あれから、千は三日もオナニーしていなかった。
初日は倦怠感と虚脱感から学校へ行く気が起きずにサボタージュ、飯を食べる気も起きず飲まず食わずで一日を終えた。人に会う気力もなく、心配して家に来た百代を帰るよう促したが、強引に入ってこようとしたため力づくで追い払った。
二日目は登校こそしたが終始憮然としており、シリアスブレイカーとして定評がある井上準と榊原小雪の漫才コンビが話しかけても、心ここにあらずな反応しか返さなかった。小雪は「全然ウケないよー! 準のバカ、解散してやるー!」と泣き喚いた。一人だけ事情を知るあずみは気まずそうな顔をしていた。葵冬馬も空気を読んで口説かなかったが、空気を読まずにちょっかいを出した心はデコピンで返り討ちにあった。
三日目になると、放っておけば治るだろうと楽観視していた風間ファミリーも心配し始めたが、傷心を引きずった千の心はまだ修復できていなかった。神童の誉れ高き千にとって、人生で挫折と呼べる経験は武道に於いて百代に絶対に届かない事を悟ったただ一度のみであり、此度の失恋はそれに並ぶ自信の喪失だった。
千は並ぶ者のない輝かしい才能と美貌をもって生まれたが、精神は生まれの身の丈にあった程度の凡庸で世俗的な、自身の才というピカピカの豪奢なドレスを着飾っては見せびらかして誇ることで根付いた、成金で貧乏性な一面が根底にあった。恵まれた家庭と注がれた身内のありったけの愛で育まれた純真な精神は、千の才能を食い物にしようとする連中によって途中で折られてしまったけれど、その後川神院で培われた才能を土台にした歪な心が、千を支えていたのである。
だが、拾われた先に百代という武における絶対的な頂点が常に目の上のたん瘤としてあったことは、どのような分野でも天狗になれる素質をもった千に、努力ではどうにもならない壁と捻くれた価値観と奇妙なコンプレックスを意識させた。
歳も近く、仲も良く、共に圧巻の才能に恵まれた二人だが、彼らの強さについて行ける者は誰もいなかった。二人の違い――百代にとっての幸運と千の不幸は、いつも後ろを振り返れば百代のすぐ後ろには千がいたけれども、千の後ろには遥か遠くに雑多な影がたくさん並んでいるだけだったことだ。
努力すれば遥か高みの存在になれる。だけど頂点には決してなれない。
孤独ではない。だけど理解者はいない。人に自慢できる、でも誇ることはできない。
いつも上には百代がいて、見上げるのに疲れたとき、ふと下を見るとどう頑張っても届かない人の群れが二人に近づこうと必死に手を伸ばしていた。
この環境が、千に才能を笠に着て他者を見下す悪癖と、絶対的な存在への劣等感、それによって生じる卑屈な感情を養うことになった。
もし、鉄心やルーがそれに気づいて息抜きに武道以外の物事を教え、見聞を広めていれば、千は他の分野で自信を身に着け、武道でのコンプレックスを意識することなく成長できただろう。
しかし、鉄心とルーもまた武道一辺倒に生きた人間であったこと、千に他の道を歩ませるのは武道に携わる者としてあまりに口惜しいほど才に恵まれていたこと、百代の孤独を癒やせる唯一の同年代であったことが、千を縛り続けた。
この経緯が、百代にとって武道は誇りであったが、千にとってはそうでもなく、百代にとっての千は唯一だが、千にとっての百代は相対的に大切なもののひとつという相違を生む原因となった。
千は何でもできるが、自ら進んで行動することは稀だった。
小学生の活力に満ち溢れていた時代に、好奇心から初めて作った料理が、母の手料理よりも美味しかったことが子供心にひどくショックだった。本人は覚えていないけれども、これが進んで動こうとしない遠因になった。
千はその聡明さ故に、常に思考していると思われていたが、実際は何も考えていなかった。
後手に回っても能力の高さで全て対処できたから、事前に細やかな策を練る必要がなかった。
千はこれまでに積極的に、主体性を持って動いたことが何度かあったが、全て失敗に終わっていた。
百代にオナニーがバレて引っ越そうとしたとき、百代の求めに応じようとしたとき、そして今回の告白……
千は受け身なら冷静に物事を捉えて対処できるが、自分から動くときは後先考えずに我欲に流されるため、悉く失敗した。単純に女が絡むと弱いのかもしれなかった。
ともあれ、世俗的でいながら傑出した、超常現象が人の形を象っているような百代、鉄心らと同一視される千が、唯一と言って良いほど執着したのが性欲と(本人は否定するが)恋愛感情なのである。
長年続けた武道で挫折しても、自信は失ったが落ち込んだりはしなかった。今回は男としての自信を失ったばかりか、胸に穴が空いたかのような喪失感と、もう先が見えない、未来が失われたと錯覚する不安まで湧き上がって心を苛んだ。
というか気が付いたら泣いていた自分の情けなさにますます涙が出てきて、千は闇堕ちする寸前だった。たかが失恋程度でダークサイドに堕ちかけるメンタルは、要は自分を否定されることを厭う甘ったれた性分に由来しており、一方で幼少期に見た持たざる人の乞食ぶりに端を発する人間不信が、褒められるなどして肯定されても全く嬉しくない捻くれた性格に育った原因である。
その捻くれた性格は、三日三晩落ち込んだ末にこんな結論を出した。
「恋愛してる奴らはキモい」
正直色ボケした姉さんはキモいし、京も慣れたけどキモいし、ガクトは言わずもがなキモいし、おれにアピールしてくる女子もキモいし、年がら年中発情しているおれもキモい。
恋愛なんぞに現を抜かしているから、いい年してメールで『おはよー!チュッ(笑)』なんて送っちゃうおめでたい頭になってしまうのだ。
おれはああなりたくはない。やはり男女関係は互いの性欲解消だけを念頭に置いた付き合いにすべきなのだ。恋なんてするから人は傷つくし、熱に浮かされてバカみたいな行為をして社会的な地位を失う。
おれは二度としないぞ。いや、別に恋とかしたことないけど戒めとして改めて誓う。
もう絶対に恋なんてしない――! 絶対にしてやらないからな!!
*
……などと千が決意を固めているころ、秘密基地では学校帰りの百代と京が二人きりで時間を潰していた。
京が文庫本をパラパラとめくっていると、百代が悩ましげにため息をついて言う。
「京、千にはエロい姉ちゃんみたいな小悪魔めいたところがあると思わないか?」
「そうだね(どこが?)」
京は京に罵られて興奮する情けない千を思い浮かべて、気のない返事をした。恋する乙女は盲目なのだろう。ずいぶん長いこと片思いしている同士として百代に相槌を打つ。
百代は同意されて気を良くし、饒舌に語りだした。
「京もわかるか? あいつは悪い男だぞー。キスは好きにさせてくれるのに、その先は絶対に許してくれないんだよ。つれないよなぁ」
「モモ先輩と千、もうキスしてるの?」
「あれ、言ってなかったか?」
京は少し目を見開いて尋ねた。聞いてない。千のヤツ、黙ってたな。
百代は色ボケした表情で京の返事を待たずに続けた。
「今年の初めくらいに、千に冗談でキスして、とお願いしたら本当にしてくれてなー。それ以来、二人きりになったらいつもしてるぞー」
武神の威厳も凛然とした美人の名残もないとろけきったデレデレの顔で宣う百代に、京は白けた目を向けたが百代は上の空だった。
京の非難はこの場にいない千にも向いていた。あのガワと性能だけは人類最高峰のポンコツは、京に気持ち悪さだけをアピールしている間に姉のように育った女性としっぽりしていたのである。許せない。今度会ったらあの集めに集めたAVを目の前で割ってやろう。
京の気持ちをどこ吹く風の百代は不満そうに口を尖らせた。
「でもなー、キスはOKなのにそれ以上はダメだって言うんだよ。ひどいよなー、生殺しもいいとこじゃないかー」
「あの性欲が人の皮かぶって歩いてるような男がモモ先輩相手によく我慢できるね」
「あ……いや、うん……どうだろう」
「?」
言い澱んで視線を泳がせる百代に首をかしげる。百代は頬を赤らめて言った。
「実は私のことを大切に思ってるから手を出さないんじゃないかと、最近は思ってるんだ」
「んー……」
そんなわけない、と断言しようとして京は難しい表情で黙考した。去年の夏休み、猿のような男子中学生がオナ禁させられた挙句、薄着の女子中学生と間近で暮らしていても手を出さなかったあたり、三人娘は千の中で他の女性とは一線を画しているのかもしれない。
実際、故郷の信子ちゃんにはすぐ手を出そうとしたのだし。特別でないのなら、それはそれで怒るのだけれども。
頭を悩ます京に百代が上擦った声で言う。
「このあいだ、ちょっと邪険にされてショックだったから、泊まったときに思い切って夜這いしてみたんだ」
「さっすがモモ先輩、肉食系」
「そしたら、千は寝顔にキスしようとした私の唇を指で止めて、優しい声で『ダメ』って言って……」
「ん?」
「不貞腐れて布団に戻った私のおでこにキスして、頭を撫でながら『おやすみ、姉さん。好きだよ』って耳元で囁いてくれたんだ」
「……」
果たしてそれは、京の知る三河千と同一人物なのだろうか。千に相手されない百代が寂しくて生んだ妄想ではないのか。京の知る千の人物像と乖離し過ぎていて、京は眩暈がした。
しかし、百代は百代で、年下の弟に手玉に取られて、掌の上でコロコロと転がされているのに、これでいいのか。お前武神だろ、と一言いってやりたくなったが、当の百代がポワポワと緩みきった顔で頬を弛緩させているので京は何も言えなくなった。
「悪い男だよなー、まったく。魔性の男だよ。私が美少女を千の魔の手から守ってやらないと何人泣かすか分かったもんじゃない」
「やぶさかではないって顔してるよ、モモ先輩」
そもそも千に女が近づけないようにして女を泣かせていた側だった気がするのだが、百代も千と同様でそこらへんは棚上げする人種だった。
「今も千をマーキングして近づく女の子を威嚇して追い払ってるんだっけ?」
「言い方が気にかかるが……昔ほどじゃないぞ。まぁ、弓子とかが紹介してくれってせがんできたりするのをあしらったりはするが、他の子も千を純粋に好きなんだ、私と同じくな。それを妨害したり、付き合ってもないのに独占欲丸出しなのも、狭量な女に思われるだろ?
想いを伝えるくらい許すさ」
「ふーん」
百代に以前とちがって余裕ができていたが、それが年齢を重ねて成長したのか、恋愛で誰よりも先を行っている自信から来るのか京には分からなかった。
「ま、その千はいま絶賛引きこもり中ですが」
「どうしたもんだか……大和とキャップでもダメだったらしいな」
百代が頭を抱えた。千はこの数日、登校のほかは部屋に引きこもってうずくまる生活を続けていた。百代が気で確認したからまちがいない。何があったのか誰も知らない、千も話さない、聞き出そうとするとはぐらかす、連れ出そうとすると暴れると手がつけられなかった。
放っておけば勝手に立ち直るとは思うものの、放っておいたらおいたで、明後日の方向に思考が飛んで、立ち直ったと思ったら性根が猫背になっていたなんてことがありうる。『REVOLUTION』とか言い出しかねない。
あの男は予測できる範囲内で、かつどうしてそうなるのと途轍もなく疑問に思う突飛な方向に思考が転ぶため、京は不安でならなかった。百代は不安のベクトルが違ったが。
「天照の岩戸隠れにあやかってみんなでパーティーでも開いて騒いでいる様子を逐一メールで実況してみるか?」
「やめといた方が……絶対あとで根に持つし」
「そうか? あっさり流しそうだが」
どうも百代と京で認識に齟齬が見られる。百代にとって千は心を許した人に対してのみ女たらしの素養を見せる優男だったが、京にとっての千は女々しくて気持ち悪い男だった。
恋のフィルターで曇った眼鏡では千はそう見えるのか。いや、そもそも本性をあらわにしてなかったっけ。京がむず痒く思う中、腕組みして考え事をしていた百代が、名案を思い付いたとばかりに口を開いた。
「もういっそのことワン子を送り込むか。あいつ何だかんだワン子に甘いから、強くお願いされたら出てくるだろ」
「んー」
「そうだ! ついでにワン子に千の好みのタイプでも探ってもらおうかな。あいつそういうの恥ずかしがって口割らないけど、無邪気なワン子になら本音で語ると思う」
十年間一緒にいる百代にさえ打ち明けないのに、なぜ似たような立場で付き合いの短いワン子になら話すと思ったのだろう。京と大和が千の性癖を知れたのは、読書家、表の顔はクール系、中身はエロエロ等、共通点が多く、友情の度合いが大きかったからだ。
千は百代を性癖が合わないからダメだと言っていたが、あれは方便で事実は家族として見ているから、素の自分を公にできないのだと京は分析していた。親兄弟には言えないが友人には話せる。よくある話だ。
ともあれ、百代の思い付きは見当違いなので正さなければ。
「モモ先輩、そんなことしてたら盗られるよ」
「誰に?」
「ワン子に」
「……いやいや、あのワン子だぞ? 性に興味がない純粋なワン子に限って、そんなわけ」
「あの犬を放ったら男を仕留めるまで帰って来ないよ」
「ひどい言い草だな」
同い年で仲の良いほぼ唯一の友達だろうに、そこまで言うかと百代が引き気味に咎めようとしたが、それより強い口調で京が言った。
「分かってないのはモモ先輩だよ。恋で他力本願は絶対にやっちゃいけない。それで男をシーフされても文句は言えないよ」
「一理ある……ような気がしないでもないが、ワン子と千が恋仲になる過程が想像もつかないんだが」
「それ本気で言ってるの?」
京にじっと見つめられて百代は、ウッとたじろいだ。
「仮に今の落ち込んでる千にワン子を送り出したとするでしょ? 元気いっぱいに慰めるでしょ? ワン子の天真爛漫な優しさに千が心を開くでしょ? デレるでしょ? この後めちゃくちゃ」
「言わなくていいから。んー、ありそうな気も、なさそうな気も」
「ワン子に偵察を頼むのなんて愚策も愚策だよ。普通の男なら、『この子俺に気があるのかな?』って勘違いするし、千が相手だと――」
『ねえねえ! 千ってどんな女の子が好きなの?』
『ワン子みたいな女の子かな』
『……え!? あ、アタシ……?』
「――絶対こうなるから、これがきっかけでワン子が千を意識しちゃってモモ先輩を裏切るまであるよ」
「……」
「そして、『お姉様には千よりふさわしい男の人がいると思う』とか言い出して、男が絡むと女の友情なんて儚いものなんだなって、妹に実感させられることに」
「……」
「挙句の果てに男の良さを知ってしまったワン子に、『愛し合うって素敵ー♪』とか鼻歌口ずさまれて、『お姉様はこんなに綺麗なのに、千は見る目がないわよねえ』と上から目線で惚気られるんだ」
「やめろよー! 本当にありそうに思えてきたじゃないかー!」
京に妙にリアル感のある彼氏持ち女の勝ち誇った顔と自慢話を想像させられて、千がワン子でオナニーしていたことを思い出した百代は、自分の取ろうとした手段が悪手であると感じ始めた。
京の話し方には、健康的で無自覚な色気しか持たない少女が、悪い男に染められて、きらめく瞳よりも艶やかな唇に自信を持ち、愛情を寄せられたことを誇らしく思い、自分の男と他の女のそれを比較しながら胸を張るようになる過程を面白おかしく語っていたが、それでも心をざわつかせるものがあって、百代の危機感と独占欲を刺激した。
かといって、百代には千をどうにかする術はなかった。つい先日も千を慰めようとして叩き出されていたからである。
「ワン子はダメ、私もダメ、男共もダメときたらもう打つ手なしだぞ」
「放っておいて時間に解決してもらうのも手だよ。学校にはきてるんだし、明日の金曜集会には治ってるでしょ」
京は楽観的な物言いをした。百代は、千が落ち込んでいる姿などこれまで一度も見た覚えがなかったから納得しなかったが、口にだすことはしなかった。
口では呑気な見方をしていた京も、千の曲がった性根がさらにねじれることを危惧して、帰りに様子を見に行くことを考えていたが、こちらも口にだすことはしなかった。
京は否定していたが、こうして離れていても千のことが頭に浮かぶあたりに、百代の言う魔性めいた魅力があったのかもしれない。京は決して認めることはなかったが。
*
一人暮らしには広すぎて、学生の身分には過保護すぎる千の住む賃貸マンションに京は足を運んだ。途中で住人とすれ違ったが、同棲していると思われる男女だった。作りから考えても一人暮らしの住人の割合の方が少なく、学生に至っては千だけではないだろうか。
川神学園と川神院のちょうど中間あたりに位置し、風間ファミリーが帰りにふらっと寄ってみたり、百代とワン子が、特訓が終わってから休憩を兼ねて遊びに行くのに絶妙な立地だったが、気安く入るにはセキュリティが少々手間だった。
百代やワン子には質素な生活を心がけるよう言い聞かせている鉄心が、いざ千が手元から離れた途端に与えたプライベートスペースが、学生の身分には贅沢過ぎる2LDKのマンション。親元を離れた千の実姉が、東京で絢爛な大学ライフを送っているのと同額の仕送りと、百代に束縛されていた千が伸び伸びと生活できるようにという鉄心の気遣いとの兼ね合いの結果が、無駄な小物を買い漁り、AV収集という年齢的にアウトな趣味に目覚めさせるきっかけになった空間である。
一般的には過保護に過ぎ、Sクラスのボンボンからすればたいしたことはなく、京からすれば余計なものを与えたとぼやきたくなる千の秘密基地は、来るたびに新しいものが増えていた。
それはまとめ買いした本の山だったり、必要ないインテリアだったり、白い目を向けたくなるAVだったりしたが、川神院の本棚以外は何もなかった千の部屋を思い起こすと、かなり抑圧ないし自制していたことが薄々感じ取れて、本来は衝動的な欲求が多い性分なのが窺い知れた。
性癖を告白されたときから分かってはいたが、千は浮世離れした完璧超人でもなんでもなくて、実際はひどく俗っぽい男子学生の一人だった。
「……なに?」
部屋に入ると、陰鬱な顔をした千が出迎えた。制服の上着だけを脱ぎ、Tシャツにスラックス姿の千は対応するのも億劫だという態度を隠しもせずに京を半開きの目で見た。
「元気なかったから、どうしたのかなーって様子を見に」
「……おれそんなに構ってオーラ出してた?」
「や、別に。構ってほしいなら構うけど」
「要らないから帰って」
「やだ、私を構ってもてなしなさい」
「えー……」
拒み気味の千を押し切ってリビングに入った。八畳の空間にはクッションが不必要なほど置かれた革張りのソファに同色のローテーブルがあって、飲みかけの冷めたコーヒーが寂しそうにテーブル上に鎮座していた。
締め切ったカーテンの隙間から夕陽の明かりが滲んでフローリングを照らしているほかは明かりが点いていなかった。京が入ってから遅れて点灯したが、千は今まで薄暗い室内で何をしていたのだろう。
まさか本当に膝を抱えて落ち込んでいたのだろうか。コーヒー豆と紙の匂いが満ちたリビングの床には、無造作に文庫本が散らばっていた。掃除が行き届いている反面、こういうところで千は粗雑だった。
「几帳面なのかズボラなのかはっきりしなよ」
「仕舞うのがめんどくさい」
答えるのすら面倒そうに言うと、千はのそのそと冷蔵庫から缶コーヒーを取り出すと京にひょいと投げた。
「自分は淹れたコーヒーを飲んでるのに、客には缶を飲ませるの?」
「ぶぶ漬けいかがどすか?」
遠回しに帰れと言われ、京はムッとしながら、どっかとソファに腰を下ろした。かつてないほど陰湿さを全快にした千は、嫌そうでいながらどこか虚無的な感情が見え隠れする表情で、人二人分離れた位置に腰かけた。
「実はそこ、ぼくのオナニーの定位置なんですよー」
「ふーん、で?」
千が子供っぽい嫌がらせをしてくるので京も同レベルで煽り返した。千が頬をひくつかせたのを見て、京はクッションを顔面に投げつけた。やわらかい音をたてて跳ね返ったクッションは、千と京のあいだに落ちた。
千は片手で目を覆った。
「いや、マジで帰って。しばらくしたら立ち直るから。それまでに人と話すと当たり散らしそうなんだよ」
「いったい何があったの? まるで失恋したみたいな落ち込み方だけど」
「失恋というか……やりたくて仕方ないから告白したら振られたというか」
「え、本当に失恋してたの?」
「失恋じゃない!」
京の目が点になった。京にとっての千は、ワン子やキャップと同じ、恋愛からは程遠い住む世界のちがう人種としてカテゴライズされていて、仮に恋愛感情を抱いていたとしてもそれをおくびにも出さず、意地を張りながら生きていくものだと思っていた。
実像は意外と普通なのだと勘付いてはいても。驚きはそこだけではなかった。いつ、誰を好きになったのだろう。まったく気づかなかった。
呆気にとられているあいだ、千は恋じゃないと長々と理屈っぽく筋の通らない言い訳をしていたが、右から左へ流れていった。一通り癇癪が治まってから京はたずねた。
「千の告白を断る人なんているんだ。どんな人?」
「……誰でもよくない?」
「小島先生とか? ムチ使いだし」
「あの人は鞭術の達人ってだけでSMに造詣深いわけじゃないし、あの手の真面目で厳しいタイプは恋人には甘えたがるものと相場が決まってる。あと絶対M。おまけに男性経験少なくて悪い男に騙されるタイプだから何かちがう」
「誰もそんなこと聞いてないんだけど」
京にジト目で睨まれると千は罰が悪そうな顔をした。京は弾みで思ったことを口にした。
「ていうか、振られたショックで数日間凹むって、女の子みたい。すごい乙女メンタル」
「うぐっ」
「普通の恋なんてしたくないって言ってたのに、本当は心のどこかで憧れてたりしてたの? やーん、千ちゃんオットメー」
「いやあああああああああ」
いつもの調子で弄ってみると、千は顔を覆って取り乱した。捻くれ者の千をからかうのは鬼の首を取ったようで面白かったが、千はしばらくするとムスッとして露骨に目を合わさなくなった。
肝心なところは意地でも話すつもりがないのだと悟った京は、尻をずらして一人分距離を詰めた。
「ねえ、誰?」
「……」
上目遣いに顔を覗き込んでみたが、千は京から距離を取るために肘掛けにもたれかかり、頬杖をついてそっぽを向いた。京は意地でも聞き出したくなった。
が、経験則からこうなった千の心を氷解させるには時間がかかると知っていたので、短くため息をついて話を変えた。
「誰だか知らないけど、千に好きって言われたコは嬉しかったと思うよ」
「……そうかな」
「うん。だってモモ先輩とか他の学校中の女生徒より魅力的ってことだもん」
百代の名前が出た途端、千の眼が憂いを帯びた。長い睫毛が揺れる。お世辞ではなく、京は、その女性は舞い上がったと思う。
同時に、心が傾いたはずだとも。学年一の美人である百代や矢場弓子、小笠原千花ら容姿が優れている女性を自由に選べる立場の千が、その誰よりも好きだと言い寄ったのだ。
これで心が揺れなければ女として枯れている。大方、彼氏持ちの女に衝動的に告白してしまったのだろうが、どのような女性なのか知りたかった。
幼少時から、京は千のことをしきりに知りたがった。
千が誰よりも早く京に性癖を打ち明けたのは、京が誰よりも早くたずねたからだ。
「ねえ、誰なの?」
さらに距離を詰めて京は訊いた。千は動かなかった。
「ねえねえ」
急かすように肘で千の二の腕をつつく。我ながらデリカシーに欠けると思うが、千との関係は気の置けない、お互いにブラックなジョークも言い合える恥も思慮もない間柄だったから、いつも通りそうした。
それでも千は無視したから、つねっても痛くない肘の皮を指で引っ張ってみたが、やはり千は口を開こうとしなかった。
「むー!」
京はいじけて、マゾの千が悦ぶ行為をして体に聞いてやろうとしたが、やがて千は深くため息をついて低い声で言った。
「悪いけど、今日は帰って。明日には元に戻ってるから」
「やだ」
きっぱりと京が即答すると、千の表情がこわばった。今まで千は、何をしても許してもらえたからだ。
千は頬杖をついていた手を下ろすと、初めて京を見て言った。
「帰らないと襲うから」
「冗談でしょ?」
本当に襲う気ならわざわざ口にしない。それに襲う気があるなら去年の夏だって、今年になってからもいつだって襲えたはずなのに何もしなかった男が何を言っているのだろう。脅しにもなってない。
罵倒の言葉でもかけてやろうと思ってまばたきをした。目を開けると、京は天井を見上げていた。戸惑いの声を上げる隙も疑問に思う時間も与える前に、京に覆いかぶさった千は左手で京の右手を押さえつけると、京の顔のすぐ横に右手を叩きつけた。
苛立ちを音にしたかのような衝撃がソファを揺らして、京は身をすくめた。
恐る恐る見上げた先に見覚えのない冷たい顔をした千がいて、ようやく京は押し倒されたのだと気づいた。
「あのさ、一人暮らしの男の家に一人できて、そんなに無防備な姿見せといて何もされないと本気で思ってんの? おれ、京で興奮するって言わなかったっけ?」
京はとっさに言い返そうとしたが、手首を掴む千との膂力の差と押し倒された事実、その圧力から声が出せなかった。何よりこういう千を初めて見たから、どうしたらよいのか京には分からなかった。
千は感情の読めない眼差しで見下ろしながら言った。
「だいたい、好きでもない男にすることじゃないよね。おれなら大丈夫だと思ってたの? そんなわけだろ。むしろ他の男とちがって京が力で敵わない分、危ないに決まってんじゃん」
今みたいにさ、と後ろめたさを隠すように小さく呟いて千は身を起こした。
離れる際、京の体が小さく震えているのが見えて、千は背を向けて寝室に歩き出した。
「これに懲りたら余計な詮索しないように。じゃ、また明日」
にべもなく千が言い放つ。京は長いこと黙っていたが、やがてのそのそと起き上がると、動き出した。
やっと帰るかと千が肩を下ろすと、――京は助走をつけて千に目掛けて飛び蹴りをかました。
「おぶえ!?」
背中に直撃をくらい、床に全身を叩きつけられた千は、やりすぎたとは思ったけどそこまでするか、と文句のひとつでも言おうと顔を上げたが、その顔を踏みつけられた。
「おぶふ!?」
床に濃厚なキスをし、後頭部に京の足裏でぐりぐりと体重をかけられた千はジタバタもがいたが、本気で抵抗しなかったため、京は無言で力を強めた。
京が怒りから鼻息を荒くして思い切り踏みつけ、千が呻く時間がしばらく続き、それでも怒りが収まらない京はとどめに尻を蹴飛ばした。
「死ね!」
捨てセリフを吐き、床を鳴らして京が家を出ていく。扉が閉まる音を確認してから、千はごろりと寝返りを打ち、天井を見上げた。
そのまま暫しの間ぼーっとして、思い出したように顔を覆うと、
「やってもうた……うわあああああああああ!」
もんどりうって部屋中を転げまわった。後悔しても後の祭りであった。
翌日、京は何も言い触らしていないのに、千が失恋したという噂が学園全体に広まっていて、ガクトを筆頭に男子生徒が千に優しくなった。
千は頬を引き攣らせた。