六
此処は花巻、今は午前九時。今日は後輩が忌引きしたらしいので、足りない午後に番を廻された。つまり、午前十時から午後の六時までの番だ。だから、余裕の生まれた私は時間をとって昨日の
捗々しい話もなかったが、木谷に電話を掛けた。流石に電車は降りている。彼女は待ち
「もう少しは面白い話ができないの」
「
「貴方の脳味噌って不親切設計なのね。試験の成績ばかりは良かったのを想えば憎たらしいな」
「今日も何か言いたい有るんだけど、それは別の人に頼む事にしたから」
私には見当がつかなかった。
「別の人って誰だよ」
「
そう言ってふっつり途絶えた。私の
暖簾を潜る。職場は変わっていなかった。あの新人も昨日の状態に初期化されたように仕事を憶えていないので、私もそういう態度をとらなければいけなかった。ただ、この時点では一つだけ異なっていた事がある。
私の卓の隣、いつも空いている席が埋まっている。店長がそれだった。
「おはようございます、店長。今日はどうされまして」
店長は耳の裏を軽く掻いて私の方を向き、首を人形かのごとく此方に廻して言った。
「ああ、社長が来るんだ。いつもは週末なんだが、今週は予定が付くのが今日しかないのですと」
この会社は他にも数種の業務があるらしいが、何れも小規模であること以外には詳しくは知らない。ただ、今から来る人の経営手腕は非常に優れているだろう。小規模だからこそ、多くの人と
その社長は、此処
「社長が来たぞ」
何かの襲来のごとく店長は言ったが、何の事はない。例の社長である。平社員並みの気配の無さでいつの間にかやって来ていた。
「やあ、
ちゃっかりした笑顔で挨拶をしてきた。彼は職場だろうが、私には御構いなしに砕けてくる。
「ああ、はいはい」
あの呼び方、
この会社の社長、大崎
人事によって例の新人が別の部署に配属されたので、私以外の職員の士気が異常に低かった。女とは感情に
私が在庫確認という些細な仕事を片付けると、昼休みに入った。勿論、数分早いのは大崎の裁量で決めたからである。幾ら地方都市とはいえこんな大雑把で良いのだろうかと思うと、丁度嘗て大崎が言っていた言葉を思い出す。
「本当に厳密に管理すべきところは別にある。だから、仕事の流れに乗って問題無ければ、数分ぐらい日常で揺れるのも悪くないと思う」
こんな風に言ってしまえる人の行いには返す言葉も無かった。
大崎は学生時代のように卓に弁当を付き合わせ、昼食を私と共に摂り始める。そして、待ち侘びたように語り合った。
「幾ら繋がりがあるからとはいえ、木谷も人遣いが荒いよ」
「六億当てたらしいからね、あれでも
「道理で」
大崎は溜息を吐きそうな動作をして、遂にはしなかった。そして親指と人差し指を鉤括弧型に開いて言う。
「所詮
私は、人形浄瑠璃の黒子を模した身振りをして訂正した。
「その差し金は
如何にも意外そうな高めの調子の長音が鳴った。
「へえ、其奴は知らなんだ。全く、初雁には
大崎は
「それで、今日はそんな重要な事があるのか」
「重要も何も、共通の故郷の話だぞ」
明朗な人柄からは有り得ないような、周囲の音を完全に鎮める程に真剣になったので、私は恐々と言葉を割込ませなければいけなかった。
「何があった」
「地元の神社に爆破予告が来たんだ。少し前に」
頸筋の名も無さそうな神経が引き攣った。大崎は時計を見て、全く別の事のように話した。
「話すから、一
七
大崎が社長として居座り、木谷が気儘に暮らし、初雁が跡形も無く去って行った町。高い丘の上の神社は地方中から人を集める有名どころだ。
丁度初雁と木谷が茶番を演じていた頃、神主の家に一通の手紙が届いた。万年筆の
「
こんな物が届いたところで神主も悪戯だと思い、相手にはしなかったが、音も無く役場にも二通目。
「心身伴って初めて人は在る。年を改める前に一人が消え、時を同じくして社が消える。形のみにあらざればそれは安からん」
翌日、神社に一番近い公衆便所で
大崎はこれに続いて言った。
「これじゃ大元が解決していないだろう。それに、間に合わないぜ」
「そりゃあ、そうだろうな」
「ってな訳で、俺らで解決しちまおう」
「はい?」
一体この
「いやいや、何も難しい話じゃないんだ」
「いやいやいや、今時遠隔操作に
大崎は私の話を申し訳無さそうにする暇も無く遮って言った。
「
「何を為すっていうんだ。誰かの願いでも叶えるのか」
「それじゃあ訳の解らない新興宗教みたいなのと同んなじだろう。もっと簡単な事さ」
「何さ」
「必要な人、物を揃えて放っておけばいい。後は勝手に解決する」
「つまり、時の氏神に任せるんだな。んで、そいつが葵紋の印籠みたいに
「んだ」
大崎は肯定に相槌を打った。
「いや、そんな都合良く現れたら整合性もへったくれもないさ」
「『事実は小説よりも奇なり』って云うだろう。それに、少々御都合主義があっても破綻の無い理窟があれば可能だ」
さっきから、聴いていて非常に気が滅入る。物凄い面倒事を抱えなければいけないのは目に見えている。それに、熊谷という居候を抱えているのだ。
「んで、何をするんだ」
「年末迄に俺がちょっとばかし忙しくしているから、初雁は偶にやって来る連絡さえ聴いていれば問題無い」
「はあ」
驚き呆れて溜息を吐く。まさか、昔話や
「居候を抱えているんだろう。余計な事はあっても手を出さずにいてくれ」
「でも」
「俺が社長権限を濫用する前に止めておけ」
もう使っているのには言及しない方がいいのかな、と気にした私は負けていた。大崎はまた後ろを振り返って時計を覗いた。まだ秒針の音が掻き消される程には賑やかだ。
「さあ、もう仕事に戻そう。名前の厳つい新人がまた
そう言って時計から少し右に逸れたところに目をやると、
三時頃、その纐纈が私に寄ってきた。
「あの、失礼します」
「おう、
違う部署でも、ここが狭い為に珍しくはないが、何時もと違うのは何時だって新鮮だった。
「先輩、店長が
「書かせるだけにするように、と言っておけ」
「わかりました」
職場ではよく初売りの広告や文のみの張り出しを作る際に、毛筆の筆跡が用いられる。御手本無しに何でも書ける人が居ると楽だろう、という理由から私だけが引っ張られる。
「では、ここに」
私が十数歩行った先、執拗に新聞紙が敷かれた作業部屋にいた店長が軽く頭を下げた。私は新春初売りが何だろうと思いながらも、小筆を走らせる。文字はまあまあ読めるだろう程に、音は大分騒がしく立てるという風に、書道家からは抹殺されそうな勢いで不躾だ。
字の良し悪しは大した事はないが、店長に頭を下げさせた事実に少し
「謹賀新年。一月四日、新春初売りを始めたる候」
仕事なのか学生の部活なのか
「これでいいですかね」
「ばっちりですね。ありがとうございます」
労いや感謝の言葉だけは一丁前なんだろう。獅子唐みたいな顔が一発
「片付けておいてくださいね」
「了解です」
店長は従順だった。水道水が硯と流しの底に当たる音、それだけを立てて片付けていった。
十五歩で席に戻ると、暇になった。忌引きではない方の、昨日風邪薬を与えた後輩が頗る元気になって旺盛に働いていたからか、卓の上にも隣の卓にも仕事は無かった。やはり、やって行けるだけ田舎ではないが、死ぬ程の都会でもないという事か。
午後四時頃は平日の所為か、閑散としている。
「それは明日や明後日に回せやしませんか」
「いや、それではならないんだ。今日にやってしまってくれ」
この遣り取りを最後に私を見留めた大崎は、何時もの顔に戻り、纐纈は不満気になっていた。
「ああ、そうか。今日は一人多いんだよな。良いよ。世話焼かなきゃいけない人がいるんだろう。店長も珍しくやる気のようだから、多分一人二人欠けたって問題無いだろう」
「それでも本当に仕事かよ」
「何言っているんだ。今日はずっと整理整頓、掃除ばかりしていたろう。あれか、在庫整理ばかりはいつもと変わらないから気づかなかったか」
そういえば、改めて見渡すと心なしか部屋が明るい気がする。
「それにしても、店長が仕事するなんて今から近所に
大崎は微笑んだが、本人がいるので付け加えて言った。
「んなこと言わないであげよう。彼だって連絡は徹底しているように、其れなりに頑張っているのは初雁も知っているだろうしさ」
「ううむ、まあ、了解です。じゃあ、居候の
「うん、行って
彼の胡散臭さ、加齢臭はもう大分消えていた。
八
駅前に服屋が一応あった。既製服の、大体自分に寸法を合わせた物を部屋着、普段着、礼服、寝衣、下着という風に一
混雑した車輌内、一時間立つのはどの分際でも辛い。身体の疲れは無視できても、精神的にはあまり狭いところに居たくない。列車の中で隣の背広姿が使っている洗剤の匂いが仄かに漂っていたり、正面のセーラー服がしている
そこで、背広のポケットから手帳を何とか周囲の人々に触れないように取り出すと、鉛筆の尻の消し
やはり、素人には引き出しが無い。加筆修正の度に拙く浅くなる。中高生の黒歴史ノートを笑える状態ではない。暖房によって空気が淀んで頭も回らなくなる。外の冷え切った風を浴びたいと、現役高校生の頃でさえ今ほどは思わなかったに違いない。
一応悩んだ甲斐はあったのか、そんなことしている内に盛岡駅には着いた。蒸し風呂から露天へと出たかのごとく、望み通りの冷風が当たって非常に心地よい。
今日も千歩行くと、今度は焼いた匂いがする。
「ただいま」
「おかえり。すぐ行く」
奥の台所から元気そうな声が小さく聞こえた。狭い家だと、見ずとも塩鮭の色が何となく窺える。私は居間の隅で部屋着に着替えると、炬燵に入る。
熊谷も居間に入ってきた。
「また作らせちゃったな」
「いや、それで構わないよ。僕はただでさえ初雁の
何故か一息ついたら沈黙がやって来た。私はそれを嫌って、気になりそうな紙袋を開けた。熊谷は私の一連の動作を黙って凝視していた。
「ああ、そうだ。いちいち貸すのも大変だから、着替え全部揃えといたぞ」
暫くは悪くない表情で絶句していた。私に何を思うのかは勝手だが、何に何が生えてどうなったかというのは表面的な想像に留めておいてほしい。
「ああ、もうどう言えばいいかな」
「素直に言えばいいさ」
この歳になっても気恥ずかしいのか、敬語抜きの制約がきついのか、少しまごついた風にしていたが、遂には小さく言った。
「ありがとう」
「どういたしまして」
根は真面目な人なのだろう。だから、それとなく愛想好くしようとして頑張っているのと、間借りしている身だからこその遠慮が
熊谷はそんな目で見られているとは勿論思っていないだろう、それなら安心だ、私は平らかに声を掛けられる事ができる。
「御飯食べよう」
「ああ、もうそんな時間か」
釣瓶落としの日が丁度良く食べ頃を用意してくれたように感ぜられた。
病院食の喩えを引いてみたのは、あまりにもそれを想起させたからだ。きっと福祉関係の仕事をしていたのだろう。でも、だからと言って、それを熊谷に訊いてみる気にはなれなかった。その通りだったとして何になるだろう、いくら人間の本質が
私がどんなに心を掻き乱されても、自分の感情に由来するものならば表情をあまり変化させなくて済むのは、唯一の天性だった。如何に
また、考え事をしながらでも早く食べてしまった。熊谷も同じ頃に食べ終わったかと思うと、
「いや、こんな事しているから何時まで経っても熊っぽいんだけどね」
「んだな」
食べながら冗談を語る熊谷にこう相槌を打ってから、昨日会ったばかりだというのに、ずっと前から
九
私は何かに
友達というか、共にいてくれる他人には何処までも御人
「記憶だったり、容姿だったり、
亡霊はいつも別れ際にそう言う。そんな嫌味に御粗末な返答すら思い付かない。
熊谷が私を見て声を掛けた。
「大丈夫かい、
今まで、私は妄念へ誘う弾丸列車に乗せられていた。其処に、
「いや、
「そうかい。とても悩み込んでいるようにしか観えなくって」
悩みというものが心身の何れかなのかが判らないが、どちらを採ってもその程度ではない、という程にまだ平和であったように思われた。ここは頰笑んで答え、安心させる事にした。
「
熊谷はまだ何か言いたげだったが、自らそれを押し籠めてしまった。昨日の姿と重複するそれは、相乗効果でそれなりに好奇心を
「御馳走様」
彼は
彼はまた本を読んでいた。ただ、昨日とは違って、志賀直哉の暗夜行路だけが保持されていた。私は雑念の総てに逆上せた頭が漸く冷めたのを確認すると、熊谷に話しかけた。
「長い話の方が好きなんだな」
「ん、ああ、まあね。年
「そうなんだ」
私には不思議な事に考える機会が訪れていなかった。卒業式で泣かずに冷酷だと呼ばわれたこともある。
「初雁もそうじゃないかい」
「気にした事ないな。いや、だって
ここで彼は鼻で笑った。性格からして悪い意味でやっている行為ではないにしても、あまり良い印象ではない。
「昔と同じ答えだね」
私は言葉に詰まった。
「あ、そうか。僕との思い出は何もないんだよね」
そう言って、求められずとも語り始めた。
「高校生だった頃に同じような会話があってさ、その時と答えが同じだったんだ。ただ、それだけ」
私はそれは黙って聴いていられたが、いい加減に少しは荒い好奇心を解放したくなった。
「一つ聞いてもいいかい」
「何」
「熊谷は
暫し沈黙が生じ、我慢比べの体裁になった。
答えにくいのは知っている。だが、私はまだ昨日何かを言わんとして黙り込んでしまったのを忘れてはいない。何でも明け透けにしてくれと頼むのは
それでも、互いに否が応でも同居する以外の選択肢は無いのに、何か心に引っかかったままでいれば自然空気が
「今じゃ都合が悪いって
「何で言えないんだ」
彼は腿に拳を
「あのね、勘違いしてほしくないんだ。これでもあれから二十年近く経っているんだ。どんなに意地悪な心になったとしても、理由無く焦らすなんて無駄な事しないよ」
彼はここで一息ついて、平生の口調に戻る。
「でも、何も話さない訳にはいかないから、明日から少しは語るさ。それで飽かずに思ったらその分は他の人を当てにしてくれ」
ここでは冷静さを
「何か、ごめんな。何も知らない分際で出しゃばって」
「いや、良いさ。好奇心は罪じゃない」
その発言の後、間も無く彼の背中越しの
「金星探査機あかつき、金星周回軌道に突入成功」
はやぶさの頃に叩き込まれた知識から、素人の私でも感嘆した。熊谷も、おお、と声を上げて
「だって、好奇心の果てにこんな吉報もあり得るわけだから」