神祇探しと居候   作:多賀皓一郎

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第六葉

廿六

 

「起きなよ」

 世界を揺らすような猛烈な地震に有らぬ方向へ頭を打ったかと思うと、そんな第一声を聞いた。ゆっくりと視界が晴れると、熊谷が上体だけを起した姿勢で私を揺すっていた。未だに

「どうした」

「今七時なんだけれど、仕事に間に合うか」

「そりゃあ、間に合わないよ」

「良いのか、それ」

「大丈夫、遅刻してもどうせ客がいないから」

 遅れて乗った列車は時間の所為か、いつにも増して人が多い。また立っていると、大衆の集合の変化で異なった色、匂い、音がして新鮮である。

 それにしても卦体(けったい)な事だ。本線のここなら日時に拘らず人が居ないようなものなのに。

 少しばかり列車走れば忽ち止まる。慣性は乗客、その心を動揺させる。車掌曰く、不審物ありとのこと。溜息を吐いて不安気に二転三転する周囲の表情に不快感を積分(つの)らせる。二千六百年程も経ったというのに、この風景は大人しい幼児の集団が為すものと何ら変わらない。

 携帯を胸ポケットから取り出そうとした刹那に爆発音が聞こえた。予定調和の騒ぎが聞こえる。微分(なしくず)された精神の安寧が不快を火薬庫の中身のような慍りに変わる。

 戻ってきた車掌、運転手はゆっくりと最寄の駅迄私を含めた乗客に降りるように告げた。何処の馬の骨かも判らない老爺(ろうや)が業界の素人の癖して大迎命(お客様)面して車掌と一揉めしたのを聴くと、一発拳咬ましてやろうかと思う程に腹が立ったが、職場の人間は巧みに論点をずらしては流して解決してしまったので、無かった事にした。

 二十分程歩き辿り着いた最寄駅は受け入れ態勢が一応できていた。それでも、やはり設備が少い為に渋滞が人々の見られた。私は、その合間に携帯から職場へ連絡する。

「あの、もしもし初雁です」

「ああ、先輩じゃないっすか。心配しましたよ」

 これは、纐纈の声か。やけに落ち着いている。

「事情は把握しています。今、飯岡の辺りですよね」

「そうだな」

「実は、大崎社長からも連絡があってですね、其方の事情はそれなりの大袈裟に巷では言っているようですね。ええと、今日は先輩とかがこれから店に行くも行かないも自由にするそうなんです、要するに休みって事」

「正気かよ」

 怠惰にもほどがある気がした。折角腰を上げて来たのに、なんて言えば仕事中毒だろうか。

「まあ、そろそろ店を畳むつもりらしいですしね、正気は失っているかもしれないですよ」

「はあ?」

 店を畳む、っていうのは新入りにする話なのか。今まで何も無かったのにここ最近で動乱も過ぎる。

「聞いてなかったんすか。社長がこれから新事業始めるそうなので来月には畳むそうです」

 はえーっ。

「いきなりかよ」

(いき)なりで頥気(いき)(なり)ですよ」

 俚言を絡めて混亂(こんらん)させるのはよくない。只でさえ当字(あてじ)が見えてしまう体質であるというのに。

 あれ。言わなかったかな、これは悪い。今まで気取っていた訳ではなく、相手がどの漢字を充て話しているのかが眼鏡で覗くように視えるのだ。(たと)えでもなんでもなく。はい、それだけ。

「こっちの独断になってしまった責任として煩わせないようにするし、今までの人員は引き続き雇うつもりだ、とは言っていますが」

「巫山戯た真似を」

 新人の女の子を相手にしているのも忘れて毒付いた。纐纈はそんな男なんぞ幾らでも観てきたとでもいうように平然と指摘した。

「其処から先は私じゃなくて社長に、ですよ」

 後輩にこんな事を言わせるなんて。嗚呼、私も人としての終りも近いな。

「解っとる。すまんな」

「気にしないでください。私もそう長くないですし」

「今何か言ったか」

「いえ、何にも。じゃあ、また」

「おい」

 嗚呼、畜生。

 電話は其処で切れてしまった。私はここで駅を出た。バス停にはちょっとした列ができていた。どうやら、此処らの交通は不便そうだ。だからと言って如何すべきか思案していても、悪戯に時間が過ぎる。

 取り敢えず、熊谷にも言っておかなければ。そうして、電話を掛けても細かい呼び出しの信号音が中々鳴り止まない。(つい)には自動音声の小母(おば)さんがしゃしゃり出てきたので已む無く切る。屹度頃合良ければ彼方から掛けるだろう。

「初雁」

 張った高い声で気安く呼ぶ声がした。辺りを見回せど尚見つからず。そう愚図愚図していると、背中に細いものの感触がした。

「ここだよ」

 今度は何刺しているんだ、諫早。

「金属には敏感なんだなあ」

 向き直ると、円規(コンパス)の針をちらちらと光らせていた。

「物騒な人間だ」

「そりゃ、刃物と女の子ほど危ないものはないからね」

「少女嗜好じゃねえから解らん」

「いやあ、恋は盲目。ドーパミンは溢れるし、前頭葉は固まるわで浮かれに浮かれる。そんな判断力が鈍っちゃあ隙だらけじゃないか。まあ、解らなくてもいいんだけれど」

 彼が小児性愛を抱いて性的には酷く倒錯しているのは知っていたが刃物に恋するなんてのは初めて聞いた。学術的に造語すれば刃物嗜好(レピダフィリア)とでもいう奴だが、これは入試現代文の読みすぎかな。

「好きだけに隙だらけってか。ああ、手前の異常性癖はもういい」

 単に野暮な指摘をして少し恥ずかしくなった。

「それはそうと、何故いるんだ」

「何故って、一緒に乗っていたじゃないか」

「心当たりが全くないのだが」

 私は記憶力には自信がある、一日の間ならどうでもいいことにも。だから、さっき気付いていたのならば憶えている。

「ほら、こうすれば判るかな」

 俄かに上着を脱ぐと、以前パーカーの下に着ていたのと同じ半色(はしたいろ)の地のごわごわとしたシャツが視えた。それは見た気もしてくる。ただ、それは正直似合っていなかった。本当ならば制服に近い暗い色調が適するはずで、人形のように誰かが無理矢理着せたかのように思うくらいに見ていて此方が恥ずかしかった。

 車内では態々脱いだようだ。確かに車内は混んでいて温かかったが、暑いという程だったろうか。取り敢えず、彼の話を前提として話を進めた。

「嗚呼、だったらお前を頼れそうにはないか」

 態とらしく落胆したが、彼を当てにしていたのは正直なところだ。

「いや、そうでもないよ」

 私が、え、と小さく言ったかもしれないと思うと、彼はそれを聞き留めて答えた。

「俺、何時でも呼べる人がいるから」

 彼がそういって電話を掛けると、十分後に誰かが来てくれることになった。それではまるでタクシーだ。

「誰なんだ、そいつは」

 彼はそれに快く返答した。自信なさ気に下手れ顔をするのが毛並みの整ったレトリバーの如く映っている。

「部下さ。親の会社継いでいるから、誰かしら呼べるんだ。勿論此方も身を沈めるぐらいに低くしているけどさ」

「御曹司だったのか」

 彼は渋々としていたが、囁くように教えた。

「あまり凡坊(ぼんぼん)だと思われるのも厭だったから言わなかったんだ」

貴族(かねもち)の匂いが染みているしさ、言わずとも知れる」

 つい、ありもしない有りそうな事を、級友に知ったかぶる学生のように言う。鼻につくような面があると初対面だろうが、長年の友だろうが素っ掛けてみたくなるのが自分でも嫌な癖なのだが、何処からともなくやってもいいという確信があるとすかさず弄ってしまう。彼はよくそれの犠牲になっていたが、今回もそれで見事に。

「嗚呼、本気(まじ)か。それは困ったなあ」

「気にすると駄目さ。堂々としなきゃないよ」

 敢えて軽々しくも言った。これで、多分今日一番に酷い自分を見せただろう。

「とはいうけどさ、自分のしたい事があるから、本当はこの会社を継ぐ気にはなれなかったんだ。一から築いた父と違って手腕も無いし。でも、無理矢理即位させられたからには、これまで親のやりたい事の後始末に追われるのみだろ。急に変えると混乱を招くし、子供は俺の所為で揶揄われるって聞くし」

「まあな、それはそれで大変だな」

 私にとっては対岸の火事程に懸け離れた話なんだ、と思う事で羨むなどと謂う感情を排して聴いていた。だから、今の返答も投げ遣りに聞こえている筈だ。

 ここで彼が呼んだであろう車が来た。何だろう。妬みや嫉みは無い筈なのだが、長閑な田園に似つかわしくもない銀色の輸入車がやって来るのには不快感を禁じ得ない。これに乗るのかと思うと、動物が鉄の箱に詰めて送られるのと同じ待遇を受けているように感じる。餓鬼であったら異常に烈しく抵抗するに違いない。または、大人しくするしかない女の子であったならばあっという間に腹痛を訴えてしまうだろう。

 

廿質

 

 私は大いに不安だった。初雁はこういう車に乗せられることを酷く嫌っていたのを知っていた。その話は長いのだが、彼は多分ずっと黙り込んでしまうだろうから敢えて思い返す。

 ──嘗て、初雁とは私の家に招いて共に遊ぶ仲だった。家は決して近くなかったのだが、彼は労を惜しむ人柄ではない。記憶を遡るにつれて足繁かった心地もする。しかし、ある時からその帰りに父が送っていくと提案した時、初雁はいつもそれを断るようになった。初めは遠慮の範疇(うち)とも考えたが、あまりにも長くそういう事が続く。

「本当に申し訳ないんだけれど、送ってもらうのは正直遠慮させて頂きたい」

「どうしたんだ」

「非道いだろうが、己は君の父親が何故か恐ろしいんだ。生理的に嫌だ、とかの程度じゃなくてストレスで身体を壊す程に」

 その時は敢え無く彼を徒歩にて帰した。それでも、余りにも辞退するものだから、後日学校で問うた。

 教室の一角で弁当を食する彼は、何時も誰かが話をするに適した穏とした空気を醸し出していた。

「そういえば、何時も君は車に乗りたがらないよね。何かあったのかい」

 彼は口をもぐもぐとさせていた。それは食べ物を咀嚼するものと、話すのを躊躇う意味とを掛けた動作に感ぜられた。

 彼は抵抗も虚しきと見切りを付けた。そうして、落ち着き払って囁くような、語るような声で緩やかに云う。

「本当はこういう話も好きじゃないが、不得已(やむをえず)だ」

 私は周囲の邪魔にならないように、話を真剣に聴く態度をとれる位置に改る。彼はそれを認め、言葉を流す。

「──己は酷く幼い頃、君の父親にそっくりに似た人に瀕死になるまで殴られて、山に運ばれて棄てられた事があるんだ。なかなか気付かれもしない田舎だから助けも来なくて、一時は精神が壊れるかと思うくらいに怖かったんだ」

「でも、それは昔の他人の話だろう」

「そうだよ、割り切ってしまいたいさ。でも、その時に乗った車はやけに高級そうな外車だった。それ以来、心的外傷で発作が起る事もある。そうでなくば、酷い車酔いみたいな症状を抱えることになる」

 信じ難い程に腺病質な面があるものだと思った。普段は健康そのもので、自分の体重を超えた荷物を持運べる程であったから、千磐破る神、手力雄(たぢからお)の異名を持っていた。

(そもそも)なんでそんな事があったんだよ」

「分からない。ただ、一つだけ思い当たる節がある。確か、小学生の頃に君をぼろぼろに泣かすまで喧嘩した事があったろう」

「そんな話もあったなあ」

 初雁は真っ直ぐな人柄で弱きを援け強きを挫く英雄として園児の頃からの評判だった。だから、私が彼の凋落を観ようと様々な人を囮にして足下を掬う機会を伺っていた訳だが、それが初雁に暴露て正面から怒られ、責められた。あまりにもそれが同じ子供の怒りにも思えない、神憑ったような迫力があったので、それを口実に酷く泣いてみせた。すると、それは色々な人が見咎めてちょっとした騒ぎになった。

 

廿八

 

 ──その数日後だった。背後(うしろ)から頸を打たれて息ができなくなった。悶ている己を担いで、車の隅に詰め込まれた。

 搖れる車内は沈黙で張り詰めていた。多分、前方の鏡から観るに、普通の背広に色シャツ、柄ネクタイの一目で嫌になる怖い兄ちゃんだ。己だって子供だったから、伊達に怯えたわけじゃない。

 保健所の畜生の気分さ。それだけでも恐怖に震えていたが、工場の倉庫裏みたいな場所に打ち付けられて、その後朦朧とするまで打ちのめされた。肋骨(あばら)に罅が入ったようにも思えたし、殺す気だったのだろう。怖くて死んだ振りをしていたら、何人かは口々に言う。

「殺さずとも、再起不能だろう」

「いや、契約だからなあ。きちんと大人の規則に従うべきじゃあないのか」

「だって、現代っ子でこういうのがあったなら、放っておいたって何れ死んじまう」

 あれこれ話し合われて、鯔の詰まりに己を生かそうとした奴の意見に何とか落ち着いた。

「配流にしよう。少し船出せば熊が棲む島がある」

 言出屁の法則により、その人が機械船に乗せて、ある島の森の深くにまで連れて行った。

 そうして、棄てられたんだ。やっぱり口先では何とでも云えるが、粗暴な輩には変わりなかった。

 その時は寒くてね、何にも知らない子供だったけれど、こんな風に人は死ぬんだろうかと思った。静かに泪が流れていたんだとは判っていたが、止める気力も無かった。

 その時に、彼奴らが言及(いっ)ていた熊がやって来た。己の側によって頬を少し舐めた。多分湿った塩味があったに異ならない。そうして、摺摺(ずるずる)と近くの穴倉まで引っ張っていく。この時は喰われる事をも思った。それでも、構わない。喰われるのなら熊の為になる。それぐらい私は心身消耗(しょうこう)していた。でも、食いはしなかった。毛布以上に温かく柔らかいものに包まれた。熊が軽く(おお)い被さるように寝てくれたのだろう。とっても温かくて、泪なんて枯れるんじゃないかと思った。

 翌朝、目が醒めると頭がやけに冷えていた。眼の腫れも以為(おもへ)らく引いている。それで立ち上がると、周囲が如何なる土地であったかが捉えられた。

 ここは穴倉ではなかった。正確には(あばらや)屋である。掘建小屋がバス停の待合のようになっているのを穴倉として使っていたに違いない。家具の代わりに木片が積み重なっているようなものが部屋だったものの隅に積んである。寝所には茣蓙(ござ)の上に藁が積んである。新しいようにも視えるのは気の所為かな。木材は黒ずんでいるが、腐敗でないことを祈りたい。

 妙にはっきりとした意識で寒さを痛い程感じていた頃、初めての声を聞いた。

「大丈夫かい」

 声の主を探す。生命は、己を除いては昨日の熊のみがそこにいた。己は思わず問うた。

「もしかして、お前か」

 彼は黙って目を瞑る。輪郭、骨格、毛の生え様を見る見る内に変えて背筋の整った男に変わった。

 恰幅は良いが、背丈は百七十あるかどうかと視たところ。その時の私が百二十五だから、相手への印象はほぼ大人だ。柔道家のような凛とした顔つきを子供の、曲線の多い部分で構成している為、一番背の高い同い年として愛嬌は残しているようにも思えた。瓶覗(かめのぞき)程に淡い水色の綿紗(ガーゼ)のゆったりとしたシャツと灰色の俗袴(ジーンズ)が変に余る事も無く身に付いている。

 端からこれを観れば歳の離れた兄弟のようだ。

「そうだよ。俺が──僕が昨日の熊こと、熊也(かげなり)

「ちょっと待って。人間なのか、熊なのかはっきりしてくれ」

「人間だろうよ、熊に変身できるだけで。神祇であるなら怪我もできないし」

 彼を大層(あや)しと思う目で見()めた。彼の顔は武者(むさ苦しい)苦しいながらも整っている。だから、曲解を怖れずに云えば、格好良いのだ。時間が停まって足を踏んでくれるならじっくり眺めてみようかというぐらいに興あるが、時間は無窮動。

「ふうん。昨日はありがとうな」

「いや、大した事はないさ」

「それが大した事さ。己は死に掛けていたんだから」

「まあ。それにしても何があってこの島に来たんだい」

 この経緯を仕方なく話した。するりと滑るように、一つの糸のように迷いなく文章を連ねた。彼は頷きはあまり多くなく、長い(まと)まりでうん、ともむ、とも判断がつかない発音で聴いている事を示すのみ。

「そうか。それじゃもう、大変という(しきい)じゃなかったよな」

「今だって怖いよ。死ななかっただけ良かった」

「嗚呼、そうだ。それで打撲だけで済んでいるんだから不幸中の幸いさ」

 彼に緩やかに力強く抱擁された。柔らかい体に包まれて、自然と涙が零れた。昨日寄り添ってくれた感動そのままに。

 暫くそのままにしながら、芝生の上を流れる(まろ)やかなる朝の汐風を感じた。青黒い岩が苔()して、その傍に聳える小綺麗な桜の樹の梢の啼鳥を聴く。まるで、いつか見た映画のごとく。

 それに満足すると、訊ねてみた。

「どうして人間なのに熊に化ける必要があるんだい」

 当然何れかされるべき質問であったかのように答えた。

「人間であるだけじゃ堪えられない事もある。そういう時は人間の僕を行方知れずにするんだ。偶然僕は熊になれる。それでも気にするような親じゃないから、どうだっていいのさ」

「ああ、そういえば幾つなんだい」

「七つ」

「嘘だろ、同い年で一尺五寸(かまつか)も違うんか」

「本当だって。変身した方の熊が大きいから仕方がない」

 尤もだ、申し訳ない。堂々巡りになる前に止めよう。

「それにしても、昨日付いていたしこたま殴られた時の傷や痣が凡て治っているんだなあ、と」

 恐る恐る頭から顔迄撫ぜてみた。頭で変にずきずきと痛んでいた瘤が無くなっている、殴られて歪んだはずの鼻が戻っている。

「まあいいさ。それよりも、空腹だろう。何か買って来よう」

「いいのかい」

「いいんだ。どうする、付いて行ってみるかい」

 正直、空腹が痛い程で、歩くのが少し辛い。でも、行かない理由は無い。

「じゃあ、行こうか」──

 

廿九

 

「ちょっと話し過ぎたなあ」

 実際に残り三分ほどしか休み時間はなかった。つまり、談話を装った独擅場(どくせんじょう)に彼は小説を語っていたのだ。早急(さっきゅう)に気付いていれば、こんな胸の高さにまで水に浸かるような模糊(もこ)とした不快感を抱く事はなかった。彼を責めてはいないが、熱くなると周りが見えなくなるくらいの傾向があるようだ。何時もの会話に用いる文学的装飾も少ない。

「まあ、仕方無いさ。そういう話だったんだから」

 空を泳ぐ鯨がいる。この世でそれは空想の典型によく云われるが、何処か異なる空間で事実になる為に引かれる世界線が何処かに有るはずなのだ。愛翁(アインシュタイン)が考えたものとは話が違うかもしれないが、今、空の鯨を私は観ている。鰭を動かす度に気の歪みを視る心地こそすれ。

「空の鯨だ」

 俄かに可笑しな事を呟いたとも感じずに、いや、もうそんなものはとっくに前提としているのかもしれない。初雁は同じところを見凝め、言った。

「空鯨名(いさな)色葛(いろかず)(めぐ)る花弁に捕へられかし甲斐もなければ」

 それは彼の心から自然と出てきたような素朴な声で淡々としていた。

『空の鯨は辺りを巡る花弁に葛のように捕らえられてくれよ、空想の甲斐がないからさ』

 説き明かすならそんなことだろう。私は気に入った。

「ごめんね。なんか変な冗談言ったよ」

「そうか。中々に面白かったぞ」

 彼は果てない豊かな知識を素朴な範囲で使おうと試みる文化人のようだった。それ故に完璧な評価はあり得ない、下せない。ただ、負数を公比とする無限等比数列に倣って情緒不安定に振動するのみだ。

 鯨音が鳴った。──

 夢心地だった。想像は途切れない大河で、私は岸に辿り着くまでその他一切の自由を掴み損ねる。

「初雁」

「何だ」

 酷く沈静した声だ。彼が出すのだから総てを殺したに違い無い。

「そういえば車は──」

「大嫌いだよ。もっとも、理由なんて覚えちゃいないんだが」

 理由をはぐらかしたのか、記憶にないのかはもう判らない。だが、体調を害うまでは()かないようだ。真逆、原因まで忘れた訳ではあるまい。

「済まんな。子供じみていて」

 途轍もなく落ち込んでいるように聞こえた。自己に対する強烈な嫌悪感でもあるのだろうか。

「どうだろうな。子供なんでなくて(ふる)い人ってだけだろう。それこそ鐵道普及前を知っている世代みたような──」

「おい、口数多いと威厳が失われるぞ。黙れば最強なのに」

「良いじゃないか、こうやって久闊を叙すぐらい」

 彼の芯は斯くも一寸(ちょっと)真面目過ぎるきらいがある。実は融通が利かなく、一番嫌うところだった。かといって、面に出せようか。

 運転手は寡黙だった。怪しうはあらぬ人相だが、眉間の皺、偶に引き攣る口許から察するに、話の種も無いから黙っていようという風に捉えられた。それでも、車は心做しか遅くなったかと思うと彼は口を開いた。

「そろそろですよ」

 車は盛岡駅に着く。バスから物々しい数の人が降りるのを観るに、線路を歩かされた御一行も幾らかはいる模様だ。

 俗袴(ジーンズ)のポケットを(まさぐ)ると、何も無いという違和感はあった。

「初雁、煙草買ってきてもいいか」

「ああ」

 駅前だというのにコンビニはやはり遍在(ありふ)れた全観にて候う。此れだから鎖で繋がれた店は嫌いだ。多種多様な小売店を軒並潰し、概日律動(リズム)を鈍らした根源はまた窓際で政治家や芸能人の醜聞を一面に持ってくるだけの浅はかな雑誌を布教している。煙草屋が在れば本式には有難いのだが、それを期待できないのは五メートル先にある古惚けていた店の締め切った鉄扉上の閉店の報が新しい事で示されている。

 哀しいかな、人間としては暢気に生きたくとも、資本主義がそれを許しはしない。沢山の資本を持つ者は自分が脅かされるのを恐れて更に資本を掻き集めるが、そこに増える数字に魂は存在しない。それを取り払って、足許に注いで遣ればどれだけの莫凡職者(プレカリアート)や下流老人が救える事か、偉い人にはそれが判らないのだ。果て、何をしているのだろう。

 私は初雁の許へ戻ると、何か口遊んでいたのを僅かに聴いた。天を仰ぐそれは微に空の色が染みているようにも見えた。襯衣(シャツ)を着れば身体の輪郭が隠れる細身である私に対して、

「〽︎歩く道別れてもまた出逢う事を信じて──」

 ここで私に気付いて唄は終わってしまった。見た限り、頬に少し赤みを帯びている。だが、そんなのは打ち消す事を決め込んだようだ。

「おう。んで、どうする。もう歩いて帰るには充分な距離だが」

「そうだなあ、早く帰ってしまった方が良いんじゃないかな。熊谷を抱えている以上(ひと)りにしておくのはどうかと」

「そうか」

 彼は帰った。私は仕事に戻る気力もそれ程無かったから、茫然と同じ所に立ち続けていた。

 

 

 私はまるで急流、又は見えない人混みに流されるように足を速く運ばれていった。私が思考するとすればその中でのこと。

 人間としては多分諫早に飽きられている。最後の数言の遣り取りは当にそう受け取るべしとでも言うようだ。大した話もしない、忍耐のない子供じみた性質(たち)、取柄とは何処に。寧ろ学校の道徳の時間の方が、如何に面白いことか。

 彼は自分の友人関係にある人間としては最古参である。抜け落ちた、もしくは離魂(かたわれ)が持つ方の記憶は恐らく彼が一部持っている。何を話した、何を聞いた。そんなもののよく判らない者と何故平然と付き合っているのか。嗚呼、考えるも苦しい。

 熊谷に至ってはそれ以上に不得不困惑(なやまざるをえない)。私は何者で、何故彼に彼処まで(たの)まれるのか。最近は兄弟のようにも段々思え、心持不器用であるとか、ずれているところなどの痘痕も靨に視える。自分は以為らく自身に存在しないものに憧れている、かといってそれを簡単に認めたくはない、そこが大いに悩ましいところだ。

 私には何故二人のような突飛な物が無いのだろう。経済的基盤が不動の地位にある運命も、自分の創作に自身が駆逐される『疎外』を経験できる程の頭脳も。どうして()う伸うと生きてきたのか。人間が社会を成り立たせる為に何かしらの個性を以て誰かと組み合わさり、決して外れない堅い関係を築いてこそ和を作らしめれ、では無かったか。私には何がある、あるとしても気付かないか忘れてしまったのだ。

 そう考えていると、それを振り切ろうと次第に加速していた。今、はっと意識が醒めていなければ玄関の磨り硝子の扉を蹴破ってしまうところだった。

 私の家は建て付けが悪かったのか、鍵を掛けないと自動扉と化すために何時だって鍵が掛かっている。それはそれで良いのだが、何故か中々開かない。開錠を試みながら訝っている。

「その鍵じゃないんだろう」

 熊谷だった。反響音の無い外で声を聞くのは久しい心地がする。

 実際に手許の鍵は玄関用ではない。一回り小さい事から、自転車用であると判明した。

「どうした。今日は莫迦に早いじゃないか」

 彼は速報などを観ていなかったのか。

「電車が事故に遭って仕事を不得已(やむをえず)

「それは確かに不得已いな。あと、顔色が酷く悪い。何処か病んだのか」

「そうだなあ。病んでいるとすればこの全てさ」

「何だその禁断ノ果実社みたいな言い回しは」

「いや、それは冗談さ。でも、もうそれが常態だ。窮窟な家に慣れてしまうように」

「気付かない内に首が絞まりきるのを待っている」

「そんな感じ。何故それが判る」

「これだけ生きてりゃ同じ経験をする事もあるさ」

 彼は段々と元気な口調を身につけてきているようだ。それにしても何時にも増しているような。

 その答えは、自づから出された。彼は星図を主題としてあしらった短冊形の紙を持っていた。曰く、ゴーゴーペンギンというジャズバンドが来日するらしく、その入場券のようだ。

「少し散歩していたら木谷に出逢って、久し振りだね、って話になったんだよ」

 然もありなん、というものだ。彼女の場合は確信犯の行為なのが判りきっている。

「そんで、話が弾んだところでこれを貰ったんだ。僕がジャズを好んでいたのは周知だったし、彼女にとっては端金(はしたがね)だったから」

 木谷は確か富豪の娘で、小公女さながらに貧困も経験している無缺女であった。今は例の六億で放蕩中であるはずだが。私を差し置いて会う理由が判らない。

「勿論、初雁の分もあるよ。鴛鴦宜しく愉しみ給え(ふたりなかよく)との事で」

 鴛鴦、ということは夫婦扱いをされているのか。全く、相も変わらず素見(ひやかし)ばっかり上等なこった。

「中に入らないか」

 私が結果として昼飯を少し遅らせたのは、疲労から起る妙な倦怠の所為である。普段ならば空腹を訴えて我先に食べるのだか、今回は熊谷に作らせた挙句に量も然程消費しなかった。

「矢ッ張り、何かあったろう」

 熊谷はそう心配してくれるものの、判っていたら疾っくに説明している。

「だから、分からないものは判らない」

 少々ぶっきら棒に言い切った。須臾、彼の口角が引き攣る。

「そうか」

 彼はこの話題について引き延ばすのも不毛だと割り切ったようだ。

「少し横になっても」

「いいよ。ただ、布団は自分で」

「ああ」

 部屋着に着替(きか)えて床を敷いてはみたものの、寝付けない。寝るには体力が余り、起きるには疲れている。

 愚図愚図していると、さっきの思想が擡げてきた。抵抗する気力も無く、厭な気持をさながらに映した映画を全方位映写幕で見せられている拷問のようである。だんだん漠然とした辛いという感情が見え、大型動物が戯れるように重っ苦しくて仕方がない。

 健全な肉体も健全な精神も私は持っていたはずだ、と錯覚でもしていた。私はそういう人間だった。実のところで身体は消耗し、孤独になっていく。

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