真剣で恋について語りなさい   作:コモド

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ああっご主人様っ

 無事に新年度を迎え、おれたちは中学三年生に進級し、姉さんは川神学園の一年生になった。

 おれとワン子が朝の鍛錬を終え、朝食を済ませ、変わり映えのない制服に袖を通し、今日も今日とてつまらない――姉さんがいなくなってさらに退屈な――中学校に向かおうとしたとき、川神学園の制服に身を包んだ姉さんが襲来した。

 

「おニューの制服を纏った美少女登場! 愛しい弟に妹よ! 感想カモンッ!」

「わあ、とても似合ってるわ、お姉様!」

「初登校くらい着崩すのやめない? なんかレディースのヘッドみたい」

「ん~、ワン子~お前は本当にかわゆいな。千はあとで制裁だ」

 

 計画通り――ワン子を愛でながらさらりと告げられた折檻宣言におれの身は歓喜に打ち震えた。

 女子高生になった姉さんのお仕置きに胸を膨らませながら登校する。

 ……川神の春は払暁から黄昏まで美しいまま、夜を迎える。その中でも多馬川沿いの平地に広がる田園風景が、故郷を想起するので好きだった。

 人口第九位の大都市なのに自然も豊かで、独自の生態系の動植物が繁殖しているのも着眼すべき点だろう。

 武士の子孫が多く、その風習を受け継いでいるためか面白い風習も見られ、第二の故郷として愛着が湧くのも当然に思えた。

 川神には郷土愛が強い若者が多いように見えるのは、おれが都会に人口が流出し続けている田舎生まれだからだろう。

 まあ、面白いのは風土だけではなく人材の影響が強いのだが。

 

「学校までの移動中も特訓特訓! 夢に向かって勇往邁進っ!」

「鍛錬に集中し過ぎてコケたりすんなよー」

「あはは、昔ならともかく、今は平気よー!」

 

 例えば、登校中に重しをつけて走り回っているブルマ姿の女子中学生とか。さっき大気を蹴って空を跳んで行ったあだ名が『武神』の女子高生とか。

 世にも珍しい光景が広がるのが川神である。多馬大橋、通称変態の橋に行くともっと面白いものが見られるのだが、川神学園とはルートちがうので残念だ。

 おれは変態(彼ら)が性癖を叫び、人々に退治される一連の流れが好きだった。まるで花火のように一生をかけて培った性癖が世に咲き、一瞬にして無常に散る様は、物語の英雄の最期を彷彿とさせて感動すら覚える。

 変態にその性癖が芽生え、成熟し、内に留まらず曝け出してしまいたくなるまでに多事多難があったはずなのに、世間では異常性癖・マイノリティ・変質者の一言で済まされてしまう哀れさが堪らないのだ。

 彼らに力があったら、きっと性癖も黙認されていただろうに……そう、それこそ齢百を超えて女学生のブルマとスク水姿を視姦するのが趣味のジジイのように地位と実力があれば、逮捕されることもなかったろうに……どうして……

 

「よっ! ほっ! はっ! とおっ! ……千ってば、難しい顔してどうしたの?」

「正義なき力は暴力であるが、愛なき力もまた暴力である。この場合の愛とは何か考えていたんだ。愛とは解釈によってはリビドーにもなるのではないだろうか? 世間では叩かれるようなものであっても、人生を捧げるほどに夢中になったものに対するそれは、他者にとっては異質であっても愛ではないのか? 形は違えども純真な感情で得た力も、世間は暴力と呼ぶのだろうか。そんなことを考えていたんだ」

「おおっ、なんだか哲学的だわ! やっぱり千くらい強くなると、単純な力だけじゃなくって、色々考えなきゃいけないのね」

 

 適当なことを言って誤魔化したが、アホの子のワン子は瞳を輝かせて尊敬のまなざしでおれを見た。おれは目を反らした。

 

「アタシも千を見習って頑張らないと! お姉様が千は毎日倒れて血反吐はくまで鍛錬してたって言ってたもの。それくらい頑張らなきゃダメなのよね」

 

 いや、見習っちゃダメだと思う。やってることは一緒でも、その理由が純真なワン子とちがっておれは邪すぎるし。

 だが幻滅させてやる気を削ぐのも忍びないので、ケガするなよ、とそれらしいことを言って見守った。

 ……物心がついてすぐに姉さんと出会い、姉さんと一緒に育ったから、同年代の普通の女子と接したのはワン子が初めてだった。

 岡本一子が川神一子になってすぐのころ、修行を始めたばかりのワン子を見て思ったこと。

 

『どうしてこんなこともできないの?』

 

 この言葉を口にしなくて本当によかった。

 考えたことも、今は後悔しているから。

 

 

 

 

 

 

「えーと、ここにこれを代入して……代入ってどうするの?」

 

 夜の鍛錬を終え、食事を済ませたおれとワン子は勉強に取り掛かっていた。

 和室の八畳ほどの個室がおれの私室であり、大きめの本棚以外は特筆すべき点もない部屋になっている。

 その中央のちゃぶ台に宿題を広げ、私服姿のワン子は頭を抱えて唸っていた。おれはその横で頬杖をつき、小説を読みながらワン子の勉強を見ていた。

 

「うーん、うーん……分からないわー、ここの答えが全然分からないわー。親切な誰かが優しく教えてくれないかしら……ちらっ」

「教えないよ。大和と京に川神学園に合格できるよう、みっちり家庭教師を頼まれてるから、ヒントは出すけどちゃんと自分で考えなさい」

「うわーん」

 

 基本的にファミリーみんなが甘やかしがちなワン子にも、受験ということで厳しくすることが決まり、中学から飼い主の大和に首輪を託されたおれの手綱もきつくなった。

 かくいうおれも散々甘やかし、稽古疲れでくたくたのワン子にねだられると宿題を教えてあげていた負い目がある。

 その所為でワン子は勉強で困窮すると、すぐおれに頼る癖がついてしまい、自分で考えなくなった。

 ワン子の将来を想えば、ここで厳しくしなければ本人の為にならないだろうことは明白。

 ここは心を鬼にして突き放そうとしたが、

 

「どうしても分からないの! 助けて千~っ! 何が分からないのかも分かんないのー!」

「……しょうがないな。見せて」

「ありがとー! ここなんだけど」

 

 泣きつかれて、たやすく折れたおれはため息をグッと堪え、小説から目を離した。

 一転して喜色満面の笑顔になったかと思うと、ワン子は宿題を抱えて、ストンとおれの膝に腰を落とした。

 ……膝に重なる柔らかい尻の触感と香った甘酸っぱい汗の匂いに、しばし呆然とする。

 

「こら、女の子がはしたない」

「え? 何が? 小学校まで大和に教えてもらうときはこうしてたわよ?」

 

 あー、そういえば大和がそんな調教してたような……中学に上がってから世話してたのおれだから忘れてたが、この子はそう躾けられてたんだっけ。いいなあ。

 ワン子は調教師の大和に様々な調教を施され、自分が突飛な行動をとっても疑問に思わないまでになっている。

 そう聞くと卑猥な印象を受けるが、ワン子自体が、純真な心と幼い肢体で淫猥なイメージが皆無であったため、子犬というか愛らしい印象さえあったのだ。

 だが……

 

「? どうしたの、千」

「あー、いや、なんでもない。ここはね――」

 

 問題を読むために屈んで本を覗くと、ワン子のポニーテールに鼻が触れそうなほど顔が近づき、おれの胸とワン子の背中が密着した。

 朝から晩まで鍛錬をし続けて、たくさん汗を掻いたワン子の体臭が鼻腔を満たした。

 男のそれとはちがい全然不快ではない、むしろ心が揺れるような甘い芳しさ。

 念入りに手入れをしてると思えないのに、艶やかでサラサラな亜麻色の髪から視線を落とすと、健康的な白いうなじが見えた。

 異性の前で無防備に晒された肌は、舐めればしょっぱい汗の味がするのだろう。

 また下に視線を移せば、並みの男の何十倍も鍛えているのに華奢な、小柄の少女の肩があり、細い胴のさらに下には、膝に乗った臀部があった。

 布越しに伝わる感触は、姉さんのような色香が充溢した芳醇なものではなく、肉付きの薄い骨ばったものであったが、それでも女を感じさせるのに十分なものであった。

 

 その、なんだ。ずっと近くにいて、姉さんのように劇的な成長を遂げたわけでもなく、また『ワン子』という小さい庇護対象の先入観が抜けず気づけなかったが、しっかり女らしく成長していたんだな。

 ……ちょっと罪悪感と自己嫌悪。

 

「あっ、ホントだ。千の言う通りにしたら解けたわ! 千はブンブリョードーで偉いわねー。アタシと全然ちがう」

「誇ってもいないものを褒められても嬉しくないぞ」

 

 何を話したか、記憶すらないのだがどうやら正しい説明はできていたらしい。

 偉いと褒められるより気持ち悪いと罵られた方が嬉しいのだが、さて。

 簡潔に今の状態を言い表すと、おれは勃起していた。

 

「アタシからすると千は完璧超人だもの。クラスの女子なんて、お姉様が卒業したから千を狙ってみようかな~、とか話してるのよ。毎日アタシに紹介して、って女の子がいっぱい来るし、誰よりも努力してた千をアタシも尊敬してるもの。千がそう思わなくても千は凄いのよ」

「それも小学校までの話だな。今は時々サボることもあるし、素行だって褒められたものじゃない。尊敬して見習うのはルーさんにしとけ。おれと姉さんは反面教師にするものだ」

「んー、千って自分を過小評価? してる気がするわ。どうして自分を認めてあげないのかしら」

 

 首だけで振り返り、不満そうにワン子はおれを見上げた。

 いや、本当に、自分が人に尊敬されたり、見本となるべき人間ではないと分かっているからなんだが。なぜなら今、勃起しているから。

 昔、川神院に来たばかりのころは、まだ勤勉な子供と見られていたが、釈迦堂さんへの弟子入りと風間ファミリーに入ってから息抜きを覚えたことで、才能に溺れる若者という認識に変わっている。

 実際にそれは正しく、自覚もしている。なぜなら今、勃起しているから。

 自分が人間だと気づいて以来、乾いた砂が水を吸うように何でもこなせてしまったから、壁にぶつかる人の気持ちが理解できなかった。俗に言う『壁を超える』こともあっさりできてしまい、おれにとっての壁は姉さんとジジイだけになった。

 

 しかし、今、おれとワン子のあいだに壁ができている。なぜなら今、勃起しているから。

 おれの膝の上に座るワン子とおれの股間の隙間がジェリコの壁だ。

 たった数センチの壁を、おれは絶対に超えることができない。なぜなら今、勃起しているから。

 デニムに包まれた股間が痛い。なぜなら今、勃起しているから。

 

「自分が、人に褒められるような人間じゃないって判ってるからだよ」

 

 なぜなら今、勃起しているから。

 

「じゃあアタシが褒めてあげるから自信もちなさいよ。あんまり卑屈だと嫌味に感じる人もいると思うし、本当にアタシはそう思ってるもの」

「いや……」

「いっぱい褒めてあげるから、その分アタシには優しくしてくれるとうれしいなー。なーんて……ちらっ」

 

 気遣われているのを感じて、心が痛かった。おれはよりいっそう勃起していた。

 この信頼が、ワン子があと少し後ろに下がるだけで崩れ去ると思うと、そのときワン子に『千の変態!』と罵られる妄想が膨らんでしまい、おれはもっと勃起した。

 

 おれはワン子に優しく勉強を教えてからワン子が退室したのを見届けると、すぐパンツを脱いだ。

 

 

 

 

 

 

 人はどうしてオナニーをするのだろう……

 旧約聖書の創成期でオナンが兄嫁のタマルと寝ても膣外射精を繰り返したことが主の意思に反したとされ、種の存続に伴わない射精を悪とする風潮が生まれた。

 これが転じて、一部の宗教では自慰を禁止にしているところまである。

 もし、自慰をして神の意思に背いたなら、罪を告白して許しを請わなければならない。そして裁きを受けるのだ。鞭叩きとロウソク責めを……

 だが、世間一般が想像する優しい神は、オナニー狂いの罪深き者も慈悲深い微笑みひとつで許してくださるのだろう。

 やっぱり神はクソだ。おれは神を信じない。

 

 人はどうしてオナニーをするのだろう……

 ムラムラするから? 気持ちいいから? 本番への練習? それとも慣習?

 言い方はそれぞれでも、共通していることは、性欲に流されたということだろう。

 そう、人は性欲に勝てない……精神的に未熟な男子中学生は、オナニーを覚えたら、一心不乱にスぺシウム光線を放つ。

 地球のみんなを救うため……愛と平和を守るため……敵をやっつけて、変身が解けて、股間のウルトラマンが人に戻って、だが気づいてしまう。

 敵をやっつけても、世界に平和は訪れないということを……

 

 どうして地球に平和は訪れないのか……

 肌の色、言葉、土地、風習、利権……様々なことで、人は争う醜い生き物だ。

 たしかに争うのには理由があるかもしれない。でも、小さいときに習ったことがあるじゃないか。初心にかえって思い出そう。

 自分がされて嫌なことは、人にはするな。この言葉を……

 

 だが……たった今、おれは、自分がされて嫌なことを、してしまった。

 堕胎を殺人だという主張を何度か耳にしたとき、ふと思ったことがある。

 まだ生まれてもいない赤ちゃんを人として扱うのなら、自分の分身ともいうべきDNAを持つ精子をティッシュに特攻させ無為に殺すのも殺人ではないだろうか。

 しかも精子に同じDNAは存在しないので、一回の射精ごとに約3億人を殺害している計算になる。

 なんて罪深い生き物なんだ……しかも出撃した直後の新兵をティッシュによる包囲殲滅攻撃で虐殺までしている……考えられない……ハンニバルだってやらない。

 精子の気持ちになってみて分かる。人間が如何に残酷な生き物か……

 

 なのに、きっとおれは、明日もオナニーをするのだろう。

 あまつさえ、姉さん・姉さん・姉さん・京・姉さん・姉さん・その他のサイクルにワン子が加わった悦びに、右手によりいっそう力をこめて……

 

 

 

「そういえば左手ですると他人にされてる感じだってガクトが……」

 

 ワン子をオカズにした罪悪感と背徳感、行為後の虚無感と虚脱感に苛まれながらも、好奇心旺盛なおれは更なる快楽を追求し、新たな手段を模索していた。

 首脳会議の前にみんなオナニーを済ませてから臨めば、世界は平和になるんじゃないか。そんな心境で風呂に入ろうと自室を出た。

 すると姉さんに捕まった。

 

「よーう、弟。お前の大好きなお姉ちゃんが来たぞー」

「なんだァ? てめェ……」

「こいつ最近反抗的だな。昔は従順でかわいかったのに」

 

 私服の姉さんが構って欲しそうだったので、おれはお仕置き(ご褒美)欲しさで反抗期の弟を演じた。

 この反抗期は、色気が出てきてから、以前の暴君ぶりが鳴りを潜めてしまった姉さんが、気兼ねなくおれを甚振れるようにと長期戦略的な観点から導き出された性格改変である。

 かつて姉に逆らえず言われるがままだった弟が、思春期になってから急に反抗的になった事例などごまんとある。

 単純な姉さんは素直にハマってくれて、肉体的接触多めの技で折檻してくれていたのだが、どうもあまり反抗し過ぎて苛立ちの他にも寂しさが芽生えているようであった。

 事後ということもあり、平和を第一に考える今のおれは、和平路線に舵を切ることにした。

 

「いや、だってさ、中学生にもなって姉弟でベタベタしてたら……恥ずかしいし」

 

 照れる仕草で目線を外し、たどたどしい口調でぼそっと言うと、姉さんは一瞬驚いた顔をして、愛おしそうに目を細めた。

 

「なら誰もいない所なら恥ずかしくないのか? んー? こいつめー」

 

 パッと笑顔になり、おれの肩を抱き寄せて拳を頭に当ててぐりぐりとした。

 嗅ぎなれた姉さんの匂いと豊満な胸、そして心地よい痛みに挟まれる。これはこれで……

 

「そうかー、千もそういう年頃か。背も伸びたし、声も低くなったし、周りの目が気になったりもするか」

 

 納得したようにひとりごちる。風間ファミリーに加入するまでのおれたちは、川神院の中だけで世界が完結していて、外に目が行く機会も余裕もなかったように思う。

 だからジジイも風間ファミリーとの出会いで人が変わったおれたちを歓迎していて、積極的に遊ぶことを推奨しているが、俗世間に染まり過ぎたきらいもある気がする。

 少なくともおれは怠け癖がつくことも性癖を自覚することもなかったし、姉さんもこんなにシスコンブラコンを拗らせたりしなかっただろう。

 弟離れができない姉は、拳の代わりに頭をこつんとぶつけて、密言を交わすように囁いた。

 

「ふふ、美少女に成長したお姉ちゃんと一緒だと、ドキドキしちゃうか?」

「こんなことされると、もっとドキドキしちゃうよ」

「……ああ。素直なお前は本当にかわいいな……」

 

 今度は頬ずりして、上体をゆりかごのようにぐらぐらとさせた。

 しばらくそのままで好きにさせる。姉さんはおれがマゾヒストであるように戦闘狂の業を背負っており、そのストレスをおれと戦ったり、触れ合ったりといった過度なスキンシップで発散させている。

 要は自制できないわけだが、付き合わされるおれには、姉さんが思春期を迎えてから性的な刺激が増えた。それに伴い加速していく自慰頻度。オカズの割合が圧倒的に姉さんを占めているのもムラムラする原因が姉さんだからだ。

 冷静に考えて、血の繋がらない姉とひとつ屋根の下ってありがちなシチュエーションだけど、ありがちってことは誰もが一度は妄想するくらい定番なエロ要素なわけで。

 おれは正直たまらなかった。誕生日から考えてワン子は妹になるから血のつながらない姉妹がいることにもなる。おれは正直たまらなかった。

 

「あー、そうだ。川神学園な、あまり強いやついなかった。何人か勝負挑んできたけど吹けば飛ぶようなやつらばかりで」

「ふーん」

 

 つまらなそうに語る姉さんの話におれは適当に相槌を打つ。

 

「あ、でもイケメンはいたぞ。和服着てるいけ好かない男だったけどな。たしか京極とか言ったかな」

「ふーん」

「おい、お前のお姉ちゃんが他の男に目移りしてるんだぞ。ちょっとくらい嫉妬しろよー」

「嫉妬するのもけっこう疲れるし、来年には先輩になる人に会う前から禍根を持つってダメじゃない?」

「中二病拗らせて無気力系主人公気取り……なわけでもないもんな。大和と微妙にちがうから面倒だな、こいつ」

 

 またしても太宰かぶれの頃の大和と一緒にされ、おれはげんなりした。

 たしかにおれは、説教されて改心したことも、説教する人を偉いと思ったことも一度もないが、それでもアレよりもマシだと自負している。

 記憶が定かではない時期のおれにも印象に残っているのだから、相当だった。風間ファミリーが中二病に罹らなかったのは、大和が反面教師だったからだ。

 

「……でもな、千。お前が嫉妬しなくても私はするんだぞ」

 

 おれが大和と同一視されて不快な気持ちになっていると、姉さんがおれの耳元で、

 

 

 

「お前、さっきワン子でシコったろ」

 

 

 

 爆弾を投下した。それは地雷原で爆発して、連鎖的な相乗破壊を生み、おれの心を焼き尽くした。

 

「な、なんのことでしょうか」

 

 おれは目の前が真っ白になった中でも誤魔化そうと、機能停止した脳をフル回転させた。

 だが、姉さんは鬼畜だった。つまらなそうな顔をして、絨毯爆撃を開始した。

 

「いや、しらばっくれても無駄だから。ワン子が部屋を出てすぐにオナったろ? なんだ、女らしくなったワン子にムラムラしちゃったのか?」

「バカなっ……そんな、バカなっ……! 部屋の周囲に誰もいないのは気配感知で確認済みっ……! なのに、なぜっ……!」

 

 おれは語るに落ちた。白く染まった頭が、羞恥心で真っ赤に染まり、図星をつかれた焦りで体が震えだした。

 もうどうにも止まらないおれに姉さんはとどめを刺した。

 

「いや、私とお前は昔から片時も離れずに一緒だっただろ? そのせいか、私はお前の気のちょっとした変化で何をしてるのか分かるんだよ。

 だから私が可愛がったあと、その感触で抜いてるのバレバレだったぞ。まあ、私でハアハアするのは可愛いから許したが――ワン子で抜くのはどういうことだお前!

 私で抜けよー! こうして毎日オカズを提供してお姉ちゃんのことしか考えられないよう餌付けしてるのにー!」

 

 ……姉さんが拗ねて喚いているあいだ、おれの頭のなかで『怒りの日』が鳴り響いていた。

 おれが日々、一心不乱にオナニーしているのは筒抜けだったのだ。

 姉さんはおれがオナニーしたのを知りながら、事後のおれと生暖かい視線を向けながら接していたのだ。

 そしてこれからも、オナニーするたびに姉さんに『あ、今こいつシコってやがる』とリアルタイム実況するかのような羞恥プレイを続けなければならないのだ。

 

 よみがえるワン子で抜いた罪悪感と背徳感。傷つけられた自尊心とプライバシー。煮えたぎる羞恥心と怒り。

 許せない……『怒りの日』が大音量で鳴り響く。もっとだ。もっと『怒りの日』を鳴らせ……!!!!!

 

 

 

 

 

 

「本日、みなさんに集まってもらったのは他でもありません!」

 

 金曜集会の翌日、姉さんを除く風間ファミリーの面々に収集をかけ、おれは叫んだ。

 

「おれは引っ越す! その相談に乗ってもらいたい!」

「ええぇぇぇぇぇっ!?」

 

 ワン子が叫んだ。

 

「えらい急な話だな」

「どうして今? 来年川神学園に進学してからでよくない?」

「そ、そうよ! 千がいなくなったら、アタシどうしたらいいか分かんない!」

 

 大和と京が冷静に意見を述べ、ワン子が動揺しながら追従した。おれは怒鳴り返した。

 

「うるせえ! 来年までなんて待てるかッッッ!!!!」

「ひいっ! うわーん京ぉ、千が、千がっ」

「おー、よしよし」

「何だか知らんが、こいつ真剣(マジ)だぜ」

「うん……というか、こんなにキレてる千みたことないよ」

 

 激昂するおれにガクトとモロは引いていた。キャップはコーラを飲みながら言う。

 

「いーんじゃねえの? 一人暮らし。俺も興味あるし」

「よくないわよ! 千がいなくなったら誰がアタシに勉強教えてくれるのよ!」

「キャップ担当が大和で、ガクト担当がモロ、ワン子担当が千だっけ」

 

 京が肉欲にまみれた視線を男衆に向けた。この組み合わせは家が近いからという合理的理由で決まったものであり、別に『ぬふぅ』的な力は一切働いていない。

 

「元の飼い主の大和が二股すればよくね?」

「何だと!? 大和は俺のだぞう!」

「……っ!」

 

 ガクトの提案にキャップが拗ねて反抗し、京が息を呑んで身悶えた。おれはガクトに乗っかった。

 

「キャップはマークなら鉛筆ころがせば受かるだろ。てなわけで、大和。あとは任せた」

「ちょっとぉ! 大和ぉ、助けてぇ!」

 

 見捨てられたワン子に泣きつかれ、収集がつかなくなってきた場に頭を痛めている大和が渋々いう。

 

「そもそも何で急に引っ越すことにしたんだ?」

「そ、そうよ。アタシ、なにかした……?」

「別に、ワン子に問題があるわけじゃないよ」

 

 あるのはおれだし。

 

「てことはモモ先輩か」

「なに? 喧嘩でもしたの?」

 

 京が興味津々で聞いてくる。理由……話してもいいが、その前に、

 

「ここから先の話はピュアなワン子には聞かせられない……ワン子の耳を塞いでもらえないか」

「ワン子、いいって言うまでおとなしく耳を塞いでてくれ」

「ぎゃーっ! アタシ当事者なのにー!」

 

 文句を言いつつも、大和の言いつけを守って耳を塞ぎ、おとなしくなる。

 キャップは理解できないだろうからいいや。

 

「どうしたの? モモ先輩とワン子に手を出しそうになったからとか?」

「ケッ、どうせ痴話喧嘩か何かだろ」

「ちがう」

 

 京が恋バナを期待して胸を膨らませ、ガクトが忌々しそうに腕組みしながら思いつく理由を否定する。

 

「じゃあなんだよ」

「オナニーを監視されてた」

「……は?」

「おれがオナニーをしてるのが姉さんに筒抜けだったんだ。それが今後も続くのが耐えられない。だから一人暮らしをする」

 

 時が止まった。全員、おれが語った内容を咀嚼できずに固まっていた。

 

「おなにー? なんだそりゃ」

 

 キャップだけが分かっていなかった。

 

「えと、それはどういうこと? モモ先輩が千の部屋を覗いたり、隠しカメラつけたりしてたってこと?」

 

 意外にも一番早く再起動したのはモロだった。発想の内容からしてムッツリが隠しきれていない。

 

「いーや、気の揺らぎでオナニーしてるのが分かるらしい。つまり、リアルタイムで『今オナニーしてますよ』って姉さんにメールしてたも同然の毎日を送ってきたわけだよ、おれは」

「そんな理由で引っ越すのかよ!」

 

 お前バカだろと顔に書いてあるガクトの声におれは声を荒げた。

 

「ならガクトは麗子さんにオナニーしてるのが筒抜けで、今後家で普通に生活できんのかよ!」

「想像しちまったじゃねーかやめろ!」

 

 ガクトが顔を青ざめさせのたうち回った。他のドン引きしてる面々にも、おれの苦悩を知らしめる。

 

「お前らも想像してみろ! 家族に自慰行為をしてるのがバレたときの気まずさを! しかもこっちは血の繋がらないお姉さんにだぞ! それが今後もずっと続くんだ! おれは無理だ、耐えられない! こんな羞恥プレイ、おれにはまだ早すぎる!」

「はい、先生。私は大和にならバレても構いません!」

「ほう。なら京くんは川神流肉体改造で、ガクトにオナニーしてるのが筒抜けになっても平気なんだね?」

「はい、ごめんなさい無理です!」

「え、できんの!?」

「ガクトも興味もたないでよ!」

 

 話がずれた。

 

「理由は以上だ。プライバシーもくそもない、こんな生活から脱したい。おれが言ってることはおかしいか?」

「まあ、それなら仕方ないな」と、大和。

「おかしくないけど……千ってこんなキャラだっけ」と、モロ。

「モモ先輩だと逆に羨ましいような……いや、ないな」と、ガクト。

「個人的には反対したいけど、千の気持ちを考えると……」と、京。

「俺ははじめから賛成だし」と、キャップ。

 

 

 

「というわけだ。ワン子、あきらめろ」

「ぎゃーっ! 蚊帳の外にされたと思ったら、いつの間にか引っ越し決定!?」

 

 懸念していたオナ禁案は誰も言い出さず、ワン子が泣き出した。

 事の発端がワン子でオナニーしたことだと知ったら、ワン子は責任を感じてしまうだろう……だからこれでいいんだ。

 その後もワン子は大和と京に泣きつき、おれにも再三考え直すように言ってきたが、おれは断固として断った。

 オナニーをする時はね、誰にも邪魔されず、自由で、なんていうか救われてなきゃあダメなんだ。

 してるなんて分かってる。だけどそこにも自由がないと安心できないんだ。

 

 おれはワン子に引っ越し当日まで、姉さんやジジイたち川神院の人たちに口外しないよう口止めをさせ、一人暮らしへ向けた準備を大和と始めた。

 大和も川神学園進学後は寮生活をする予定だったから、良い予行演習になると言ってくれた。

 おれは良い友をもった。

 

 

 

 

 

 

 数日後には、ネットで何件か条件に合う物件をリストアップしてもらい、不動産に連絡して見学に行くところまで話が進んでいた。

 あれ以来、おれはオナ禁を徹底し、修験者の心境に至る心持ちで引っ越しに臨んでいた。

 姉さんは、オナニーしてるのがバレたから恥ずかしがっているな、と微笑ましい様子でおれを見つめている。

 おれはそれに対し、無言で川神院を去ることで復讐しようとしていた。

 ジジイを言い包めることは容易いとおれは見積もっていたし、姉さんが後から何を言ってきても、「年頃の男女が同居しているのはおかしい」とか適当な理由で突き放すつもりだった。

 

 そう、これは繊細な少年の心を傷つけた姉さんへの復讐。おれのオナニーが奪われた恨み、その1/100でも味わわせてやる――

 

「せ、千。入るわよ?」

 

 部屋で暗い気持ちに陥っていたところにワン子がやってきた。またおれを止めにきたのだろう。

 だが無駄だ。資金は実家からの仕送りで万端だし、キャップのコネでバイトも始める。保証人だって両親に相談すればいいし、おれを止めることはできない。散々説明したつもりなんだがな。

 

「千、本当にやめるつもりはないの?」

「ああ、何を言っても無駄だぞ」

「そう――」

 

 ふと、ワン子の視線が険しくなった。怒らせてしまった、と思った。ワン子に罪はないので申し訳ない感情が湧く。

 怖い顔のワン子が言った。

 

 

 

「このアタシがやめろって言ってるのに、ご主人様の命令が聞けないなんて、なんて生意気な豚なのかしら」

「へ?」

 

 ワン子の口から似つかわしくない言葉が発せられて惚けていると、ワン子は手首のスナップをきかせて勢いよくおれをビンタした。

 

「一人暮らしなんてやめて、アタシに奉仕しなさい。命令よ」

「わ、ワン子。お前、いったい」

 

 口答えすると、ワン子は再びビンタしてくださった。

 

「ぴーぴーうるさいわよ豚野郎。返事はハイでしょう」

「は、はい……」

 

 恐縮し、震えながらワン子を仰ぎ見ると、ワン子は不遜に顎をしゃくり、ちゃぶ台を差して言う。

 

「なにグズグズしてんのよ。勉強するからお茶の用意して、アタシの椅子になりなさい豚野郎」

「はい、ただいま!」

 

 おれはすぐに茶を淹れると正座してワン子様の椅子になった。

 

「いい椅子ね。褒めてあげるわ、豚野郎」

「ありがとうございます! ありがとうございます!」

 

 

 

 ――おれはその日、ワン子で抜いた。とても気持ちよかった。

 一人暮らしも中止した。

 姉さんは不機嫌になった。

 


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