シャンプーを終わらせたスイは天音の髪にハサミを入れていく。
スイのハサミ捌きは子守唄のような人を落ち着かせるリズムにも似た心地よさがあって、天音はその音を目を閉じて聴くことがお気に入りだった。
「スイさんの、ハサミの音、不思議」
「不思議って、どんな風に?」
「んー……、わかんない。とにかく、不思議」
「あはは、とにかく不思議なんだ。でも私に言わせれば、神音ちゃんの方がよっぽど不思議よ」
スイの声に苦笑いが混ざるが、その手は淀む事なく天音の髪を切り整えていく。
世間話のつもりで、スイはその柔らかく耳に染み入るような優しい声で天音に語りかける。
「初めて会った時から、神音ちゃんは不思議な子だったよ」
「そう、ですか?」
「うん。だって私、このお店開く時は引っ越してきた直後だし、宣伝とかまともに出来なくて、新規のお客さんなんて来るかなぁ……?くらいの気持ちだったのに、オープン前日に電話してきて開店初日の朝一に予約するような子がいるなんて夢にも思ってなかったもの。それで、いざ来店したら美容室に来るのは初めてなんて言うし……。神音ちゃん、これを不思議と言わずになんて言えばいいかな?」
「……ゆにーく、な、お客さん」
「『独特な』お客さんね。まあ、それでもいいかな」
天音との会話を楽しみながらスイはハサミを持ち替えて、丁寧に仕事を進めていく。
「逆にさ、神音ちゃん初めて私と会った時、どんな風に見えてた?」
問いかけられた天音は、目の前の鏡越しに自分と視線を合わせてくるスイから目線を外して、
「スイさんは、初めて会った、時から……、ずっと、いい人、です……」
答えながら、初めて来店した時の事を思い出していた。
*** *** ***
春らしさが少しずつ感じられるようになったとはいえ、3月はまだ寒かった。コートを着込んだ天音はその寒さの中、不慣れな地図読みに四苦八苦しながら目的地にたどり着いた。
(ここ……、だよね?)
不安に思いながらも天音は店の扉に手をかけて、おっかなびっくりといった様子で開くと、ドアに備え付けられた来客を知らせるベルが控えめな音を奏でた。
「こ……、こんにちは……」
耳をすましていなければ聞こえないような天音の挨拶を、
「あら、いらっしゃいませ。昨日、電話してくれた天音さん?」
店内にいた女性は聞き逃さず、春に開花する彩り豊かな花々を思わせるような優しい笑顔で出迎えた。
「あ、はい……。昨日電話した、天音神音、です。はじめまして」
「あらあら、丁寧にありがとう。天音さん、こちらこそ初めまして。私は一応、店の経営者兼唯一の従業員の
千彗と名乗った女性は「記念に持っておいて〜」と言いながら、見知った子供におやつをあげるくらいの気楽さで天音に自身の名刺を渡した。
「友達とかお客さんとか、大体の人は私の名前の一文字を取って『スイ』って呼ばれてるの。天音さんも私のことはそう呼んでいいし、何なら違う呼び方でも、天音さんの呼びたいように呼んでね」
「わかり、ました。……それじゃあ、スイさん……でも、いいです、か?」
「うん、いいよ〜。えっと、じゃあ天音さん。早速なんだけど、アンケート書いてもらっていいかな?」
スイはそう言うと、A4サイズの紙を1枚天音に手渡した。
「アンケート、ですか?」
「そうそう。病院で言うところのカルテみたいなものを作るのに必要なの。他にも、天音さんがどんな人なのか知ってどんな髪型が似合うかなぁとか私が考えるためにも書いて欲しいし、もし何かあった時に連絡する時にも必要だし、あとは……、天音さんが2回目に来た時に私がうっかり忘れて『初めまして!』って言っちゃうのを防いだり……。んー、とにかく、書いてもらえたらとっても助かるアンケート、って感じなの」
話しながらスイは真剣な表情や気まずそうな表情、楽しそうな表情など豊かな感情表現を見せた。真香に「表情筋が死んでる」と言わしめる天音からすれはスイの見せる色んな表情はとても羨ましく思えた。
説明を受けた天音が「書きます」と答えるとスイは殊更嬉しそうに微笑んで「ありがとう!」とお礼を言った。
天音は案内されるままテーブルに付き、テーブル上にあったペン立ての中から羽根ペンを模したボールペン選んでアンケートを書こうとしたが、
「あー、ごめん天音さん。ペンはこれを使ってもらっていいかな?」
スイがペン立てから違うペンを取り出して使うように進めた。
「わかりました」
言われるがまま天音はスイが差し出したペンと取り替えて、アンケートの記入を始めた。
天音がアンケートを書いている間に、スイはシャンプーやブラシなどの商売道具一式が詰まったキャスター付きワゴンを用意し終えて、天音の向かい側に座った。
「ご、ごめんなさい。アンケート、急いで、書きます、ね」
まだ半分程度しか書き終えてない天音は慌てるが、
「あはは、ゆっくりでいいよ。今日お客さん、天音さんの他には夕方にしか予約入ってないし……。むしろ私こそごめんね、正面に座られたら焦るよね」
気弱さを思わせるどこな儚い表情でスイはそう言ったあと、その手に持っていたおしぼりを天音の利き手側にそっと置いた。
「……?」
おしぼりの意図が理解できなかった天音が小首を傾げると、スイは内面の優しさが滲み出てくるような笑みを浮かべて答えた。
「ペンね、すぐ乾くやつ渡したんだけど、もし手にインク付いちゃったらそれ使ってね」
天音神音は左利きである。左手で横向きの文章を書くとき、書いた文字が乾くより早く左手が文字をこすってしまい、文字はかすれる上に左手にはインクがつくことがままにある。左手の位置を工夫したり速乾性のあるインクのペンなら話は別だが、天音はそもそも自身の手が汚れることにも頓着が薄かったのでどちらも気に留めることはあまりなかった。
おしぼりの意図を知った天音は、自身がペンを持った瞬間にその気づかいをしてくれたスイのことを、優しいというか気がきくというか……、とにかく、「いい人」だと思った。
天音はアンケートを書き終えると、すぐに目の前で待っていたスイに手渡した。
「できまし、た……」
「うん、ありがと〜。わ、すごい。こんなに沢山答えてくれたんだ」
アンケートの回答率を見て、スイはホクホクとした暖かい笑みになった。
アンケートの冒頭には「回答は絶対じゃないから、スルーしても大丈夫!」というスイの直筆らしき可愛らしい丸文字による注意書きがあったのだが、天音は1つの質問を除き回答していた。
スイは初めてのお客さんが書いてくれたアンケートを、楽しそうに読み進める。
「お客さんの中には、当たり前といえばそうなんだけど個人情報を知られたくない!って考えの人もいてね〜。だから天音さんみたいに、沢山答えてくれる人は、個人的にすっごく嬉しいな」
「あ、はい」
アンケートの内容を読み込んだスイは、その暖かい笑みのまま天音に問いかけた。
「アンケート答えてくれてありがとうね、天音さん。それじゃ早速カットしていきたいんだけど……、昨日電話で言ってた通り、ショートヘアにしたいんだよね?」
「はい」
頷きながら天音が肯定を示すと、スイは「ん〜、そっか〜」と言いながら両手で四角いフレームを作り、その中に天音の長い黒髪が全て収まる位置で止めた。
「……天音さんね、小顔で目鼻立ちもはっきりしてるし、首も細いし……、うん、ショートにしても似合うと思う。でもね……」
スイはその表情を申し訳なそうなものに変えて、どこか困った雰囲気で言葉を続けた。
「……天音さんの黒髪ね、すっっごく綺麗なんだよね。どのくらいかというと、思わずハサミ入れるのを躊躇うくらい。もうね、天音さんがお店に入った瞬間、私は『ふわあぁぁぁ!?』って感じでびっくりしたし……、私が担当した中で1番いい髪って断言しちゃえるくらいに綺麗。何か普段、特別なこと髪にしてる?」
「えっと……、私は特には、してない、です、けど……。あの、お母さん、が……家にいる、時は、なんか色々、してくれます」
天音の答えを聞いたスイは「その『なんか色々』の詳細を知りたい!」という強い願望を押し殺しながら、
「そっか、いいお母さんだね」
この髪を生み出してくれたであろう、会ったことのない天音の母に感謝の念を送った。
髪を褒められたことは素直に嬉しいが、切ることに躊躇いを感じているであろうスイを見て、天音は少し複雑な気持ちになった。
「えっと……、スイさん、切るの反対、ですか?」
「うーん……、んー……、まあ……、ちょっっっっっとだけね」
スイは人差し指と親指で触れそうで触れない距離を表現しながら、自分の意思を伝えた。
「もちろんね、天音さん自身が切りたいって思ってて、切った後に出来上がるショートヘアも似合うだろうなって確信が私にもあるから、切るには切るけど……。でも心のどこかで、『こんな綺麗な髪切っちゃうの勿体無いよー!』って叫ぶ私がいるのも事実なんだよね。いや、切るには切るけどね?」
「切るには、切るん、ですね」
「うん、切るには切る」
「切るには切る」
切るには切るというフレーズをなぜか天音は面白く思い、おうむ返しのように何度か反復した。
天音が意図してそのフレーズを繰り返しているのを察したスイだが、彼女はそれを不快に思うことはなく、むしろ楽しそうに天音との会話を紡ぐ。
「切るには切るけど……。天音さん、あなたはどうしてその髪を切ろうと思ったのかな?良かったら、お姉さんに教えてもらえるかな?」
問いかけたスイだが、答えの内容に関わらずこれが終わったら髪を切ろうと心に決めていた。というよりも、スイはこの質問に天音が答えることを期待していない。なぜなら天音がアンケートで唯一空欄だった質問が、『今日はどうして髪を切ろうと思ったの?』だったからだ。普通に考えれば『髪が伸びたから』という美容室や理容室に足を運ぶ当然すぎる回答が出るであろうこの質問で、天音がわざわざ空欄を選んだことから、人に言い難い特別な理由があるのだろうとスイは踏んでいた。
だからスイは「答えたくない」や「理由は特にない」、「気まぐれ」「たまたま」と言った中身が無い答えが来るだろうなと思っていた。
答えを待つスイだが、天音はなかなか口を開かない。十分に答えを待ったと思ったスイは、
「答えたくない感じかな?」
少し意地悪な対応をしたと思い、反省しながら天音に確認を取った。だが天音はその確認を、首を左右に振って否定した。
そして天音は、膝の上に置いた両手をきゅっと握りしめながら、
「……その、同じチームの、先輩が……」
蚊の鳴くようなか細い声で、今日ずっと貫いてきた無表情を崩して、
「ロング、よりも……、ショートの、方が……」
見ているスイにも気持ちが伝播するくらいの、羞恥と恋が入り混じった表情を浮かべて、
「……好き、だって、いってた、から……」
今日ここに足を運んだ理由を、今まで付き合ってきたロングと決別すると決めた理由を、
「だから……、スイさん、お願い、なので……、私の髪を、切ってくれます、か……?」
剥き出しの心の声を、スイに伝えた。
そのまっすぐな理由に心を一瞬で打たれたスイは、
「天音さん、そういうことならお姉さんに任せてっ!その先輩が思わず『可愛い』って口走る出来栄えにしてあげるっ!」
そう言って最高の仕事をすることを天音に誓った。
即答した時の心境を、スイは後にこう語った。
「あの時私は自覚したよ。『ああ、私は今この瞬間のために、このお店を開いたんだ』ってね」
天音を席に案内してから、美容師としてのスイの仕事が始まった。
人生で初めて美容室に来た天音だが、それでもスイの仕事はとても丁寧だとわかった。
程よい指先の力加減と、適温としか言いようがない温水、鼻腔をくすぐる優しい香りのシャンプーはとにかく心地よく、ほんの少しの眠気を伴う気持ち良さを天音は感じた。
カットの時も同様で、リズムを奏でるようなハサミ捌きと、店内に流れる優しい曲調のBGMが相まって、天音は完全にリラックスしていた。
スイは丁寧な仕事をする一方、よく口も動いていた。
シャンプーの時から、
「痒いところあったら、遠慮なく言ってね」
「お湯はどうかな?熱すぎない?」
天音を気遣うような内容に始まり、カットに移る頃には、
「天音ちゃんって、今中学生だよね?何か部活とかやってるの?」
「へぇー、天音ちゃんってあのボーダーの隊員さんなのね。私の親友も、ボーダーにいるの」
「あはは、テスト苦手なんだ。まあ私も、学生の頃は勉強そんな好きじゃなかったし、気持ちはわかるよ〜」
次第に当たり障りのない話題へと変わり、天音とずっと会話を続けていた。
スイの仕事ぶりによる心地良さからか、天音は素直にスイとの会話に応じ、そして楽しんでいた。そうしてカットを進めていたスイが、少しだけ天音に踏み込んだ質問を投げかけた。
「さっき言ってた『先輩』って、もしかして天音ちゃんの彼氏?」
リラックスしていた天音の身体に緊張が走って一瞬だけ強張るが、すぐにリラックスし直して答えた。
「えっと、彼氏……じゃ、ない、です。その……本当に、ただの、先輩……です」
「えー?『ただの先輩』の好みに合わせて髪を切ろうなんて、普通なら思わないんじゃない?」
「んあ……」
スイのニコニコとした優しい笑顔で鏡越し指摘された天音は少し悩んでから、訂正した。
「……そう、ですね。ただの先輩、じゃ……ない、です」
「だよね。だから……、片思いしてる先輩、ってところかな?」
「……はい」
小さな声で、でもはっきりと肯定した天音の言葉を聞き、スイは思わず、
「うーん、いいね!お姉さん応援しちゃう!」
一層楽しそうにそう言って、天音の恋を後押しすることにした。
しかし一方で、天音はどこか迷ったような声でスイに相談するように口を開いた。
「でも、スイさん……、その……、片思い、なのか、わかんないん、です」
「え?何々?もう両思いってこと?」
「や、その…、そうじゃ、無く、って……」
あたふたとしながらも天音はスイに、悩みとも言える心境を吐露した。
「……好きなのは、好き、なんですけど……。その……、頼れる先輩、だから好き、なのか……、男の人として好き、なのか、わからなくて……」
「んー、なるほどね。そうだよねぇ。職場の先輩を好きになっちゃう時って、頼れる場面を見て好きになっちゃうとこ多いから、なおさらごっちゃになっちゃうよね」
話すスイの声がどことなく親しげに聞こえた天音は、似たような覚えがあるのかなとぼんやりと思った。
天音の悩みを聞いたスイは、何か思い出すように視線をわずかに泳がせてから、
「じゃあ……、天音ちゃんの先輩に対する『好き』がどんなものなのか、簡単に確かめてみよっか」
そう前置きをして、天音に1つ質問することにした。
「天音ちゃん、今から私が言う通りのことをイメージしてね」
「は、はい……」
鏡越しで視線を交わらせたスイは、天音に「目を閉じて」と囁き、天音もまたそれに素直に従う。
「まずはその、先輩のことを思い浮かべて」
「……はい」
ここ最近、毎日会っているだけあって、天音はすんなりと月守の姿をイメージすることが出来た。
「天音ちゃんとその先輩は、いつもの場所でお話してます。いつもその先輩と、どんなところで会うことが多い?」
「えっと……、チームの、作戦室、です」
「うん、そっかそっか。……その先輩は天音ちゃんのことを、なんて呼んでるの?」
「……しおん、って、名前で呼んで、くれます」
「神音、ね」
スイに名前を呼ばれた時、少しだけ月守の声と重なったように思えた。
「それじゃあ天音ちゃん、その先輩と2人っきりでお話ししてるところを、頭に思い浮かべて」
「……はい」
言われるがまま、天音は想像力を働かせる。
天音の頭の中に、毎日通う作戦室の中にいる自分と月守の姿が鮮明に浮かび上がる。ランク戦やトリガーのことを月守が真剣に話して、それを聞いた天音は頷いて、言外にもっと聞かせてくださいとせがみ、それを察したように月守は言葉を続ける。月守は話の途中で彩笑のちょっとした間の抜けたエピソードや、身近に起こった出来事を挟んで会話に息継ぎを入れる。
何てことない会話であっても、それはここ最近の天音が密かに大事にしている、楽しくて幸せな時間だった。
「どう?イメージできたかな?」
まるで頭の中を読まれたかのようなタイミングでスイに話しかけられて、天音は少し驚いたものの、頷いた。
「……さて、準備はオッケー…。天音ちゃん。その先輩は天音ちゃんとお話してる最中に、ちょっと落ち着きが無くなります。何か隠し事をしてるみたいで、お話しが所々途切れ始めます。そして、キリのいいところで一回お話を止めます。それからちょっと躊躇って、それでいて嬉しそうな表情を見せてから、天音ちゃんに、こう言います。
『神音。俺、彼女できたんだ』
って」
その言葉を聞いたのと同時に、天音が思い描いていた空想の世界に、音を立てて大きなヒビが入った。
天音の頭の中にいる月守がそう言ったと思っただけで、天音の中に今まで感じたことのない感情が芽生えた。それは身体の芯から湧き上がるような、ゾワっとした感触があるような、気持ち悪いとすら思える感情だった。その感情に侵された天音の空想の世界は、楽しさや幸せが一気に消え失せて、代わりに形容しがたい不快感と心を締め付けるような辛さが世界を塗り替えた。
我ながら感情が希薄だと思っていた天音自身、自分がこんな感情を持っているのだと、ひどく驚いた。
「いや……っ!」
スイが言い切った瞬間、天音は食い気味にそう言って、自分が感じた思いを素直に言葉として吐き出した。
月守に
いつも月守が地木隊のみんなに、なにより自分に見せているような、やんわりとした笑顔や、いつまでも聴いていたいと思うようなあの声を、自分より近い位置で、より深く感じている誰かがいると思うと、泣きたくなった。
ましてやその人が、自分がまだ知らない月守のいろんな表情や姿を知っているのだとしたら、どうしてそれが自分じゃないんだと思って呼吸が苦しくなるくらい辛かった。
天音が落ち着くのを待ってから、スイはその穏やかな声で質問の解説を始めた。
「……彼女がいるって告白に対して、びっくりはしたけどその後におめでとうって言えるような、祝福できるように思えたら、その人に対する好きはきっと『尊敬できる人』に対する好きなんだって。でも、そうじゃなくて……ただただショックで、その見えない架空の彼女さんにすら嫉妬しちゃったりするようなら……」
スイはそこでワザと言葉を切って、あとは分かるよね、と暗に天音に伝えた。
それからしばらく、2人の間に会話は無かった。天音は自分の中に生まれた感情を持て余し、スイもまさか天音がここまではっきりとした反応を見せると思っていなくて反省した。
だがまだまだ残っている天音の長い黒髪を切りすすめる間、ずっと無言というわけにもいかず、スイは話題の切り口を変えた。
「神音ちゃん、さっきはごめんね。お姉さん少し言い過ぎちゃった」
「あ、いえ……、そんなこと、ない、です」
「あはは、ありがと。でも私が神音ちゃんに色んなこと聞きすぎたのは変わらないから、今度は神音ちゃんが私に何か質問して?」
「私が、ですか……?」
「うん、そうそう。さっき神音ちゃんを困らせちゃったというか、辛い思いをさせちゃったから……そのお詫びってことで、なんでも答えてあげる」
そう話すスイは真摯な表情や声そのもので、聞けば本当になんでも答えてくれるような気がした。しかし咄嗟に質問など上手く思いつかなかった天音は、迷った末に、
「えっと、じゃあ……、スイさんは、なんで美容師に、なったんです、か?」
当たり障りのない事を問いかけた。
「なんでって言われたら……、きっかけ自体は子供の頃の夢だったかな」
答えもまた当たり障りないものだったが、スイはそこから、自分の過去を語り出した。
「子供の頃、親戚のお姉さんが美容師として働いてるのを見て、素直に憧れたのがきっかけ。でもずっと美容師になりたいって思い続けてたかというとそうでも無くて……、はっきりと目指そうって思ったのは、中学生の頃」
「……何か、あったんです、か?」
「うーん、まあね。何かあったというか、出会ったというか……」
スイは少しだけ困ったような表情になりながらも、天音の言葉に答え続ける。
「中学生の頃も、一応は美容師になりたいっては思ってたんだけど……。それは先生とか大人の人に『将来の夢は?』って聞かれたらとりあえず答える、くらいな感じで、そこまで本気じゃなかったんだよね。でもそんなある日に、いきなり同級生に呼び出されて『髪を切ってくれないか』って言われちゃったの」
「ええ…?」
天音は唐突な話の展開に驚くものの、スイの話は止まらない。
「その同級生っていうのが、ちょっと変わった子でね。勉強はすごいできるんだけど、いつも全てがつまんないって言いたそうな顔してて、あんまり人とつるまない一匹狼みたいな子だったの。誰にでも……、それこそ先生とかにも堂々と物言うし……、ちょっと近寄りがたいけど、いざって時には頼りになる子、って感じかな」
「……そんな人に、髪切ってって、頼まれたん、ですか?」
「うん、そう。ちなみに私に頼んだ理由は、
『親が髪くらい切れってうるさくて仕方なく切ることにしたんだけど、正規の人に頼むとお小遣いがピンチになって今月末に発売される本が買えなくなる。だから無償でワタシの髪を切ってくれ』
だったの」
割と切実な理由だなと天音は思った。
スイは話ながら当時の出来事を思い出して、その頃を懐かしむように目を細めながらカットと会話を進めていく。
「でも、いくらあの頃の私が将来美容師になりたいって言ったとしても中学生だし、誰かの髪を切った経験がちゃんとあったわけでもないし……、当然だけど、最初は断ったよ。出来栄え良くないよって、ちゃんと出来ないよって、何回も何回も言ったのに、でもぜんっぜん食い下がってくれなくて……。結局私が根負けして、どんな結果になっても恨みっこなしってことで、その子の髪は切ったよ」
「切ったん、ですね。その……、どう、でしたか?」
「それが案外上手くいってね。そりゃ、今思い返せば至らないところはたくさんあったけど、初めて切ったにしては、我ながら良い出来栄えじゃないかって思えたくらい。その子も案外気に入ってくれて、
『よし、これなら親の目も誤魔化せる!』
って言って感謝もされて……」
スイはその楽しそうな口調のまま、その頃のエピソードを語り続けた。
「それ以来、その子は何回も私に『髪切って』って頼むようになってね、それで仲良くなれたかな。髪を切ってる間、その子とは色んなことを話したの。でもその子が話す内容の大半は、科学とか医学に関する難しい仮説で……、でもその子はすごい自信満々に、
『これらはあくまで仮説だけど、ワタシはそれらが正しいと確信してる。だから将来、それらを1つずつ証明してやるのさ』
って、毎回言ってた。……、私は詳しいことなんて分からなかったから、『きっとできるよ』って毎回返してた」
スイの口調は本当に明るく楽しそうで、話を聞いているだけの天音だが、当時の彼女がどれだけその子との会話や髪を切ることを楽しんでいたのかが伝わってきた。
「でもそんなある日ね、その子が急に、
『スイ……、いや、千彗。今までかかったカット代を払いたい』
って言ってきたの」
「タダで、切ってあげてたん、ですか?」
「そりゃあね。プロじゃないし、もともとその子がお金無いってところから始まったし……、私も練習させてもらってるって思ってたから、お金を貰うって発想は無かったかな。だから当然、私は最初断ったよ。貰えないよって」
小さな苦笑を挟んでから、スイは語る。
「そしたらお互いになかなか引き下がらなくてねー、もう水掛け論。お互いに『頑固』とか、『分からず屋』とか、『バーカ』とか言い合って……。いつもそういう時って大抵私が折れてたんだけど、あの時ばかりは引き下がらなくて……、そしたらとうとう、向こうが折れたの。そしたらあの子、ちょっと怒りながら、
『千彗がそこまで言うなら、ワタシは払わない。だから、代わりに約束する。将来ワタシが有名になったら、大々的に君の事を宣伝してやる。美容師だろうがどんな職だろうが関係ない。君がいる職場が、忙しくて仕方ないようにしてやる』
って、変な約束取り付けて帰っちゃったの」
「うわぁ……」
無表情ながらも天音が呆れたような素振りをして、それを鏡越しに見たスイは「おバカだよねえ」と言って微笑んだ。
「で……、その日以来、その子は学校に来なくなったの」
「え……?」
「急に転校したって先生から聞かされてね……、でも、どこに行ったのかは教えてくれなくて……。何があったのかメールも電話も通じなくなって、連絡は全く取れなくなったの。完全に音信不通」
話すスイの声も表情も暗くなり、当時の彼女がいかにショックだったのか想像に難くなかった。
思わず言葉が出なくなった天音だが、スイはポツポツと言葉を続ける。
「思い返せば、お金払うって言ってきたのもケジメだったんだろうなって、あの頃は思ったよ。……それから私は無事に中学、高校って卒業して、それから美容専門学校に通って、本格的に美容師を目指すことになったの。話が長くなっちゃったけどね、つまるところ私が美容師になろうって思えたのは、その子の髪を切ってあげて、喜んでもらえたから、かな」
長いスイの過去を聞いた天音は一息ついてから、言葉を返した。
「スイさん、あの……、その、髪を切らせてくれたって人に、会いたいって、今でも、思います、か?」
話を聞いただけでスイとその人が仲が良かったのだろうと思えてならなかった天音は、たまらずそう尋ねたのだが、それを聞いたスイは目をパチパチと数回瞬きしてから、クスッと笑った。
「うん、思うよ。でも、神音ちゃん。実はこの話には続きがあるんだ」
「え?」
キョトンとする天音をよそに、スイの語りは再開する。
「美容師になるための勉強を始めたはいいけど、現実はちょっと厳しくてね。何事でもそうだと思うけど、楽しいだけとはいかないでしょ。いくら好きな事でも、嫌な面はあるというか……。本格的に美容師なろうとした最初のころは、そういう嫌な面みたいなのを見ちゃって、気持ちが沈みっぱなしだった頃があったの」
「……辛かった、ですか?」
「そうだね。少なくとも、美容師なんて目指さなきゃよかった、って思うくらいには辛かったよ。……でも、そんなある日、テレビを観てたら画面の上に一本の速報が流れたの」
「えっと……、地震とか、選挙とかの、時に出る、やつ、ですか?」
「そうそれ。その内容が、長年世界中の医学者が証明に頭を悩ませてきた仮説を、日本人が証明しました、って感じで……、その日本人っていうのが、その子だったの」
「え、すごい……。それ、本当、ですか?」
「あはは、そう思うよね。私だって速報を見た一瞬じゃ信じられなかったし……。それですぐに記者会見が始まって生中継するってなったから、私は無我夢中でリモコン掴んでチャンネルを合わせたの。本当に世界的な出来事だったみたいで、会見にはいろんな国の人がいて、いろんな国の言葉が聞こえてきて……、でもその中心には、紛れもなくあの子がいた」
その時のことを鮮明に覚えているスイは、あの時に感じた思いも言葉にし始める。
「大人っぽくなったなって最初は思ったけど、すぐに伸ばしっぱなしで乱雑にまとめた髪に目がいっちゃった。切ればいいのにって、切ってあげるのにって、思った。ほとんどが英語だったから会見の内容は分からなかったけど、そしたら日本の記者の人がようやく質問できたの。
『こうして世界的に認められた嬉しさを、まずは誰に伝えたいですか?』
っていう質問で、普通なら親とか、恩師とかって言うと思うけど……、あの子ったらその質問が来た瞬間、『待ってました』って言いたそうにニヤッと笑って、答えたの」
*** *** ***
質問に答えるために答えるためにマイクを手にした彼女は、迷わず答えた。
「『両親や恩師、と言いたいところですが……、ここは、ワタシの親友に、この喜びを伝えたいと思います』」
それから彼女は日本に繋がっているであろうカメラに視線を向けて、笑った。スイと居た頃と変わらない、やんわりとした笑顔だった。
「『やっほー、千彗。見てるかい?君と居た頃に話した仮説を、1つ証明してやったよ。凄いだろう?』」
世界中に中継されている状況下で、彼女はまるでプライベートのようにフランクな態度で言葉を紡ぐ。
「『千彗、あの時は急に居なくなって悪かった。さよならを言葉にするのが怖かったんだ。ごめんごめん』」
画面越しで彼女を見る千彗の視界がじんわりと滲む。
「ごめんごめんって……、そんな軽い感じで謝らないでよ」
「『そして千彗のことだ。ごめんごめんって軽い感じで謝らないでとか、思うことだろう』」
遠く離れた場所にいるはずの彼女は、まるで今の千彗が見えているかのように話し続ける。
「『だから、ちゃんと謝りに行くよ。この後少しまとまった休みがあるから、そしたら君に会いに行く。その時、きちんと謝る』」
そこで彼女は一度、気恥ずかしそうに笑いを挟んだ。
「『謝るから……、そしたらまた、ワタシの髪を切ってくれるかな?君と別れてから一度だけ髪を切ったんだけど、なんかダメだった。ワタシの髪は君にしか……、千彗にしか切らせたくない。千彗はワタシにとって、1番の美容師さ』」
彼女の言葉を聞く千彗は、『ああ、この子バカだ』と思った。
世界中継されてるのに何を言ってるんだ。
もっと国を代表するような、しっかりとした言葉遣いや態度で居て欲しい。
堂々と一個人の名前を出すな。というかなんか告白みたいじゃないか。
そして何より、千彗が彼女がバカだと思ったの最大の理由が、千彗にとって当たり前の事を、さも特別な事のように頼んできたことだった。
聞こえていないと分かっていても、千彗は言った。
「……いいよ、いくらでも切ってあげる」
千彗自身は自分のことをそこまで優れた美容師だと思っていない、というかまだ美容師ですらない。
それでも、世界に認められた親友が、1番の美容師だと言ってくれた。だからせめて、それに恥じない美容師になろうと思った。
*** *** ***
「素敵な話、ですね」
記者会見の話を聞いた天音は素直にそう思えた。
「ふふ、ありがと」
柔らかな笑顔でスイはお礼を言った後、後日談を話し始めた。
「その後、最初に再会した時は色々びっくりしちゃった。なんかあの子、いろんな国に行って飛び級とか繰り返したらしくて、運転免許証見せるノリで博士号の証明書とか見せてきてさ。英語ばっかりで何書いてるかわかんなかったけど……」
「な……なんかすごそう、ですね」
「でしょ?でも変わってなかった。外見が大人っぽくなってても、研究が世界に認められても、再会した時のあの子の根っこは、私の知ってる時のままだった」
昔と何にも変わらない。と、スイは穏やかに微笑みながら言った。
そのスイの表情を見た天音は、2人が本当に仲が良くて、素敵な間柄なのだろうと思った。
「それ以来は何回も会ってるし……、正直なところ、今日もこの後会うんだよね。ほら、今日入ってるもう1つの、夕方の予約っていうのが、その子」
「あ、そうなんです、ね。……じゃああの、もしかして、その人って、この辺に住んでる人、なんですか?」
「そう。もしかして神音ちゃんも知ってる人かも。だってさっき言った、ボーダーにいる親友っていうのが、その子だから」
それを聞いた天音は、純粋な興味で尋ねた。
「なんて名前、ですか?」
スイは躊躇いなく答える。
「不知火花奈って子。知ってる?」
満面の笑みで親友の名前を答えてくれたスイを見て、天音は、
「私の好きな人のお母さんです」
という事実を答えるのを我慢して、
「知って、ます。会うたび、に、セクハラ、されます」
不知火のほんの少しの不名誉を代わりに答えた。
後書きです。
スクエアとアクタージュの6巻買って読んだところ、アクタージュのカバー裏に全てを持っていかれました。読み直さねば……(ループの始まり)。