ワールドトリガー 《ASTERs》   作:うたた寝犬

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第三話「ショートヘア」

スイが昔話を終えて、親友である不知火のセクハラの詳細を聞いて謝罪し終える頃には、天音の髪はすっかり短くなっていた。その出来栄えを確認してもらうため、鏡を持ったスイは天音の背後に回る。

「天音ちゃん、どうかな?」

 

天音がショートカットになって、まず最初に思ったのが、

「えっと……、頭が、すごく軽い、です」

髪の毛が意外と重かったのだということだった。外見云々の前に、頭がとても軽い。

 

天音の感想を聞いたスイは、クスッと小さく笑った。

「あはは、そうかもね。天音ちゃんは髪の量が多めだったから、なおさらそう感じちゃうかも」

手持ち鏡の角度を調整しながら、スイは再度尋ねる。

「でも個人的には、重さとかじゃなくて見た目の感想が欲しいかな。念願のショートになって、どう?」

「どう、と、言われても……」

スイの質問に対して天音は躊躇った。

 

視界を少し遮るかのように伸びていた前髪が丁寧に切り整えられて、鏡の中の自分とバッチリ目が合う。

彩笑や真香に綺麗だと言ってもらえた長い黒髪に隠れていた、細く色素の薄い肌色のうなじが見えて、なんだが落ち着かない。

真っ黒な髪から控えめに主張するように、チラリと見える白い耳たぶが、一際目立って見える。

全体的に、どことなく浮き足立つような軽やかな印象になったように、思う。

 

この店に入ってきた直後までの自分とは、明らかに違うのが分かる。変わったのが分かる。でもその変化が良いものなのかどうなのか、天音には分からなかった。

 

だから天音は、正直に答える。

「その……。よくわからない、です」

よく分からないという天音の答えを聞き、スイは目をパチパチと数回瞬いてキョトンとしてみせたが、すぐにニコリと笑った。

「そっか。……、私としてはね、こういうところを頑張ったとか、ここを見て欲しいなーっていうところは、いっぱいあるんだけど……」

言葉を一度勿体ぶるように止めて、スイは手持ちの鏡をワゴンの上に置き、空いた両手をポンと優しく天音の華奢な両肩に置いて、

「天音ちゃんのショートカットが上手くいったのかどうかは……、その先輩に確かめてもらおっか」

天音が1番納得するであろう方法を提示した。

 

正規料金を払おうとした天音だったが、スイは、

「初回サービスってことで割引しちゃう!」

そう言って料金を引き下げ、

「私の親友が迷惑かけてるみたいだし、そのお詫びとして料金はちょっとオマケしてあげる」

私情たっぷりの理由をつけて更に値段を下げて、

「からの〜、更に値引き!ただし、その天音ちゃんの先輩がどんな反応したのか教えてね!」

最終的には半額近くまで値切った。

 

満点近いスイの営業スマイルに押し切られた天音は非常に申し訳なく思いながらも、言われた通りの値段を払い、店を出た。経営には全く明るくない天音だったが、

(……スイさん、他のお客さん、にも、あの調子、で、割引、したら……絶対お店、回らない……)

スイの店の経営がどうなっているのか、流石に気になった。

 

 

 

 

髪を切った天音は、その足でボーダー本部に向かう。今日は本来、髪を切る事をしなければランク戦ブースにこもって、少しでも早く弧月のソロポイントをマスタークラスまで引き上げるつもりだったからだ。

加えて……、この髪の感想を、月守から聞きたいという思いもあった。明確な予定は聞いていないが、月守はきっと本部にいると天音は思っていた。

 

 

 

 

徒歩で移動してボーダー本部に辿り着いた天音だが、歩いているうちに心境に変化が訪れた。

元々、髪を切ろうと思ったのは月守との会話と、たまたまスイの美容室の存在を知ったからだった。

そこに、深い考えはなかった。例えるなら、自分の好きなモノのグッズがたまたま目に入った瞬間、勢いで買ってしまった時のような心境で、天音は髪を切った。計画性のない、衝動的な行動である。

往々にしてそれらの行動は、目的を果たすまでは冷静さを欠いており、欲とも言える目的を達成してから我に返り、『さて……どうするかな、これ』と頭を悩ませる。

 

つまり、天音の心境に何が起こったのかと言うと、

(どうしよう、どうしよう、どうしよう……!髪、切っちゃった……っ!月守先輩の、好みに合わせて、髪、切っちゃった……っ!)

何のことはない、自分が何をやらかしたのか遅まきに理解しただけだった。

 

普通なら、そこに至るまでの過程で心に待ったがかかるだろう。

美容室に電話した時、美容室に向かう途中、スイにどんな風に髪を切りたいか問われた時……、どこかで「落ち着こう私」と言い聞かせることができたかもしれない。

 

しかし天音はこれまでの人生で、心から何かを求めること、欲したことが、ほとんど無かった。自分の欲のために動いて、それを満たしてから反省したり後悔した経験が、いわゆる「やらかした」類いの経験が無かったのだ。最近では地木隊に入隊するとこが大きな欲ではあったが、その欲は満たした瞬間から今の今まで満足が継続していた。

 

兎にも角にも、天音が初めて、「やらかした」ことに対して反省や後悔、何より羞恥心を覚えているのは、今この瞬間。作戦室近くの通路で膝を抱えてうずくまって真っ赤になった顔を隠している、今この瞬間なのである。

 

ここに来る道すがら、天音は少しずつ自分がやらかしたことを自覚してきた。

 

短くなった前髪のお陰で、道行く人からの視線が、いつも以上にはっきりと感じた。

長かった髪が、まるである種のフィルターだったかのように、背後から首に向けられる目線が鮮明になったように思えた。

少しだけ髪から覗く耳が、いやに周囲の声や音を拾っている気がしてならなかった。

そんな周囲の興味から離れたくて早足で歩くと、軽くなった髪の分、いつもより早く歩けたような気がした。

 

周りからの反応で天音は自分が変わったことを自覚し、本部に辿り着いた頃には、その自覚に伴った色んな感情がピークを迎えた。この変化がみんなに受け入れられなかったらどうしようと思って、不安すら覚えた。

 

(おかしいって、思われたら、どうしよう)

(逆に、なんとも思われ、なかったら、どうしよう)

漠然とした不安はどんどん天音の中で渦巻いていき、

(どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう……)

途中、何に対して不安なのかすら分からなくなりながらも、最終的には、

(……月守先輩に、変だって、思われたら……、似合ってないって、思われたら……、どうしよう……)

自分の不安の根底が何なのかは、自覚できた。

 

不安の形を自覚した天音は、意識して一呼吸とった。そして、

(……、今日はもう、帰ろう)

戦略的撤退を選択した。その判断は問題の先延ばしにしかなってないが、とにかく一度きちんと落ち着きたいと天音は思った。明日、明後日……、どう頑張っても次のチームランク戦の日には月守に会うが、その時はその時の自分がきっとどうにかしてくれると、天音は未来の自分に、今の問題を丸投げした。

 

頑張れ未来の自分、と、天音が心の中からエールを送って立ち上がろうとした、その時、

「あの……、大丈夫ですか?」

背後から、うずくまった自分を心配するような優しい声が、投げかけられた。

 

その声を聞いたのと同時に、天音の心臓は一際大きく鼓動を奏でた。

 

それは、毎日のように聞いていて、それでいていつまでも聞いていたいと思っている人の声だったから。聞き間違えない自信があるほど、毎日近くで聞いている彼の声だったから。

 

ただ、どうして今、このタイミングなのだろうと、天音は思う。

 

未来の自分から、

「や、そういうのは、いらない」

と言われながら問題を投げ返されたように感じながらも、天音は覚悟を決めて足に力を入れて立ち上がり、振り返った。

 

「はい。大丈夫、です」

天音は答えながら、声をかけてくれた彼に視線を合わせる。

 

そこにいたのは天音が思った通り、月守だった。

 

月守は声をかけたのが天音だと理解した瞬間、驚いたように目を丸くした。

「……神音……、だよね?」

普段は少しだけ、どことなく演技しているというか表情を作っている感じがある月守だが、そんな月守が心から驚いた表情を見せていた。

 

「はい」

月守と対照的に、天音は完全にいつも通りの無表情で、心の中の焦りや動揺や恥ずかしさを全く悟らせずに、淡々と答える。

 

「その……、髪、どうしたの?」

「切り、ました」

短くなった髪の先に左手の指を遊ばせるように絡ませながら、天音は言葉を重ねる。

「戦う時、やっぱり長いと……、結ってても、気になって……。そうじゃ、なくても、前々から、切ろうかなって、思って、たので……」

いかにもそれっぽい理由を天音から聞いた月守は、

「そ……そっか」

ひとまず納得したように答えた。

 

受け答えこそいつも通りの天音だが、その内心は、

(月守先輩、すごく、びっくり、してる……。引いてない、よね……。変だって、思われてない、かな……)

月守の反応を気にして、何か言われないかと不安を感じていた。

 

その不安を悟られないように、天音は止まらずに言葉を紡いだ。

「その……、どう、ですか?」

「…えーと、どうって……?」

答えるのに戸惑う月守を見て、天音は少しだけ、ほんの少しだけ心の中でムッとした。答えを聞くのは不安だし怖いけど、でも答えに戸惑った反応をされるのは、それはそれでなんか悔しかった。

 

天音は念を押すように、何に対して答えればいいのか間違わないように、戸惑う月守に向けて言った。

「……髪、です。変じゃ……ない、ですか?」

バクバクとうるさく鳴る心臓や、色んな気持ちを押し込めた無表情で、天音は問いかけた。

 

どんな答えが返ってくるのか怖がる気持ちが一際大きくなりかけたが、その出鼻を挫くように、月守は間髪入れずに、

「変じゃないよ」

天音の問いかけを否定して、そのまま、

「むしろその…、可愛いと思う。少なくとも、昨日までの長い髪の神音より、今日の神音の方が、俺は好き」

どこか慌てたような、いつもよりも少しだけ早口で、月守はそう言った。

 

それは天音にとって、何よりも嬉しい答えだった。今まで感じていた不安や怖さを帳消しにして余りあるような、暖かな嬉しさが心をじんわりと優しく満たしていくのを、天音は感じていた。

 

嬉しさのあまり、地木隊のみんなが見てる前では崩れたことのない無表情が微かに崩れて、思わず控えめに微笑んで、

「……ありがとう、ございます」

その嬉しさを全て注ぎ込んだお礼の言葉を月守へと送った。

 

2人の間に安心感にも似た穏やかな空気が流れたのも束の間、小走りな足音が聞こえたかと思うと、

「咲耶、つっ立ってどうしたの?」

通路の遠くで月守を見つけたであろう彩笑が駆け寄ってきて、月守に声をかけた。

 

「あ、彩笑。実は……」

月守が事情を説明しようとしたところで、彩笑は月守の陰に隠れて見えなかった天音の存在に気付き、

「し、しし神音ちゃんっ!?髪っ、髪っ!髪どうしたのっ!?めっちゃ短くなってるっ!?」

昨日まで行っていたヘアスタイルショーとは比べものにならないレベルの劇的ビフォーアフターに気付いた。

 

彩笑の後ろに続いていた真香もショートカットになった天音を見て、彩笑ほどでは無いにしろ動揺した。

「うわぁ……、神音ちゃん、思い切ったね」

「あ、はい。切っちゃい、ました」

いつも通りになんて事ないように話す天音を見て、真香は残念そうに彩笑に話しかけた。

「地木隊長、もう天音さんの髪いじれませんね」

「そう!そうだよ神音ちゃん!もっ、もしかして毎日嫌だった?ボクらに髪いじられるの、嫌だった……?」

不安げに話す彩笑を見て、天音はブンブンと首を振って否定して、先程月守に話したのと同じような理由を説明した。

 

月守と同じように納得して2人が納得してくれた頃、作戦室近くの通路だったこともあり、通路を通りかかった隊員や、騒ぎを聞きつけた近隣の作戦室から色んな人が何事かと顔を出してきた。

 

ランク戦で髪型からトリガー構成を予測していた生駒達人が驚きの表情を見せる。

「うおっ!?天音ちゃん髪切っとるやん!」

「せやね。イコさん、天音ちゃんの髪短なって残念やとちゃいます?」

試合で地木隊と当たるたびに天音の髪型の確認を命じられていた隠岐孝二が問いかけると、

「いや……、ショートもアリやな」

生駒は顔の横にキラリとした星を出しそうな勢いで、至極真面目に答えた。

 

「お。天音ちゃん髪切ったのか」

アタッカー第1位の太刀川慶が、オペレーターの国近柚宇と共に騒ぎを聞きつけて通りかかった。

「あ、はい。切り、ました。長い時、より、動きやすい、です」

「ほう。それはいい事を聞いた。というわけで、ちょっとランク戦しないか?」

嬉々としてランク戦を申し込む太刀川と戸惑って答えを迷う天音を見て、国近がダメだしした。

「太刀川さんダメだね〜。女の子が髪を切った時の反応がなってないね〜」

「むう……。似合ってるとか言えば良かったのか……?」

太刀川としては特別女心を理解したいわけではないが、単純にダメ出しされて凹んだ。

 

そんな太刀川に正解を見せつけるかのように、諏訪洸太郎と堤大地が動く。

「けど、実際似合ってますよね。諏訪さんはどう思います?」

「いいんじゃねーか?似合ってると思うぜ。ただ個人的な好みだとロングの方が……」

諏訪が好みを語り出そうとしたところで、

「すわさんもダメだね。似合ってるで止めればよかったのに」

太刀川と同様に、オペレーターの小佐野瑠衣にダメ出しされた。

 

小佐野はそのまま天音に近寄り、声をかける。

「いやでも、本当に似合ってるし可愛いよ、天音さん」

「ありがと、ございます」

ペコっと頭を下げて天音はお礼を言った。小佐野は続けて、

「どこで切ってもらったの?」

と問いかけた。天音は店名を答えようとしたが、店名がアルファベットで読めなかったため、咄嗟に、

「あ、えっと……、ス……、千彗さんって、人に、切ってもらい、ました」

スイの名前を挙げた。すると、

「千彗さんって……、もしかして、スイさん?」

その名前に覚えがあった小佐野が食いついた。

 

「知ってるん、ですか?」

「知ってるよー。モデルやってたころに何回もお世話になったんだけど……、あれ?でもスイさんのお店って、ここから遠くなかった?」

「あ、なんか……、三門市に……この辺に、引っ越して、お店開いて、ました」

「え!?本当に!?スイさんのお店、近くにあるの!?」

「は、はい」

天音が頷いて肯定を示すと、小佐野は小声で、

「マジかー……。今度行こうかな……」

ブツブツと呟きながら、頭の中でいつ行こうか算段を立てていた。

 

「オサノ先輩、そのスイさんって人、そんなに腕のいい人?」

彩笑が尋ねると、

「保証する」

小佐野は食い気味に返答した。

「そ、そんなにですか?」

驚く彩笑の手を、小佐野は素早く掴む。

「スイさんは保証する。彩笑ちゃん、今時間ある?あったらスイさんの腕前について説明してあげる」

疑問形ではあるものの、小佐野の言葉には有無を言わさない迫力があり、彩笑はそれに押し切られて頷き、そのまま諏訪隊作戦室に連行されていった。その際に「天音ちゃんも来て!」と言われて天音も連行され、それについていく形で真香も諏訪隊作戦室に消えていき、そして集まっていた人だかりもそれに倣って消えていった。

 

 

 

 

 

「……」

最後に残った月守は、静かな足取りで歩き出して、元々の目的地である作戦室に向かった。

 

「……」

中に入るとそのまま壁にもたれかかって、ゆっくりと足の力を抜いて、へたり込むように座った。

 

そして、

「……さっきの騒ぎに、菊地原が居なくてよかった……」

ぽそりと、そう呟いた。

 

もしあの場に、強化聴力のサイドエフェクトを持つ菊地原がいたとしたら、即座に、

「ねえ、うるさいんだけど」

と、言われたかもしれない。

 

そう思えてならないほど、ショートカットの天音を見た月守の心臓は騒がしく脈打っていた。

「……っ!」

左手で口元を隠す月守だが、それでは隠しきれないほど、彼の頰は豊かな血流によって赤くなっていた。

 

無人の作戦室で何かを探すように視線を彷徨わせた月守は、昨日の記憶を漁る。

 

昨日天音に好みのタイプについて問われた時、月守は確かに「ショートが似合う人」と答えた。だが答えた時に彼の口元は手で覆われていて、その隠された口は、彼が嘘をついている時に現れるという『困ったような笑み』のものだった。

 

正直なところ、月守は本当に自分がどういう人を好むのか全く把握していなかった。更に言えば、彼の言う「可愛い」というのは彼自身が感じていることではなく、沢山の人が言う「可愛い」がどんなものなのか参考にした上で『こういうものを可愛いと言う』という、ある種の集計によるものだった。

 

自身の好みも、心から感じられる『可愛い』も分かっていなかった月守は天音の問いかけに対して、それらしい嘘の答えを提示した。ショートを選んだのは、単に地木隊メンバーの中にいない髪型だったからだった。

 

ショートが似合う人が好き、というのは、彼が咄嗟に吐いた嘘の()()()()()

 

しかしそれは、今さっき天音と会ったことで、変化した。

 

うずくまっていた天音が立ち上がった、その後ろ姿の時点で、月守の心は少しざわめいた。

振り返った天音と目が合った時、心臓が大きく跳ねたのが分かった。

変じゃないか、と訊かれた瞬間、即座にそんなことないと強く思った。

 

そして、天音の無表情が本当に少しだけ崩れて淡く控えめに微笑んだところを見て、月守は理解した。

(ああ、そっか。可愛いって、こういうことを言うんだ)

理屈や周りの声に頼らない、今、彼自身の心が感じているこの感情こそが、『可愛い』というものなのだと、月守は自覚した。

 

月守咲耶が吐いた『ショートカットが似合う人が好き』という嘘は、天音神音によって真実へと塗り替えられた。

 

加湿器のかすかな音だけが鳴る無人の作戦室で、アップテンポな心臓のリズムを全身で感じながら、

「……これから神音と会うたびにこんなになってたら……、俺、死んじゃうかも……」

可愛いに殺されるかもしれないという、何とも不思議な懸念を抱いたのであった。

 

*** *** ***

 

初めてショートにした日の回想を終える頃には、天音の髪はスイによって、いつも通りの出来栄えになっていた。

「はい、おしまい」

「ありがと、ございます」

鏡越しにすっかり見慣れた自身のショートカット姿を見て、天音は無表情ながらも満足げな様子を見せる。

 

そんな天音を見ながら、スイはわざとらしく電卓を叩く。

「さてさて。今回のお代なんだけど……、常連さん割引と、開店1周年間近割引で、合わせて2割引き!」

「スイさん、また、割引してる……」

1年間、なんやかんやで割引され続けた天音は申し訳なく思うが、以前その申し訳なさを経営面と絡めて伝えたところ、

「私のお店をご贔屓してもらってるんだから、気にしないで〜。むしろ、お店を乗り換えられる方が経営的に困っちゃう」

との解答が返ってきて、天音は三門市を離れない限りはこの店に通い続けることを誓った。

 

割引された代金を天音は払う。

「スイさん、また、来ます」

「うん、待ってるよ〜」

暖かな笑顔で、スイは天音を見送った。

 

「……さてさて、お掃除しますかね」

誰もいない店内で、スイは床に散らばる天音の髪や、使った仕事道具一式の片付けを始めた。といっても今日はもう客の予定は無いため焦る必要は無く、スイは鼻歌まじりでのんびりと掃除をしていた。

 

すると突然、不意に店の扉が開いて来客を告げるベルが鳴った。

客の予定を忘れていたか、急な来店か、天音が忘れ物でもしたのか。振り返るまでに色んな考えが頭をよぎるが、そのどれもが違った。

 

その来客はまるで勝手を知ってる我が家かのような勢いで来店と同時にコートを脱ぎながら、我が物顔で口を開いた。

「スイ、なんかあったかい飲み物ちょうだい」

「ハナ、ここは喫茶店じゃなくて美容室なの」

突然の来客は、スイの人生を大きく変えた親友の不知火花奈だった。

 

スイは不知火に「適当に座ってて。そのうち飲み物出すから」と言ってから急いで片付けを終えて、暖かい紅茶を差し出した。

「スイ、腕上げた?紅茶が前より美味しい」

「上げたのは腕じゃなくて茶葉の値段ね。前のやつよりちょっといいやつだから」

「こんな時期に出費していいのかい?」

「貰い物だから安心しなさい」

 

数口紅茶を飲んだところで、不知火は世間話のつもりで話しかける。

「それにしても、スイが三門市にお店を開いてくれて助かったよ。お陰で、移動の手間がだいぶ省けるようになった」

「よく言うわ。前まで顔を合わせる度に『ここまで来るのが面倒だから三門市で独立してよ』ってずっと言ってたくせに」

「まさか本当にそうしてくれるなんて思わなかった」

「色々と頑張ったんだから、感謝してよ?」

「うんうん、ありがとう。……でもね、スイ、1つだけ言わせてほしい。ワタシの名前を店名にするのはやめてほしかった」

「このくらいはしないと、割に合わないでしょ?」

「ぐぬぬ……」

不知火が悔しがる姿を見て、してやったりと言わんばかりにスイは肩を揺らして笑い、手に持ったティーカップの中にある紅茶がかすかに揺れた。

 

冷静さを取り戻した不知火は、何事もなかったかのように会話を再開させた。

「お店の調子はどう?」

「おかげさまで、って感じね。誰かさんのお陰なのか知らないけど、お客さんのボーダー隊員率が凄い高いの」

「ふむふむなるほど。ならばスイは、その誰かさんに感謝しなければいけないね」

「そうね。このお店のお客さん第一号の神音ちゃんには感謝してるわ」

「あれ?そっち?」

「だって開店した時期に『天音ちゃんからこのお店のこと聞きました』って子がすごく多かったし」

「ねえ、ワタシは?」

「それから瑠衣ちゃんもね。まさか髪を切ってあげてたモデルの子が三門市にいたなんてね。瑠衣ちゃん経由で来てくれるお客さんもいっぱいいるわ」

「スイ、ワタシは?」

「あとは絢辻ちゃんの影響も大きいわ。嵐山隊がインタビュー受けた時、何かの拍子でここの事言ってもらったみたい」

「スイがワタシのこと無視する」

スイがわざとスルーしていたら、不知火がいじけ始めた。

露骨にしょぼんとする不知火を見て、スイはクスクスと笑う。

「はいはい、ハナのおかげも大きい大きい」

「ならば良し」

すぐさま立ち直るところを見ると演技だったようで、スイは小さな声で「相変わらずね」と呟く。

 

紅茶のお代わりをしようか考えながら、スイは尋ねた。

「ところでハナ、今日はどうしたの?何か用事?」

「あー、まあね」

言いながら不知火はバックから一枚の封筒を取り出した。とても丁寧な装飾が施された封筒に見覚えがあったスイは、呆れたようにため息をついた。

 

「ハナ、それの返事は折り返しで送ってって、私書いたよね?」

「書いてたね。だからポストに投函しようと思ったけど、『ここまで来たならもう直接渡した方が早いな』って思って今日持ってきた」

不知火はスイにその封筒を差し出しながら、同時に、

「……改めて、結婚おめでとう。千彗」

長い付き合いになる親友の婚姻を祝う言葉を贈った。

 

「ありがとう、花奈」

封筒と言葉を、スイは照れ臭そうな、それでいて幸せそうな笑顔で受け取る。

 

その笑顔はとても綺麗で魅力的で、不知火は咄嗟に、

(うわ、出た。スイの男殺しスマイル)

昔からひっそりと名付けていた親友の笑顔の異名を心の中で呟いた。

 

(思えば昔から、スイはそうなんだ。自分が周りからどう見られてるかの認識が合ってないというか……)

不知火に言わせればそこが彼女の良さでもあるのだが、これから身持ちになる人がいつまでも男殺しスマイルを振りまくのはいかがなものかと思い、遠回しに忠告することにした。

 

「スイ、良かったら婚約指輪を見せてくれるかい?左手の薬指にはつけてないみたいだけど……」

「つけてないよ。仕事柄、手が色んな薬品に触れるから外してるの。普段はチェーンに通してネックレスにしてるよ」

言いながらスイは首元にかけた細いチェーンを手繰り寄せるが、指輪があるであろう服の下、胸元に視線を向けた不知火が、思わず一言呟いた。

 

「スイ、相変わらずおっぱい大っきい」

「ハナ、あなたのそういうところ、本当にオッサンくさいって思うわ」

 

冷ややかな目で忠告したスイだが、その言葉は思いのほか不知火に刺さった。

「スイもワタシにそんな事を言うのかい?最近ウチの子も冗談半分だとは思うけど、歳取ったよね的な事を言ってくる……」

 

どんよりとした不知火が何とか復活したところで、スイは封筒の縁を意味もなくなぞり始めた。

「あとで中は確認するけど、どっちに丸つけたの?」

「参加に決まってるだろう。ただ……」

不知火はどこか申し訳なさそうに言葉を続ける。

「もしかしたらスイの式の頃に、出張が入るかもしれないんだ。もしそうなったら、式には出られない」

「そう……。わかった。どっちにしても確定したら、教えてね」

「すまないね」

「ううん、気にしなくていいよ。そういう事情なら仕方ないし……、あれ?もしかしてその出張って、この前のボーダーの記者会見で言ってた遠征っていうやつのこと?」

何気なくスイが思った通りのことを口にすると、不知火は途端に眉を寄せて不機嫌な表情になった。

「あ、これ当たった感じだ」

にっこりと笑うスイとは反対に、不知火の表情は一層不機嫌になる。

「はあ……。どうしてスイは、ワタシが気付かれたくなくて遠巻きに言ったことをわざわざ確定させるかな。一応これ、守秘義務的なものもあるんだよ?」

「あはは、ごめんね。昔、どっかの誰かさんがすごーく遠回しに、居なくなるよってサインを出してたのに拾えなかったから、それ以来人の話はキチンと聞いて理解することにしてるの」

 

だったらさっきの結婚指輪の時とかも伝えたい事を察してくれと不知火は思うが、それをおくびにも出さずに芝居掛かった態度を取った。

 

「全く。そのどっかの誰かさんとやらは迷惑なことをしてくれるね。是非とも一度、顔を拝んでみたいものだよ」

「ハナ、右にある鏡を見たら拝めるよ」

 

言われるがまま不知火は鏡を見たが、

「スイ、残念ながらワタシには美人が2人いるようにしか見えない」

自信満々に言い放っただけだった。

 

昔からちっとも変わらない、自信たっぷりな不知火を前にして、スイは思わず笑みをこぼす。

 

「あ、そうだハナ。その式の時の挨拶を、ハナにお願いしたいんだけど、いいかな?」

スイの提案を受けて、不知火はひどく驚いた。

「スイ、正気か?ワタシだぞ?」

「うん」

「はぁ……。もっとこう……、そういうのに相応しい人はいるだろう?コミュニケーションに明るい人とか、立派な地位やら功績を持ってる人とか……」

不知火はそうしていくつか例をあげるが、少なくともスイが結婚式に招待した人の中で、上司に対してフランクに絡むどころか嬉々としてイタズラを仕掛けるコミュニケーション能力を持つ人や、有名大学を卒業してたり様々な分野での博士号を取ってたり各学会を揺るがすような論文をいくつも発表してたりする地位や功績を持つ人など、不知火の他にいなかった。

 

(花奈ってホント、昔から自分の客観視がどっか下手なんだよね……)

 

自分のことを棚に上げてアレコレ言う不知火に対して、スイは言う。

「花奈がいい。花奈に話してほしい」

「だから、なんでまたワタシに……」

「花奈は自分の髪を切ってくれる人を、腕前だけで選ぶの?」

その言葉で、スイが言いたいこと、スイの気持ちを理解した不知火は、意図して呼吸を取った。

 

地位とか功績とか、相応しいとか適性があるとか、そういうのじゃない。

ほかの誰でもない。私が選ぶ、あなたに頼みたい。

 

スイの思いを汲んだ不知火は、初めて髪を切ってもらった頃と何ら変わらない、やんわりとした笑顔で、

「そういうことなら仕方ない。出席できたなら、挨拶はワタシが引き受けよう」

心許せる親友の頼みを引き受けた。

 

 

 

お互いに相手に伝えたい要件は済み、そのまましばらく雑談をしていたが、スイが時間を気にし始めたのを見て、不知火はおいとますることにした。

「何か用事?」

「あー……、うん。待ち合わせ、かな?」

柔らかくなる表情や温かな声色で内容を察した不知火は手早くコートを手に取った。

「オッケー、だいたいわかった。君たちの幸せぶりを見てると胸焼けするから、ここらで帰る」

「もー、からかわないで」

ほんの少しだけ困ったようなスイの反応を見た不知火は満足したのか、ケラケラと笑いながら店の扉に手をかけて、振り返った。

「それじゃあ、またね、千彗」

「うん、またね、花奈」

別れの言葉を交換してから不知火は扉を開く。

 

不知火の姿が外へと消えていってしまう直前に、スイは柔らかく微笑み、

 

「あなたのためだけにある美容室、

『Phosphoresaent Light』

に、またのお越しをお待ちしてます」

 

滅多に言わないお店の営業文句を、小さな声で囁いた。




ここから後書きです。

お付き合いいただいた番外編終了です。
メインに天音を据えて書きましたが、普段、感情が出ない彼女のいろいろな面をたくさん書けたので、とにかく楽しかったです。
うろたえる月守が書いてて新鮮でした。

読み返すと天音と生駒さんの間に地味に因縁が多くて、本編で2人の絡みを書くのを楽しみにしてます。

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