川神院の前に着くとおどろおどろしい陰鬱とした気が辺りを覆っているのが窺えた。
まちがいなく姉さんのものである。川神院は実力者が集結しているために遠くからだと個々の気が判別しづらいが、近くに来れば流石にわかる。
触れているこっちの気が滅入る。武神と呼ばれているくせにメンタルが貧弱にもほどがあるだろう。入りたくねえ。
気後れして門の前で立ち往生しているとジジイがヒョイと現れた。
「おお、待っておったぞい。千に振られて……いや、彼女ができたと聞いてからご覧の有様じゃ。皆、この気にやられてげんなりしとるわい。修行にならなくて困ってたんじゃ」
「可愛い孫娘が振られて傷心してるってのにドライだな、ジジイ」
突き放すように邪険に返したが、責められるどころか同情された気配がした。
「まあ、モモの片思いなのは傍から見て明白だったからの。思うところがないわけでもないが、恋愛は個人の自由じゃ。好きになさい。そして大いに悩みなさい。何となくじゃが、お主ら二人は、色事で苦悩すればするほど人間として伸びる気がするからのう」
「PTOのみなさーん。ここに不純異性交遊を推奨する教育者がいまーす。今すぐクビしましょう」
「どうせ禁止にしても隠れてやるだけじゃし、風紀を乱さないなら見逃すのが大人じゃろ。禁止にしたら暴れるのがPTOから生徒になるだけだしのう」
ジジイは伸びすぎてL字に垂れ下がる眉をさらに落とした。切り落としたい眉だった。
「とりあえず、早いとこ慰めてやってくれんか。正直しんどいんじゃが」
「いいぞ姉さん、もっとジジイを(精神的に)痛めつけろ」
「……育て方をまちがえたかのう」
やっと気づいたのか……今度おれと姉さんと釈迦堂さんで育成失敗トリオとして売り出そう。
ぼかぁね、小学生の子供を危険人物視するのはないと思うんですよ。天才なんだから凡人といっしょくたにしないで特別に指導しとけばよかったと思うんですよ、ぼかぁね。
肩まで落としたジジイを置いておれは姉さんの部屋に向かった。
●
「姉さん、入るよー?」
ノックをしても返事がなかったので一声かけてから久しぶりに姉さんの部屋に入った。
色気のない部屋に色気ムンムンの姉ちゃんが色気のない恰好でこちらに背を向けて横向きに寝ていた。
「姉さーん? おーい」
呼びかけても反応がない。小さい背中にきゅっとくびれた腰、引き締まって大きく丸い尻にすらりと伸びる、どこにあの恐ろしい筋肉が詰まっているのかわからない瑞々しい足が力なく横たわっている。
おれは姉さんの尻を見ると叩くより敷かれたくなるが、今は背中を蹴りたい気分だったので爪先で背を小突いた。
「おーい。起きろ、愛しの弟が来たぞー」
「……耳に卵子がかかる」
「あたまだいじょうぶ?」
姉さんはぼそぼそと何か言っていた。なに言ってんだこいつ。
「童貞線から声が出ていない」
「あたまだいじょうぶ?」
「こんな思いをするなら男に生まれて美人なチャンネー侍らしたかった」
「気持ちは分かるけどせっかく美少女に生まれたんだから、女としての人生謳歌しなよ」
おれは少年から男になるけど。姉さんはまだぼそぼそ言った。
「知るかばーかばーか。あほー。帰れー。童貞に生まれ変わってから出直して来い」
おれは聞こえるようにため息をついた。何て面倒な姉なんだろう。何て無様な武神なんだろう。何でこの人はおれのことを好きなんだろう。何でおれはこの人を放っておけないんだろう。
おれは現代っ子だが、帰れと言われて本当に帰る教育を受けていなかったので、姉さんの背中に声をかけた。
「いいの? このまま帰っても。本当に?」
「……帰れ。千なんか嫌いだ」
「少し話そうといっても聞かない?」
「きかない。顔も見たくない」
意地を張り続けているから、いっそう優しく語りかけた。
「……姉さん、話す気がないならこのまま帰るよ。そして、今まで通りの関係でいてあげる。話すなら、抱きしめてあげる。どうする?」
返事は訊くまでもなかった。姉さんは獲物を前にした肉食動物を彷彿とさせる動きで飛び掛かってきた。もとい抱きついてきた。
そのしなやかな身体を抱きとめて頭を撫でた。
「千……千、千、千……っ! うううぅぅぅ!」
「よしよし」
しがみつくように胸に顔を埋めて泣きじゃくる姉さんをひたすらあやす。
どうしてこの人はこんなに弱くなってしまったのだろう。間違いなくおれが原因である。だがおれが悪いわけでもない気がする。
お腹に当たる大きな胸や艶やかな髪から香る女の匂いに、刹那的におれが惑わされているが、姉さんはどうしてか常日頃からおれに惑わされているのである。
おれたちの関係はどう見ても尋常ではなかった。義理の姉弟として育ち、実の兄妹よりも親しい仲にありながら、それゆえに誤った関係性にずるずると転がり落ちていった。
姉の女性としてこの上ない美貌に劣情を催しても、おれは家族としての一線や性欲で汚したくない感情が押し留めるのに、男女の感性のちがいなのか、姉さんはその辺のブレーキが一切ないのだ。
幼子を慰めるつもりでおれは頭を撫で続けた。
「そんなに嫌だった?」
あえて何が嫌だったのかは口にしなかった。姉さんはおれの服を握り締めて答えた。
「いやだ……千がほかの女のものになるなんて耐えられない。どこにも行かないでくれ……私の、私だけの千がいい」
「ずっと姉さんの弟だよ。それだけじゃ不満なの?」
「弟……だけじゃ、いやだ。私は、中学生になってから……その前からずっと千が好きだったんだ。ずっと……千を男として見てたんだ」
沈痛な告白に胸がちくりと痛んだのは気のせいではないと思う。考え方のちがいを突き付けられて、男としてのちっぽけな矜持や、今までの短くて長い時間を否定された気がしたおれの声は、少しだけ刺々しくなった。
「男なんて、どこにでもいるだろ。京極先輩とか、身内ならキャップとかさ」
「……ほかの男のことなんて、一度も考えたことない」
顔が胸に隠れて見えなかったが、声色は深刻で、胸の痛みを忘れそうになった。
「私と対等に喧嘩できる男で、千よりもかっこよくて、賢くて――千よりも好きになれる男なんて、どこにもいなかった。千だけなんだ……私には千しかいないんだ」
胃に黒いものが沈んでいく。どうしてこう、対照的に育ったのか。やはりおれたちの育成は失敗だ。ジジイのジジイらしい部分が受け継がれてない。
「そうは言ってもさ、いつかおれが姉さんじゃない別の誰かと結婚したらどうするの? 川神院の跡継ぎとかあるでしょ」
「そのときは……責任がどうとか、認知しろと迫ったりしないから、種付けだけしてくれないか」
「こら」
顎を落として頭を小突く。思春期の男子よりも発想がゲスい。どうしてこう……こう、説明し難いものに育ったのか。
顎を姉さんの頭に乗せて言う。
「ほかに選択肢あるだろ。……おれにこだわるよりも、ちゃんと家庭を持ったほうが、きっと幸せだって」
「……千は、私が別の男に抱かれても平気なのか?」
……それはそれで、まあ、なんというか、複雑で尾を引く気がしないでもないが、進んで想像したいものでもないけれど、少なくとも病んでそうな姉さんがシングルマザーをしているよりも幸せそうだから認めると思う。
ただどう答えても姉さんはさらに拗らせる気がしたから口にしなかった。おれの胸の中で姉さんが喉を詰まらせた気配がした。
「……ほかの男に触れられると思うと、吐き気がする」
抑揚の感じられない声で姉さんが言った。吐いた息が衣服を伝って胸が熱くなる。
「ダメなんだ、千じゃなきゃ、もう。千が私を大切に思ってくれているのは知ってる。だけど、私はよかったんだ。遊びでも、興味本位でも、身体だけの関係でも」
やっとのことでそこまで言い終えて、姉さんは嗚咽をあげて泣き始めた。何も言わずに抱きしめて背中をさすった。
弟としてそれっぽいことを言っても、普遍的な価値観で教え諭そうとしても頑なに跳ね除ける確信があったから、もう何も言わなかった。
弟としてのおれは姉さんの「もの」だ。だが世間一般的な見解でいえば、おれは姉さんではなく血のつながった姉の「もの」だろう。家族としてなら、なおさら。
姉さんは寂しかったのかもしれない。家族として育ったのに、家族ではないし、姉弟と認め合っているのに、姉弟でもない不確かな関係だから。
だから、今までよりも優しくしてあげようと思った。……本当は突き放して自立させてあげるべきだと分かっていたけれど、この人はひとりで立てなさそうだったから。
落ち着かせて寝付いた姉さんを置いて、部屋を出た。縁側を歩いていると所在なさげなワン子が立っていた。ワン子はおれに気づくと駆け寄ってきて、
「千、お姉様は!?」
と切羽詰った顔色で言った。おれは「大丈夫だ」と言った。ちょっとそっけない言い方だったかもしれない。
「今は泣き疲れて寝てる。ま、問題ないよ。起きたらいつもの姉さんに戻ってる」
おれが頑張れば。あとはワン子の癒しパワーにも期待しておこう。
おれの言葉にワン子は大きく胸を撫で下ろして「はあぁー」とため息を吐いた。
「よかった~。千、ありがとう。お姉様が元気になってくれるのね」
我が事のように喜ぶワン子を見ていると、如何に自分が薄汚れているか実感する。何て純粋なんだろう。
おれと姉さんとジジイに囲まれて育ったのに、どうしてこんなに純真な子になれたんだろう。
リーさんの情操教育は正しいのかもと一瞬血迷うが、高校生にもなって性知識がないのはおかしいのでやはり間違っていると思う。
……そういえば、ひとつ聞きたいことがあった。
「ワン子」
「ん? なあに?」
「おれが一人暮らしを始めて寂しいか?」
「え?」
質問されたワン子は短く唸って、
「言われてみると、そんなに寂しくないかも……。あ! べつに千がいなくなって嬉しいとかそういうんじゃないからね!?」
答えてから大慌てで取り繕おうとしてきた。おれは苦笑した。
「毎日会ってるから、寂しいと思う暇もないもんな」
「そうそう。千が家を出るって聞いた時は不安でしょうがなかったけど、あまり変わらないものなのね」
……きっと、人によるのだろう。統計を取れば男女によってちがうのかもしれないし、性格によってもだいぶ異なると思う。
だから一概には言えないけれども、自分のことなのでこれだけは確信をもって言える。
「おれはワン子や姉さんはもちろん、風間ファミリーのみんなと離れることになっても、寂しいなんて思わないけどね」
「え!?」
唖然とするワン子に「じゃーねー」と背中を向けた。人それぞれと言われたらそれまでだし、薄情と言われたらそうなんだろうけれども、おれはそういうものだと思うんだけどね。
慌てふためくワン子を置いて、秘密基地に向かう。先ほど嫌な思いをしたばかりなのに再び秘密基地に戻ったのは、きっと気まぐれだった。
●
京はアジトの屋上で落下防止の柵に腰掛けながら夕日を見つめていた。おれは来たのが聞こえるように扉を開けて、近づいてくるのが分かるように足音を立てて歩いた。
「みーやーこーちゃーん。なにしてるのー?」
「そっちこそ、なにそのキャラ」
京はこちらを振り向かずに夕日を見ながら言った。赤い陽光が眩しくて、おれには小柄な彼女の小さな背中の形だけが見えた。
「どこかの誰かさんの放つ空気が重たくて息がつまるから、気を紛らわそうと思って」
「余計なことしなくていいよ。ていうか何で来たの」
「ほっといたら飛び降り自殺でもしそうな気がしたからさ」
会話は軽口の応酬のような雰囲気だったが、ここでピタリと止まった。京がなかなか口を開かなかったのでおれから切り出した。
「そう思い詰めるなよ。何度フラれても諦めないのが京だろ。愛に生きる女が愛を見失ってどうするんだ」
「愛かぁ」京が他人事のように呟いた。「千ってデリカシーないよね」
「なかったらここに来てねえよ」
「そういうとこがデリカシーないんだよ」
無茶苦茶な言い分だ。おれより繊細な男の子はいないのに。言い返そうとしたが、そういう無意義なやりとりをしても、京を元気づけられないと思い口を閉ざした。
京がずっと夕日を眺めていたから、おれはその後ろ姿を見ながら、京の次の言葉を待った。
「大和にフラれたんだ」
ああ、そうだと思った。やっと口を開いた京の言葉への感想は声にしなかった。
「大和、好きな人がいるんだって」
深く傷ついた過去を語る声は他人事のようで実感が感じられなかった。
「だから、京の気持ちには応えられないから、もうそういうことはやめてくれ、って」
「それで泣きそうになって黄昏てたの?」
茶化すように言う。発奮させるつもりで、いっそのこと悪者になりきって、怒りでもいいから元気になってほしかった。
だが京からは何の反応もなかった。静かに気の流れがさざ波立っていく。
「私ね、千のほうが好きなんだって」
長い静寂のあとに絞り出したはずの京の言葉は、何の重みもなくてどこまでも他人事のように聞こえた。
声から感情の色が消えて、儚い虚脱の響きが耳に届く。京の背中の輪郭が透き通っていっている気さえした。またおれではなく、落ちていく夕日に向かって京がつぶやく。
「大和に助けてもらったから大和を好きだって言ってるけど、京は、本当は千に助けてほしかったんだ。恩があるからって、それを理由に自分をごまかすのはやめろって」
短く息を飲む気配がした。何もかける言葉が思いつかなかったから、次の言葉を待った。
「なんでそんなことわかるんだろうね。私じゃないのに。私だってわからないのに」
おれにもわからないよ。けれど口に出せないから、足元に伸びる京の濃い影に視線を落とした。
「……でも、千が助けてくれたらいいな。そう思ってたのは本当なんだ」
いまさら言われても困るよ。でも京には言えない。
「考えたら、私、千と一緒にいる時間のほうが多かったし、夏休みや冬休みに千が遠くにいったら必ず長電話してた。千のことは何でも知りたくて、とにかく話をしたくて……あの頃から何も変わってないんだ、私」
京から吐き出される言葉が心をかすめた。何が引っかかったのかは、すぐわかった。
「私、ずっと……千の隣にいたかったんだよ」
ああ、うん……そうだね、京はいつもそうだった。
「大和が好きなコがいるって言ったとき、私は『あ、そうなんだ』としか思わなかったんだ。変だよね、千に彼女ができたら、あんなに嫉妬したのに」
少し声に悲嘆の色が混じった気がした。顔を上げると、夕日は水平線の奥に沈もうとしており、かすかに揺れながら深い藍色を空に残している。
「大和にフラれてから今まで、どうして千は目を覚ましてくれなかったんだろう、って。逆恨みしてた。だって、眠りこけてる王子様を、助けられるお姫様が起こさなきゃいけないお話なんて、女の子は憧れないし」
「……困ってたなら言えばよかっただろ、おれが起きてるときにでも。本当に助けてほしかったなら叩き起こせよ。今更言われても、おれにどうしろっていうんだ」
おれの知りもしないところで勝手に憧れられて、勝手に失望されても、おれにはだから何? と返すことしかできない。
胃に溜まった熱い塊が言葉に乗せられてきつい言い方になった。けれど、京からは笑う気配がした。
「うん。千は悪くはないよね。勇気が出せなかった私が悪いだけ。――でも、怖かったんだよ。嫌われて、いじめられてる私に話しかけられて、千は迷惑じゃないか。……淫売の娘だって知られたら、千に嫌われないか。不安で仕方なかったの」
もう夕日は僅かしか残されていなかった。紅い陽光が瞬いていた。京の顔が上を向く。
「だけど、風間ファミリーに入った千は、私の事情を知っても変わらずに接してくれた。それどころか一番ウマが合って、モモ先輩も知らない裏の顔も見せてくれた。私の不安は結局、全部杞憂で……だから、後悔してる」
「……」
「何でこうなっちゃったんだろうね」
寂寥感をにじませながら京がつぶやく。――どうしようか。言うべきか迷ったが、隠し事をする場所でもなかったから打ち明けることにした。
「実は、京がおれのことを男として好きなんじゃないかって、気づいていた」
「なにそれ」
一瞬、驚いたように間が置いて、京が苦笑する。
「キャップとおれに昔のことを話しただろ。そのとき思ったんだ。おれのほうが先だって。自惚れや勘違いかもしれないから、すぐ気のせいだと思い直して忘れたけど」
「……なにそれ」
京は自嘲しているようだった。未完成で、不確かで、あやふやな少女が所在なく自分の馬鹿さ加減に呆れている。おれにはそう見えた。
「私のことなのに、何で大和や千のほうがわかってるんだろう」
――友達だからじゃないの。
京のつぶやきに浮かんだ言葉は残酷すぎたから、頭のなかに留めた。でも、風間ファミリーの面々も薄々疑問に思っていたのだ。
キャップやガクトもそうだし、モロももしかしたら勘付いていたかもしれない。純粋なワン子と盲目な姉さんの目が曇っていただけで、京とおれの距離が近すぎたのは周知の事実だった。
ぽつりと京がつぶやく。
「大和にも千にもひどいことしてる。最低だ、私」
思春期の女の子にありがちな自傷行為の一種じゃないかとも思う。この年頃の女の子は、気を惹きたくて、さみしくて、捨て身になって、取り返しのつかないことを平気でやったりする。
京の背中を見ていると、自分が色々なものを切り捨ててきたのだという後悔に襲われた。
せめて、京の顔が見たかった。それならもう少し、適切な言葉のひとつでもかけてやれたかもしれないのに。
「なのにさ、疚しいよね、私。ひどいことしてる自覚があるのに――いま一番後悔してることは、千を起こさなかったことなんだ」
夕日はもう水平線の向こうに消えていた。昏い藍色が視界に滲んでいく。
「私、ずっと……千に助けて欲しかったんだよ」
その声は未練がましく、おれを咎めるように聞こえた。だからなに。と反芻したくなる自分と、いや、でも……と言い淀む自分がいる。
何かかける言葉はないか思考を巡らせてもまとまらなくて歯噛みして、一瞬視線を逸らした。
戻したとき、目を疑った。京が前かがみになり、手を放そうとしている。背筋が凍りつき、血の気が引いた。
――飛び降りる気か!?
いや待て幾ら何でも京はそこまで馬鹿じゃない、そこまで短慮でも浅慮でもない、彼女は頭がいい、そういうことをするような人間じゃない、馬鹿ばかりな風間ファミリーのなかで一歩引いて立場にいられるモラリストだ、色ボケだけど決して愚かではない、そのような行為を選ぶほど愚かな少女じゃないのだ。
目まぐるしく思考が廻る。目の前で起ころうとしている出来事を見たくない頭が懸命に否定する材料を探して騒いでいた。
だけど、それを嘲笑うかのように、京の体は宙に浮いた。そこでぱったりと思考が止んだ。
限界まで引き絞られた弓から放たれたかのように地面を蹴った。京がゆっくりと視界から消える。一瞬一瞬が永遠に感じる。極彩色に染まる景色。
自由落下さえも途方もなく遅く感じる世界の中で、ただ京だけを見ていた。
強かに体を柵に打ち付けて、それを支えに右手を伸ばす。掴んだ。京の手を。重さでぐらりと揺れる。
――右手に伝わる京の小ささと軽さにハッとする。
「この――なに考えてんだ、馬鹿野郎っ!」
安堵と同時に怒りがこみ上げた。早鐘を打つ心臓の鼓動と軽く息切れしている自分に気づく。
男に振られたくらいで死のうとするなんてとんだ大馬鹿だ。それも人のいる前でやろうとするなどかまってちゃんのメンヘラ糞女だけだ。
ありえない。京を罵倒する稚拙な単語が脳裏を駆け巡り、どのようにして散々に詰ってやろうかと煮え立った頭が考える。
怒りで喉が詰まっていたおれに先んじて、京がつぶやく。
「――やっと」
「あ?」
「やっと……助けてくれたね」
京が顔を上げる。目が合った。おれが手を離せば死んでしまうというのに、腕の下にいる京は、泣きながら笑ってた。
そういえば、初めて京の顔を見た。泣き腫らした目、さらさらと流れ落ちる涙。なのに悲しそうに、嬉しそうに笑っている、様々な感情が入り乱れた顔。
その表情に見惚れているあいだに怒りは霧散していた。直前まで思い浮かべていた罵声の数々も忘れて、何も言えず。
握り締めた右手のあたたかさが、やけに胸を締め付けた。
●
薄闇の空の下で背中合わせに星を見上げていた。
あのあと、京を引き上げてからずっと無言だった。京の顔を見られなくて、何を話せばいいかよくわからなくて、けれどもお互いに帰ろうとすることもなく、気づけばこの形に収まっていた。
星を見上げているのはおそらく京だけで、おれは胡坐をかいて頬杖をつき、やり場のない感情を持て余したまま、時間だけが過ぎていた。
京に合わせる顔もなければ、かける言葉も思いつかなかった。小学校時代のおれに過失があったとは全く思わない。その頃の京なんて知りもしないし興味もなかったが、今は友達の京を助けなかった事実だけは変わらないから、何も言えない。
好きだと言われても、恋人がいるおれが言えることも限られている。
息苦しくはなかった。けれども出来ることがなくて、無意識に下唇を噛む。
沈黙を破ったのは京だった。
「千は、大人な女性が好きなんでしょ」
「は?」
脈絡もない話題に当惑する。
「自立して、しっかりしてるキャリアウーマンみたいな人がタイプなの。色々考えたけど、告白してフラれたのも、自分を尻に敷いてグイグイ引っ張ってくれる人だったでしょ」
「いや、おれは付き合う人には性癖の相性を重視するから」
「周りにいるのが私やモモ先輩みたいな、誰かに支えてもらわないとダメなあやふやな女子ばかりだったから、千も頼りがいのある女の人に寄りかかりたくなったんだよ。つくづく裏目に出てばかりだね、私たち」
「無視かよ」
異性の好みを分析されても困る。おれにもよくわかってないのに。
「わかるよ、ずっと見てたから」
不意をつかれた気分になって、思わず振り向いてしまう。
「昔の千は近寄りがたくて表情も読めなかったけど、モモ先輩に連れまわされて無茶ぶりされてたときが、いちばん楽しそうに見えた。きちんと輪郭がある女性に手を引いてもらいたいんだよ。そういえば千は受け身で、あまり自分から動く性格じゃないもんね」
面を喰らったものの、京がおれの好みを分かった気でいるというよりも、昔を懐かしんでいるのに気づく。
晴れ晴れとした声音で京が言う。
「なんかすっきりした。卑怯な手段を使った、我ながら最低な方法だったけど、悲願達成。何でこんなことで悩んでたんだろう。そう思わずにいられないくらい夢心地。……こんなことで悩んでたことが、馬鹿みたい」
京が笑う気配がする。だけどおれは無理に笑っている気がした。ひどく気に食わない。おれのことをわかったつもりでいるのも、勘違いされるのも。
「京は昔のおれを美化してるようだけど、ちがうよ。今となにも変わらない。だって、いつも負けてるから」
京が振り返る気配がした。打ち明ける自分の声は想像以上にそっけなかった。
「姉さんには一度も勝ったことがないんだ。そして、これからも一生勝てない。川神院の前時代的な連中もドン引きするくらい鍛錬しても、天辺に届かなかった負け犬なんだよ。……こう見えても人並み以上に、コンプレックスが多いんだ」
口にして、そういえば劣等感を人に吐露するのは初めだったと気付く。いつもは卑屈な面は見せずに誇るようにしていた。
弱みを見せると、そんなことない、謙遜するなと否定されて、嫌味に取られると知ったからだ。
「実は国語が苦手なんだ。特に現代文。筆者の主張も登場人物の心情もよくわからなくて、反吐が出るほど嫌い。先生に質問しても常套句はいつも同じだった。皆『よく読めば書いてある』という。だけどおれは納得いかなくて、よく先生と口論になった。……おれが本を読んでるのは読書が好きだからじゃない。読解力を養うために嫌々読んでるんだよ」
小さい頃は、大人は何でも知ってると思っていた。でも初めの頃は喜んで教えてくれたものが、質問が高度になるにつれて、表情は曇ってゆき、次第に相手にしてくれなくなった。
学校で寝てばかりいたのも、疲れのほかに学ぶことがないという理由があった。悩みを共有してくれる先生はなかったし、友達もいなかった。悩みを理解してもらうつもりもサラサラなかった。
そういえば、小学生の中ごろから、人を憐れんで見下す癖がつくようになった気がする。
「苦手なものがあるのに、そのほかのことは誰よりも得意だったから誰もかれも馬鹿に見えた。そういうやつだから、心だって綺麗じゃなかった。ワン子が養子になって、門弟になった時、おれは才能がないから辞めればいいのに、って思ってた。言わなかったのはおれとワン子の派閥が違ったからで、そうでもなければ『もっと時間を有意義に使えば?』とでも言ってたと思う」
神父に懺悔する人の心情が少しだけ理解できた。罪悪感が潤滑油になってすらすらと言葉が流れてくる。
「いじめも、いじめられる人の気持ちがわからなかった。大和はいじめられないよう上手く立ち回ってたし、ガクトはいじめをねじ伏せる腕力があったし、ワン子とモロはキャップたちの庇護下にいた。いじめられる人は、いじめられない努力をしないだけだと思ってた。
だから――京がおれに助けを求められても、おれは助けなかったと思う」
「――なにそれ」
ふっ、と京が笑う。告白を終えて、どうして言わなくてもいいことをわざわざ打ち明けたのか不思議な気持ちになった。でも瞬時に答えは思いつく。
おそらく、正直でいたかったのだと。楽になりたかった。偽り続けるのは疲れるから。性癖まで打ち明けているのだから、いっそ過去も全て曝け出せば肩の重荷がなくなると思ったのだ。
幻想を砕けれた京が口を開く。声にはわずかに寂寥感が滲んでいた。
「私の中の千は、身も心も天使みたいに清らかな存在だったのになぁ。思い出くらい綺麗なままで残させてよ」
「幻滅してくれた?」
「残念。もう幻滅してるから下がりようがない」
痛快だった。どこか得意げに答えた京がおかしくて吹き出したら、背中を肘打ちされた。
期待されるよりも軽蔑されたほうが気負わなくて済む。どんどん軽くなる心。口が滑らかになり、ずっと胸のうちに容れてあったことも吐露してしまう。
「中学校のとき、京が毎週金曜日になると川神に遊びに来てたよね。今だから言うけど、会いにくる京の気持ちが全く理解できなかった」
「千のことだから、どうせお金がもったいないとか、そういう理由でしょ」
「それもあるけど、本質は友情についての考え方のちがいでさ」
京のなかのおれがまるで情を介さないドライな人間になってるのは置いておき、本題に入る。
「京はやっとできた友達と離れ離れになるのが嫌で、わざわざ県を跨いで会いにきてたんでしょ? 一人でいるのが寂しいから」
「だからなに? 普通でしょ。ずっと一緒にいたいと思える仲間が友達。友達に会いたいと思うのがそんなに変?」
「変だとは思わないけど、おれは京と考え方がちがう。友達がいるから、一人になっても寂しくないんだ」
ムッとしていた京が面食らう気配がした。
「極論だけどさ、おれは明日実家に帰ることになり、向こうの学校に転校して、そこで友達が一人もできなくても寂しいと思ったりしない。離れてもお前らがいるからな。孤独ではない。それだけで平気になるものだよ」
「それは千が強いからだよ。普通は、仲の良い人と離れたら我慢できない。クラス替えにさえみんな一喜一憂するし、それで疎遠になる人もいる。学校生活で友達と会えなくなるより辛いことないよ」
「おれは距離で変わるような関係を、友達とは思わないけど。会えなくなって変わる関係って、恋人とかそういう不安定なものだろ?」
京が何か言いたげにしていたが、やがて口を噤んだ。
「京の言いたいことも、当時の京の気持ちもわかるよ。やっと友達ができたのに、転校して、また一人になるのが辛かったんだよな。でも、それはただの依存だろ。一方的に寄りかかって、善意に甘える関係を友情と呼ぶのか?」
言いすぎて怒らせてしまうかと思った。予想に反して京は黙ったままで、言い負かすために想定していた反論の数々は無駄になった。
視線を手元から夜空に移す。都会の星は、やっぱり、田舎のそれに比べると見劣りした。
「京も、高校を卒業してからも、金曜集会を続けられるなんて思ってないだろ。みんなそれぞれの夢があって、そのために勇往邁進してる。それこそ集まる時間も惜しいくらいに忙しくなる。会う機会も少なくなって、きっと段々疎遠になってゆく。
でも、顔を合わせれば空白の期間が嘘だったみたいに、今みたいに、童心に帰って、ははしゃぎながら打ち解けられるよ。友達ってそういうものだと思う」
「……千は、風間ファミリーをモラトリアムで卒業するべきだと考えてるの?」
「ちがう。もっと広い視野を持てと言ってんだよ。おれたちの世界は、今は風間ファミリーだけかもしれないけど、時間が経てば職場や家族とコミュニティは増えていくんだから、固執するのもよくないってことだ。
京はもう少し自立精神を持て。コミュ障だから初めは失敗するかもしれないけど、失敗してもおれたちがいるんだから、当たって砕けて、前向きに生きてみろよ。目の前で飛び降りされて、京の将来が不安でしょうがない、おれを助けると思ってさ」
最後の我ながら情けない一言は本音だった。正直、姉さん、京と胸が痛む展開の連続で参っていたのだ。ここで後ろ向きな答えを返されると非常に困る程度には。
けれども、京はおかしそうに、くすくすと笑ってくれた。
「千が助けてほしいなら仕方ない。自分なりに頑張るよ。……実はね、弓道部に誘われてたんだ。時間を取られるのが嫌で断るつもりだったけど、体験入部してみようと思う」
「へえ、いいんじゃない」
「それとね、Sクラス目指すことにした。自分を磨くために」
「……お、おう」
全力で前向きな京に押され気味になる。なんだこの180度な変わりよう。
明るい声で京が言う。
「あのね、ひとつだけ反論させて。私は、一人になるのが辛かったんじゃない。忘れられるのが怖かったの。風間ファミリーに椎名京がいた記憶が、離れてる間に薄れていくかもしれない。それが不安で怖かった。全部、杞憂だったけどね」
「それはまあ、ぼっちで人間不信になってたから仕方ないんじゃないの?」
「そうだよね。ついさっき、好きな男の子に『お前なんか、どうでもいい存在だった』ってメンタルブレイク食らって、思い出を汚されたばかりだもん。人間不信になっても仕方ないよね」
「……」
その夜は、遅くまで取り留めのない話をした。何も上手くない、面白くもなければ、つながりもなくて、纏まりもなかった。
けれど、胸の内を明かした関係の友達との会話は、やけにさわやかで、無駄話をするのにも小さな幸せを感じた。
きっとこれも将来、心の中の最も深いところに息づく輝かしい記憶の一遍になるにちがいない。
男女に友情は成立しないと思っているけれど、今だけは、信じてみたくなった。
_(:3 」∠)_