神祇探しと居候   作:多賀皓一郎

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第二葉

 

 此処は花巻、今は午前九時。今日は後輩が忌引きしたらしいので、足りない午後に番を廻された。つまり、午前十時から午後の六時までの番だ。だから、余裕の生まれた私は時間をとって昨日の事件(できごと)を約束に従って連絡する。

 捗々しい話もなかったが、木谷に電話を掛けた。流石に電車は降りている。彼女は待ち草臥(くたび)れたように出ては話を聴いていたが、話が終わると不満気に言いだした。

「もう少しは面白い話ができないの」

(おれ)は小説家じゃないんだ。妥協しろ」

「貴方の脳味噌って不親切設計なのね。試験の成績ばかりは良かったのを想えば憎たらしいな」

 (うるさ)い、とまでは言えなかった。その代りに電話を切ろうとすると、木谷が一言付け加えた。

「今日も何か言いたい有るんだけど、それは別の人に頼む事にしたから」

 私には見当がつかなかった。

「別の人って誰だよ」

いさや(さあね)。会えば自明(はっきりする)と思うわ」

 そう言ってふっつり途絶えた。私の性質(さが)がもう少し悪かったら舌打をしていたに違いない。

 暖簾を潜る。職場は変わっていなかった。あの新人も昨日の状態に初期化されたように仕事を憶えていないので、私もそういう態度をとらなければいけなかった。ただ、この時点では一つだけ異なっていた事がある。

 私の卓の隣、いつも空いている席が埋まっている。店長がそれだった。

 牛蒡(ごぼう)より見(すぼ)らしい壮年の男で、黒縁眼鏡以外の印象が薄い。寒色の衣服選びが多く、猫の額を持つから、歳下であろう。(はた)から見たら、その印象はいとも簡単に翻る。私が入社した際に、容姿で盛大に騒がれなければ多分この会社から追放されている。

「おはようございます、店長。今日はどうされまして」

 店長は耳の裏を軽く掻いて私の方を向き、首を人形かのごとく此方に廻して言った。(ねむ)た気にもっそりとしたその態度から、金属の軋みや蝶番(ちょうつがい)の音を幽かに聴いた。

「ああ、社長が来るんだ。いつもは週末なんだが、今週は予定が付くのが今日しかないのですと」

 この会社は他にも数種の業務があるらしいが、何れも小規模であること以外には詳しくは知らない。ただ、今から来る人の経営手腕は非常に優れているだろう。小規模だからこそ、多くの人と業機(しごと)を分かち合っても成り立つ。それでも、この御時世に全員が正社員として雇えて、暗黒(ブラック)にならずとも上手く行っているのは神業(かみわざ)と云える。

 その社長は、此処()月一に訪れては仕事を手伝ってくれる。

「社長が来たぞ」

 何かの襲来のごとく店長は言ったが、何の事はない。例の社長である。平社員並みの気配の無さでいつの間にかやって来ていた。

「やあ、十七歳(はつかり)。久しぶり」

 ちゃっかりした笑顔で挨拶をしてきた。彼は職場だろうが、私には御構いなしに砕けてくる。

「ああ、はいはい」

 あの呼び方、当て(いっ)て良い字面(ことば)じゃないよな、とまでは云うも更なり。これはもうこれで諦めよう。

 この会社の社長、大崎鎌祇(かたまさ)は私の高校時代の友達である。町一番に優秀な社長の癖に貫禄が全く無く、他の社員からも私の友達という印象にしか思われていないが、仕事を手伝わざるを得ないふりをして社員の様子を視察しに来たのだろう。

 人事によって例の新人が別の部署に配属されたので、私以外の職員の士気が異常に低かった。女とは感情に直截(ちょくせつ)働きかける何かを振り撒いている生物なのだろうか。大崎は、それの後始末をさせられているようにしか視えなかった。

 私が在庫確認という些細な仕事を片付けると、昼休みに入った。勿論、数分早いのは大崎の裁量で決めたからである。幾ら地方都市とはいえこんな大雑把で良いのだろうかと思うと、丁度嘗て大崎が言っていた言葉を思い出す。

「本当に厳密に管理すべきところは別にある。だから、仕事の流れに乗って問題無ければ、数分ぐらい日常で揺れるのも悪くないと思う」

 こんな風に言ってしまえる人の行いには返す言葉も無かった。

 大崎は学生時代のように卓に弁当を付き合わせ、昼食を私と共に摂り始める。そして、待ち侘びたように語り合った。

「幾ら繋がりがあるからとはいえ、木谷も人遣いが荒いよ」

「六億当てたらしいからね、あれでも真面(まとも)な方だが」

「道理で」

 大崎は溜息を吐きそうな動作をして、遂にはしなかった。そして親指と人差し指を鉤括弧型に開いて言う。

「所詮指矩(さしがね)さ。大層な身分かのごとく見せ掛けたつもりでも、貫禄って(もん)が無けりゃ、知っている人からは見透される」

 私は、人形浄瑠璃の黒子を模した身振りをして訂正した。

「その差し金は芝居の小道具(こっち)の方だからな」

如何にも意外そうな高めの調子の長音が鳴った。

「へえ、其奴は知らなんだ。全く、初雁には(かな)わんな」

 大崎は()の字に口を開いてにっこりと笑った。ほんのり五十路(いそじ)の匂いがしたような。

「それで、今日はそんな重要な事があるのか」

「重要も何も、共通の故郷の話だぞ」

 明朗な人柄からは有り得ないような、周囲の音を完全に鎮める程に真剣になったので、私は恐々と言葉を割込ませなければいけなかった。

「何があった」

「地元の神社に爆破予告が来たんだ。少し前に」

 頸筋の名も無さそうな神経が引き攣った。大崎は時計を見て、全く別の事のように話した。

「話すから、一()ず昼飯にしよう。其処で」

 

 

 大崎が社長として居座り、木谷が気儘に暮らし、初雁が跡形も無く去って行った町。高い丘の上の神社は地方中から人を集める有名どころだ。

 丁度初雁と木谷が茶番を演じていた頃、神主の家に一通の手紙が届いた。万年筆の(あおぐろ)印墨(インク)の筆跡は粗暴な男性が無理をして丁寧に書いたような行書で、ありふれていた。

神祇(かみ)のいない(やしろ)など要らぬ。これより届く指示に従わざるは、最早社は安からず 」

 こんな物が届いたところで神主も悪戯だと思い、相手にはしなかったが、音も無く役場にも二通目。

「心身伴って初めて人は在る。年を改める前に一人が消え、時を同じくして社が消える。形のみにあらざればそれは安からん」

 (あおぐろ)い筆跡が同じで、自信過剰なまでに同一だと主張している。此処までは役場も黙殺した。

 翌日、神社に一番近い公衆便所で小火(ぼや)騒ぎがあった。流石に神主も役場も警察も黙ってはいられなくなった。それで腰を上げて調べても、小さな火薬に不純物が著しく含まれていたことのみが判ったのみで大して進んじゃいない。丁寧な仕事をしてくれた所為で痕跡と言える物は無い。それで、今は神社の警備と捜査に勤しんでいるという訳だ。

 大崎はこれに続いて言った。

「これじゃ大元が解決していないだろう。それに、間に合わないぜ」

「そりゃあ、そうだろうな」

「ってな訳で、俺らで解決しちまおう」

「はい?」

 一体この中年(おっさん)は何を()かしているんだ。私はさっきから『匂って』いた加齢臭が胡散に『臭って』きてからはいい耳鼻科を脳内検索し始めている。

「いやいや、何も難しい話じゃないんだ」

「いやいやいや、今時遠隔操作に無人飛行(ドローン)などさえあるのに難しい話じゃないとは何ぞや」

 大崎は私の話を申し訳無さそうにする暇も無く遮って言った。

神祇(かみ)を示せばいいんだ、年末に。これなら俺らで充分さ」

「何を為すっていうんだ。誰かの願いでも叶えるのか」

「それじゃあ訳の解らない新興宗教みたいなのと同んなじだろう。もっと簡単な事さ」

「何さ」

「必要な人、物を揃えて放っておけばいい。後は勝手に解決する」

「つまり、時の氏神に任せるんだな。んで、そいつが葵紋の印籠みたいに(おち)をつけてくれるって訳か」

「んだ」

 大崎は肯定に相槌を打った。

「いや、そんな都合良く現れたら整合性もへったくれもないさ」

「『事実は小説よりも奇なり』って云うだろう。それに、少々御都合主義があっても破綻の無い理窟があれば可能だ」

 さっきから、聴いていて非常に気が滅入る。物凄い面倒事を抱えなければいけないのは目に見えている。それに、熊谷という居候を抱えているのだ。

「んで、何をするんだ」

「年末迄に俺がちょっとばかし忙しくしているから、初雁は偶にやって来る連絡さえ聴いていれば問題無い」

「はあ」

 驚き呆れて溜息を吐く。まさか、昔話や現代読本(ライトノベル)のように神仏や魑魅魍魎の類に簡単に出会える訳ではあるまい。

「居候を抱えているんだろう。余計な事はあっても手を出さずにいてくれ」

「でも」

「俺が社長権限を濫用する前に止めておけ」

 もう使っているのには言及しない方がいいのかな、と気にした私は負けていた。大崎はまた後ろを振り返って時計を覗いた。まだ秒針の音が掻き消される程には賑やかだ。

 「さあ、もう仕事に戻そう。名前の厳つい新人がまた土地(どじ)を踏んでいたらしいから」

 そう言って時計から少し右に逸れたところに目をやると、纐纈(こうけつ)(ほう)じ茶を打ち撒けていた。例の好青年と一緒になって雑巾に茶を吸わせている。私はしばらくそれとなく観て席を立った。

 三時頃、その纐纈が私に寄ってきた。

「あの、失礼します」

「おう、()した」

 違う部署でも、ここが狭い為に珍しくはないが、何時もと違うのは何時だって新鮮だった。

「先輩、店長が貼紙(ポスター)の為に一筆お願いしたいとの事です」

「書かせるだけにするように、と言っておけ」

「わかりました」

 職場ではよく初売りの広告や文のみの張り出しを作る際に、毛筆の筆跡が用いられる。御手本無しに何でも書ける人が居ると楽だろう、という理由から私だけが引っ張られる。

「では、ここに」

 私が十数歩行った先、執拗に新聞紙が敷かれた作業部屋にいた店長が軽く頭を下げた。私は新春初売りが何だろうと思いながらも、小筆を走らせる。文字はまあまあ読めるだろう程に、音は大分騒がしく立てるという風に、書道家からは抹殺されそうな勢いで不躾だ。

 字の良し悪しは大した事はないが、店長に頭を下げさせた事実に少し活該(ざまあみろ)という小気味良い感触を覚えながら書き上げた。 

「謹賀新年。一月四日、新春初売りを始めたる候」

 仕事なのか学生の部活なのか判然(はっきり)してもらいたい。私にはそれが判らない今が地獄だ。

「これでいいですかね」

「ばっちりですね。ありがとうございます」

 労いや感謝の言葉だけは一丁前なんだろう。獅子唐みたいな顔が一発()ましたくなる微笑みを浮かべた。

「片付けておいてくださいね」

「了解です」

 店長は従順だった。水道水が硯と流しの底に当たる音、それだけを立てて片付けていった。

 十五歩で席に戻ると、暇になった。忌引きではない方の、昨日風邪薬を与えた後輩が頗る元気になって旺盛に働いていたからか、卓の上にも隣の卓にも仕事は無かった。やはり、やって行けるだけ田舎ではないが、死ぬ程の都会でもないという事か。

 午後四時頃は平日の所為か、閑散としている。(あま)った業機(しごと)を譲って帰ろうと大崎のところに行くと、纐纈と何か熱心に話しているようだった。僅かに眉間に皺を寄せた難しそうな表情をしている。

「それは明日や明後日に回せやしませんか」

「いや、それではならないんだ。今日にやってしまってくれ」

 この遣り取りを最後に私を見留めた大崎は、何時もの顔に戻り、纐纈は不満気になっていた。

「ああ、そうか。今日は一人多いんだよな。良いよ。世話焼かなきゃいけない人がいるんだろう。店長も珍しくやる気のようだから、多分一人二人欠けたって問題無いだろう」

「それでも本当に仕事かよ」

「何言っているんだ。今日はずっと整理整頓、掃除ばかりしていたろう。あれか、在庫整理ばかりはいつもと変わらないから気づかなかったか」

 そういえば、改めて見渡すと心なしか部屋が明るい気がする。

「それにしても、店長が仕事するなんて今から近所に竜舌蘭(アロエ)でも生えてくるかな」

 大崎は微笑んだが、本人がいるので付け加えて言った。

「んなこと言わないであげよう。彼だって連絡は徹底しているように、其れなりに頑張っているのは初雁も知っているだろうしさ」

「ううむ、まあ、了解です。じゃあ、居候の(とこ)さ」

「うん、行って()い」

 彼の胡散臭さ、加齢臭はもう大分消えていた。

 

 

 駅前に服屋が一応あった。既製服の、大体自分に寸法を合わせた物を部屋着、普段着、礼服、寝衣、下着という風に一(まと)めに買う。自腹を切るという言葉はこういう時にこそつかうべけれ、なんてね。食材は必要なのか判らないが、帰宅後に近所で買おう。

 混雑した車輌内、一時間立つのはどの分際でも辛い。身体の疲れは無視できても、精神的にはあまり狭いところに居たくない。列車の中で隣の背広姿が使っている洗剤の匂いが仄かに漂っていたり、正面のセーラー服がしている耳当(イヤホン)から微かにシューシューと雑音が聞こえたりする。気を紛らわす助けになるはずの車窓は(クリーム)色の光を投げ入れるだけで、何処を向いても捗々しいものは無い。

 そこで、背広のポケットから手帳を何とか周囲の人々に触れないように取り出すと、鉛筆の尻の消し護謨(ごむ)で頭を突きながら言葉を書いては消してを繰り返していた。言葉には、当て字や記号も混じっている。

 やはり、素人には引き出しが無い。加筆修正の度に拙く浅くなる。中高生の黒歴史ノートを笑える状態ではない。暖房によって空気が淀んで頭も回らなくなる。外の冷え切った風を浴びたいと、現役高校生の頃でさえ今ほどは思わなかったに違いない。

 一応悩んだ甲斐はあったのか、そんなことしている内に盛岡駅には着いた。蒸し風呂から露天へと出たかのごとく、望み通りの冷風が当たって非常に心地よい。素戔嗚(すさのをの)(みこと)が出雲に降り立った時に言った、「(あれ)此地(ここ)()て、()()(こころ)清淨(すがすが)し」とはこういうことだろうか。

 今日も千歩行くと、今度は焼いた匂いがする。

「ただいま」

「おかえり。すぐ行く」

 奥の台所から元気そうな声が小さく聞こえた。狭い家だと、見ずとも塩鮭の色が何となく窺える。私は居間の隅で部屋着に着替えると、炬燵に入る。

 熊谷も居間に入ってきた。

「また作らせちゃったな」

「いや、それで構わないよ。僕はただでさえ初雁の労働(すね)(かじ)りなんだしさ」

 何故か一息ついたら沈黙がやって来た。私はそれを嫌って、気になりそうな紙袋を開けた。熊谷は私の一連の動作を黙って凝視していた。

「ああ、そうだ。いちいち貸すのも大変だから、着替え全部揃えといたぞ」

 暫くは悪くない表情で絶句していた。私に何を思うのかは勝手だが、何に何が生えてどうなったかというのは表面的な想像に留めておいてほしい。

「ああ、もうどう言えばいいかな」

「素直に言えばいいさ」

 この歳になっても気恥ずかしいのか、敬語抜きの制約がきついのか、少しまごついた風にしていたが、遂には小さく言った。

「ありがとう」

「どういたしまして」

 根は真面目な人なのだろう。だから、それとなく愛想好くしようとして頑張っているのと、間借りしている身だからこその遠慮が(せめ)ぎ合っているのが(あらわ)になるというか筒抜である。愛敬(あいきょう)があるというか何というか、格式ばった言葉に強引に訳せば、(たし)かに私の心を和ませる良い所を持っている、とだけは言えるだろう。

 熊谷はそんな目で見られているとは勿論思っていないだろう、それなら安心だ、私は平らかに声を掛けられる事ができる。

「御飯食べよう」

「ああ、もうそんな時間か」

 釣瓶落としの日が丁度良く食べ頃を用意してくれたように感ぜられた。

 (うすき)()の肉厚な塩鮭は、塩が薄めだったのが体には良さそうで何よりである。菠薐草(ほうれんそう)の御浸しは対極に、孔雀石のように鮮明である。五目炊き込みと里芋煮はあまり主張しない。病院食を美味しいと思えない贅沢者には食えない味だが、少なくとも私の作る料理よりはずっと上手い。

 病院食の喩えを引いてみたのは、あまりにもそれを想起させたからだ。きっと福祉関係の仕事をしていたのだろう。でも、だからと言って、それを熊谷に訊いてみる気にはなれなかった。その通りだったとして何になるだろう、いくら人間の本質が巷説(ゴシップ)好きでも、強引に思い出をほじくり返すような悪趣味なことは慎むべきだ。私はそう思い返してまた(えぐ)い草を食べたような心地になる。

 私がどんなに心を掻き乱されても、自分の感情に由来するものならば表情をあまり変化させなくて済むのは、唯一の天性だった。如何に揶揄(からか)われようと、辱められようと、自分にのみ因果があれば相手が飽きて相手にしなくなるまで何も言わない。そのような性質に今助けられて、こんな下らない考えを微塵も悟られずに済んでいる。

 また、考え事をしながらでも早く食べてしまった。熊谷も同じ頃に食べ終わったかと思うと、(ひとり)でお替わりしに行った。多めに作る人のようだ。一般に、最近の肥えている人は小食だと聞いたのだが、この人は例外なのだなあ。

「いや、こんな事しているから何時まで経っても熊っぽいんだけどね」

「んだな」

 食べながら冗談を語る熊谷にこう相槌を打ってから、昨日会ったばかりだというのに、ずっと前から線形(リニア)に繋がっていたかのごとく打ち解けている事に気付いた。一体抜けている記憶の内に何があって、何が大切だったのだろう。小説(つくりばなし)以上に奇妙な事実に対してこんな風に気になって仕方がない。

 

 

 私は何かに(ほだ)されているような感覚がした。身体は至って自由であるから、それは異なる。

 友達というか、共にいてくれる他人には何処までも御人()しだった私は、自戒無くした瞬間に共依存に自己を周辺ごと自壊させられるだろう。私はそんな風に誘い込む亡霊に似た者を、偶に何も無い虚空に視る気がするのだ。その時に私によく似たそれを振り払いたくとも、近くまで歩み寄って不快なまでに口角を上げてにやりと笑って消失してしまう。友達と呼べる人が居る以上、何時(いつ)だって苦い思いをしてそれを見ていなければならない。

「記憶だったり、容姿だったり、常人(じょうにん)に交じるには穴だらけじゃないか」

 亡霊はいつも別れ際にそう言う。そんな嫌味に御粗末な返答すら思い付かない。

 熊谷が私を見て声を掛けた。

「大丈夫かい、(むつ)しい顔してさ。具合が悪い、それとも飯が不味かった」

 今まで、私は妄念へ誘う弾丸列車に乗せられていた。其処に、天手力雄神(あめのたぢからおのかみ)天照(あまてらす)大神(おおみかみ)を引いた千人力に、身体が旗のごとくふわりと刹那は浮いたかと思うと、すぐに現実に引き摺り降ろされた心地がした。

「いや、何方(どっち)でも無いさ。考え事に夢中になってそんな顔になっただけだ」

「そうかい。とても悩み込んでいるようにしか観えなくって」

 悩みというものが心身の何れかなのかが判らないが、どちらを採ってもその程度ではない、という程にまだ平和であったように思われた。ここは頰笑んで答え、安心させる事にした。

弥危(やば)い時は態度がはっきり違っているから大丈夫だ」

 熊谷はまだ何か言いたげだったが、自らそれを押し籠めてしまった。昨日の姿と重複するそれは、相乗効果でそれなりに好奇心を(そそ)ったのだが、墓を暴くような酔狂な事は予定外だ。

「御馳走様」

 彼は(ようや)く見苦しく()(から)びた食器類を片付けていった。私は風呂に入ったり、暖房に燃料を充填したりと敢えて何かをするように努めた。少しでも独りで考え込んでしまったら種が尽きるまでは終わらない。悩む中身は悟られるに堪えない代物であるから、発作的な思考が収まるまでは何を以っても真面でない反応へ作用してしまう。

 (みそぎ)しきって鏡の曇りを洗い流すと、高校生の顔が見えた。相変わらず()(にく)い有様だ。これが一生物だと思うと、いや、終わらないかもしれない。だったら必要以上に見てしまいたくない。またすぐに曇ったのを幸いに、揚がる。

 彼はまた本を読んでいた。ただ、昨日とは違って、志賀直哉の暗夜行路だけが保持されていた。私は雑念の総てに逆上せた頭が漸く冷めたのを確認すると、熊谷に話しかけた。

「長い話の方が好きなんだな」

「ん、ああ、まあね。年()ると何でも名残惜しくてね」

「そうなんだ」

 私には不思議な事に考える機会が訪れていなかった。卒業式で泣かずに冷酷だと呼ばわれたこともある。

「初雁もそうじゃないかい」

「気にした事ないな。いや、だって(おれ)には長いも短いも読了(よみおえ)れば同じだからな」

 ここで彼は鼻で笑った。性格からして悪い意味でやっている行為ではないにしても、あまり良い印象ではない。

「昔と同じ答えだね」

 私は言葉に詰まった。(はた)からみたら()けっとしているようにしか見えないだろう。

「あ、そうか。僕との思い出は何もないんだよね」

そう言って、求められずとも語り始めた。

「高校生だった頃に同じような会話があってさ、その時と答えが同じだったんだ。ただ、それだけ」

 私はそれは黙って聴いていられたが、いい加減に少しは荒い好奇心を解放したくなった。

「一つ聞いてもいいかい」

「何」

「熊谷は(おれ)に何を隠しているんだい」

 暫し沈黙が生じ、我慢比べの体裁になった。

 答えにくいのは知っている。だが、私はまだ昨日何かを言わんとして黙り込んでしまったのを忘れてはいない。何でも明け透けにしてくれと頼むのは烏滸(おこ)がましいから言わない。

 それでも、互いに否が応でも同居する以外の選択肢は無いのに、何か心に引っかかったままでいれば自然空気が詰詰(ぎすぎす)するに違いなかった。言うは一時、言わぬは万年の後悔であろう。触りでも何か言ってもらわなければ気が済まなくなっていた。

「今じゃ都合が悪いって程度(レベル)じゃないから、全ては言えない。でも、恐らく知りたい知りたいと思う情報は持っているかな」

「何で言えないんだ」

 彼は腿に拳を()くと、僅かに上半身が震えていた。とんでもない地雷を踏んでしまったと、私の方が後悔した。それでも、硝子を()るような声ではなく、無理矢理に抑え込んで妙に覇気覇気(はきはき)と言った。

「あのね、勘違いしてほしくないんだ。これでもあれから二十年近く経っているんだ。どんなに意地悪な心になったとしても、理由無く焦らすなんて無駄な事しないよ」

 彼はここで一息ついて、平生の口調に戻る。

「でも、何も話さない訳にはいかないから、明日から少しは語るさ。それで飽かずに思ったらその分は他の人を当てにしてくれ」

 ここでは冷静さを()殴り棄てて説教した熊谷に非はなかったように考え直した。彼と比して私が呑気なのだろうと基準を平行移動すると、途端に何か申し訳ない心地がした。

「何か、ごめんな。何も知らない分際で出しゃばって」

「いや、良いさ。好奇心は罪じゃない」

 その発言の後、間も無く彼の背中越しの受像器(テレビ)から報道を垣間見た。

「金星探査機あかつき、金星周回軌道に突入成功」

 はやぶさの頃に叩き込まれた知識から、素人の私でも感嘆した。熊谷も、おお、と声を上げて(よろこ)んでいる。そうして、前の発言を受けたように言った。

「だって、好奇心の果てにこんな吉報もあり得るわけだから」

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