神祇探しと居候   作:多賀皓一郎

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第五葉

廿一

 

 魚を焼くのは飽きが来た、肉を焼こう。冷蔵庫にあるのは白い殻の小振りな有機卵、何処でも買えそうなくすんだ赤色の挽肉、冷凍庫には菠薐草が何百(ぐらむ)か。

 卵そぼろとほうれん草を手早く作り、胡麻油と挽肉、多少の大蒜(にんにく)を入れて炒める。即興で作ってみたが、此れは仄かな中華風の三色丼ではないか。量を控えた筈の胡麻油が流石に主張激しく、芳しい匂いは細く密閉された廊下を滑るように渡り、硝子障子前で僅かに躊躇(ためら)いつつも部屋へと音も無く侵入し、生物の本能を突いて彼を起こした。だが、呆気にとられている。目覚めた理由も何時寝たのかも記憶されていないのだろうか。

「もしかしてなくても、俺寝ていたか」

 寝起きというのもあるのだろうが、然程大柄でもなく、ただ(ふく)れただけの体型からは生じない獣の唸りを想起させるような深い声で訊ねた。一人称が俄に変わったのは気になるが、(たまたま)言葉に困ったのか元々そういう性があるのかは判らない。声に反応して顔をよく見ると、薄い茶色に(みどり)掛ったような(はしばみ)色だった彼の瞳は射干玉(ぬばたま)(くろ)()に変わっている。()熱燈の明かりの所為にはできない程に。

 彼から発せられる情報の質量に私が戦慄したとしても平生の態度をするという選択肢しかない。

「ん、ああ。ぐっすりと。でも、ギターなんて随分懐かしい物を引っ張り出してきたな」

「ああ、活字だけで生きていける程の仙人じゃあないからさ」

 私は皮肉と受け取ったが、相手は無自覚のようだ。そこで、私は話題を提示する機会と捉えた。

「えっと、そのことなんだけれど」

 私は躊躇うにも後に引けなくなったので、強引に気持を推し進める。

「独りで外に行ってみたくはならないかい」

 途端に瞳の色が元に戻っていく。

「いや、コンビニやスーパーに行きたい時ぐらいならあるだろう。そういう時の為に少し置いておこうかな、と」

 此れは普通の提案だと思った。若干共依存の火種にはなりそうだが、それ以上に置いていかないと起こる不便は想像を逸脱するだろう。

「でも、それは悪いよ」

「遠慮するのも無理ないが、己を待っていたら何時までも檻の中だぜ」

「そうだけど、仕事探す意慾を失いそうだからさ」

 私は今迄の情報の蓄積の果てに一つ、痺れを切らしてみた。というのも、判然と行動してくれないのに水面下で苛々させられるからで、色々と考えてしまう前に

「其処まで厳格になる必要はあるのか。普通の人間ならどんな状況だって厚かましい願望を持つものじゃないか」

「普通の人間、か」

 熊谷はまるで彼がそうではない為に溜息を吐いていると見えた。私は一線を超えたのだと、即認識すべきであった。

「そうだ。もしそうで()いならば話してくれよ」

 熊谷は酷く眉間に皺を寄せて、暫し何かしらの葛藤の内に絡げられていた。そうして、真面目な口調で尋ねられた。

「何れだけ君は此処に住んでいるんだい」

「廿年少しさ。大学生から盛岡の何処かしらにはいる」

 彼は顔を一(センチ)にも満たないぐらいに上げて鼻唄のように「ふうん」と言った。此処で話が途切れてしまったから、沈黙を破るのは私からでなければならなかった。

「どうしてなんだい。己が鬱陶しいとか、そういう不満話なら遠慮無く云えばいい」

「君はそう言うけども、僕は怖いんだよ。自分を誰かの胸に預けて上手く行った試しがないんだ。知人でも例外無く」

「だったら、それも含めて全部云ってしまおう」

 矢張り突飛なる物言いだったかもしれない。彼は想像の通りに困惑していた。

「大丈夫だ。例え今から死ぬ程侮辱されたって追い出したりしないよ」

 重い鎖の扉が開かれたようにゆっくりと話し出した。

 

廿弐

 

 ──塩竈湾の海上に浮かぶ諸島の内、尤も本土に近い島にて。

 乱暴狼藉を働いて、近所では悪評高い男。此処らでは獣と呼ばれていた其奴は或る日も無理矢理どこからか女を捕まえては襲った。

「誰の子だろうが、産まなきゃ唯の()られ損じゃねえか。それとも、世の役立たずで良いってか」

 そんな獣の言葉に乗せられて、一年弱が過ぎた頃、已む無く産まれてきた子にその女は自分から喪われた平和を祈って靖人(やすひと)と名付けた。ぎりぎり未熟児ではなかった程だったが、それでも特に大きな問題は見られなかった。

 其処で、子供の為とはいえ結婚には物凄い反撥を喰らったようだが、男の方に唸る程の富だけはあった。諭吉の長判ブロマイドを誰かの目の前でちらつかせれば、何でも堪えられない程になるに違いなく、女の方は能面のように場面毎に表情を固めながら、此れがあくまで双方の完全な合意に基づいたかのようにしていた。これで女の側の親戚は誰一人彼女の味方をしなくなったが、二人は結婚した。

 何年か経て靖人、つまり僕に物心付いた時、父は母と喧嘩していた。目立った道具は家になかったため、平手打ちか拳が母に飛んだ。母は(やわ)ではないだろうが、庇った手の骨が寸手(すんで )のところで折れないような突指をするくらいだから体格以上に強烈に違いなかった。

 僕は観ていてとても怖がった。(おのの)いて型に嵌められたかのように身体が動かせなくなったり、または寒がる時と同じく震えていたり。かといって、逃げてしまう事に罪悪を感じて眼を背けたりなどもできなかった。絆されて、ただ総てを憶えてしまう、思考回路の記憶領域に組み込むぐらいに凝視していた。

 渡し舟に乗って隣島の学校に通うようになって、ちょっとした世間向きの言い回しを習得する内に親父の喧嘩の相手をするようになった。直ぐに丈は頭打ちになってしまうが、体格だけは既に今から殆ど変わらないところまできていたから、小学校後半からは柔道の真似事をして親父をある程度はやり込める事が出来ていた。ただ、それ以来母は死ぬまで悲しみに満ちた表情をするだけだった。

 学校では近所の噂を源流として次第に、家族の話が云わずとも知れてしまっていた。麻酔銃と称して、駄菓子屋で調達し得るような球弾(ビービー)(ガン)の一斉掃射を受けたり、腫物や禽獣かのように忌避されたり、人間より立場が弱い家畜に(なぞら)えて机に藁が積まれたり。でも、人間である事を止めたら父親は手放しで悦び、母親は自分の身を裂いて哀しむだろうからじっと耐えるのが二人の為だった。

 高校で狭い諸島から離れれば状況は改善するかと思いきや(たら)巷説(ゴシップ)好きな人間が伝染させて悪化した。母親が渡す小遣いが学校の餓鬼大将の懐に渡り、落書きを消す除光液の購入に消え、勉強も危うくなった。

 成績が指折の上位であれば生意気と叩き、少し苛立ちを打つけてしまえば嘲笑の後に珠玉の罵詈雑言が芸術的に彩られた。体に描かれないだけまだ状況は救われていたのかもしれない。

 或る日、唐突に福澤先生から軽音部への誘いがあった。担任でも学年主任でも生活指導でもなく、化学の担当教員である。見兼ねる程私とは会う事もない教師から何故気にかけられたのかは判らないが、夢中で縋り付いた。

 その部活の隅っこに自分が居ると、本当に他の干渉を受けない事を約束されていた。つまり、唯一自分が自分の意の儘に動ける貴重な時間だった。試験勉強も、他人と著しく趣味の合わない読書も、作り出す音楽も抑圧の反動で情熱は燃焼されていた。その間は貴重な友達も何人か作ることができ、()る意味では充実していたのだろう。

 三年生になって、持病に牙を剥かれた母が突然亡くなった。親父は母の代わりに僕を相手取るようになった。とは言うものの、寝込みを襲っても、武器を持っても、柔道を個人的に習っていた僕には勝てなくなっていたから自然直ぐに収まったのだが。

 高校を卒業し、幸運にも東北大学工学部へ進学した。勿論、金なんて親父が玉入(パチンコ)へ注ぎ込んで使い潰したから給付奨学金で。恩師となった福澤先生の家に挨拶に行くと、碌でもない実親の代わりに欣悦してくれた。

活該(ざまあみろ)の一つや二つは言ってやれたかい」

 それは普通の教師が言う台詞ではないとおもうのだが。

「いや、それは忘れましたが、代わりに如何()()顔は見せつけておきました」

「熊谷君も結構性悪だなあ。無言で圧するなんて」

 表向きは冗談めかして笑ったようだったが、何故か心配そうな顔を見た気がした。

 その日も改まらぬ内に、父は動脈瘤破裂で亡くなったらしい。父方の親戚は私を嫌って縁を切り、皆葬式の費用まで搬出してはくれなかったから、専門家とも相談して安い土地を売ってまでほぼ単独で弔った。成仏さえしてくれれば、という思いで叮嚀にも止む(ごと)無く。村八分よりも酷な仕事だった。

 家を失って為す術を見失った僕は高校時代と変わらず福澤先生に相談した。すると、一桁の加法の計算のように簡単に言った。

(うち)に来れば良いんじゃないかな」

「はい?」

「話によると、君には安定した収入源、頼れる親戚との縁、自分を売り込む為の肩書が全然無いんだよ。それじゃあ、今すぐ就職活動しても儘ならないし、今迄の苦労が全く報われないじゃないか。どうだい、此処はひとつ下宿だと思って」

 僕は困惑した。悦びを表す手段が咄嗟に思いつかない。迷っている僕を端から見たら怖々(おどおど)しているのだろう。彼は中々返答しないのに気を遣って言った。

「もしかして、お気に召さなかったかな」

「いや、そうじゃないんです。ただ、もう言葉も無くて…」

 その後、下宿のように第一の居候生活が始まった。此処までは待ち侘びた順風の到来に思えた。

 だが或る日のこと、僕は床の中からあまりの倦怠感に起き上がりたい体が全く動かせなくなった。食事も真面に摂れない。流行性感冒を疑う季節ではなく、福澤先生の協力を得て精神科を訪れる。他にも色々なものを疑って病院に行ってみたが、捗々しい結果が無かったから省略。

 診断結果は、鬱病らしい。医師はそれを少しばかり重い風邪を診断するかのように重みのない調子で話した。もう廿(にじゅう)年程前の事で憶えも曖昧だが、そういう事なのだ。

 ──前提が無いだろう初雁に少し説くと、総ての風景に黒い霧がかかったように鬱の気分になるんだ。手札があるのに手許辺りの視覚すらない眼が悪い人を想像して貰えばいいだろう。尋常ではない程の数多の症候群からなる精神障害の事だから、症状の軽重はある。中程度、なんて云われても解らないと思うが、最低限の基準に引っ掛かるのが軽度、生きているのすら危ういのが重度であるから、いざなってみると其れなりに生活に不自由するもので、不定愁訴ばかりが増える更年期など比ではない。

 その所為で、療養中には症状に堪え兼ねて今まで抑えつけてきた、何度も聴いていて嫌になるだろう事項を散々福澤先生に喚いた。今思うと傍目(かたわら)痛くて仕方ないのだが、この時は必死になって受信先を探していた。言葉も時折文法が入り組んでいたり、砕けた話し言葉が入り乱れて狂気じみていた。だから相手が理解できる中身に収束するまでには本当に無限大かと思うぐらいの言葉と時間を費やしただろう。

 僕が明らかに普通ではない環境に住んでいたのは已にお互いの了解だった。とはいえ、何でも当然の事のように受け止めてしまう福澤先生には流石に(ただ)為らぬものはあるが、話を聴いてもらえたからか、漸と真面に生活できるようになるまでの三年は苦しみ(なが)らも片隅では気楽に思った。

 後で聴いたが、福澤先生には親戚は多いが、子供が居なかったらしい。それでなのか、私立学校の坊みたいで内心は厭がっていたが、無理を押して大学に行く為に送り迎えしてもらって、無事に大学は卒業した。

 それからの十八年は仙台の小さな工場へ繁く通って技師や開発者としての仕事ができた。会社の足手纏いには成らないぐらいのすれすれの業績を上げる生活は慣れれば幾らか愉快で、子供のように浮かれていたのだろう。

 ところが隙を突かれる。あまりにも燈を升の下に匿さなかった僕は、そこでの居場所をある時に自分が作った機械に追い出されたのだ。温情で何とかなる程度ではない程に技術が発展して、その会社は沢山の社員を切った。退職金は僕がその機械を作り上げた丁度の年、確か一年前かに制度を廃止した為に出なかった。

 とんでもない職場に働いていたようだ。僕は同僚に怨まれ、近辺の企業との繋がりが深くなかった為に再就活も遠くに行ってやり直さないといけなくなった。

 時を同じくして福澤先生を喪った。申し訳も無く、遺族には頭を下げた。幸いにも僕は御咎め無しだったが、もう知人の振りをする義理は相手にない。これでもう僕を大事に思う人なんていなくなったのだけれど、それでも先生の努力が無駄にならないようにはしたかった。遺品整理の際に手繰(くす)ねた年賀状から何とか見つけた場所が偶然初雁の住所だった。

 というのが、事の次第である。──

 

廿三

 

 ひしゃげた年賀状を受取った私はそれまで文脈を逸れて架空の療養所(サナトリウム)にいる淡い色の簡素な寝衣を着た彼を想像した。情報の洪水に対処するための土壌に頭は逃避したに違いなかった。丸くふっくらとした四肢が人形(マヌカン)の要領で寝衣を整形しているのまでもが在り在りと点描される。流石に気味が悪いくらいに。

 彼の話は私の実感と想像から乖離してしまった。梗概ばかりを聴いたが、充分何かを感じた。

「熊谷が此処に来た文脈は解った。全くの総てではなかろうが、信じるに不足は()い」

 一呼吸置いて熊谷を見た。まだ固唾を飲んだような顔だ。

「ただ。家族の話はさて置き、何で会社の為に貢献したお前が損しているんだよ」

 訊いたのは、此処に来た直接の理由の癖に説明が何となく杜撰に思えたからだ。

「だって、間違いなく他人の仕事を奪う開発をしていたんだ。会社からしたら、元凶の僕を早々に切った事にすれば何方の側の人間からだって注意を逸らせるのが良いだろうよ」

「それで良いのか」

「何も悪くない」

「お前(にえ)で全うする気か。幸せになろうとかって考えないのか」

「そんな物求めて僕は駄目になったんだ。もう止してくれ」

 彼は悲痛を怺える顔をした。常人には堰止めに()えない何かを無理矢理、というには大分余力を覘かせている。

「遅かったけれど、御馳走様」

 いつの間にか平らげられていたそれを片付けに行ってしまった、勿論お替りもせずに。

 彼とはしばらく無言になってしまった。静かに風呂に入るのは話好きな私には滝に打たれる気分だ。

 そもそも私は熊谷からあんな情報が飛んでくるとは覚悟して居なかった。あと一歩踏み込んで嘗ての友達に限りなく収束できるかと想定していたら危うくもその足を運ばずに済んだ、という物哀しさばかりだ。

「悲しいだろうなあ」

 振り返ると、またあの亡霊が居た。最早離魂病(ドッペルゲンガー)と言っても差し支えないだろう。

「またか」

「そうだ。君の穴が埋るまでは延々と続く」

「何で己に構うんだよ」

 彼は嗤う。裸ではないのは安心した。自分の裸を見せつけられるのも堪った物ではないからな。

「放っておかれているからさ。君は自分に蓋をしているだけなのに、それに気付かない。もう少し露骨に言えば、私を無視している」

「己らしくもないな」

「そりゃあ、今では私も独立した片輪物、話振りだって不安定になるだろう」

 双子みたいなものかと思った。その場合も性格は環境に応じて細部が異なりゆくらしい。

「見た目がそっくりなだけに苛々するだろう。私はそれが目的なんだ。君が困っているところに現れて、綺麗なだけの君を棄ててもらう」

「何でさ」

 自分の言う事が当然と決めて、私の愚を訝るのが此奴の嗤いの根源か。

「君の記憶の抜けた所は私が保持している」

「何だと」

 熊谷を留めずとも済む話だったではないか。私は打算をあまりしない質だが、今回ばかりは大いに心乱れる。それを透かして、彼は言う。

「決して熊谷君の所為ではないのだ。彼の話は十中八九は本当だが、残りの一分は嘘か、足りないかさ。君はその怪しい物を調べるんだ」

「畜生」

 私は僅かな声量で呟いた。彼の御使をする気にはなれない。結局はそうなるのだとしても。

「私にも君の不老の理屈は無い。だから、記憶は後々くれて遣れるが──」

 彼はここで、自分の話に新しい言葉で割り込むという至極奇妙な言動をした。

「まあ、勿論君を納得させるだけの事実は有るが、そんな物だけを渡すなんて美味しい事は絶対にしない」

 私は応えられずにいた。咀嚼に時間を掛けていたのだ。

「私は君の中に何時だっている。自分で調べ、納得さえすれば自ずから一つになろうぞ。あと、呉々も熊谷君は大事にし給へ」

 私は如何すべきなのかが全く判っていないようだ。拳で壁を打つ、寸での所で鏡を叩き割らずに済んだようだ。一先ず、風邪引くといけない、という迷信を未だに信じて揚がる。尤も、引いたことなど無いのだが。

 居間に入らず、台所に向かう。牛乳を一瓶取り、紙の蓋を剥がして勢い良く呑んだ。蒸風呂から雪原に飛び込むようなこの益無き行いが大いに愉快で仕方がなく、日課となっている。

 そんな事も済んで、居間に大人しく向かうと熊谷は澄ました態度でまた本を読んでいた。今度は東海道中膝栗毛。当時の口語体は現代の標準語の基準とされたから、読めるのも当然か。だとしても、絶対に問題とすべきなのはその話ではない。

「ねえ」

 熊谷は私に気付いて、慎重に伺うように話しかけてきた。

「さっきのあれは済まなかった。情緒不安定だけど、最近はあんまり怒ったり悲しんだりはしないよう努めてきたんだよ。でも、時折巧くいかなくて、中途半端な態度をとってしまうんだ」

 私は熟考した。

「それは先刻の話から解ったさ。己は熊谷が思うよりは怒ったりしちゃいない…というか、怒ってはいけないんだ」

 

廿四 

 

「何を…」

 私は構わなかった。

「確かに七面倒臭い事情を背負って上がりこんできたが、誰の所為という訳でもなくそういう流れになったのだから、何とも言えない」

「だから何を言いたいんだ」

「言いたいことばっかり云って、本当に欲しい情報は何一つ貰えない。そんな不満には眼を瞑るから、思春期だろうが更年期だろうが大人しく言うことは聴いてくれ」

「初雁、それは呑むけど。これこそ『普通』から見て譲る条件が大分ずれているんじゃないかな」

 と言われても、私は自分で言ったことを理解した日はない。

「まあ。昔、梟に怒らないって言っちゃったからなあ」

 ──私は狭い準備室のような場所に連れて行かれた。そこには地球儀や世界図の巻物が雑然としていた。

 そもそも、此処は事実上の隔離部屋である。理由としては、私は調子に乗った同級生を殴ったのだ。勿論、本当に深刻な一線を超えてはいけないように、腹に一発のみ打ち込んだ。多分、相当亢進(エスカレート)して天井を突き抜けたに違いない。

 目の前に私を連れてきた人物が座った。

 福澤(あけ)(つぐ)。専門は化学で、人間としては出来ているが、授業の評判は芳しくない。雑用や、生徒との対話を好む風変りな人物で、こういう事をこの人は進んで押し付けられたのだ。

「本当は君だって承知しているんだろう」

「何だよ」

 彼は中途半端に口角を上げた。目元の筋肉迄もが動いていることから、作り笑いである事が窺える。どや顏に近い表情だと言えば通じるだろうか。彼は表情を改めて言った。

「観る分には、彼は確かに一番学級で根性が曲がったような事をしている。気弱な級友から金を喝上げしたり、何も知らない人達を然り気無く色々な虐めの共犯に仕立てるというのは浅ましいからね」

 何か勘違いをされてしまう気配がした。お互いに解った振りをしながら決定的にずれていく。

「己に正義感なんて物は無えからな」

 私は義憤の類の感情は持ち合わせていなかったが、結果としてそう見られる事を酷く嫌った。思春期の特徴として毒付きたくもなるのと同じ理由で。

「判っているさ。君は一応犯人で、過失を全く否認しない。私だってそこは叱らないといけない」

 (ああ)、これには何とか期待して良さそうだ。

「君は巧くやった方かもしれない。打撲で済むようにしっかり位置を決めているし、程度の割には派手だから大向こうを唸らすようにはなっていたな」

 奇妙な事に、彼は公平性を欠いている。行動自体はきちんとしているのに、感情は私側に著しく傾いている。人間の良し悪しは二枚の透鏡(レンズ)からでは見えないのだろうなあ。

「だが、相手への後援(フォロー)が無いじゃないか。それができないなら、相手の気持ちを(そこな)うだけになってしまうから止めておきなさい」

「御高く留まって言えるなんて羨ましい限りだな」

 私は力を籠めて彼の腹に一発拳を咬ました。すると、その拳は柔らかい感触を認識したその後に、強烈に固い凸凹した壁に当たった。

「武力だけは諦めた方がいいと思うな。こっちだって柔道は三十年やっている訳だし。それに、ほら、棍棒外交ってのがあるだろう」

 要するに、武力は(おどし)に使うのであって、実際に行使するものではないということか。それは解らなくもない。──

 

廿五

 

 何処までも話は脱線し、内容は堕落していたから、仕切り直す為にも長嘯のごとく声を鳴らした。

「閑話休題」

「どうぞ」

 物腰柔らかに言われた。

「塩竈に出向くとしたら何時がいいかなあ」

 これだけ言うと、方向転換が俄にあったからか何を言っているのかが理解されていないようだった。

「大崎が二人で来いと言うものだから、都合の付く日を決めたいんだが」

 彼は嗚呼、と息を吐き出すように(そら)合点をした。私には何も言われないのと同じぐらい関心を抱かせなかった。

「何時だって良いよ」

「暇だもんね」

 以上は無い、という程に投げ遣りに返事をされたから嫌味を込めて投げ返す。彼はそれには呉れる目が無いようで、応えとしては巨きな欠伸一つ吐いた。

「それよりも、もう(はや)く寝てしまいたいんだ。話すだけで思いの外疲れちゃってさ」

 もう真面な議論をする余裕は持ち合わせていないのだろうから私も普通の生活に戻るよりなかった。

「じゃあ、先に頓々(とんとん)と済ませてくれ」

 その後熊谷に風呂に入りだされると、私には何も無かった。かと言って、今日はどうして大崎に連絡すべきだろうか。(いや)、ないのかもしれない。話す側も疲れたろう、聴く側も疲れたのだ。だが、寝るにはまだ早かった。時計に依れば未だ二時間程猶予がある。其処で、例のギターを爪弾きした。既存曲を弾くは容易いが、曲を創るのは難しい。手帳には走書きの詞が並ぶが、どれも発想の切っ掛けを(もたら)さない。それでも苦心すると、今迄に思い付いた旋律、伴奏が更新されて昨日とは別の曲が出来上がる。詞だって昨日の文句の稚拙さに興醒めしてしまったら、そこを削除して書き換える。

 結果として纏まった物を記録、録音する。それはきっと完成しない。宮澤賢治だって銀河鉄道の夜に死ぬまで稿を重ねたのだから。

 風呂場への硝子戸がガラガラ鳴って、洗面台辺りがドライヤーによって(ごう)(やかま)しくなる。私は曲を創る作業を止めて、蒲団を敷き出した。何だ()んだ云い乍らも怺える必要が無いから、結局は睡眠欲には勝てないということだ。

 熊谷は私が敷き終えて寐惰這(ぬだば)った隣の蒲団に大の字になり、ふうと長い憩いの溜息を吐いた。それはまるで仰向けに打ち上げられた鯨のよう。そのまま話し掛ける彼は天を仰ぐのを垂直に姿勢に気道を曲げられて薄い声を出した。

「もう寝るわけじゃないよな」

「さあな」

 実際に寝るかは判らない。睡気は恒にあるが、寝る気は無かったのだ。酒が入らなければ何時までも起きていられる。だから、ぶっきら棒に答えるぐらいの反応しかしてやれなかった。

 ところで、鼻が馬鹿になっていなければ、彼から仄かに酢木(すのき)属の香りがするのだが。液鹼の香料にしては洋菓子を目の前で嗅いでいるように深みがある。街中には赤松ばかり、家にも洒落た食物などない為に余計に見当付かない。彼にそれを尋ねるとまた別の面倒がありそうだ。

 其処で明かりを消した。それでも寝付けなかった。初めの頃にあった修学旅行のような気分も抜けて落ち着いてきたものの、寒い所為か頭は寝ているも同然だが身体は厭に醒めている。丁度夢から無理矢理醒めた時に起る金縛りと反対に。

 音だけを聴いていた。幽かに寝息が聞こえる。私の養父(ちち)なんかは同じような年齢の時に(いびき)が酷くて一人だけ別の部屋に隔離された程であったぐらいなので、健児振りを羨んだ。

 ──私は次に見た風景は道だった。多分洋画で観るような石畳の洒落た通りがあるから、海外なのだろう。ある一人を追いかけるように体が進んでいく。追いかけられているのは多分目の前の探偵のような外套を着た邦人だ。背は高く、六尺を超えているだろう。それは通りを抜けて乗合(バス)に乗り込んだ。私もそれに乗り込むと、郊外へと走って行った。

 三、四階程の建物が並ぶような如何にも欧州らしい通りを過ぎて、草原が見え隠れするような田園の端で彼は降り、私もそれに続く。十分程歩くと、白と硝子の方形の建物があった。英語の表札を参照するに私設の研究所らしい。

 私はどうやら三人称視点では無く、憑依して一人称になっているようだ。彼は声を掛けてきた。

「ああ、漸く来たか。少しばかり遅れてくるのでも言ってくれる約束じゃなかったかい」

 私が返答に迷う間も無く、言葉は口を衝いて出てきた。

「すまん、背後(うしろ)を尾けるように来ていたんだけれど、つい声掛けるのを忘れて」

 それは奇妙な返答である。距離はあったが、少しばかり速歩きして声を掛けるぐらい造作なかった筈だ。それなのに、遅れて歩いたということは何か不本意があったのだろうか。彼はそれに大して構わずに続けた。

「これからやる事は背理法みたいなもので、純粋な計画の結果しかもたらさないものだ。猶太や基督、回教の神も例外なく、創るということは、神になるということはそういうことだ」──

 

 

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