神祇探しと居候   作:多賀皓一郎

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第四葉

十五

 

 あの後、どうしたかいまいち記憶に自信がない。風呂上りの爽やかな気分の中で、一合にも満たないぐらいの酒を啜っただけで直ぐに寝てしまったのだろうとは憶えている。そこからの記憶が無いから。それで、目覚めたら、きちんと蒲団の上に寝ている。でも、床暖房式の中敷を引いたこの蒲団の敷き方は私のものではないし、シャツではなく、何時(いつ)ぞやの作務衣を着せられている。

 熊谷はもぞっと動いたかと思うと、直ぐに目を醒ました。

「おはよう。大丈夫だったかい」

「ああ。それはそうと、蒲団敷いたのはお前か」

「うん、まあね。あんな寒い台所の卓に突っ伏していたもんだから、死なないようには」

「ありがとうな」

 やれやれ、という溜息を吐かれた。

「下戸なのか」

「いや、疲れたんじゃないか。(わけ)()(だつ)よりは体力が無いだろうから」

「まあ、その外観(みため)で四十だからね」

 熊谷(こいつ)は打ち解けるのも、(おだ)つのも早い。私は冗談に(おど)した。

「あんまり言うとその口にこの拳を突っ込むぞ」

「熊にでも化けて、その拳もぎ取るぞ」

 私が玉響(たまゆら)に表情を失ったのを観、それを面白がったかと思うと、冗談だと釈明した。だが、私には今一紓談(じょうだん)にも聞こえぬものだった。

「本当に化けるかもしれないな」

 音波に換えず、体内の(うろ)に綴った。

 昨日の態度もそうだが、彼にはあまり精神の余裕が感じられない。空気にぴったりとはまった諧謔(ユーモア)が無く、心()しか胸が詰まった感覚を私にすら与える。言い換えれば、さっきの冗談が異常に生々しかったのである。

 そのように朝から一茶番をやらかして、今日という日を思い遣られながら向かった。

「己は何でこんなに疲れているんだ。未だ電車に乗ったばかりでしかないだろう」

 言わないだけで判っている。諸氏らも存ずる所であるとは思う。我儘だの、無遠慮だのと理屈を付けるのもできなくはないが、仕事を手伝ってくれたり、私のぶっきら棒になってしまう振舞いを堪えながら頑張っている当事者を責める権限が私には無い。

 だから面倒というか、世知辛いというか、零すわけにもいかない愚痴を延々と続けているのだろう。

 また眼前の車輌扉は開かれた。私は自分の意思で歩くのではなく、この大いなる流れに身を任すだけの存在に過ぎない事を思った。自分の能力を発揮しよう、そう女衒(ぜげん)のような大人に唆された後の未来がこんなにも無味乾燥としているとは。

 店長はまた家に戻ったらしい。目を瞑れと云われたが、それは果たして何時(いつ)まで続くのだ。冥王星が一周したとても変わらない気もするのに。

 今日言及すべきことは、纐纈がコーチジャケット姿で私の前にいる事だ。一応、業務の都合では汚れても構わない私服が許されているが。

「おはようございます、初雁先輩」

「ああ、おはよう。ところで、それはどうした」

「これですか。今日明日の盛岡文士(ぶんし)劇の奴です」

 此処でいう文士とは文化人全体を指す。つまり、地元の作家や報道関係が大いに(こぞ)って(ひら)く演劇だ。

「出るのか」

「いや、宣伝です。盛岡劇場周辺を廻ってお知らせするんですよ」

「何の関係が」

「私の父が盛岡(ここ)の出身の作家なので、親子で参加しているんです。それで、今日は午前中だけここに出向いて後で劇場に向かいます」

 私が依然としてコーチジャケットに目を留めると、釈明された。

「ああ、これは職場(ここ)のある方に頼まれて少し着てみただけですよ」

 そう言って、あの後輩の桂男の方を向いた。其奴は苦笑いを浮かべていた。

 親戚の誼みとは言うものの、(けだ)見目好(みめよ)いと客寄せになるからではないか。断りはきちんとしているかもしれないが、店長も社長も居ないわけだから、簡単に図に乗るのだろう。

 纐纈が行ってしまうと、ただでさえ何もない職場が酷く閑散とした。何故大崎がこの店を潰さないのだろう、という程。

 店の裏に少し出て長椅子に座り、路地裏の景色を眺める。私はその景色が好きだった。日に背く薄暗さ、二階建に揃った屋根瓦、錆びかかった上縁側(ベランダ)に載る室外機、窓を隠す洗濯物、何食わぬ顔で通る猫、幼い男児等が探検家ごっこをしている様子など。私が表では出せない鬱の側面を気兼ねなく出せる唯一の場所だ。

 少し言いかけたが、陰欝(いんうつ)な表情こそしなくとも、顔の筋肉を休めたい時ぐらいなら私にもある。烟草(たばこ)を吸う代わりに淹れたばかりの焙じ茶を御供にして、虚空を仰いだ。

 

十六

 

「おじちゃん」

 ふと視線が下に戻ると、其処に小さな男児がいた。先刻の野良餓鬼ではなく、普段あまり外を駆け回っていないようなむっちりとした子だ。

「どうした」

「おじちゃんのお茶温かそうだね」

「君も飲むか」

 彼はこくりと頷いた。()()いとは正にこの子の事だろう。

「んだら、隣()(らい)

 私は指掛(マグ)(カップ)八分目まで汲むと、丁寧に持たせた。彼は音も立てずに一口飲むと、にこっとして言った。

「温かい」

「そうか、ならよかった」

 私と彼はここから少し語り合った。

「おじちゃん」

「何だ」

「おじちゃんは、優しいね」

「大したことないよ」

「僕は見知らぬ人なのに、こんな風にしてくれるなんて」

 私は少し明るく笑った。

「困っている時は、お互い様だ」

「でも、僕はおじちゃんに何もしてないよ」

 大人同士なら言葉の綾とでも言って済ませるものを、確かに突いてしまっても可愛がられるのは子供の特権である。

「してくれたさ。おじちゃんの疲れが少し取れたよ」

 私がこう言うと、彼は少し俯いた。だから、少し訊ねた。

「どうしたんだい」

「僕ね、一人仲の良い友達がいるんだ」

「いいじゃないか」

「んでね、その子は頭が良い、運動もそれなり、みんなに優しい。悪いところなんてないんだ」

「へえ」

「僕も忘れ物したらその子に貸してもらったり、泳ぎ方を教えてもらったりしているんだ」

 ここまでは口調も明るかった。ここからは、一転して寂しそうに言った。

「あの子は賢いから何でもできるんだ。僕もさ、そうなりたいんだよ。でも、できない」

「賢くないから?」

 彼ははじめと同じようにこくりと頷いた。

「おじちゃんは、何でもないように僕に優しくしたでしょう。僕もそんな風になって、その子にお返しがしたいんだ。でも」

「でも?」

「頭が足りない。どうしたらいいかな」

 そういうのは私ではなく、もっと苦労していそうな人間に訊ねるべきだ、というのは無粋だろうか。純粋な問いには熱誠を以て応えるべきだとは思うが、返答として駆け巡るは平凡な定型文、余りにも御粗末な気がした。

 (とど)のつまりに、私は遍在(ありふれ)た一つをぶん投げた。

誠意(まごころ)を以て応えること」

 彼は興味有り気に此方を見つめた。私は劇場に建つより緊張しながら説明をした。

「その子がみんなに優しくすることで、誰かから確かに善行(いいこと)をしたという気持ちが欲しいはずなんだ。だったら、君はそれに応えて飛び切りの『ありがとう』を言ってあげればいいんだよ」

 目の前の彼は咀嚼を試みた。そうして、それを冷め切ったお茶で流し込んだ。

「でも、おじちゃんみたいな事は」

「それは、君が沢山勉強してからでもいいんだよ。そうすると、他人(ひと)が何をしてもらいたいかなんてすぐに判るようになるんだ」

「わかった。でも、どうしてあの子は早くからできるの」

「それは、あの子は早くから頑張らないといけなかったからじゃあないかな。例えば、家族に身体が弱い人がいるから家事を手伝わないといけなかったり、家によくお客さんが来たりしていたりして、自然と上手くならざるを得なかったんだろう」

「おじちゃんはどうだったの」

「…聞きたいかい」

 うん、とはっきり頷く。

「おじちゃんは両方(どっちも)だった」

(かあ)さんがよく病院に通っていてね、君ぐらいの歳になると料理ができないといけなかった。それに、父親がいない代わりによく伯父(おじ)さんや母さんの友達がよく家に来ていたんだ。そうすると、失礼が無いように、って気を付けるようになってね」

「それじゃあ、僕は(なま)け者ってことかな」

「そうじゃないさ。君は幸せな家に生まれたから、気にしなくてもよかったってだけ」

「でも、みんなが僕の見ていない世界(うらがわ)では頑張っているんでしょう」

 私は否定しきれなかった。確かに、怠惰なだけなら一喝する事もある。然し、木を見て森を見ずに、此奴(こいつ)は無学だと早合点するのは道理に反する。

「そうだ。でもね、これをしているから此奴は努力家だ、なんて一概に云えるものは無いのさ。だって、習い事をして褒められる家と褒められない家がある。それと、本は勉強の役にも立つけれど、本が好きな人はそれを勉強(しなきゃないもの)と思わない。それと同じで、君だっていつの間にかに人の役に立つ事を身に付けられるはずだよ」

 彼はしばらく黙って俯いた。私は野暮に訊ねたりせずに同じだけそっとしておいた。

 雲の流れも急ぎ足、風は静かに頬を撫ぜる。彼は途切れ途切れにそう言って時たま沈黙を()った。随分ませた物言いをするのだな、と思った。

「そういえば、家は近いんだよな」

「うん、其処の小さな公園の隣だよ」

「そうか」

 彼はもう半杯お茶を飲んだかと思うと、帰ると言いだした。

「そろそろ帰るね」

「おう、気い付けてな」

 

十七

 

 彼は後ろを向いて行きかけたが、すぐに戻ってきた。子供の澄んだ眼を空色で輝かして、哀願した。

「おじちゃん、最後にぎゅっとして」

 抵抗も無かったので、言われるが儘に私は彼を抱擁した。身体はいみじく冷たい。それに、音も無く肩に雫の滴る感触がした。

「どうした」

「いや、僕の家族はみんな好い人なんだけど、誰もこんな風にはしてくれなかったんだ。僕が素直じゃないから、みんな遠慮して」

 天邪鬼でも愛されたい、ってところか。近付かれると嫌悪するが、遠ざかると孤独を感じるという山嵐の二律背反(ジレンマ)の話である。思春期の人間関係を表す有名な用語であるが、何故この時期に。それは兎も角、嗚咽を混ぜないようにしっかり話しているところに強い精神力を感じる。

「でも、何で己に」

「おじちゃんなら話だけでも聴いてくれるんじゃないかな、と思って。だって、おじちゃんって云うよりはお兄さん、みたいに視えるのを解っていて言っているのに訂正(なおさ)ないでしょう」

 この子に実年齢を見抜かれるのは、十七歳に観られるよりも慄然とした。

「僕はこうやって抱きしめてくれる人が欲しかったんだ」

 さらに、これは異常だった。未だ小学生低学年でしかなさそうな彼は、既に思春期の初期のような事を言っている。それに、縋る相手が家族ではないのも。どれ程深刻なのだろうか。

「おじちゃん、此処に来れば(また)会える?」

 私には大いに予定を変える用事がやって来ない気がするのだ。大崎が計らってくれる限りは。

「年末と金曜日じゃなきゃ会えるよ」

「じゃあ、来週また来るよ」

「おお、そうか。じゃあな」

 そう言っても彼は離れなかった。

「駄目。またねって言って」

 言動相応の繊細さが青人草(あおひとぐさ)なのだなあと思わせる。私にもあったであろうか。私は真っ直ぐな黒髪に覆われた頭を撫ぜて言った。

「すまんな。じゃあ、またな」

「うん、またね」

 私は遠くへ離れる彼に呼び掛けた。

「今度は温かい(うち)に入れてやるぞ」

 十字路を曲がって視界から消えるまでずっと見送った。その後に室内へ戻ろうとすると、あの桂男が裏口を塞いでいた。

「先輩が彼処(あそこ)まで温情に溢れていたのを初めて見ましたよ」

「失礼だなあ、みんなに優しくしているつもりなんだけれど」

 そう私は冗談に受け取ってもらえるように、笑い、(おど)けた調子で言った。

「だったら、纐纈さんの事が苦手だからって押し付けるのは止めてください」

「ええっ、(いや)。あんな若い娘苦手」

 私は自分でも可笑しいと自覚しながら振りっ子の平均的な口調で言った。

「見た目だけは同じっすよ」

「うるさい」

「ああ、そうか。寒さで頭やられちゃいますよね」

 私は其れでやっと中に戻る事ができた。本当に寒い。勿論、地元民ならば()えられなくはないが、寒くないとは云わない。少し巫山戯(ふざけ)てしまっても構わないぐらいには(こた)える。暖房に当たれる場所を二人で探し(なが)らも話す。

「そういえば、幾ら人柄が良いとはいえ、懐かれるの早過ぎやしませんか。本当に親戚かと思うところでしたよ」

「己もそれは変だって思ってさ。あの子は他人の己を家族以上に信頼しようとしているんだ」

「相当病んでますね」

「ああ。それにませようとして、上手くいってない。何か問題でも抱えてんのかもしれないな」

 其れを上辺と(くら)べれば意に介していなさそうな桂男は機械編みのニットの裾を少し捲ると、茶色の細い革帯の腕時計を覗いた。残念ながら肩書(ブランド)に疎い為、私は詳しく言い当てられない。

「えっと、そうだ。先輩、もう上がっていい時間ですよ」

「でも、午後番がいないじゃないか」

 実は、先刻から今はこの二人が立てる足音の他に何も聞こえないのだ。他の職員は餘りの閑散振りにこっそり脱け出してしまっていたらしい。

「私ですよ。日直ですから」

 そんな制度の存在が無かったら今頃誰も居なくなっている。というのも、それは怠職される前提で一人は残しておこう、という目的で大崎が設けておいた経緯を始終観ていたのだ。それを顧みても、全くといって大崎の思考は訳が解らぬ。

「一人で大丈夫かい」

「ええ、もうこれから人が来ることがなさそうなので。通販側中心に頑張ります」

「流石は桂男だな。きちんとしてやがるぜ」

 私は(そね)みも(ねた)みも籠めない。そんな感情が生まれるのは青草のうちだと、内心で勝手に決め付けていた。

「まあ、五年も居れば若造でもなんとかなりますよ」

「そうか。じゃあ、またな」

「お疲れ様でした」

 彼の側を(まさ)に通らんとすると、柑橘類の匂いが微かにした。多分、熊谷なら鼻を曲げる程に。

「何だかんだ言いながら色気付きやがって」

 言わずもがな、音声にはしていない。拳は飛ばないにしても、面倒は不可避であるからだ。

 

十八

 

 例の枕木数えて歩き、ジーンズのように色褪せた外壁の喫茶店に行った。

 予想は付くだろうが、また居た。以前より確信犯的に口角を上げている。

「お疲れさん。お仕事はどうだった」

(あばら)屋に閉じ込められるアルバイトだったさ」

 私は露骨に不満を出していた。

「幾ら酷かったからって、それじゃ大崎に失礼よ」

「身も蓋も取ったっていいんだぞ。こっちは年々意義を見失う仕事を二十年程やってんだ。遊び人とは訳が違うのさ」

 木谷は如何にも自身を蔑ろに扱われたと言わんばかりに反駁した。

「私だって半年前迄あんた以上に仕事で忙しかったわ。だからその言い分は自己中心的ね」

「くっ…」

 私は舌打を寸での所で(こら)えた。一般には舌打ぐらいどうかと思うかもしれないが、それだけは品性を(おとし)めてしまう一線のごとく感じがして嫌悪していた。

 前座をこの程度で済ませて、私は前回の小説の続きを話さないといけなかった。

 推敲も無く続く話は、諫早から小さな男児に至るまでの一日半。勿論、文才が発揮される事は()く、反応も芳しくない。

「話題に助けられているようなものね」

「言うは勝手気儘だなあ」

「だって、弁護する余地も進展も無いじゃない」

慰め(フォロー)の無い非難は酷くないか」

「努力の無い人に忠告するなんて、そんな資本主義に反したこと誰がするの」

 矢張り同じように酷評される。彼女は予てから言いたがっていたように次の言葉を()いて言った。

「そういえば、少しはあの子に自由を与えたら良いんじゃない。幾ら居候とはいえ、娯楽の無い家に(ほだ)すのはどうかと思うの」

「ああ、そうか。それは失念していたなあ」

「もう、しっかりしなさいよ。それだから貫禄の無いじゅ…」

「止めておけ。もうその逆種(ネタ)は倦んざりしているんだ」

「はいはい」

 古拙的(アルカイック)微笑(スマイル)を浮かべて平然としていればいいのだろうけれど、そんな神妙な態度を取るにはあまりに自らの底が浅すぎた。

「ところで、連絡手段はどうしたらいいんだろう」

 木谷は、そんなの簡単じゃない、という言葉を前置く。

「小遣いでも与えたら。それで公衆電話からって」

「現役学生時代ならそれで良かったけれど、今じゃ(あま)り無いだろう」

「それはそうだけど、特定が簡単でしょう」

「それに、昔は手紙に和歌を記した訳だし」

「千年紀単位かよ」

 ここまで来ると、此奴が己を八方からおちょくることだけは呆けても止めてもらえない気がしてきた。

「まあ、監禁したいっていうとかなら私の知った事じゃないわ」

「おい、いつから己がそんな変態だったんだ」

「万年思春期やってればそうなるんじゃないかなと」

嗚呼(全く以って)無下なり(最低だな)

 彼女はそんな事に耳も貸さず、直ぐに話題を切り替えた。

「そういえば、大崎から連絡を受けて来たんだけど」

「おっ、やっと来た意味が出て来たぞ」

 今日初めて胸が高鳴ったかもしれない。

(いわ)く、『年末年始よりも早くに、一回二人共塩竈に来てもらいたい』とのこと」

「何で」

「地元で事件が起きたからに決まっているじゃない。あの爆破予告とかなんとか」

 態々召喚するぐらいだから相当の進展があったに違いない。とは思いたい。

「日時は其方で決めていいそうよ。そういう時程早く来てもらいたいんだろうけど」

 だろうなぁ、と溜息を吐く。私は少し期待していた。熊谷に関する手掛かりが少しでもあればいいかな、ぐらいには。

 爆破事件など正直どうでもいいのだ。面倒な居候を除けないなら、せめてどういう人間かを一からきちんと知りたいと思う方が遙かに重要なのだ。

 

什九

 

 初雁が出て行った後、些細な家事を片付けていると、近くの押入れから物が落ちたような鈍い音がした。

 厳密に言えば、物置に転用された小部屋であるそれに入ると、歪な瓢簞型の黒い箱のような物があった。樹脂製のそれについた蝶番(ちょうつがい)などの金属部品の錆び具合に注意を払いつつ、開ける。

 ギターだった。共鳴胴とピックアップが付くエレクトリックアコースティックギターという物だろう。手入れが行き届いているし、損傷もない。

 備え付けの山吹の紐を取り付けて開放弦(何も押さえず)()弾いた。胴が僅少薄いからか、想像よりも響きが芳しくない。

 楽器を弾けるかと云われたら自信は持てないが、自分で弾いて愉しむ分には障碍(しょうがい)無い。

 居候の身で文句は言えないが、病弱な子供みたいにずっと家の中に篭って読書しているのには内心には倦んざりしていた。其処で、まるで新しい玩具を与えられた幼児のように僕はギターに夢中になっていた。つまり、ドラマかアニメかのように周囲の景色も音楽という盤と一体となった僕を中心に溶けていく心地がした。

 ──学校の隅には放課後空になる教室が多々ある。例えば、一階なんかは一年生という何処かの野良の寄せ集めを詰める箱であるからか、早目に空けられる。

 其処を文化部の部長らを中心に群雄割拠して、毎日そのお零れに与って活動していた。僕は一番隅の教室でギターを弾いていた。廊下を挟んだ隣の教室で大会へ向けて(しのぎ)を削る同級と先輩を尻目に様々な曲を作っては歌い、それが虚空と(こみ)箱に消えていく。

 いつもと同じように弾き語ると、正面から男声が聞こえた。

「それ、君の歌かい」

 手許を視ていた目を上げると、聴衆がいた。

「えっ、まあ、そうですが」

「いやあ、よく出来ているね」

「それほどでもないですよ」

 僕は聴かせる為に歌っていた訳ではなかったから、(はずか)しくなった。況してや、目の前は副顧問だった。存在感の割に体格が大きく、背丈だけを見ても六尺程はあるだろう。

「君はいつも独りで弾いているのかい」

「はい。みんな真面目だから」

「何も、真面目なのは君も変わらんだろう」

「そういう真面目じゃあなくて」

「ああ、つまりはこういうことかい。君は彼らのように大会などに興味はなく、趣味の範疇を出る事はないんだと」

「まあ、そんな所でしょう」

 ふうん、と腹話術のように口を開けずに云って晴れ渡る校窓を眺める。それが体格、髭と繋がった揉み上げと相俟って梟のように見えた。

「ところで、それは本当に愉しんでいるのかい。殆ど表に出さないけれど、正直なところ、自分の為にだけ弾いていると意義を疑って袋小路に陥らないか」

 僕は言葉の表面を(ねぶ)ってなんとかその意味を咀嚼し、頷いた。彼はそれを聞くとにっこりと微笑んで言った。

「実は、部活の枠を越えて時間に余裕がありそうな人を何人か誘って何処かで息抜きでもしたいなあとか考えているんだ。勿論学校でやる事じゃないから、勝手だけれど」

「如何にも楽しそうですね」

「だろう。机の落書きを消し続ける毎日よりずっと楽しいはずさ」

 僕は鳩尾を小突かれた。尤も手は出ていなかったが。

「…知ってたんですか」

「そりゃあ、君が除光液を隠し持っている事ぐらい御見通しさ。今は何もしてあげられないが」

 確かに、落書きは毎日の事だった。油性ペンが大半で、除光液や消毒用アルコールを雑布の角に含ませてはそれとなく消していた。すると、描いた張本人らがその匂いを嗅ぎつけ、また聞えよがしに言う揶揄いの種にした。

「──熊谷(あいつ)また腐った林檎持ってきたよ」

「相変わらずだなあ。喰べるわけじゃないだろうに」

「んで、偶にはアルコール消毒ってやつだろ。もうその話は飽きたよ──」

 腐った林檎とは液の成分であるアセトンの芳香の事だ。窓側の最後列は北風が入ってくるからよく部屋に拡散されてしまうが、濃度が低いから消えるのも早い。生徒らには認知されても、教師が来る時間には綺麗に消えてしまう。

 そうした事もあって戦慄した。幾ら化学教科の担当とはいえ、彼の前では余計な部分まで見透かされそうで、態度がどれだけ優しくとも不安になる。

「あの、大丈夫かい」

「ああ、すいません」

「いや、いいんだ。ええっと、君も行くつもりで検討していいのかな」

「はい」

 僕は好奇心に抗えなかった。──

 

廿

 

 そういえば、昔はどうだったろう。良い奴だったのか、糞餓鬼だったのかは憶えていない。木谷に言わせれば、其処はいさ知らざる。唯だ、文句の付けようがない馬鹿だ、という事は確かだったようだ。ところで、幾ら私の頭が呆けていたとして、馬と鹿の区別も付かない訳じゃないだろう。せめて莫迦(みぐるしい)に留めておけよ。

 取り敢えず焼菓子を頬張って紅茶を飲み下す。その味が甘いかどうかだけが判断基準に係るなんて、随分鈍感になった味覚であることよ。矢張り、喫茶というのは貴族でなければ楽しめない道楽的趣味なのだろう。

 空になった洋杯(コップ)に目を留め、そろそろ帰るべきではなかろうかという旨を告げられた私は、素直に従って店を出た。頬の皮のみならず、千磐(ちは)(やぶ)()(げき)的な温度の風を受けた。これを堪えるだけで雑念の余裕を散逸させてしまう、(はや)く駅に向かわねば。

 (けだ)し、私が肝心な人間関係で距離をとってしまうのを解決させるのは永遠の課題だ。冷詰(つめたい)距離、それが生ずる根源は、十中八九常識の缺乏(けつぼう)である。対話の方法も、先人の研鑽の(たまもの)である学問のごとき原理や定理は熟知しているが、設計図だけでは意味を為さない。言語みたように自由に複雑な技巧を常識の中から抽き出して満点評価で使う事ではじめて生気を帯びるのだ。武骨な漢という貼紙を隠れ蓑にして甘んじている私の、誰かに成長させてもらう事を期待してしまう癖が烏滸がましくて仕方がない。

 ああ、駅に着くというのは、また真面な結論に至る事も無く寸断されてしまう事なのだなあ。正面から相談に付き合ってくれる物好きが居てくれればいいのかもしれないが、心当たりが丸切り()い。

 改札を通り抜け、日課となった通路を往き、階段を昇降して立ち台に出ると、地球温暖化は嘘だという心地がする。先頭車両に乗れるように陣取ると、また直ぐに携帯を弄る若者、革の書皮で装った稚拙な文章を読む中年、(たま)()た老人。皆総じて温度を忘れ、死出の旅に出掛ける終末の様だ。私は何か平和呆けしたような想像をしていないと思考回路が最低限の熱を失い、停止してしまいそうだった。

 職場で幼子が寄って来たのは今日一番の不可解だった。あの子が家だって言った方角は、これから開墾するべき場所なのだ。もしかして、遙か遠くを指しての話なのかもしれないが、今時の親ならば、(しつ)()く監視しないだろうか。

 もしかして、幽霊だろうか。いや、それは異なる。人間としての熱は感じられた。ならば未来人か、時空間移動装置ぐらい造っていそうだし。ああ、これでは漫画の読み過ぎと云われるのかな。

 線路の継ぎ目をゆっくりと鉄の箱が滑り、がたんごとんの鳴りが私を内側に誘う。箱を閉じて滑り出されると、土曜故に心()しか人の(すく)なき車輌は湿度、温度ともに落ち着いていた。

 私は私自身が嫌いになる時がある。そういう時は自分の分身のような亡霊が現れる。

 お前はどうして骨髄まで脳筋になれなかったんだい、どうせその過程すらも思い出せやしないのだろうがと問われた。

 私だって昔のような莫迦馬鹿しい人間に戻りたいと思うが、もう世間に反抗する気力が莫いくらいには打ちのめされてきたし、それに巻き込む人を生みたくないと返す。

 そんなことを考えるようになるなんてお前も末だな、何時だって逆流を掻き分けながら泥臭くやってくれる奴だと期待していたのになどと云われる。止めてくれと思ったから、幾ら自分とは云え、(エゴ)(まま)の培養液で育った本体に好き勝手に言うと拠り所を(うしな)うぞ、と言って黙らせる。懲りたような顔はしていないが、暫く鎮静した。車窓が放映する風景をやっと冷静に観れる。都会に媚びずに落ち着いた、民家までもが堂々とした街並みを愛さずにはいられない。

 そうかと思ったらもう終盤で、二駅前だった。そんな落胆も仕方無く、一人運転の悠長さを味わって代理とした。

 家に帰ると、明かりが無かった。そりゃ、暮れてはいないが、暗いと思って相応には斜陽していた。内に入ると、その理由が全て膝にしがみついてくるかのように感じられた。

 茶の間に仰向け大の字で寝そべる熊谷の上、アコースティックギターが横たわり、寝息と伴に上下している。台所が冷え切っている。全く、子供みたいだと思わずにいられようか。私は紐を丁寧にギターから外して、代わりにタヲル地の布団を掛ける。

 ギターを持っていた頃を憶えてはいない。ただ、此れは貰い物であったことは確かだ。あれは諫早が提供したものだから。

 ──はじめは何故かは判らなかった。問い(ただ)して曰く、彼は女の子に好かれたい一心で購入したが、弾き語りに挫折した。売るのも面倒だから、先輩ならどうにかしてくれるんじゃないかと。それに、対象の女の子がそれで寄って来る歳じゃなかったらしい。

 おいおい、(なす)り付けじゃないかと思ったが、いざ少し弾いてみると、自分でも驚いた。受像機(テレビ)でしか触りしか聴かないような曲が弾けている。思い込みかと思って何人かに聞かせると意外と評判が良かった。挙句には仲の良い先生にまで聞かせたが、矢張り評判が良い。彼が軽音部の副顧問であるために勧誘されたが、私は金銭面の理由で断った。その時、不意を突いた話題を掛けられたものだ。

 突然だが、教師が数人の生徒らを引き連れて旅行しようと言ったら君は行くかい、と言われた。それは私の耳を傾けさせるには充分だ。

 私は元々優等生という存在に相当(がん)を飛ばし、棟髪(モヒカン)気味に刈って平気でシャツの裾を垂らしていた。だから、校則が拘束である事実を知らしめてくれる発想なら何でも欲していた。

 是非行こう、そう言った。梟みたいな先生はそう言うと、にこっと微笑んだかと思うと、私を返した。──

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