神祇探しと居候   作:多賀皓一郎

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下手の物好きが書き始めると、話としては現実の地名を借りた世界、または並行世界の類がよく記録される。また、話し言葉は簡単な言葉で済ませたいとしても、書き言葉には多義的な意味がほしいと思う時があるに違いない。そういう軽度の厨二病患者は、歴代の文豪などが用いた当て字の技巧を乱れ打ちにして大概上手くいかない。人生というものはよくわからない。


第一葉

 

 私は医者という存在を信用したことがない。勿論、根拠が無いわけではない。例えば、腹痛や胃痛などを観ても近所の小さな診療所と大きな病院では診断がまるっ切り異なる。不定愁訴や足腰の痛みでは大きな病院より小さな診療所の方が真面(まとも)な知識を有している事もある。

 私の場合は、何処を病もうが何処に掛かろうが大抵は原因不明にされて生活指導しかされないので、何時(いつ)の間にか行かなくなった。元々行かなくても大病(たいびょう)はしない、交通事故に遭っても怪我一つ無い、捻挫や骨折の(たぐい)などは有り得ないので構わなかったが。

 さて、今日は顔も合わせてないような人にまで葉書を数多(あまた)書かなければならない。今時は師すら走る程なのに、私に暇を持つことができようか。筆の硬軟も印墨(インク)の色の吉凶も問わずに画材を机から粗方搔き集め、山から一枚一枚引き出す。予め決めておいた四、五種の構図を幾揃いも書き上げると、そのすぐ後には広げた古新聞の上で僅かな隙間を空けて敷き詰める。まるで素人(しろうと)左官(さかん)屋のようにも見えるが、実際に細かく文章を連ねるのは職人に為り切らねば精神がどうにもならない。

  (ざっ)と百枚ぐらいかもしれないが、隣の六畳間一杯に敷かれているのは自分でやっておきながら圧巻である。だが、悦びに浸る間もなく乾く頃合いをみて宛名を書かなくてはならない。

 家族や親戚、友人や同僚、自分の分は集めても二十枚程。他の約八十枚は全て近所の親交が深い人達から頼まれた代筆である。何でも、或る人に拠れば、私が書いた年賀を送ったら復縁できたらしい。そんな評判の所為で毎年数人から何枚もの代筆を頼まれている。全く迷惑な話だ。

 炬燵(こたつ)に籠って宛名を書く度に、会ったこともない人のものでも住所が変わっている、職業が変わっているなどという情報が入る。つまり、代筆既に十五年、一端(いっぱし)の消息通である。そういうものに私はなりたくなかった。

 私は、友人に送るものが一番時間を食うために手をつけていなかったが、やっと消息の更新が済んでしまったため、取り掛かった。何時も無難な言葉しか書けないものを、無暗(むやみ)に弄ろうとするからか、やはり思った通りに作業が滞る。思い出が邪魔して、作業から意識が逸れて何枚が(いたずら)になったかは知らない。

 丁度葉書の山を使い切った頃、目を霞ませながらも何とか書いたらしかった。依頼主に渡すのは手間じゃないが、休みが全く取れないからか著しく疲れた。午後九時、八分の七日は経った。眠い。

 

 

 

 二

 

 葉書を書いてからどうやって寝たんだろうか、それが思い出せない。

『もう起きたんだ、早いね』

 聞こえたような気がしてそう反芻する。二、三秒ぐらい後に背もたれを調節する座椅子のように上体が跳ね上がった。

 つけたままの腕時計は未だ五時。かといってもう寝ることはできない。やをら布団を抜け出して冷蔵庫より寒い家を歩き、卵を焼いた。

 味覚が中途半端な私は白と黄色のそれが確かに美味しいのかが確証を持てなかった。でも、赤いあれは確かに酸っぱかった。

 皿を洗っていると、家の呼鈴が鳴った。私は、はい、と一言声を張り上げながら手を濯ぐと、ガラガラと引き戸を開けた。

 子供、じゃなかった。

 相手は、自分と同じぐらいの年齢、背丈の男であった。ぱっちりと開いた眼、丸顔に眼鏡を掛けた子供のような駄埼(ださい)と感じる境界の容姿は私とは大きくかけ離れている。

「ああ、やっぱりこの人かな」

 そんな風に微かな声で呟いたかと思うと、後は臆する気も無く話し出した。

「あの、初雁(はつかり)碩哉(ひろや)さんでしょうか」

「そうだが」

「ああ、熊谷(くまがい)靖人(やすひと)といって、嘗ての同窓だった者ですが」

 私は記憶を辿った。確かに居たことはいた。それでも、そこまでの親密な関係だったかは思い出せなかった。それにしても、此処らの朝の放射冷却をもろに受けて寒くないのだろうか。私は寒い。

「ああ、そうですか。まあ、此処では寒いからどうぞ中へ」

「恐れ入ります、ではお言葉に甘えて」

 熊谷はまめまめしく靴を揃え、動作緩やかに玄関を上がる。その後、外套を預かっては居間に入れて、お茶を淹れる。泡の付いた食器は放っておいてしまうが、手のつける暇が無い。

 茶を持っていくと、熊谷は居間のあらゆるものに興味を持ったように歩き回っていた。居間は神棚、仏壇の跡に興味深々のようだ。

「ああ、ありがとう。直ぐに飲むから置いておいてください」

「いや、それはいいんだが。どうしてまたこんな早くに」

「電車の都合です。長距離を各駅でだと何分(なにぶん)時間を選べないもので」

 迷いなくしっかりと答えた。

「ふうん、成る程。お疲れ様です。そういえば、朝は」

「それは道中適当に済ませました」

 熊谷はお茶を濁した答をしたが、厚着でも防げない腹が鳴る音を聞き逃しはしなかった。ただ、それを直ぐに悟られたくない為、平静を装って台所へ向かった。炊飯器を無音で開閉し、佃煮や漬物を添えて帰ってきた。

「食べられるんだったら食べてくれないか。未だ食べていなくてさ」

「ああ、(かたじけな)い」

 そう遠慮がちに言いながら熊谷の箸は機敏機敏(きびきび)と動いていた。私も食べながら、訊ねてみた。

「あの、今回はどうしてこちらに」

 熊谷が答える。

「要件を先に言いますと、実は一週間程此処でお世話になりたいのです」

「そりゃ、またどうして」

「こんな事言うのも浅ましいんですが、今お金が無いんです」

 それに続いて云うには、以下の話であった。

 熊谷は、元々収入も貯蓄もあまり無かった。その所為か、何か病院だ、予定外の支出が起こるとすぐに生活が厳しくなる。今回は、会社を(くび)になったので、転職して収入を得られるまで友人を頼れないかという事で、所持金が円弧を描かない内に理解が得られそうな友達であった初雁こと私に頼ったというわけだった。

「事情は解ったが、友達だったっけ」

「大崎さん達は確かに憶えていたんですが」

 私は、熊谷が大崎の名を出したことに、自分の家に踏み込まれるよりも慄然とした。

「大崎が」

 大崎は言うのも憚るような家庭事情もあって学校を休みがちだった。彼の名を出せるのは、友達として直接繋がっていた人に限る。

「ええ、偶に会うんです。二人で呑んでは世間話をしたりして」

「へえ」

 こんな風に会話していても全く思い出せない。ただ、確実に自分と繋がりがあったのは解った以上、関係無いといって追い返すのも非情である。

「そんな事情もあれば仕方ない。解決するまで泊めてやるか」

 私はこういう事に(つくづく)弱いのだろう。思いの外(つぶ)らな瞳から()(ばゆ)い程の視線を感じてしまったが最後、人情というものが働く。それが無くたって、上着を着たとしても、今の寒い時季に外を彷徨えば、(いず)れと云わずとも命が危ない。

「ありがとうございます」

「ただ、()饗応(もてなし)なんてものは期待せんでもらいたい。何かにつけて不器用なんだ」

「いえいえ、それで充分です」

 時計を見ると、確かに六時を五分程過ぎたのだろう。私は、熊谷との話を一旦つけて家を出た。

 駅には千歩行けば着く。

 電車の中で考える。熊谷について思い出せる情報は今の所あまり多くない。確かに同じ学級だったのは憶えている。怪しうはあらぬ成績で、偶に教師から褒められるような点を取っていた記憶がある。学級の窓際にいて、会話はするものの、静かな人だったというぐらいで、私や大崎らとの関わりは彼の話を待つより他ない。

 

 

 列車は花巻に着いた。降りて十分、大通りを覗けるような、そう悪くない路地に私の職場はあった。ここで私は、工芸品という括りに突っ込まれた地元から集まる雑多な物を、数人の社員で販売するという不思議な仕事をしていた。立地のせいか、将又(はたまた)知名度が高いのか、観光客が少ない割には業績は思いの外高い。小さな店だが、しっかりとした体制があり、業機共有(ワークシェアリング)の精神に基づいて私は日が落ちる前に仕事が終わる。給料はその分慎ましいものだが、一人で生活するには十分で、今回のように誰かがお邪魔したって問題は無さそうだ。

 職場に着いた私は息つく暇も無く駆り出された。午前組と午後組の重なる十時から三時の範囲外では四人しかいない。更に、今は店長がいない。

「店長見なかったか」

「また家対応です」

 院卒間もない若い後輩が答えた。返事一つからして、女受けの良さそうな好青年の気風が未だ残っている。

「やれやれ」

 私は溜息をついて卓に着き、受話器を取った。

「もしもし、おはようございます、店長。現在在宅対応。また、僅少、欠勤、変動何れも無しです」

「了解。いつもご苦労です」

 そこで正弦波の音が耳の前に割って入って切れた。(ねぎら)いを言うくらいなら休まず出勤してもらいたく、こんな無味乾燥な挨拶よりは一発、賎陋四字(くそったれ)()ます方が余程刺激的で気分も良いのだろうが、今に始まった話ではないので、溜め息を吐いて電話を切った。

 私の担当である染物やホームスパンなどの布製品系統に戻ると、見慣れぬ女性が一人いた。ぱっと観て、二十代は確実だろう。

「貴女は」

「ああ、私は今日から此処でお世話になります纐纈(こうけつ)朝弥(ともみ)です」

 私が訊ねると、彼女は嫌味のない明瞭な声で答えた。名前は厳ついが、人相は柔らかで良い。骨張った箇所が無ければ、派手に見えるところもない。凡夫に受けが良さそうな田舎の偶像(アイドル)のような顔立ちをしていた。髪はそれなりに長いのだろう、南天を模した赤い南京玉(ビーズ)がついた短い箸のような釵で留めてある。

「成る程、解りました。宜しく」

 しばらくこの人に掛かりっきりにならざるを得なくなり、仕事が楽になった。店については、よく来ていたらしいので説明が要らなかったが、染物に関する知識は零であったのは少し面倒だった。私は、この新人が早くに馴染めるようにという名目で雑談の限りを尽くした。誰かが羨望の眼差しを向けてきた気もしなくは無いが、特定はしない。

 形式的に一通りの説明をすると、客が来なかった分空いた時間が生まれた。

「初雁さん」

 一般の男が内心鼻の下伸ばして振り返りそうな潑刺(はつらつ)とした声で言われた。

「何」

「初雁さんは此処でどれくらい居るんですか」

「院卒でやってきたから、もう十年ぐらいかな」

「ええ」

 音量には出ないものの、ひどく驚いたようだった。

「どうかなさいまして」

「いや、若々しくてつい」

「そうか」

 思わず苦笑した。自分の年齢の話はもう(うん)ざりしている。

 誰がどう観ても、脳味噌まで筋肉で出来た高校生みたいな容姿だろうさ。四十になると言っても誰も信じなかったのだ、という主張を堪える。

 形だけは忙しかったのも、人数が増えてからは落ち着いてきたようで、あの女性を私からあの爽やかな好青年に任せて一息吐く事ができた。実際面倒なのである。女というものが解らない為か、神経を燃やす勢いで磨り減らす。それじゃあ精神を病む。やってられない。

 私は会計の席に腰を下ろして、金銭(キャッシュ)登録機(レジスター)を整理していた。

「先輩って本当に女の子苦手ですよね。可愛い新人が来たっていうのにあんなに素っ気無く」

 耳許から聴こえる。

「どうしようもないだろう。これでもその場の最善に無い頭絞ってんだ」

 言って首を廻すと、(つくえ)越し、初雁のすぐ側に社員の匂いがしない女性がいた。私は頸筋(くびすじ)の緊張を感じた。

「って、木谷、お前どうして此処に」

「一人旅のついでに来てみたの。河童が居なかったのは少し寂しかったけれど」

「遠野からか。じゃあ、此処まで一時間も」

「まあ、初雁みたいに時間の問題は無いわけだし」

 彼女が云うには、(たから)(くじ)で高額当選したらしい。一生遊んで暮らせる値段が当たってしまったため、絶賛豪遊中の様子。

「まったく、調子いいんだから。河童の方が未だ質素で良いかも知れん」

「全く、折角寄ってみたっていうのにそんなこと言うんだから。それに、金持ちの下品さまで身に付けてはいないじゃない」

 彼女は全体をさらっと見せるように一回左右に身体を捻ったが、私には何の意味も成さない。それ以前に宝籤なんて、幾ら此方が金に欲が無いにしても他人に臆せずする話だろうか。

「どうかなぁ。目を塞いでいるのが丸太でなければいいがな」

 彼女は(わざ)とらしくむすっとした。

「まあ、そんな風に言うのも、それはそれで本人だって分かっていいわ」

 私は木谷に自分らしさを規定された覚えは無い。

 木谷は、私の仕事にも一応配慮してか、それ以上の話題は無かった。ただ、

「そうだ。そういえば、三時には揚がるんでしょう」 

「まあ、そうだが」

「だったら、近くで珈琲でも飲んでいかない。ああ、それともお茶でしたっけ」

「どっちでも飲むさ」

 多少ぶっきら棒に答える、それでも及第点ではないかと思う。

「じゃあ、駅前で会いましょう」

 そう言うと、ゆっくりと遠ざかっては写真のような外の風景に解けていった。

 

 

 初雁は予定通り三時で仕事を終え、事なくして午後番に引き継いだ。午後番は風邪気味であまり体調が優れなかったらしいが、主な祭日も終わった殆ど客が来ないだろうからと裏二三軒の風邪薬を買い与えて、殆ど動かない仕事に誘導させた上でこっそりと抜け出した。

 私は駅前と呼ぶにしては大分遠いような喫茶店に向かっていた。第一、駅前にあるのならば線路の(まくら)()を歩きながら飽きる程眺めない。兎も角、私の脚は有り体に疲れた。

 店は繁盛している。でも、智的感覚の鋭そうな人達によってひどく落ち着いていた。言い換えれば、受験会場では周囲全員が頭の良い人に見えてくるように、ここの喫茶店には其れなりの富裕か知識層が入り浸っているように見えた。

 その中に木谷はちゃっかり紛れていた。ただ、明らかに浮いている。(はた)から私は見苦しくないように身体を座席へ運ぶのに苦労した。

「そんで、どういったことを」

 武骨にもそう訊いてしまった私を(たしな)める視線を送ると、手許の御品書きを丁寧に滑らせた。

「解るけれど、焦らないで。ほら、この中からでも」

 私は店員を呼び付けると、無糖の珈琲と数枚の乾餅(ビスケット)を頼んだ。その間に木谷は取手を掴んで紅茶を音を立てずに飲む。珈琲で誘った癖に。

「そういえば、こうしていると傍から見たら親子みたいじゃない」

「止めろ」

 私を弄るのには全力を尽くす人だったとは思い出したので、こんな奴に時間をかけることになるとは、と気落ちした。

「化けの皮剥がすぞ」

「判った。本題に入りましょう」

 自分に矛先が向けば直ぐに逸らすところは気に食わないが、これ以上の茶番は求めていない。

「私は最近の初雁に何かあったか訊いてみたかっただけなんだよね。ほら、十五年以上も会ってない訳だし」

「お前に話す話題なんて無いがな」

「応じておきながらそれは酷い」

 少し不貞腐れた顔をしたのに対して、私はにっこり笑う。

「冗談だ。話すことなら年賀(ねんが)葉書(はがき)よりも(うずたか)く積んであるさ」

 幾つかの話をした。勿論、熊谷以外の話題は近況報告でしかないから省くが、熊谷に関わる話は存外興味を抱いてくれたようだった。

「熊谷さんか。そういえばそんな人もいたね」

「何か憶えているか」

「私が覚えている限りじゃ、初雁が一番かわいがっていた人じゃないかな」

「そうなのか」

 私は、そんな人なら憶えていないはずは無いのにな、と動揺した。誤魔化したくて黒い煮汁を飲むが、頭に染みる苦味だけでどうにもならない。

「独断かもしれない。でも、一緒に遊んでいるのを見聞きしたよ。接触(スキンシップ)するまでの間柄だった」

 私はぽかんと口を開けていたらしい。いや、自覚する段階であるなら相当だ。木谷は怪訝な顔をして何かを懼れるような口調で訊いた。

「もしかして、憶えていらっしゃらない」

「んだ、さっぱり」

「嘘でしょう」

 文字通り眼を引ん()いて飛ばされたこの言葉には余裕の無い本音から出てきたような迫力があった。

「あんたは病院行った方が良いよ」

「何処に何遍行っても同じさ。家出した思い出は帰ってこない」

「いやいや、何でよ。普通そんな人が家に上がったら何か思い出す事でもあるでしょう」

「それが無いんだよな。不勉強な時の試験の答案みたいなものさ。それに、彼のいない記憶で自史(おもいで)編纂(つくら)れちまってんだ」

「まったくもって酷い。友人として最低だわ」

 卓を拳で小突くと、洋杯(コップ)の水面は同心円の波紋を描いた。流石に巫山戯(ふざけ)た返答だったらしい。

「冗談じゃないんだよ。何年も取り戻せないままさ」

 流石に興奮は鎮まったのか、勿体振った溜息一つ吐くと、平静とした彼女になっていた。

「まあ、折角来ている訳だし、全部聴いてしまうことね」

「解った判った。そんでもって其方(そっち)さ言うように」

「是非とも」

 私は木谷に駄賃を置いて店を後にした。またまくらぎを数えて帰り、電車にまた揺られた。この時季だと、釣瓶落としの日に大層味気ない心地がする。風景は線路に沿うようにある街が続くかと思えば、空の港、地の田圃(たんぼ)、また隣町があるというような継接いだ衣服のように繰り返していた。

 彼此一時間。目に入れる色も様を変え、風も冷やか。私は一人の居候を思い出して、夕飯の食材を買い込んだ。一人暮らししている以上、食べられる料理ぐらいは拵えられる。それには意外性はあるかもしれないが、何の(とが)も無いだろう。

 私の家は駅まで丁度千歩で行ける距離にある。家に帰ると、醤油のような匂いがした。奇怪(あやし)と思って台所へ行くと、熊谷が焜炉(こんろ)の前に立ってお玉を上げ下げしていた。それは気配を感じてこちらを振り向くと、熊谷は下手れたように笑った。

「ああ、丁度良かった。良かったら御一緒に」

 私は、居候の分際で此処までする事に非常に驚きを感じた。迷惑だと怒ってはいない、寧ろありがたい気もした。だが、頭上拳大の間隔に疑問符を浮かべたまま取り払えていない。幾らお世話になるとは言え、此処までするだろうか。外套や買物を片付けて、そう考えている内に料理は分けられている。熊谷がじっと待ち構えているのが判る。だから、大人しく頂く事にした。

 醤油の匂いの元は肉じゃがだった。この地域に味覚を合わせたのか、若干甘い。

「意外と美味いな」

「そうですかね」

 彼は犬のような顔で謙遜笑いをした。

「いや、普通に上手いよ」

 何も考えずに数口は食べられたものの、一口毎に何かを言いたがっていたという記憶が鮮明になって行き、遂にはっとした。

「もしかして、遅かったか」

「いえいえ、そんな事は断じて無いです」

 空腹でも朝御飯を遠慮するぐらいだったのだから、今回もまた何か言わずじまいなのかと(いぶか)った。今のこれは察していないだろうが、彼は何かの為に補足した。

「ああ。だって、恩人にただでお世話になるわけにはいかないですから」

「そう、なのかな。まあ、ありがとう」

 後は黙々と食べた。何となく客と食べている時のきまりの悪さが感じられた。

 二人とも皿は空けたが、すぐ片付ける気にはなれない。罪悪感を打ち消すように訊ねた。

「そういえば、何が必要になるんだ。着替えだり(なん)だり()んだりって要るだろう」

 私は何かを言いかけるのを制するように付け加えて言う。

「あ、『遠慮』はいい加減要らないからな」

 まあ、時間を掛ければ少しは打ち解けて気が楽になるかもしれない。

 訊いてみて判った事に、彼は予想以上に不足があった。残りの金銭は一日たりとも口を糊付けできない程。荷物の軽量化の為か、着替えは一日分のみ。幸い、是等(これら)はすぐに解決できる。問題は、来年になると賃貸契約の更新ができずに家を失うことらしい。それまでに何かしらの職業に就いてもらわないといけないのたが、その先は()そう。

「んじゃ、御馳走様でした」

「御粗末様です」

 私の方が僅かに声が大きかったかもしれない。

 

 

 体格も然程異ならなかったからか、貸し与えた寝衣(ねまき)は多少(ゆった)りとしていたものの、丈は合っていたようだ。遠慮の権化みたいに熊谷は行水のごとく瞬く間に終えたかと思うと、紺の作務衣を身に纏って平然としていた。私は何を貸しているんだ。

 私は暫く何も話さなかった。風呂入ったりなどの他に空いた時間でさえ、私には不合(いず)い。

 彼は態々私に断って本を借りた。数冊の文庫は私の所有のはずだが、古今東西全く統一を失っている。私は彼が読んでいる姿をよく観察した。それが思い出への鍵になってくれはしないかと期待してみた。静かに(ページ)(めく)る音も、本の表紙絵も、思い出せそうな箇所を逆撫でするだけで長い事眺めてどうにもならないと悟らせる。代わりに考えを巡らす。

 彼の来た理由は怪しい。私と彼が通っていた高校は偏差値があまり高くはなく、地元民のみが通うような学校であった。つまり、幾ら彼の人脈が少ないからとはいえ、()っ通し歩き続けて一日半も掛かる距離にある今の私の家に来るだろうか、ということだ。これだと交通費も馬鹿にならないだろうし、本来なら得策ではない。彼の存在は一応木谷らにも知れている。その人達を頼る事もできたはずだ。

「何で此処が判ったんだ」

「それは、私にも話すだけの友達なら何とかいまして、其処から訊いたのです。初雁さんは人気者でしたし、必ず誰かとは年賀状を絶やす事は無かったでしょう」

 なるほど。確かに私は話すだけなら誰とでもできた。上辺だけの繋がりも多々残っていることだろう。職場のどの部署にいても新人は私に(あて)()われるのも、店長が安心して怠職っているのもその所為であるし。

「でも、本当に何も憶えていないんですね」

「友達には記憶がきちんとあるんだがな」

「不自由しなかったんですか」

「失礼承知で言うと、一応あんたが居ない(まま)で不自由しない自史(おもいで)があるんだ。でも、可怪(おか)しな話さ。卒業写真帖(アルバム)にも顔はあるというのに」

 熊谷は顔を少し曇らせた。

「どうした」

「いや、何でもない」

 大抵何かある。

「何でも」

「ない」

 じゃあ、仕方ない。これはまたの機会に仕切り直す事にして、私は向きを変えた。

「どうして記憶の事を」

「だって当事者ですから」

 とんでもないものを家に入れてしまったようだ。

「でも、今すぐ話す訳にはいかないですよ。どうせ、思い出すに決まっていますから」

 俄かに私は落ち着きを失った。顔にこそ出さないが、冷たい手で()ぜられたように背筋がぞっとした。

「記憶喪失って回復するものか」

「様々です。戻る人もそうでない人もいます。どれだけ経とうが、根本から消えていない限りはふとした時に必ず戻るものですよ」

 彼は三文小説の登場人物のごとく、やけに雄弁だった。まるで、記憶が戻ってほしいかのように熱かった。私は否定している訳ではない。

「何で己の記憶は戻ると言えるんだ」

「根拠は無いですよ。正直に言えば、期待しているだけです」

 私は柔らかい地に足を着け、柔道で言う、胸倉掴んで体を崩し返したような心地がした。崩された彼は黙っている。

「何だかなあ。それだけじゃ」

 私が言葉を切らすと、彼の口調は慎重に入ってきた。

「まあ、急いで解決する話でもないですし、何日か掛けて話そうと思えば話せない事もないですし」

「ふうん。じゃあ、全部ではないにしろ、利害が一致するってか」

 この発言は随分打算的に聞こえるが、私にはそんな気は毛頭無かった。ただ、何となく話し方の悪さは自覚していたので、後で少しは釈明したかもしれない。

 私はやっと自分の身の回りを気にしたが、自分の持っている設備は田舎の僧侶よりも大分貧素であろう。布団以外は本来ならば客を招ける状態ではなかった。

 短髪故に乾かさずに戻る。部屋は暖かい。私は眠い。

「未だ起きているかい」

「この本あと少しで読了(よみおえ)るので、お先にどうぞ」

「んじゃあ、いつもと比べたって早いんだが、眠くて仕方がないから先に寝る。布団は敷いておくから、そこで」

「解りました」

「ああ、これからは敬語抜きで話してもらえないかな」

「なぜ」

「上品な身分に生まれた訳じゃないから、敬語ばかりだと窮屈(いず)いんだ。どうせ短くないんだから、早く馴染んでもらうのもある」

 何かを落としたように()けっとしていたかと思うと、次の瞬間には打って変わって、何かを合点したような表情になっていた。

「わかった。でも、そういうところは前と変わらないね」

前と変わらない、それが解らないのがこんなにもどかしい事は無かった。

「そうかな、記憶が無いから良く判らん」

「直に解るようにするよ」

「じゃあ、おやすみ」

 暫くは意識があったが、その間には床に入ってはこなかった。




まさか、書いてみる事になるとは思いもしなかった。意外に筆が進まなくて大変ですね。取り敢えず、どんなに駄作でも完結は目指します。私のを読んでくださる物好きなお方は生暖かく見守りください。
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