もう何もかもが荒んでしまったけれど、色鮮やかな情景は今でも覚えている。
「あなた、お名前なんていうの?」
「え、わ…私?私は南ことり。」
「ことりちゃんって言うんだね。私は高坂穂乃果!よろしくね、ことりちゃん」
その少女は荒野に降り立つ女神のようだった。
☆
部室で話し合いを終えた後、手分けしてことりを捜すよう提案する。
全員反対はなく、それぞれ四方に散らばり捜索を開始する。
だが、おそらくだが四方に散らずとも、私は彼女の居場所を知っていた。穂乃果という特定の人物に愛着があるように、場所に対しても同様のことが言える。
他の人には申し訳ないが、一対一でことりと話をしたい。
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日が暮れつつあり、寒さも一層増す。
夜が近づくことに不安を覚えたが、沈みゆく橙色の夕日は美しかった。
辿り着いた先は誰もいない公園。遊具と呼べるものは古びたブランコしかなく、それ以外は荒野のように荒んでいた。
古びたブランコには私がよく知る人物が居た。
「見つけましたよ、ことり。」
「やっぱり来たんだね、海未ちゃん。」
やっぱり…ということは私が来ることを予想していたのだろうか?
「私がここに来ると分かっていたのですか?」
すると、ことりはかぶりを振った。
「訳も分からず走っていただけ。ただ、この公園なら海未ちゃんだったら知ってるんじゃないかって………。」
「ええ、そうですね。此処は私たち三人が昔よく遊んだ場所ですからね。」
もっとも、当時はそれ程、殺風景な場所ではなかった。遊具もそれなりにはあった上に近所の子供たちの遊び場と言えば、この公園だった。
そんな華やかさは一転し、物寂しさだけが際立っていた。
「あの頃は気づかなかったけど、永遠なんてものはないんだね。」
「ええ、そうかもしれませんね。」
子供の頃はどんな幻想も爛々とした瞳で語ることができた。不可能という語録は存在せず、理想の世界ばかりが広がっていた。
あの頃が眩しくて儚い。栄光とは刹那の出来事であり、次に訪れるのは衰退である。
「約束……したのにね。私たち三人一緒って。」
「ええ、確かに約束しました。しかし、穂乃果はもう……。」
胸が痛む。相変わらず胸の中には空虚な穴があり、その穴を埋めたいと踠いている。
一度空いた穴は永遠に埋まることはない。きっと忘れることができれば、この疼きを止められるのかもしれない。
しかし、私もことりも忘れることだけは許そうとしなかった。
「本当に勝手だよね。穂乃果ちゃんって。」
「ええ、いつも身勝手です。どこに行くにしても、何をするにしても。そして最後も……。」
最後も私たちの前から勝手に去って行った。私たちの許可を得たことがあっただろうか。
「それでも……どんなに身勝手でも、大好きだった。」
「ことり……。」
「だって一緒にいて後悔したこと、一度もないもん。」
ああ、そうだ。
私たちはどんなに振り回されても後悔だけはしなかった。
苦労はしたけれど、誰もが笑っていられる道。この道は間違っていなかったと断言できる。
「もう、私には何もない。目に見えるのは荒野と化したこの景色。穂乃果ちゃんだけが私の全てだったの。」
彼女の瞳の色は虚無だった。この世界に映る情景など、ことりからすれば些末なことなのかもしれない。
愛おしいと想った人がいた。その人物を触れることも抱くことも出来ないと知り、絶望したのだろう。
絶望とは人が抱く最底辺の情感だ。見渡す限りの漆黒しかなく、白は容易く塗りつぶされることは言うまでもない。
絶望が侵食し、白が全て無と化した時、人は抗うことを止める。漆黒をただ受け入れるだけの存在となる。
もはや、最底辺の情感などない。見渡す限りの虚しかない。
「貴女の友人は穂乃果だけではないでしょう。μ'sのメンバーだっているんですよ。」
すると、ことりはふふふ、と妖艶に笑った。
「確かにお友達、だけどね。でも、穂乃果ちゃんに抱いた気持ちはそれ以上だよ。love marginalの歌詞の意味、気づいたんでしょう?」
「ええ。」
「ふふっ。みんな単なるラブソングだと思ってるんだから。ラブソングもあながち間違ってないけど考えが安易すぎるよ。」
こうしてことりと相対して分かる。love marginalの歌詞は残酷なものであると。少女が抱いた願いや想いは何処にも届かない。
「生きている時にちゃんと想いを告げてれば良かったんだけど……。ううん、無理だね、やっぱり言えないよ。」
「後悔しているのですか?」
私はどういう表情をすればよいか分からず、僅かに視線を逸らした。
ことりも私から視線を逸らし、唇を震わせる。
「後悔だらけだよ。言えてれば、もう少しマシになれたかな、とか色々とね。でも言えるわけがない。言えるはずがない。だって……。」
ことりは私に視線を戻し、告げる。
「海未ちゃんも穂乃果ちゃんのこと、好きなんだもん。」
脳を揺さぶられるような感覚。思わず瞠目する。どんな一言よりも衝撃的で胸の芯にまで響いた。私が穂乃果のことを……?
「気づいてなかったのかな。まあ、海未ちゃんは鈍感だからね。自分の感情にすら気づけないお馬鹿さんだからね。」
「な、何を言って………。」
「ずっと見てきたから分かるよ。それくらい。私がどれだけ嫉妬したか分からないでしょ?許せないと思ったことも何度もあったし、苦しんだりもした。」
「ことり、貴女………。」
「でも、ずるいよね。2人とも、とってもお似合いなんだもん。私が付け入る隙なんて無いんだもん。」
一筋の雫が零れ落ちた。それが彼女の涙だと気づくのに数秒の時間を要した。
「知らなかっただろうけど、穂乃果ちゃんと仲良くしてる海未ちゃんが恨めしかった。2人にしかない会話もやりとりも全て羨望しては憎んだ。嫌いになろうと思ったこともあった。そうすれば、この葛藤も憎悪も消えてくれると思ったから。」
彼女の涙は止まらず溢れるばかりだった。
「でも、無理だよ。どんなに憎んでも2人が大好きだったから。苦しむ道を選ぶしかなかった。」
「ことり………。」
私は今まで南ことりという少女を正しく認識できていただろうか。
誰よりも近くにいて誰よりも理解できていなかったのではないだろうか。
私は穂乃果を救えなかった。
穂乃果の病は私が対処できる問題ではなかったけれど、彼女はきっと心のうちでは助けを求めていたのではないだろうか。
私はことりを救えなかった。
ことりは私と穂乃果に嫉妬し、自身の胸の内を吐露することができなかった。挙げ句の果てに最愛の人を失い、彼女の心は荒んでいる。
二人には誰よりも幸福であって欲しいと願った。それなのに、私は彼女たちの苦悶をただ傍観していた。
「海未ちゃんは覚えてる?」
「何をです?」
「穂乃果ちゃんが三人ずっと一緒だよって言ってたこと。」
「ええ、鮮明に。」
「ふふ、そっかぁ」
ことりは懐かしむように愛おしむように笑う。
けれど、どんなに笑っていても瞳は虚ろなままだった。
「結局、私たち、バラバラになっちゃったね。」
「……っ!」
紛れもない事実。否定したかったが、昨日まであったはずの温もりは何処にも無かった。
ことりは踵を返し、私の前から去っていく。
「ま、待ってください!ことり!」
私が叫ぶと同時にことりは走り出していた。
「逃げるつもりですかっ!」
彼女を逃してはいけないと思い、私も走り出していた。
人気のない道をひたすら走る。
ふと視界に映る夕日の色は美しく燃える炎のようだった。だが、気のせいだろうか。燃えるような炎色は血の色のようにも見えた。
夕日は傾き、やがて夜を迎える。
ようやく彼女の足は止まり、私も足を止める。
「どうして私に付きまとうの?」
「友達だからです。」
彼女の背しか見えないため、どんな表情をしているか分からない。
「ほんとうに馬鹿だね。私なんか見捨てれば良いのに。」
「そんなこと、できるわけないでしょう。」
瞬間、暗い夜道に光が降り注ぐ。走行する車のライトが当たったのだ。
「ことり、危ないから下がって……」
注告するが、彼女は下がるどころか前進する。
「ことり!」
車と距離を縮める中、ことりは何かを告げていた。短く簡潔な言葉。だが、どんな言葉よりも重みがあるのは間違いないだろう。そうでなければ、あんなに悲しそうに笑うこともない。
やがて、ことりと車の距離は零となり、鈍い音だけが夜道に響き渡る。
☆
色鮮やかな光景は全て私の心象風景となって生き続けている。
三人で遊んだ公園。
九人で振り付けの練習をした屋上。
それ以外にも美しい光景は複数あり、数え切れないほどだ。
恐らく中には殺風景な光景もあったかもしれない。
しかし、穂乃果ちゃんがいることで殺風景な場所にも色彩が生まれる。
春の陽光のように温かい。穂乃果ちゃんが笑うだけで世界は潤う。
そんな温かさを真近にして、何度も何度も惹かれ、焦がれた。
対して海未ちゃんは私からすれば少し邪魔な存在だった。私よりも穂乃果ちゃんの近くにいる気がして心底妬んだ。
海未ちゃんを嫌いになろうとしたこともあり、穂乃果ちゃんを自分の物にしたいという独占欲に駆られたこともあった。
でも、やっぱり三人でいる方がいいね。
九人が一番いいね。
鮮やかな光景は二度と帰ってこない。求めるものは「未来」にはなく、「過去」にしかない。
三人ではない、九人ではない「現在」も受け入れ難いものでしかない。
きっと皆に迷惑かけてるんだろうなぁ、私。
それでも、どうしようもないから、こう言うの。
「ごめんね」