~070~
巴さんの思いもよらぬ大胆な行動に、どう対処していいかわからず、僕は情けなくしどろもどろするばかり――ただことの真相はすぐに明らかとなった。
「血が必要なんでしたら、遠慮せずに私の血を……」
「え? 血?」
なぜ巴さんが血を? しかも僕に?
なんて一瞬、混乱してしまったが、なんてことはない。
巴さんは“吸血鬼の僕”に、血を提供してくれようとしているのだ。
ほんの数十秒前――
「もう少し、血を吸っておくか?」
『今の状態でも十分じゃと思うが』
「いや、でもな…………」
――僕と忍はこんなやり取りを交わしている。
実際には忍に対して言った提案ではあるのだが…………巴さんには忍の声が聞こえないわけで――故に、僕が血を吸うことに躊躇い逡巡していると、そんな風に誤解してしまったのだろう。
人間の血液を吸ってパワーアップするなんていうのは、世間一般に知れ渡った吸血鬼のお約束である。
吸血鬼通だと思われる巴さんであれば、この発想に至ってもおかしくはない。
だからこれは、別におっぱいをアピールしようとしていた訳ではなく、血が飲み易いように首元を晒してくれたってことなのだ。
僕も忍に血をやる時は、同じようにカッターシャツを肌蹴た状態にするしな。
「大丈夫! 気持ちは有難いけど、ほんと大丈夫だからさ!」
巴さんも相当な覚悟で申し出てくれたのだから、思慮に欠けた対応にならないよう気を付ける。
「え、でも…………いえ阿良々木さんが、そう言うのでしたら……」
取り敢えず、一応は引いてくれた。
ただ、途轍もなく残念がっているように見えるのは僕の気のせいだろうか?
いやいや、好き好んで血を吸われたいなんて思うはずもないのだし、これはただ力添えできなかったことに対しての、心苦しさが現れてしまっただけか。
何にしてもだ――僕は吸血鬼の成り損ないなので、そもそも吸血衝動などありはしないし、仮に巴さんの血を飲んだとしても意味はないはずだ。
それに大前提として、大きな勘違いをしているんだよな。
そこの所をちゃんと伝えておかなければなるまい。
「あのね、巴さん。そもそも僕が戦おうって訳じゃなくて――」
『待たれよ!』
と――事情を説明しようとしたところで、忍が割って入ってきた!
これもまた僕にしか聞こえない声なので、感じとしてはなんか電話中にキャッチが入ったようだ。
「えっと、ごめん。忍が何か言ってるからちょっと待ってて」
そう断りを入れ――今度は巴さんが勘違いしないよう、ちゃんと背を向けてから忍の相手をする。その間に、衣服の乱れを直して欲しいという切実な訴えでもある。
「なんだよ?」
『儂が魔女を相手にすることは、そこの小娘には伏せよ』
「は? なら、どうすんだよ?」
伏せるも何も、どうせ影から出てきて戦うのだから言ってしまっても一緒だろうに?
忍の意図するところがわからず、説明を要求する。
『こうする。お前様よ、足元に注目しておれ』
「ん?」
言われるがまま、忍の言葉に従う僕。
すると――
「なっ!?」
『あまり驚くでない。気付かれる』
んなこと言われても、“足元から人間の頭部”が生えてきたのだから驚きもするわ! どんなドッキリだ。
頭は一瞬で影の中に引っ込んでいったので、多分、巴さんには気付かれていないはず。
忍が影の中から生首よろしく、顏だけ覗かせるなんてのは、日常の光景として見慣れているが、僕の見間違いでなければ忍ではない男の頭だったぞ。
いや、男の頭というか――
「あれって僕の頭じゃなかったか!?」
かなり混沌とした会話内容なので、巴さんには聞こえないよう声量を絞って忍に問い質す。
『いかにも。即興にしては上手くいったようじゃの』
どこか誇らしげな忍ちゃん。
シルエットなので確証はなかったが、どうやら正解らしい。
「えっと……忍……これは?」
『なに、お前様の姿を借りるのじゃよ。要は変身能力を行使して、お前様の姿を再現してみたわけじゃな――まぁ大まかな外見だけではあるがの』
それぐらいの芸当、今の忍になら造作もないのだろうけど、
「……んっと…………それって、僕が二人居ることにならないか?」
『そうなるの。じゃから、上手いこと誤魔化せるようそれっぽい理由を考えておくがよい』
うーん……吸血鬼の能力と言えば、強ち嘘でもないのだし納得してくれるとは思うが、
「なんでわざわざこんな回りくどいことするんだ?」
ミスタードーナツで食事しているところなんかは店員さんやらに目撃されているし――巴さんには既に、忍のことは話している。
今更、存在を隠す必要性はないはずだ。
『ふむ。なんでかと言われれば、そうじゃの……あの小娘が吸血鬼に対し、必要以上に憧憬を抱き、執心しておるからじゃよ。あくまでも儂は元吸血鬼であって、堕ちた吸血鬼でなければならん。儂が力を行使するところを目撃され、“真っ当な吸血鬼”として“認識”されることは、それだけで相当な危険を孕んでおる。怪異は人口に膾炙することでその力を強めると、あのアロハ小僧からも警告されておったはずじゃろ?』
忍は荘厳な語り口で述懐する。
そう言えば、事あるごとに忠告されていたな。
――怪異とは、人間の信仰でできている。
――怪異は、周囲の認識通り現れる。
――周囲の期待通りに振る舞う。
なんてことを忍野は言っていた。
巴さんが忍のことを吸血鬼だと強く認識することで、忍が怪異としての本質を取り戻す――ことになるかもしれない。
微々たる程度の力でさえ、忍が周囲に齎す影響力を鑑みれば、無視できない値になるのだろうし……確かにそれは、望むところではない。
それにだ――罷り間違って怪異譚として広まりでもしたら、またぞろ吸血鬼ハンターに狙われることになる可能性だってある。あんな体験、二度と御免だ!
忍が無害認定されているのは、吸血鬼としての力を喪失しているからなのだという事は、しっかりと留意しなくては。
しかし、意外と言ってはアレだが、忍なりにいろいろ考えて動いてくれているんだな。
『本音を言えば、儂が姿を現すことで、あの小娘に目をつけられるのが面倒なだけなんじゃがな』
「…………お前な」
どこまで本気かは知らないが――いや、どこまでも本気なのか。
忍は僕以外の人間に対しては、素っ気無いというか、基本的に誰とも関わりを持とうとしないからな。それはあの学習塾跡地の廃墟で一緒に過ごしていた忍野だって例外ではない。
『さて、我があるじ様よ。ここで話を戻させて貰うが――お前様の懸念は、杞憂じゃと改めて宣言しておく』
「それって、『暗闇の魔女』のことか?」
そういや、中途半端な所で話が止まっていたな。
『左様。お前様はあの程度の相手に随分と危機感を抱いておるようじゃが、間違ってもあんな小物に負けるようなことはなかろう』
「……ほんと、えらく強気だな。どこからその自信が湧いてくるんだよ…………」
『自信もなにも、儂は確信しておるのじゃよ』
忍は高慢な物言いで断言した。
『影の中で色々試してみたのじゃが、フルパワーとまではいかんが、かなり力が底上げされておるようじゃからの。スキルもほぼ十全に使用可能じゃ。これはお前様からの血の供給だけでなく、この影と闇で形成された結界の影響じゃろうな。吸血鬼にとっては、そのどちらも恩恵でしかないからの』
ああ、なるほど。
忍が自信満々だった理由はこれか。
闇夜の覇者。
深き夜を総べる支配者。
闇と共に生き、影を渡り歩く吸血鬼にとって、この空間はマイナスではなく、寧ろプラスに作用しているのだ。
「うん、わかった。そこまで言うのなら是非もないよ。よろしく頼む」
『ふん。別によろしくされなくともよいわ。儂はただ腹を満たしたいだけなのじゃからな』
~071~
念の為の処置ではあるが――僕達は先ほどと同様に、魔女からの反撃に備えいつでも逃げ回れるように身構えていた。勿論、杏子は僕が責任を持ってお姫様抱っこしている状態である。
そして僕達の前方に、影から出てきた忍が既にスタンバイ済み――ただ現在の忍の姿は、『阿良々木暦』の姿を模したものだ。吸血鬼の変身能力を使って、僕と同じような外形になっている。
細部の造形に関しては、かなり粗があるとのことだが、この影絵空間では見分ける術などない。
巴さんへの説明は、“遠隔で操作できる影で創りだした分身のようなもの”と、曖昧に暈しておいた。
影が出来ないとされる吸血鬼が、自分自身の影を操るというのは、破綻した適当極まりない設定なのだけど、口からの出任せなので致し方ない。
吸血鬼もどきということで、そこは都合よく解釈してくれることを願う。
まぁ、巴さんはそんな細かい設定など気にした様子もなく、
「これが吸血鬼の力…………ロッソ・ファンタズマに対応して考えるなら、ネーロ…………ネーロ・ファンタズマがいいかしら? でも……もっと吸血鬼らしさを前面に押し出した名前を考えたいわね」
口元に手を宛がい、真剣に必殺技名を考案していた。
「あの……巴さん。そろそろ、いくよ?」
「え? あ、はい。いつでも大丈夫です」
考えに没頭する巴さんに行動開始の確認を取り――それが同時に忍への合図となる。
忍の話では、軽く遊んでやるとのことだが――さて、どんな戦いを披露してくれるのだろう。
巴さん程ではないにせよ、僕も興味津々だ。
かくして――忍と魔女との戦闘が始まった。
まず忍はその場で跳躍を決め、数十メートル程の高さで制止した。
というか、蝙蝠のような羽根を生やして飛んでいた。
いや…………いやいやいやいや。
吸血鬼としてのスキルがほぼ全部使えるとか言っていたしな。春休みの頃にも使用していたから、うん、だから別におかしいところは全くないのだけど、僕の姿で羽根を生やしてんじゃねーよ!
吸血鬼もどきの分身(設定)とはいえ、それ色々拙いだろッ!?
今後の僕の立場を考えろ!
が、幾ら心の中で文句を言っても忍には伝わらない。
「すごいすごいすごい!! 阿良々木さん、こんなこともできるんですね!!」
巴さんのテンションが一気に跳ね上がり、サーカスの空中曲芸を、初めて見た子供のようにはしゃいでいる。
今更ながらに気が付いたのだが、忍の行動がそのままイコール、僕の行動になることを想定していなかった!
『さて、我があるじ様よ。儂直々に、魔女狩りの手本を見せてやるからしっかりと見とれ』
人の気も知らずに、忍が語りかけてくる。
例え距離的に離れたとしても、忍とのペアリングは維持された状態なので、この一方的なテレパシーも継続されていた。
『一瞬でけりをつけるのもつまらんし、物は試し――闇との同化がどの程度のものか、見定めさせてもらうとしようかの』
忍はそんな余裕綽々の上から目線の発言を残し(どうやら実況付きで手解きしてくれる心算らしい)、大きく羽根を羽ばたかせ、魔女に向かって一気に加速――螺旋状に旋廻しながら突っ込んだ!
感じとしては、なんかベガの得意技であるサイコクラッシャーを彷彿とさせる。正直、かっこいい。
しかし、忍の攻撃は魔女の身体をすり抜け、そのまま通過してしまっていた。
やはり魔女にダメージを負わせた形跡はない。
『まぁこんなものか』
ただ先の発言を鑑みるに、魔女の力を試しただけなのか、忍に焦りの色はなく――悠然と魔女の傍を飛びまわっていた。
『ほう。気に障ったか?』
魔女にしてみれば目障りな羽虫がうろちょろしているようなものだ。
妄想中に邪魔が入った怒りの為か、魔女は小刻みに蠕動を開始する。
この兆候には覚えがある。魔女が反撃する直前にみせた動きだ。
だが忍はそれを見ても逃げる様子はなく――次の瞬間には魔女から伸びた幾本もの棘が忍に迫る!
が、突き刺さろうかというその寸前に、忍は自らの身体を無数の蝙蝠へと変化させ、攻撃を難なく回避してみせた!
くそ…………漫画などでも散見する、吸血鬼のごくありきたりな回避術だけど、また不覚にもかっこいいなんて思ってしまう僕がいる!
巴さんなんか黄色い歓声を上げて大喜びしていた。
『かかっ!』
忍が笑う。
『そんな攻撃で儂を仕留めることなぞできはせんぞ?』
ただそれは嘲笑の類であり――魔女の周囲に大量の蝙蝠を飛び交わせて挑発を繰り返している。
魔女にしてみれば、鬱陶しいことこの上ないだろう。忍の性格の悪さが窺えた。
魔女が棘を伸ばし、蝙蝠を串刺しにせんとするも、忍はその全てを凌ぎきり――棘が収まったのを確認してから、蝙蝠を集結させ元の人型(僕の姿を模したもの)に戻る。
『はぁ、所詮この程度か』
嘆息し、落胆を露わに。
『大して面白みもない。さて、底が見えた相手と戯れるのも時間の無駄じゃし、そろそろ終わりにしようかの』
不遜な物言いで悪態を吐き――忍は右手を振り上げながら再度魔女との距離を詰める。それと同時に、掲げたその指先から爪が鋭く伸びていく。
女の子がお洒落目的で装着する付け爪とは訳が違う、鋭利で長い猛禽類の有するような鉤爪が一瞬にして形成され――魔女目掛け、視認することも叶わない勢いで爪を振り下ろした。
闇と同化し攻撃を全て無効化する『暗闇の魔女』。
その実体無き虚空の身体を、忍は当然のように切り裂いてみせた。爪を突き立て――勢いそのまま魔女の身体の一部を抉り取ってみせたのだ!
血飛沫を巻き上げながら、魔女がのた打ち回っている。
光がなければ実体として捉えることができない。そんな理屈などお構いなしだ。滅茶苦茶過ぎる。
けど、これこそが怪異殺しの怪異の王。
理屈を捻じ曲げる、絶対的強者としての力。
だが身体の一部が無くなった程度では、魔女が絶命することはない。
まだしぶとくも生き長らえていた。
いや、というよりも――
『喰う前に消滅されては意味がないからの。まだ死んでくれるなよ』
どうやら、敢えて殺しきらなかったようだ。
返り血を拭う仕草の最中、自然な流れで魔女の肉片(抉り取った身体の一部)を口に運ぶ。
一応、巴さんの視線に配慮してくれたのだろう。
『ほう。見た目に反してこれはなかなか』
それなりの味だったのか満足そうだ。
『ん? いやしかし、これは……』
ただ、なにやら気になる点でもあったのか妙な反応を示す。
と、その時!
魔女の異常を察知したのか、魔女自ら命令を下したのかはわからないが――今までただ周囲で踊っているだけだった使い魔の一団が動きをみせた。
無論、魔女に仇名す敵を排除する為――忍を取り囲んだ多種多様の姿をした使い魔達が、一斉に強襲を掛ける!
だが相手が悪い。悪過ぎる。格が違うのだ!
雑兵が幾ら寄り集まろうとも、物の数ではなかった。
忍はどこからともなく刀を取り出すと(多分物質想像能力で製作したのだろう。『心渡』ではなく標準サイズの日本刀だ)、迫り来る使い魔を片っ端から滅多切りにしてしいく。
異形の翼を羽撃ち、中空で舞い踊る吸血鬼。
早すぎてもう太刀筋は目で追いきれない――それでも縦横無尽に刀を振るうその様は、シルエットながらに流麗でお世辞抜きに美しく、僕がしていた剣術の真似事とは全くの別物だと思い知らされる。
もしこれが演舞の類であれば、幾多の人を魅了したに違いない。
巴さんはもう喜びを通り越して感涙寸前である。
使い魔をものの数秒足らずで一掃し終えた忍は――最後に取り残され孤立した魔女の元へ刹那の間に移動する。
魔女は苦しみ紛れの抵抗として、全身から棘を伸ばすも――
『闇との同化とは、こうするのじゃよ』
――闇と化した忍の身体に干渉することは叶わない。
そして――
忍の振るった刀の一閃により『暗闇の魔女』は一刀両断され――圧倒的な力の差を見せつけ、戦いは終局を迎えたのだった。