まよいスピリット~その1~
~045~
「お。これはこれは、ガララ木さんではござませんか」
日差しが眩しい麗らかな昼下がり。颯爽とマウンテンバイクを走らせていた道中に出くわしたのは、小柄な身体には不釣り合いなほど大きなリュックサックを背負った女の子だった。
髪を両端に結わえた所謂ツインテールに、前髪を短く切り揃えた髪型で、キリリとした形のいい細眉が露わになっている。
ブレーキを掛け近くで停止すると、少女は挨拶代りに僕の名前を言い間違えた。
「人の名前を、引き戸の玄関を開閉した時の音みたいに言ってんじゃねーよ。僕の名前は阿良々木だ」
「失礼。噛みました」
あどけない顔立ちをした少女――八九寺真宵は、天真爛漫な笑みを浮かべてみせる。
うん、思わず抱きつきたくなる愛らしさだ。自転車に跨っている状態でなければ、即座に駆け寄って抱擁したのち、頬ずりしていたのではなかろうか。
「いやはや、阿良々木さん、壮健そうで何よりです。お久しぶりという程日にちは経過しておりませんが、またこうしてお会いできたことを嬉しく思いますよ」
「ああ、ほんとにな」
相も変わらず馬鹿丁寧な八九寺の言葉に、僕は同意する。再会できてよかったと、切にそう思う。思わずにはいられない。
存在がアレであるだけに、結構心配してたんだよな。八九寺の元気そうな顔を見れて、ホッとしている僕がいる。
単刀直入に言ってしまえば、何を隠そう彼女は『幽霊』なのである。
死んでしまった人間。生きていない人間。人間だった少女。怪異に成った少女。
もう少し言及するならば、交通事故で命を落とし、この世に未練を残して地縛霊と成った――僕と話すことはできても他の誰かとは話すことができない、そんな不確か極まりないこの世ならざる存在。
母の日の公園で行き遭った『蝸牛』。
ぐるぐるぐるぐるぐるぐると。ゴールの閉ざされた迷路で、彷徨い続ける『迷い牛』――それが八九寺真宵の怪異としての在り方だった。
でも、それは過去形である。もう終わったこと。
現世に残した未練が成就したことにより、八九寺の『怪異』として――『迷い牛』としての特性は既に
あの不愉快なアロハ野郎こと忍野メメの助言と、それに戦場ヶ原ひたぎの道案内の甲斐あって、八九寺を母親の元へ導いてあげることができた。連れて行ってやることができたのだ。
紆余曲折を経ながらも、どうにかこうにか解決を見た。
目的地に帰り着いて、『迷い牛』から脱却した『怪異』――八九寺の言葉を拝借すれば、地縛霊から二階級特進した浮遊霊というのが、今の八九寺真宵の肩書なのだ。
本来ならば、あのまま成仏しても何らおかしい要素がないというか、何で成仏してねーんだって話だからな。
僕的には、八九寺とこうして顔を合せることができて嬉しいのだから、成仏することなく、ずっとこのまま現世に居て欲しいというのが本心だけど。
まぁ敢えては口にすまい。この小生意気な少女を付け上がらせる要因にもなりかねない。
「しかし、こんな時分にお逢いするとは妙ですね。普通なら、まだ勉学に勤しんでいるはずの時間帯では?」
「ん? ああ、今日は休み、日曜だぞ」
5月21日、日曜日。天気予報によると降水確率も0%の見事な快晴で、絶好のお洗濯日和となっている。
「そうでしたか。日がな一日、当て所なく放浪している身としては、曜日感覚なんてあってないようなものですからね」
「……適当だな」
「ちなみに、今って西暦の何年でしたっけ?」
「そういったことを聞くんじゃない。んなもん
テレビは地上波デジタル放送に切り替わり、携帯だっていつの間にか、スマートフォンが主流になってるもんな。
僕は、いったいどこを基準にして話せばいいのやら……語り手として判断に悩むところだ。
「阿良々木さんは、これからお出かけですか?」
「ああ、ちょっと駅近くまでな」
「ほぉ、なるほど。ということは、これからデートというわけですか。いいですね。青春っぽいです」
「ん? デートって何の話だ? 僕はただドーナツを買いにいくだけだぜ」
まぁ僕が食べる分ではなく忍の分――ここ最近の働きに応じた報酬なわけだけど。
そういや、お持ち帰りするかはまだ決めていなかったから、その場で食せば、それが忍とのデートと言えなくともないが…………。
「いえ、阿良々木さんとあの方――え~と…………失念してしまいましたが、あの髪の長い今にも合戦が始まりそうなお名前の……」
「戦場ヶ原か?」
「ですです」
名は体を表すとはよく言ったもので、剣呑な雰囲気を身に纏う彼女にドンピシャな苗字だよな。
「で、その戦場ヶ原がどうかしたのか?」
「確かお二人は、逢瀬を重ねる間柄ではございませんでしたか?」
「まぁ、そうだけど」
また古風な言い方をするな……。普通に言えよ普通に。
「こんなお天気のいいお休みの日ですから、てっきりデートに行かれるものだとばかり…………いや失礼いたしました。わたしの早とちりでしたね」
そっか。
八九寺の言葉で気付かされたが、真っ当な恋人同士ならばデートに行って然るべきなのか……。
あれ? 戦場ヶ原と付き合い出して9日は経つというのに、恋人らしいイベントが全くと言っていい程発生していないぞ……。
学校での休み時間や、昼食を取る時は一緒に過ごすことが多いが……それだけだ。
放課後はずっと見滝原まで遠征しているわけだし、今日も夕方には見滝原に向かう予定。
一応それについては、戦場ヶ原だって了承してくれているけれど…………。
「まさか、もう別れてしまっていたとは……浅慮な発言でした」
「別れてねーよ! まだ付き合ってるよ!」
「となると、これはただ単に、阿良々木さんの甲斐性のなさが浮き彫りになったってだけのことですか。はぁ情けない人ですね」
嘆息を交え、呆れた口調で八九寺は言う。僕の評価が著しく低下した。
「言い返したいのは山々だが、甲斐性がないってのはお前の言う通りだな…………そこは猛省するしかないぜ。つっても、あいつがデートを望んでいるとは到底思えないんだけどな。なんか普通に断られそう」
戦場ヶ原に何度か頼みごとをしたことがあるけど、基本断られるからな。
どうシミュレーションしてみても、快諾の返事なんて期待できそうにない。
「だからと言って、誘わないでいい理由にはなりはしません。阿良々木さんがそこで手を引いてしまったらずっとそのままです。停滞は破局へと繋がりますから、気を付けた方がよろしですよ」
小学五年生の女の子に、正論で窘められる男子高校生の図である。
この件については魔法少女関連のごたごたもあるので、上手い事折り合いをつけて臨まないとな。
どちらもいい加減な気持ちで向き合いたくないし、蔑ろにはできない問題だ。もう少し戦場ヶ原と語らいの場を設けた方がいいのかもしれない。
「ではでは、阿良々木さん。お引止めして申し訳ありませんでした。予定があるようですし、わたしはこれで」
「いや、別に急ぎの用って訳でもないからさ。折角だしお喋りでもしてこうぜ」
少しぐらい遅くなってもドーナツさえ買えば、忍だって文句は言うまい。
それに、出掛ける間際に一眠りするとか言っていたから、今は就寝中のはず。
この頃、忍の生活リズムが不規則なんだよなぁ。僕と密接にリンクされている影響が出ているのかもしれない。
とまぁ、そんな訳で。
ミスタードーナツに着くまでに限ったお喋り相手ってのもなんだか味気ない話だし、通行の邪魔になるのもいけないってことで、僕達は最寄りの公園に向かうことにした。
八九寺と親交を深める良い機会だ。
道すがら偶然見つけた商店でアイスクリーム(バニラ味)を購入し、急ぐでもなく自転車を押しながら悠々散歩気分で、およそ10分少々掛けて公園に辿りつく。
八九寺と初めて顔を合せた浪白公園(呼び方は未だ不明)とはまた別の場所だ。
野球やサッカーができるような広場はないが、メジャーどころの遊具は設置された、大きくもないが小さくもない、何処にでもあるような普通の公園である。
「いやぁアイスを奢って下さるとは、阿良々木さんも中々の三段腹ではありませんか」
ベンチに腰掛け、アイスが溶けない内に食べ終えると、八九寺が満足げな顔で言った。
ニュアンスから褒め言葉として使っているのが分かるので、多分、八九寺が言いたかったのは太っ腹。三段腹に気前のいいという意味はない。
「ま、これぐらいな」
100円のアイスなんかで機嫌が取れるのならお安いものだ。
口約束ではあったが、黙秘権を行使する八九寺の口を割らせる為にアイスクリームを奢ってやると言ったことを思い出したから、その約束を果たしただけなんだけど、八九寺はそんなこと覚えていないっぽい。
しっかし、最近の子供は外で遊ばないもんなのかな?
日曜の公園だってのに誰も居ないってのは、なんか物悲しい気持ちになってくる。
僕が立ち寄った公園に偶々人がいないってだけなのか……少子化とか、人口密度の問題だったりするのかもしれないけれど。この町って田舎だからね。
物思いに耽り、センチメンタルな気分に浸るのも悪くないが、今は八九寺との時間を楽しむことに専念しよう。
「なぁ八九寺。公園まで来たんだし、なんか遊具で遊んでみるか。ほらブランコとかあるぜ!」
こういう時は、子供の目線に立って遊んでやるのが大人の務めだよな。いや、なんだかんだ童心に返って遊んでみたら、僕だって結構楽しめるかもしれない。
「いえ、わたし、そこまでお子様ではありません。阿良々木さん一人で楽しんできたらいかがです? わたし、ここで見てますから」
僕の提案を、素気無く断る八九寺だった。
「嫌だよ! 小学生に見守られながら、ブランコで遊ぶ高校生って痛すぎるだろ!」
「はぁ。阿良々木さんは我儘ですね。仕方ありません。後ろから押して差し上げますから、それでいいですか?」
「よくないよ! より構図として酷くなるわ!」
立場が逆であれば、微笑ましい光景だろうけどさ。
「何だよ、つれないない奴だな。だったら八九寺は何して遊びたいんだ?」
「別に公園に来たからと言って、何か遊具で遊ばなければいけないみたいな、強迫観念に迫られることもないと思いますが」
「……それもそうか」
「わたしとしては、阿良々木さんとお喋りできるだけでいいんですよ」
「お、嬉しいことを言ってくれるな」
「はい。阿良々木さんの不幸話が訊けるだけでわたしは愉しいですから。下には下がいるってことがわかるだけで、人の心は豊かになるものです」
「………………」
こいつも戦場ヶ原と同じく愉悦部会員なのか…………上げてから落とすのがワンセット。世知辛い世の中だ。
「沈んだ顔をされてますが、どうかしましたかピロシ木さん」
「もう原型が殆ど見当たらないな……それでもきっと、僕の名前を言い間違えたのだろうと仮定して言わせて貰うが、ロシアを主とした東欧中心でよく食べられている惣菜パンみたいな名前で僕を呼んでくれるな。僕の名前は阿良々木だ」
「失礼。噛みました」
「違う、わざとだ……」
「噛みまみた!」
「わざとじゃないっ!?」
「カビました」
「そいつは食えないな!」
文字通りの意味で。
『パンはパンでも食べられないパンはなーんだ?』ってなぞなぞがあるけど、それの数ある模範解答の一つだ。
他にもフライパンだったり、ませた小学生男子ならパンツとか言っちゃったりするのがセオリーである。
ま、八九寺のパンツなら、食って食えないこともない。
いやいや、流石にこれは冗談だけど。
冗談だって。ほんとだよ?
ともあれかくもあれ――さて置いて。
八九寺を見ていると、身体の内から熱く滾るような感情が込み上がってくるんだよな。それはもう、止め処なく、溢れ出る程に。
この心の猛りを否定することはできない。可愛いものを見たら、誰だって愛でたくなるのが心情というものだろう。
そういうものだ。原始的欲求として人間に組み込まれている
お誂え向きに此処には僕と八九寺しかいない。もう一度繰り返そう。僕と八九寺しかいない。人気のない公園で二人っきりだ。
そして、大事な要点として――八九寺真宵が法律適応外の人物であることをしっかりと明記しておく。
こんなチャンスを逃す手はない。
理性が何かに浸食されていく。
「何やら嫌らしい目つきで見られているような気がします!」
ベンチに座った体勢のまま横にずれ、僕との距離を離す八九寺だった。ほほう、中々の危険察知能力だ。
「はっはっはー。なんだよ八九寺。人聞きの悪いことを言うなー。別に僕はお前に危害を加えたりしないよ。この町に住んでいる人間で、僕くらい人畜無害な奴なんて、一人もいないんだぜ?」
顔面に笑顔をべったりと貼り付け、僕は優しい、それはもう優しい口調で言った。
「その台詞は一度訊いた記憶がありますが、今この時に限っては信憑性ゼロです! その緩みきった卑猥な笑みを消して下さい!」
更に八九寺が僕から距離をとった。ベンチから飛び退いて、また其処から数歩後退る。
「心外だなぁ――」
逸る気持ちを抑える為にも、軽く深呼吸し気を落ち着かせ――ゆっくりと八九寺に近づいていく。
「――僕は少しばかしお前とスキンシップを取ろうとしているだけだというのに…………」
「わたしは取りたくありませんっ! 近寄らないで下さいっ! 兎にも角にも指先を奇妙に忙しなく動かすのを止めて頂きたいっ! 気持ち悪いですっ! 悍ましいですっ!」
矢継ぎ早に言葉を飛ばす様は、キャンキャンと吼える小型犬のようだ。
「八九寺は恥ずかしがり屋さんだなぁ」
「どう解釈したら今の言葉を恥ずかしがっているだなんて受け取れるのですかっ!? 甚だ疑問ですっ!? 一度病院で診てもらうことをお勧めしますっ! というか迅速にどっかいっちゃって下さいっ!」
より警戒度が増したようで、八九寺が両拳を胸元に構え、ファイティングポーズをとって威嚇してくる。
「胸ですねっ!? 性懲りもなく、また揉みしだくつもりですねっ!? ファーストタッチに飽き足らず、まだわたしの胸を狙うというのですかっ!?」
いや、違った。迎撃の姿勢をとったのではなく、胸をガードしただけか。
「ふふ、八九寺よ。お前は何も解っちゃいない!」
僕は不敵に笑う。
確かに八九寺の胸を喧嘩の最中、不可抗力とはいえ揉んでしまったことは事実だ。しかし、未成熟な青い果実などに心動かされる僕ではない! 八九寺は自身の価値が何処にあるのかを全くといっていい程理解していないのだ!
よし、いっちょやってみっか!
「はっちくじぃいいいーーーーーーっ!!」
愛する勝気な少女の元へ、一気に駆け寄った!
僕の強襲に対し、胸を懸命に死守する八九寺。
だが、僕の狙いはそこじゃない!
距離を詰めた所で両の脚に力を込めると――向上した身体能力を存分に活かして跳躍を決め、いとも容易く少女の頭上を飛び越える。
体操選手さながらの回転を無駄に披露し、背後を取ってみせた。
一瞬にして背後に回り込んだことで、僕は八九寺の視界から消えている。
且つ、八九寺の意識は胸を守ることに傾いており、そのお陰で下半身が完全なる無防備状態となっていた!
そう! 僕が狙うはパンツのみ!
「隙ありっ!!」
スカートめくりなどでは生ぬるい!
僕はスカート内部に手を差し入れ、一気にパンツを引き摺り下ろす!
知る人ぞ知る、千葉氏が編み出した秘技――『高速片手パンツおろし』!!
封印されし悲劇の技を、僕の手で復活させてやる!
「いやぁあああああああああぁーーーーーーーーーーーっ!?」
少女の悲鳴が響き渡る。
が、技の精度が甘かったのか、ゴム紐がしっかりしていた為か――パンツは太ももの辺りで止まってしまい、未だスカートによって覆い隠されたまま。
くそ! しくじった!
そう簡単に習得できる技ではなかったか。
意表を突いた奇襲が失敗した今、後はもう力付くで奪い取るしかないだろう。即座に方針を切り替える。華麗に秘技を決めたかったが、目的の物さえ手に入ればそれでいい!
「さぁ八九寺! 大人しくするんだ!!」
「きゃーっ! きゃーっ! きゃーっ!?」
「おい、じたばたするんじゃない!」
「ぎゃああああーっ! ぎゃあああああーっ! ぎゃあああああああーっ!!」
「こらっ! 暴れるな! パンツが脱がせにくいだろうが!」
そうして――抵抗する八九寺をどうにか押さえ付けることに成功した!
こうなってしまえば、もうまな板の鯉も同然。
「ふふ、はっはっはっはっは。観念するんだな!」
勝利を確信し高笑いを上げ、僕は八九寺へと手を伸ばす。
いや、伸ばそうとしたその瞬間に――――突如、視界がブラックアウト。
気付けば、僕は地面に仰向けで倒れていた。
しかも、鼻から血が盛大に吹き出している。
鼻先に激しい痛み。念の為言っておくが、性的興奮の余り鼻血を噴出しただなんて、マンガやアニメで散見される馬鹿げた現象が起こった訳では決してない。
これは、物理的な要因によって引き起こされたことだ。
顔面を強打されたということだけは何となく察しがつく。
忍による妨害かとも考えたが、違った。
「何考えてやがんだ! 信じらんねー! このロリコン野郎!」
悪し様に浴びせられる罵倒。
倒れた状態のまま首を巡らせると――見覚えのある人物が僕のことを見下ろしていた。
まるで卑劣な暴漢でも見るような、侮蔑を宿した眼差しが突き刺さる。
八九寺を庇うように立ち塞がり、刺すような視線を放っているのは、二日前に一戦を交えた魔法少女。私服姿だけど間違いない。
「この変態の始末はアタシに任せて、嬢ちゃんはとっとと逃げな」
佐倉杏子が其処に居た。
八九寺パートということでメタ発言が多くなりました。
そして、阿良々木くんが暴走。おまわりさんあなたの息子です!