壁一面に貼られている写真。そこに写る人物はどれも同一の者だった。
少女は写真の一枚一枚を丁寧に見ては愛おしそうに微笑んだ。その微笑みは一見すると柔和な印象を抱かせる。だが、同時に歪さも生じていた。
口元は微笑んでいても瞳が微笑んでいない。統一性のない表情からして亀裂のようなものを想像させる。
少女は一通り写真を見尽くしたのか、覚束ない足取りで机の方へと向かう。机の上は文房具が散乱していた。
少女が真っ先に取り出したのはカッターナイフ。暫くそれを凝視していたが、やがてキリキリと刃が伸びてゆく。
少女はゆっくりと刃を白い腕に当て、歯を食い縛る。次の瞬間に少女が感じたのは猛烈な痛みだった。
☆
登校時間より一時間ほど早く学校に到着する。向かう先はアイドル研究部。そこで待ち受けていた人物は―――。
「待っていたわ。海未。」
意外……というわけでもなかった。しかし、普段、彼女自ら声掛けしないことを考えれば意外なのだろう。
「貴女が私に話とは珍しいですね。」
真姫は視線をふいと逸らし、「別に…」とくぐもった声を漏らす。
「ただ、相談事で真摯に受け止めてくれるのは貴女だと思ったからよ。」
「そういった意味なら絵里もしっかりと聞いてくれそうですが………。」
生徒会長としての役割を全うする彼女ならば、相談事にも慣れている事だろう。
「確かにそれはそうなんだけど………。なんていうか、多分貴女が知っていた方が良いわ。」
「どういう意味です?」
つまり、相談相手に私を選んだのは、相談事の相手としてだけではないということになる。
「ことりのことよ。」
「ことり?」
ゾクリと悪寒のようなものが走る。腹の底から沸き起こる不安。その原因が不明瞭なために一層恐ろしく感じられた。
「新曲のlove marginal。海未はあの歌詞をどう解釈した?」
「特に深くは解釈していません。解釈に取り掛かる程の時間的余裕もありませんでしたから。ただ、恋に関連した曲なのかな、と。」
そういえば歌詞に関して何か疑問点があったはずだが思い出せない。恐らく今感じる不安と関連している。
真姫はふむ、と頷き、暫く黙考する姿勢をとる。
「あの、真姫?」
「ごめんなさい。なら、質問を変えるわ。ことりの様子がおかしい、変だと思ったことは?」
「それは………。」
昨夜のライブを思い出す。
そうだ、あの時確かに疑問を感じたのだ。ことりは何故このような歌詞を考えたのだろう、と。
ステージに立った時の表情もライブへの緊張、喜びは一切見受けられなかった。その瞳は切なく輝いていた。
「ええ、確かに。昨夜のライブでは妙な違和感を感じました。」
しかし、彼女の胸に秘めた思いを誰も知らない。綺羅ツバサからも彼女を注視した方が良いと警告されたが、肝心の彼女の心境が定かでない。
「多分、ことりの今の状態はこの歌詞とも関係している………。」
「どういう事ですか?」
すると真姫から紙切れを手渡される。そこに書かれているのはlove marginalの歌詞だった。
「marginalの意味は分かる?」
「周辺的な、わずかな、という意味だったと思いますが………。」
「それ以外にぎりぎりの、限界の、という意味があるわ。そうすれば、この歌詞のある程度は読み取ることができる。」
「どういう……」
「穂乃果とことり、そして貴女は友人よね?」
「無論です。」
彼女が言わんとすることが理解できない。だが理解することを、私は恐れているのかもしれない。
「この歌詞はね、ことりが穂乃果に向けた歌なのよ。」
「穂乃果に?」
「歌詞の内容を簡潔に言うとね。友人の関係でありながら、片思いをしてしまった少女の歌。」
心臓の鼓動が高鳴る。
「まさか………。」
「言い換えるならことりと穂乃果は昔からの友人。けど、それ以上にことりは穂乃果に対して恋心を抱いていた。友達のはずなのに抑えきれない恋情を唄ったのがlove marginal。」
「いえ、ですが、いくらなんでも……。」
「なら、私の解釈に少しでも疑問があったかしら。自慢じゃないけど人を見る目は優れてるつもりよ。」
真姫の言う通り、彼女の解釈に一欠片の疑念も抱かなかった。それが不思議だと思うと同時に腑に落ちる矛盾性があった。
「仮にこの話が真実だとして……。ことりは何故こんな歌詞を書いたのでしょうか?」
「ここからは解釈というより憶測になるわ。」
「構いません。」
すると、真姫は目を瞑り、溜息をつく。
「多分だけど穂乃果の死が原因よ。」
「穂乃果の……。」
「私たちはある程度立ち直っているから辛くても前向きになれる。でも、もしかしたらことりは違うのかもね。」
「違う?」
「穂乃果を想いすぎるが故に、穂乃果の死を許せず、今も尚、傷を負い続けている。」
私達は一度失墜し、再び飛翔したのだと思っていた。
だが、ことりが未だに傷ついているというならば、話は別だ。私達は飛翔していると錯覚していたのだろう。
「でも、ことりの気持ちは分からないわけじゃない。」
「……え?」
「恋情とまではいかないけれど、それに似た感情を抱いたのかもしれない。」
「何を言っているのですか?真姫。」
しかし、真姫は私に視線を向けていなかった。窓から射す光を浴びながら心の内を吐露する。
「私には何もなかったから。誰もが優秀だと綺麗だと称賛した。けど、肝心の私の心は空っぽだった。願いもなく希望もない。あるのは未来への絶望………。」
それは優秀さ故の苦境。周りが平凡なために、その苦境を誰にも理解されない。だからこそ、有象無象と蔑みたくなる。
そんな気持ちを過去に抱いたせいなのか、彼女の心情は私の心底に浸透する。
「けれど、あの日、あの瞬間。私の世界は反転した。あの人と出逢えたおかげで世界を好きになれた。」
「成る程。だからこそ、なのですね。」
「ええ、だからこそ私の前から去ったことが許せない。」
誰が悪いわけではない。ただ、強すぎる想いは憤怒にも憎悪にも悲哀にもなる。
「幼馴染でありながら私は彼女を理解できてなかったのですね。」
「……海未。」
幼馴染だから何でも知っている。そんなものは詭弁だ。
いざという時に2人の苦しみに気付けなかったのだから。
☆
練習は普段通りの雰囲気だった。
メンバーの誰もが昨夜のライブについて嬉々とした表情で語っていた。
ことりはいつも通りの微笑を浮かべ、会話に参加していた。何も変わらない光景。ただ、私と恐らく真姫だけが異変に察知している。
ことりの瞳は少しも笑っていなかった。光彩はなく、虚無の世界だけが映し出されていた。
私達を見ていない。見ているのは現実に存在しない何か。それは果てしなく遠く、手が届くことは永遠にない。
だが、彼女は渇望しているのだろう。来るはずのない幸福を。