火は彼の目を真っ直ぐに見て言葉を紡ぐ。

 

-怪我はどう?もう痛くない?-

 

『咲耶』は頷く。

 

-うん、それは良かった。ワタシが助けたのに死なれては寝覚めが悪いからね。元気でいてくれれば何よりだ。じゃあ、あと少しで退院かな?-

 

わからない、と、『咲耶』は答える。

 

本当にいつ退院できるか分からなかったし、退院したところで彼に帰る場所は無かった。

 

かと言ってずっと病院にいるわけにもいかず、『咲耶』はこれから先がどうなるのか全く分からなかった。

 

だから咲耶は素直に、「これからどうなるのか分からない」と告げた。

 

すると不知火はその言葉を待ってましたと言わんばかりに、答えた。

 

-だよね。……だから咲耶くん。君さ、ウチに来ない?-

 

その突飛な言葉を上手く処理できず、『咲耶』は首を傾げた。

 

-ありゃ、伝わらない?じゃあ、言い方を変えよう。ワタシの子供ってことにして、ワタシと一緒に暮らさない?-

 

言い方を変えられても『咲耶』の首の傾きは戻らない。

 

空っぽな『咲耶』にとって不知火の提案は、まるで初めて触れる異国の言葉のように理解しがたいものだった。

 

だから『咲耶』は「なぜ?」と尋ねる。

 

すると不知火はキョトンとした表情を見せた。

 

-なぜって……目の前に困ってる子がいて、それを助けない理由があるのかな?-

 

ひどく当たり前のことのように不知火は言った後、流れるように『咲耶』に質問した。

 

-逆に訊くけど、君はずっとここに居る気なのかな?毎日同じような時間に、あのバレバレなカツラを被った善意満載の医者に、覚えてない事を質問されて、イライラする毎日をずっと過ごす気かい?-

 

不知火の言葉に『咲耶』は引っかかりを覚えるが、このままずっと同じ日々を過ごすのが嫌だという思いを込めて、首を左右に振った。

 

-そうだろう?嫌でしょう?でも、ワタシは君にそういう事はしないよ。もちろん、君が思い出したいなら協力はするけど…、無理してでも思い出さなくてもいいんじゃないかなって、ワタシは思ってる-

 

無理にでも思い出さなくてもいい。その言葉は、空白な過去を何としても思い出して埋めなきゃいけないと思っていた『咲耶』には衝撃だった。

 

みんなが持ってるもの(覚えていること)を、自分だけが持っていない(覚えていない)のは、辛かった。

でも、手がかりもない自分の記憶を思い出そうとするのは真っ黒な迷路に放り込まれたようで、怖かった。

もし、思い出したところでその記憶が残酷なものだったらと思うと、苦しかった。

 

辛くても、怖くても、苦しくても。

『咲耶』はそこにあるかもしれない一縷の希望を追い求めるしかなかった。

 

唯一縋っていたものを否定された『咲耶』は本当に空っぽになり、それを埋めるために尋ねた。

 

「じゃあ……花奈さんはぼくに、何をくれるんですか?」

 

すると不知火は「あげられるもの?」と呟いたあと、さして悩むことなく、

 

-美味しいご飯かな?-

 

と答えた。再び不知火の答えが予想外で『咲耶』の首が傾く。

 

-……そんな「料理できるんですか?」みたいな顔をされるのは心外だったよ。言っておくが、ワタシは人並み程度には料理できるんだぞ?少々……、多少……、他の人よりはレパートリーはちょっと少ないかもしれないが、ちゃんと作れるんだからな?まずはカレーでしょ、それからシチューでしょ、あとハヤシライス。それから……ゆで卵、目玉焼き……、卵焼き………。時々新しいメニューに挑戦して忍田先輩には苦い顔をされるが……。と、とにかく!君がウチの子になるなら、美味しいご飯が食べられることを約束しよう!-

 

不満そうな表情から、気まずそうな表情、そして最終的にはドヤ顔という百面相をしてみせた不知火が可笑しくて、『咲耶』はほんの少しだけ口角を緩めた。

 

美味しいご飯を食べさせてあげるという不知火のプレゼンを聞いて、月守は提案を受け入れていいかもしれないと思い始めていた。

 

食べ物につられた、というわけではない。

このまま病院にいるより、そして他の誰かに自分の暮らしを決められるより、この愉快な人と一緒にいる方が楽しいかもしれないと思ったからだ。

 

この人と一緒に暮らしたいと思った。でもそれを素直に言葉にするのが少し恥ずかしかったから、

「じゃあ……これから毎日、美味しいご飯を食べさせてください」

『咲耶』は少し遠回しに、自分の意思を不知火に伝えた。

 

その言葉に『咲耶』込めた意味を、不知火は取り零すことなく汲んだ。

-そう言ってもらえて嬉しいよ。こちらこそ、よろしく頼む-

提案を受け入れてもらった不知火は安堵した笑みを見せて、数日かけて『咲耶』を引き取る準備を進める旨を伝えた。

 

そこでふと、『咲耶』は1つの疑問を覚えた。

 

「花奈さん」

 

-うん?なんだい?-

 

「花奈さんがぼくを引き取るって、ことは……ぼくは『不知火咲耶』になるんですか?」

 

家族を持たない『咲耶』は、自分の苗字がどうなるのかひどく気になった。

 

『咲耶』の質問を受けて、不知火は「悩ましいなぁ」と呟いた。

 

-そこまでは考えてなかったよ。でも、ワタシの苗字は使わない方がいいかもね。色々と……この名前は面倒なものを背負ってるからね-

 

申し訳なさそうに不知火は説明したが、すぐに、

 

-そうだ。じゃあ、君の苗字はワタシが考えてあげよう!-

 

嬉々として不知火はそう言った。

 

-安心したまえ。ワタシはネーミングセンスには自信がある-

 

その日2回目のドヤ顔で不知火は宣言すると、顎に手を当てて考え始めた。だがすぐに「苗字を考えるのって難しくないか……?」と呟き、早速行き詰まった。

 

何かヒントは無いものかと思い周囲を見渡すと、窓から差し込む綺麗な月光が目に入った。

 

そして、

 

-……「月守」。というのはどうかな?-

 

その瞬間に思いついた答えを、『咲耶』に告げた。

 

何か意味があるのかと『咲耶』が問いかけると、不知火は「まあ、一応ある」と前置きしてから、『月守』に込めた意味を話し始めた。

 

-かつてこの国にはお札の顔に選ばれるくらいに素晴らしい小説家がいたんだ。そしてその人は

「I love you」

を、

「私はあなたを愛しています」

じゃなくて、

「月が綺麗ですね」

と訳したという逸話があってね。ワタシは文学がてんでダメだから、なぜその人がそう訳したのかは理解できないが……。まあでも、月のことを、愛する人に見立てたんじゃないかなとは思うんだよ……-

 

話ながら「うわー、こういうことをまじめに講釈するのって超恥ずかしいな」と不知火は思い、今すぐにでも説明を辞めたい気持ちになるが、真面目な目で見据えてくる『咲耶』のために不知火は説明を続ける。

 

-月を……愛する人を、守れるような人で在ってほしい。ワタシはそういう意味を込めて、咲耶くんに「月守」を贈りたい。どう?気に入ってくれた?ー

 

説明を聞き終えた『咲耶』は少しだけ俯いて、口元に手を当てた。

 

不知火が「月守」に込めた意味がとても綺麗だと思えて、嬉しかったから。

自分の中の空白が1つ埋まったようで、嬉しかったから。

与えられた「月守」という姓がまるで始めから自分のもののようにピッタリ嵌ったような感じがして、嬉しかったから。

 

そのたくさんの嬉しさを気取られるのが恥ずかしくて、『咲耶』はそれを悟られたくなくて俯いて、口元を手で隠した。

 

しかしそれは隠しきることは出来ず、不知火にその気持ちは伝わっていた。それでも、不知火はあえて問いかけた。

 

-気に入ってくれたかい?-

 

答えが分かりきっていても、不知火はその答えをきちんと『咲耶』の口から聞きたかった。

 

自分の気持ちを落ち着けるために、『咲耶』は意識して1つ呼吸を取ってから、しっかりと不知火の目を見た。

 

「……はい。ぼくは今日から、『月守咲耶』です」

 

そう答える『月守咲耶』の表情は、不知火が普段からよく見せる笑みにとてもよく似た、やんわりとした笑顔だった。




ここから後書きです。

月守の過去が明らかになりましたが、何もないことが明らかになりましたね。果たして彼は何者なのか。あと月守を名付ける時に不知火が変なセンスを極端に発揮しなくて良かったと思います。今名付けをやらせたら、なんとか院とか付けそう。個人的に好きな「院」のつく苗字は「安心院」です。1人につき100個のスキルぶちかますシーンでは腹筋崩壊した記憶があります。

活動報告の方に、前回のアンケートに関するものを更新しました。

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