夏が過ぎ、秋が来て、冬になる。そしてまた、春が来るのだろう。
季節はあっという間に過ぎた。おれが夏休みの半分を禁欲して過ごした地獄の焦熱の日々が、今となっては懐かしい。
あれは辛かった……川神院にいるあいだ、三人娘の誰かが必ず傍に付き纏っている一種の拷問にも似た日々。
おれがパンツを脱ぐタイミングをピンポイントで狙って突撃してくるワン子。特に意味もなく部屋にやって来ては本を読むだけの京。必要以上にベタベタして発情させようとする姉さん。
一人になるタイミングは寝るときだけしかなかった。深夜にこっそり抜こうと考えた。だが、それを察知した姉さんは寝ぼけながら部屋に向かってきた。プライベートスペース以外では落ち着いてオナニーできないおれは、帰省した際に狂ったように抜くまで悶々と白んだ頭で過ごす羽目になった。
まだ慣れがあるワン子と姉さんならまだしも、夏服の京はきつかった。急成長した胸と比例して丸みを帯びて肉付きのよくなった京の色気ときたら……それが肌の露出多めで、おまけに視線に気づくたびに挑発的に流し目で薄く笑うものだから、ちくしょう。
追い打ちをかける夏の暑さが、思考力と冷静さを奪い、おれを奇行に走らせた。思い返してみると、ビンタしてもらうためにナンパするのは頭がおかしい。信子の誘いにもたやすく乗ってしまったし……定期的に抜いておけばあの悲劇は生まれなかったのに。
「つーわけで、あんま人をおもちゃにすんなよな。するなら性的なおもちゃにしてくれよ」
『全然上手いこと言えてないしキモイよ、千』
電話口の向こうで呆れている京の顔が浮かんだ。おれと京はかれこれ三十分は話し込んでいた。
年が明けて、年末年始の休みで帰省していたおれに京から電話がかかってきた。新年の挨拶にやってきた親戚との挨拶と宴会から解放されたときには、時計は夜の十時を回っていた。
酒飲みの威勢の良い野太い声に馴染みきった耳に、京の鈴の鳴るような声は、清涼剤みたいに胸にしみた。
内外の気温差で結露がしたたる窓ガラスの向こうでは、深々と雪が降っていた。予報では、夜は大雪になるが、朝には晴れるそうだ。
朝になれば、視界一面に広がる新雪が、朝陽を純白に染めて輝きを増すだろう。
おれはこたつに足を深々と入れて、暖房が効いた部屋のなかで仰向けに寝っ転がりながら言った。
「勉強の方はどんな感じ? 行けそう?」
『モチ。真剣で行きます』
力強い宣言がきた。京は川神に戻るために、川神学園の奨学生制度を勝ち取るべく鉄の意思で努力していた。
風間ファミリーの他のメンバー、特に入れるか怪しいワン子とガクトは死に物狂いで机に向かっている。大和はキャップを勉強の席に着かせるのに苦労しているようだった。
まあキャップはいざとなれば強運で何とかなるだろう。鍛錬と両立しているワン子はかなり辛そうだったが、きっとやりとげてくれると信じてる。
『それで、優等生の千様は受験一月前でも余裕で女の子と長電話ですか?』
「まあね。話相手も切羽詰まってるのに男と長電話する女の子だし、おあいこじゃない?」
『千と話すとご利益がありそうで』
「お賽銭くれないと祟るよ?」
なんて益体の会話を繰り返す。今年の風間ファミリーはキャップの見つけた初日の出が綺麗に見える海岸線で夜の海を眺めながら年を越したらしい。その足で川神院に初詣に行ったとか。
おれは毎年正月には帰省するので参加できないのが残念だ。川神武闘会や風鈴市のような人が大勢集まる場所に赴くのは騒がしくて苦手だが、それに、友達と、という装飾がつくだけで楽しそうに思える。
風間ファミリー全員と遊ぶ機会を除けば、個々で遊ぶメンツが限られるからなぁ。
ファミリーにも派閥というか、仲の良いグループがあって、キャップ・大和・ワン子の最古参、ガクト・モロの凸凹コンビ、おれと姉さんの川神院組の加入順のグループがまず存在し、そこから男、女、川神院、バカ、知性派、根明、根暗などで細別化される。
おれが特に仲が良いのは、やはり一緒に暮らしている姉さんで次にワン子、そして京だが、実はモロとも男、知性派、根暗で接点が多かったりする。一方でガクトとは男の会話以外で接点がなかったりするのである。
仲が悪いわけではないが、ウマが合わないのはしょうがない。あいつに彼女ができれば変わるのだろうが。
『小学校から不思議だったな。千って授業中寝てるのに、先生に問題出されても答えられるじゃない? あれどうやってるの?』
「わかんない。無意識に答えてる」
『もしかして、もうひとりのボクでも心の中に飼ってたりしない?』
「うーん。一応名指しされて起きると、意識は戻るんだけどね。そのとき勝手に口が動くんだよ」
『なにそのホラー』
なぜ寝ているのに授業の内容を把握しているのか、隣の席になった人や教師に尋ねられたことがある。おれは川神流の睡眠学習とお茶を濁したが、どうも眠りながらも漠然と内容を見聞きして記憶しているらしい。私生活では経験がないが、なにかの拍子で思い出すため、テスト中に「あ、ここどっかで習ったところだ!」と記憶の奥底に沈殿していた正答が閃くのだ。
思ったよりも長電話になった。京にだけ通話料を嵩ませるのも何なので、一端切っておれからかけ直した。
『ところで千、女の子と長電話してると股間がむずむずしてこない?』
「しない」
『えー。性欲魔人の千はテレセしたくて電話しながら股間いじってると思ったのに』
「おれの性癖これ以上増やすのやめてくれない?」
何の前触れもなくお前欲情してるだろと言われ、おれは即座に反論した。京は不服そうだった。
『でも電話って見方を変えれば女の子に耳元で囁かれてるのと同じでしょ? 興奮してこない?』
「え? 罵ってくれるの?」
『結局そこに発想が飛ぶのか……』
一を聞いて十を知るおれは、即座に意味することを理解し、京に耳元で罵られる期待をした。願いは叶わなかった。
話題がなくなってくると、基本受け身のおれは京の聞き専に徹することが多くなる。
『そういえば噂の信子ちゃん……だっけ? あのコとは、その後どうなったの?』
「年末に会ったら、『千くん! あたし、何されたって平気だよ!』って迫られてさ、もっと自分を大事にした方がいい、って諭して慰めた」
『かわいそうに……こうして千への憧れを募らせて青春を台無しにするんだろうね』
盲点だった。あとでおれのことは忘れるようにとでも言っておこう。……恋は残酷だ。小さいころから知っている幼馴染にもこんなことを言わなければならないなんて。
『青春で思い出した。受験が終わってすぐにバレンタインがあるよね。今年の千はモモ先輩がいないから、学校でたくさんもらえると思う』
「いらねー。毎年キャップと姉さんとおれの分を処理するの、どれだけ大変だか分かってんの?」
感傷に浸っているところを現実に引き戻されたおれはひどくげんなりした。あのクソ甘ったるい胸焼けと食っても食っても減らない量におれは毎回吐く寸前まで追い込まれるのである。
ジジイに作ってくれた人の真心と親愛を無駄にするなと怒られたが、今年は絶対に捨てるつもりだった。
実を言えば、吐くのも排泄のひとつなので意外と快楽が伴い、気持ちよいのだが、健康に悪そうだからやめる。リビドー分析論関係ない過食嘔吐で本当に悪そうだ。
『処理するのめんどいもんね。それも込みだけど、私たち以外のチョコ食べない方がいいよ』
「? まあ、捨てるかガクトにあげるつもりだったけれど、なんで?」
暗に知り合いの女子からもらったもの以外は食べるな、と注意され、おれは意図を知りたくなった。京がさらりと言った。
『たぶん、変なものが入ってると思うから』
「……え? マジで?」
予想の範囲だったが、想像したくなくて選択肢には入れていなかったことをずばりと切り出され、おれは顔を引き攣らせた。京は訥々と続けた。
『モモ先輩やワン子、市販のものは大丈夫だと思う。でも手作りは絶対だめ。髪の毛とかラブジュース入りが必ず混じってるから』
「何で断言できんの? つーかそういうことする人本当にいるの?」
『年頃の女の子の考えてることって似通ってるから、千に片思いしてるコの思考パターンが想像つくよ。千の場合、小学校時代、千の髪の毛とか集めてるコがいたから』
「うぇぇええ……」
『寝てる千のよだれを拭いたハンカチとかティッシュを大事そうにしてたコもいたね。千を好きな女の子は、モモ先輩が怖くてアタックできなくて鬱憤が溜まってる人が多いからけっこう過激だよ』
おれは胃からこみ上げる猛烈な吐き気を耐えていた。なぜ、なぜ起きなかった当時のおれ。ああ、でも寝てる最中に誰か口元を拭ってくれたような記憶が、うっすらとある。
そのよだれは、果たしてどうなったのだろう。先を知るのが怖くて、そこで思考は止まった。
京がまだ何か言っている。
『――でね、私が千に話しかけるでしょ。するとさっきまで床に落ちた千の髪の毛を集めてた女子が、千が汚れるから近寄るな、気持ち悪いって私を追い払うの。……あー、思い出したら鬱になってきた。気持ち悪いのはどっちだよっていう』
過去を語って、自分でトラウマをぶり返した京が陰鬱な声で愚痴りはじめた。
おれは、またか、と思いながらも付き合った。機嫌が悪くなった京は、攻撃的な声色でおれにきく。
『千は普通の恋愛もできるのに、どうして変な方向に突っ走るの? バカなの?』
「何回も言ってるじゃん。普通の恋愛じゃ満足できないって」
『恋愛したことない童貞のくせに、物足りないなんてどうして言い切れるかなぁ』
京は若造の分際で愛を語るなんて滑稽だと言っていた。言いたいことはわかる。言いたいことはわかるが、イライラしている京の声で言葉攻めされている気分に陥っているおれには届かなかった。
『断言してあげるけど、千に寄ってくる女の子って、千の能力に惹かれて、包容力で夢中になって依存してくるコばかりだよ』
「包容力ぅ? なにそれ?」
『わかんないならいいよ』
やけっぱちになった京が、言った。
『千が女の子ならよかったなぁ。そしたら最高の親友になれたのに。川神流に性転換の術とかないの?』
「あったら姉さんが男になって女の子食い散らかしてるよ」
『残念』
……それからもグダグダと内容のない会話が続き、京が寝落ちしてやっと区切りがついた。
おれは携帯を布団に放り投げ、長い溜息をついた。日付はとっくに変わっていた。
――普通の恋愛がつまらないのは、至極当然のことではないか。
おれは冷え切った頭で思案した。思い当たる節など腐るほどあった。
これまで出会った中に、冴えない青年、ろくでなしの中年、つまらない風体の中身が見え透いた連中がいた。たとえば、店員に怒鳴るような、下手に出る者には何をしても良いと思っているやつ、やたら卑屈で謝ってばかりいるうだつの上がらないやつ、権威に弱く周囲に流されるだけのやつ……不思議だったのは、そういった人が、みな所帯を持っていることだ。
年端も行かない子供のおれでも、思わず顔をしかめたくなる程度の低い大人も、多かれ少なかれ恋をして、その味を占めてきて、その果てに家庭を築いたのだ。
極論、普通に生きて、普通に恋をして育つと、おれが見てきたくだらない大人に成り下がるのではないか。おれはそう邪推しながら育った。
嫌いな小説家が、小説とは何でもないことを面白おかしく文章にするものだと語っていた。言い方を変えれば、面白おかしく書けないなら、非日常を題材にする他ないともとれる。
だが、それも当然だ。一学生が、学校に通って、放課後には友達と談笑し、家に帰ると勉強してオナニーを済ませて寝る。そんな日常のどこが面白いだろう。
ラブコメは、普通の男子学生が、現実では手が届かない美少女に理由もなく好かれるのが主流だ。ファンタジーも現代人が自己投影できる題材こそ人気が出る。
畢竟、普通であることを求められるのは主人公だけで、テーマもイベントもヒロインも非現実的なドラマが求められている。現実的じゃない、ありえない、常識的に考えないことこそ面白い。
つまり、おれが求めているものは、落下型ヒロインがおれにかかと落とし食らわして着地するラブコメであり、異世界の女王様の優秀なマゾ奴隷に転生して、現代のSM道具を開発し、現代知識で女王様にプレイ中に無双していただく作品なのだ。
そして、そんなものは存在しない。
なぜ誰も書かないのか。書けないのか。書きたくもないのか。
憤懣やるかたない――だけど、理由なんてとっくにわかってる。そう。需要がないから誰も書かない。マイノリティであることも承知で、でも納得いかないように。
正しいことを教えようとおれに説く、ジジイとルーさん、京の助言が気に食わないのは。
おれは、ただ、大人になりたくないだけなんだ。
おれは微睡み、霧がかかった思考の狭間で思った。
……しかし、長電話って、有意義な時間の過ごし方じゃ、決してないよなぁ。
*
一月も半ばを過ぎて、雪化粧に彩られた景観にも慣れたころ。受験生の追い込みも苛烈になり、ワン子にガクト、キャップの必死さも燃え尽きる前の火花に似た具合になってきた。
取り立てて勉強の必要もないおれは、ワン子の詰め込み学習を見ながら、ガクトを見ているモロを手伝い、自由を求めて旅立つキャップを捕まえて大和の待つ勉強机に引っ立てる八面六臂の活躍をしていた、と自負している。自分で言うのもなんだがよくやってると思う。
空いた時間で姉さんの相手もしているのだから。自室で一息つくと、必ず姉さんはお邪魔してきた。
姉さんは全員合格のために合格奔走しているおれを労うと、頑張っているおれへのご褒美だと言って抱きしめてきた。
嗅ぎ慣れた姉さんの匂いに包まれる。そうして頬が胸に沈むたび、背中にしなやかな細い腕が回されるたびに、その都度、夏の実姉の言葉が去来した。
露骨な恋だった。稚拙な愛だった。おれは幼いころの気儘に暴力を奮い、おれを私物扱いし、思い出したように優しさを見せる気まぐれな姉さんが好きだった。
けれども時は無情にも少女を女に変えてしまった。姉さんがおれに優しくなったのは、姉さんなりに、おれの理想の女性を想像してそうなろうとしたからだろう。まるでない母性を豊かな胸で懸命に演出しているのも、おれが親元を離れ、肉親の情を欲していると思ったからだろう。
だが、それは大きなまちがいで、おれは人に褒められても素直に喜ぶことができない人間であり、優しくされるとむしろ戸惑う人種であった。
おれへの好意をあからさまにしながら、姉さんのこういった行動におれはよく失望させられた。それでもおれは姉さんから離れられずにいた。性欲が湧いたからではない。
おれを好いてくれる姉さんの慕情に何か報いてあげたい感情が、胸を打って強く心に働きかけた。
おれは身じろぎして、姉さんの慈しむような眼を見上げた。
「どうした?」
「姉さん、なにかしてほしいことある?」
姉さんは一瞬きょとんしてからいたずらっぽく笑った。
「ふふ、ならキスしてほしいな。なーんて」
本心を冗談で茶化そうとした姉さんの隙をついて、姉さんの腕をほどき触れるだけのキスをした。自分のそれとは異なる体温と柔らかさを唇に感じた。
目を瞑っていたからその時姉さんがどんな顔をしていたのかは分からない。離れた時には惚けた表情で熱い息を吐いていた。おれは舌で姉さんの残滓を舐めとった。
「ほ、本当にするなよぉ」
「しろって言ったのは姉さんじゃないか」
「そうだが……」
姉さんは困った顔をしてためらいがちに視線を何度もおれの顔と胸元を行き来させた。おれはそれをじっと眺めていた。
姉さんは見るからに上気した頬を気の毒なくらい赤くしていた。対しておれはひどく落ち着いていた。
「昔、ふざけてキスしたね」
「子供のころの話だぞ、それ。もう私たちは、あのころとはちがうだろ」
姉さんは声を震わせていた。低学年の時に見ていたドラマの真似をして姉さんが戯れに試したのだ。おれはキスに驚くよりも、それ以前に実姉が同じくテレビに影響されておれにキスしたこととの相似に、女性は発想が似通うのだと感想をいだいた。
おれはキスが特別なものだと思えなかったし、あまり感じるものがなかった。けれども姉さんは期待を込めた眼でおれを見つめた。
震える長い睫毛と吐息がおれの肌を舐めた。形の良い唇が物欲しげに動き、固く結ばれたかと思うと、艶めかしく白いのどが動いた。生唾を呑む音がはっきりと聞こえた。
「せ、千……」
名前を呼ばれたが、おれは何も答えることなく、ただ姉さんの眼を見つめていた。
姉さんの眼はしばらく迷う素振りを見せたが、その長くしなやかで美しい腕でそっとおれの肩に触れた。
また姉さんは問いかけるような眼差しをおれに向けてきた。おれはかすかに微笑み、目を閉じて顎をあげた。息を呑む気配がして、姉さんはおっかなびっくりとキスしてきた。
姉さんのキスは先ほどのおれのそれよりも深く、唇をしずめた。姉さんは微動だにしない。抑えた震える鼻息があたたかい。
息を吐き終えると、姉さんはゆっくりと離れた。長い一呼吸分のキスだった。
目を開けると、胸が動くのが分かるほど息を荒げている姉さんがいた。瞳には御しきれない情欲が灯っている。
するりと腕がおれの首に回り、今度は歯と歯が音を立てるほど深くキスをしてきた。当たる鼻息は激しく一切加減がなく、姉さんの開いた唇はおれのそれを食むように動いた。
「千……千……」
もう一度離れた時、姉さんはおれの両肩を力強く掴み、おれに必死に何かを問いかけているかのように据わった瞳で凝視した。背後で赤いオーラが立ち上っているような気炎を空目した。その先を期待して、タガを外して欲しくて堪らないようだった。
あまりにもがっついている姉さんの変貌ぶりに驚きつつ、おれは返事の代わりに右手で姉さんの髪をなでた。
「……! 千ッ!」
姉さんの眼から理性が掻き消え、おれは押し倒された。
心は姉さんを受け入れていて、されるがままだった。
体は巴投げで応戦していた。
「あ」
気づいた時には姉さんは押し倒した勢いに投げの力が加わって、凄まじい速さで障子を突き破り、中庭の雪原をごろごろと転がり、塀にぶつかってようやく止まった。
姉さんは雪だるまになっていた。火照っていた肌を冷気が冷ましてゆく。振動でどさりと塀の上から落ちた雪が雪だるまにトドメをさした。
断っておくと、これは長年に渡る姉さんとの喧嘩で染みついた反射的な行動であって、意地の悪い意図があったわけではない。
通常の巴投げとちがい、投げと同時に足で吹っ飛ばすのも態勢を立て直す時間を稼ぐための手段であって、この惨状を生み出すために演出したわけではない。
何故こんな運命になったのだろう。おれは世界に問いかけた。
それからはもうぐだぐだだった。
*
あれから、おれはいじけた姉さんを宥めようと一晩中慰めた。
いかがわしい意味ではなく、お化けの話をされた時のように気落ちして本当に泣いたので、胸を貸して抱きしめながら背中をさすり、頭を撫で、おれが如何に姉さんを慕っているか、あの巴投げが故意ではなく事故であるかを語って誤解を解いた。
それから時は流れ、一月も終わろうとしていた。姉さんが少し変わった。
先日のキスで、キスは許してもらえたと捉えたらしく、積極的にキスを求めてきた。おれも拒まなかった。
躊躇いがちに唇を割ろうと舐める舌も、また拒まなかった。けれども、それ以上は決して手出ししなかった。姉さんもまた、それより先に進もうとしなかった。
そうしてキスを終えたあとに名残惜しそうで、切なげな、なにか訴えかけるような眼で姉さんはおれを見つめてきた。
姉さんは先に関係を進めたがったが、このあいだ巴投げでおれに吹っ飛ばされたことで、キス以上の関係を許してもらえないと思っていた。
だからキスで妥協して、けれどもおれが欲情することを期待して、おれに許しを得たがっていた。
おれはそれが分かっていて、オナニーを知った男子中学生みたいにキスしてくる姉さんを受け入れて、そしてあえて何もしなかった。
物足りない顔をする姉さんが見たかった。おれはこの感情が、年上の女性が童貞をからかって反応を楽しむのと同じ心境であると勘付いた。
勘付いたおれは、おれと姉さんの立場を逆にしてこれをされたかったのだと悔しくて悔しくて歯ぎしりした。
だってそうだろ? 相手の意見なんて無視して傍若無人に理不尽な要求をして勝手気ままに振る舞うのが姉さんなのに、なに年下の童貞に手玉にとられてんの?
押し倒せよ! 裸にひん剥いて、抵抗するおれをビンタして言うこと聞かせて、手足を縛りつけて、無理やりされているのに勃起しているおれを言葉攻めして、もう滅茶苦茶にして写真撮って脅して奴隷にするのが姉さんじゃないのか!?
なぜこうなった……おれは絶望した。ツーカーの仲には程遠い。
おれが眉間にしわを寄せて、縁側から薄っすらと雪化粧した中庭を眺めているとジジイとルーさんが近づいてきた。
「難しい顔をしておるのう。考え事か?」
「おれにだって悩み事くらいあるさ」
「うむ。悩める時間があるのも若い者の特権じゃからな」
「大人になってからの方が悩み事は増えるものじゃねえの?」
吐いたため息が白く染まる。縁側は暖房がきいていない。外気とさほど変わらない寒さなのに二人は袴とジャージだった。
たしかに気を使えば余裕で耐えられるが、平素くらい気候に合わせた格好できないものかね。
おれはまた説教かと身構えた。
「悩みは増えるが、悩めなくなる。そういうものじゃ」
「ふーん。それで、何か用?」
おれはぞんざいに返したが、ルーさんも特に咎めることなく、ジジイが切り出した。
「おぬしがここに来てからもう九年になるかのう。昔はモモと姉妹のようじゃったが、今は立派に男らしくなった」
「はあ」
たしかにショタ時代のおれは二人の姉が第二次成長期の到来を惜しむほどキュートだったが、それがなんだ。
「春には高校生になる。それで提案なんじゃが、これを機に一人暮らししてみる気はないか?」
なんだとうとう厄介払いする気になったのか。おれが口にするより早くルーさんが口を挟んだ。
「言っておくガ、千を疎んじているつもりは一切ないヨ。ただ良い機会だと思ってネ」
「義務教育が終わったから放り出したくなったわけじゃないなら、姉さんか?」
「ご明察のとおりじゃ。千は話が早くて助かるわい」
ジジイは好々爺めいた笑顔で頷いた。少なくとも百歳は生きていると思われるのにしわが少ないのが返って漫画の仙人めいた珍妙な風貌を際立たせていた。
やっぱり姉さんか。おれは納得して二人から視線を外した。最近の姉さんの色ボケぶりは目に余るものがあったからなあ。
「先に言っておくが、儂は千を孫のように思っておる。なにより人様から預かった子じゃ。儂にはおぬしを立派に育て上げる責任がある。じゃが、今回ばかりはそうした方がいいと思うのじゃ」
「おれは姉さんを邪魔だと思ったことはありませんが」
「そういうがネ、千を寝る時しか一人になる時間がないくらい束縛しているだろウ?」
申し訳なさそうにルーさんが言った。
「あれは千が来てから精神的に落ち着いた。モモにとって、千は己の欲求不満をすべて受け入れてくれる存在だったのじゃろう。よくあの我が儘と戦闘衝動に付き合ってくれたものだと、儂はおぬしに感謝しておる。おぬしもモモのせいで歪むかと思ったが、友人との出会いでずいぶんと変わった。
良い友達を持ったのう。ぶっちゃけ、以前のおぬしはモモより危うかったぞい。まあ、今のサボり癖がついたのもどうかと思うがの。どうして極端から極端に流れるんじゃ」
「うっせーな」
小さいころの修行キチだったおれは、言うなればオナニーを知らないのにおちんちんがこすれると気持ちいいことに気づいた小児性欲の萌芽であって、女の子が一輪車やのぼり棒を好むのと同じだって。
おれが憤慨しているのを流してルーさんが続いた。
「でモ、百代は良くないネ。千に依存し過ぎているヨ」
「そう見えますか?」
「間違いなくネ」
断言されて、おれは京に言われた予言が脳裏を過った。
「これまで千はモモの求めに何でも応えてきたじゃろ。モモは幼少期から自分と切磋琢磨できる才能を持つ千が、思春期には自分の理想的な男に育ってくれたものだから、今度は恋愛でも自分の求めている通りに動いてくれると思い込んでいるのじゃ」
「ワタシたちも子供の恋愛に口を挟みたくはなイ。けれど、受験生の千を四六時中縛りつけるのは頂けなイ」
「元はと言えば、監督責任を果たさない儂らが悪いのじゃが、言ってもきかんからのう。高校生活は千の将来に大きく関わる。千が自分の進みたい道をじっくり考えるためにも、モモとは引き離した方が良いと思うのじゃよ」
おれは口元に手をあて思案する素振りをした。そんなにおれは姉さんに甘かったか?
最近は反抗期を演じて姉さんには辛辣だった覚えがあるだけに、依存していると言われても首をかしげてしまう。
だが、おれの将来を案じているのは確かだった。引っ越し騒動もあったし、一人暮らしをしてみたい気持ちも確かにあった。
「……分かった。いいよ。あ、でも二人に知らせるのは受験が終わってからにしてくれ」
「初めからそのつもりじゃ。すまんのう。……時におぬし、もう少し言葉遣いどうにかならんのか? なぜルーには敬語で儂にはタメ語なんじゃ」
「川神学園の体操服のブルマの色、紺から赤に変えたら考えてやるよ」
「未熟者めがッ! ブルマは紺が至高だと分からぬかッ! スク水も白などもってのほかッ! 紺色のエロスを分からぬものに女を語る資格なぞないッ!!!!」
「総代、そういうところだと思いまス」
*
二月十三日、川神学園の受験も終わり、公立受験を控えている者はともかく、風間ファミリーの面々は受験が終わった解放感と合格発表を前にしたそわそわした気持ちに踊らされていた。
ガクトなどはバレンタインデーを前に、チョコへの期待で気持ち悪くなっていたが、モロや大和などの余裕なメンバーは解放感でハイになっているようだった。
各自担当していた教え子の三バカトリオの合否が気になるものの、全員手ごたえはあったとのことなので大丈夫だと思う。
『……というわけで、ファミリーへのチョコは金曜集会のある15日に渡す手筈となりました』
「辛いのいれるなよ」
『それはフリ? フリだよね?』
「入れたら大和に、京はチョコに髪の毛や愛液混ぜる異常性癖だって言いふらしてやるからな」
『なんて外道。でもそれが大和には愛の深さだと伝わるはず』
「はあ……」
目前に迫ったバレンタインデーに京は帰って来られない。それで金曜集会で女性陣は義理チョコを渡すことになったらしく、その報告を京から受けた。
おれは憂鬱になった。もしガクトが学校でチョコをひとつも貰えなかったら、やさぐれながら義理チョコを受け取ることになるだろう。ついでにキャップ、姉さん、おれの貰ったチョコを晩御飯がわりに処理することになる。あれはとても申し訳なくなるのだ。
大和は義理も本命もちょくちょく貰っているようだが、ガクトとモロは……美少女三人にもらえるのだから比較的恵まれていると思うのに、やはり満足できないのだった。
『ワン子とモモ先輩は、今日か明日に必死こいて作る予定だから、劇物作らないか千が監視してね』
「なんで男のおれが……まあいいけど」
あんなのチョコを湯煎で溶かして型に流して冷やすだけなのに、どこに劇物が出来上がる工程があるのやら。まあ二人でも問題ないだろうが、京の言う通り、あの二人は運動以外の不安要素が多すぎるよね。
不安になるのは分かるよ。
「――千ッ!」
と、思ったらワン子が息を切らして部屋に入ってきた。廊下を走る足音が轟いていたのですぐ分かったが、鬼気迫る表情をしていた。
おれは携帯を耳から離して言った。
「どうしたのワン子」
おれはてっきり、明日がバレンタインデーなことを失念したワン子が慌てておれに縋ってきたのだと思った。クラスの男子に配るチョコを作る手伝いをしてくれと頼まれるのだと思っていた。
だから、大股で距離を詰めてきたワン子が、再びビンタしてくれるなんて思いもよらなかった。
「……Why?」
「きいたわよ、千。一人暮らしするって」
ワン子様・ワンスモア。アイリメンバー・ワン子様。ドゥユーリメンバー・ワン子様。
おれはぶたれた頬を抑え、夫に殴られて呆然としている妻のような弱弱しいポーズになり、お怒りになったワン子様を見上げた。
ああ、ジジイから一人暮らしの件をきかされて……おれは得心しながら、悦びに打ち震えていた。
「そ、そうだけど、ひどいよ! どうしてぶつんだよ!」
「アタシ、前にも言ったわよね。引っ越しちゃダメって」
「う、うん。でも今回はジジイが」
「アタシはダメって言ったのよ、このバカ豚!」
「うああっ!」
おれが左の頬を差し出すと、ワン子様はすかさずビンタした。
「やめてよ! どうしてこんなひどいことをするんだよ! お願いだから話をきいて!」
おれは必死に訴えかけるふりをしながら両頬を差し出した。ワン子様は力強く往復ビンタした。
おれは辛抱堪らなかった。
「はあっ……はあっ……!」
「アタシだってこんなことしたくないわよ! でも千が……この!」
気持ちのこもった渾身の一発が決まり、おれは上体をよろめかせ、両手を畳について荒い息をこぼした。
「くぅ……! も、もっと……」
「そこまでじゃ!」
「!? お、おじいちゃん!?」
おれが無意識におねだりしようとしたその時、ジジイが乱入してきた。後ろに姉さんもいた。驚いたワン子の手が止まる。
「一子、千が家を出ることになり、それが納得いかぬのはわかる。だが暴力に訴えるのはいかん」
「で、でも前は……」
「私だって寂しいさ。でもな、ワン子。千が川神からいなくなるわけじゃない。会おうと思えばいつでも会えるんだ。そこまで深刻にならなくてもいいだろ?」
ジジイと姉さんがワン子を諭す。意外にも姉さんはおれの一人暮らしに反対しないようだった。
三人で話し合って、ワン子だけ納得いかなくて、力づくでやめさせようとしたらしい。
それからも説教が続き、ようやく納得したワン子が落ち込んだ表情でおれに頭を下げた。
「ごめんなさい、千。アタシ、千が家からいなくなると思うと、目の前が真っ暗になっちゃって……」
「ううん……おれも内緒にして悪かったし……」
おれは名残惜しい気持ちを胸に秘めたまま、ワン子の手のひらを見つめた。
まだ胸には熱い衝動が燻ったままだった。
三人がいなくなってから、おれは途中で落とした携帯を拾った。当然だが京との通話はとっくに切れていた。
しかし、メールが一通届いており、フォルダを開くと京から無題で、こう綴られていた。
『プレイ中くらい通話切れよ キモいんだよ豚』
おれは電話でそう読み上げてほしかったと返信した。
返事はかえって来なかった。