天城琴音―――。
彼女の笑顔を見て抱いた感情は喜びではなく、痛みだった。
☆
私の記憶は壊れているから、脳裏に浮かぶ情景は皆無だ。
けれど、断片的に残っていた欠片には胸を焦がすような光景がいくつも焼き付けられていた。
「ことりちゃんはさ、穂乃果を他のものに例えたら何だと思う?」
「えーと…。他のもの?」
「うん。動物でも植物でも食べ物でも何でも良いよ!」
「えーと……。」
最も鮮烈な記憶。
彼女の問いに悩む素振りを見せるが、答えは既に決まっていた。
「うん、そうだ!穂乃果ちゃんは太陽だよっ!」
笑ってそう答えるが、彼女は釈然としないようだった。瞳の光彩が沈みゆく夕日のように消え入る。
この時初めて彼女から冷たいものを感じた。
「海未ちゃんも同じこと言っていたよ。貴女は太陽です、って。」
「どうしたの?穂乃果ちゃん。急に…。」
目を伏せた彼女からは一層冷たさが増す。
「穂乃果はね、例えるなら桜だと思うんだ。その一瞬だけ盛大で、その一瞬が過ぎたら消えるだけ。太陽みたいな永遠なんて私にはないんだよ。」
この時、私は初めて彼女の脆さを知った。その憂いは何に因るものかは分からない。何に懸念していて何に怯えているのか知る由もない。
それでも脆さを抱えながら突き進む彼女の姿はどうしようもなく美しかった。
誰もが太陽を完璧なものと見なしているが、太陽にも欠点は存在する。植物を枯らすこともあれば、砂漠地帯においてはデメリットにしかならないだろう。
その欠点を加味して尚、私は太陽が愛おしい。暗所に居た私からすれば、救済者に他ならないのだから。
「むっ、ことりちゃん、穂乃果が真面目な話しているのに、笑ってない⁉︎」
「笑ってないよ。」
「もうっ」
「ふふふ。」
誰がなんて言おうと貴女は太陽で、私だけの太陽であって欲しかった。
鮮烈な記憶を核とし、バラバラだったピースが徐々に連結していく。
「穂乃果ちゃん……。」
思い出した愛おしい名に熱が頬を伝う。
☆
冬ともなれば、夕刻が近づくにつれ、寒さが増してくる。日が沈み、先ほどまで日向だった場所は日陰になりつつある。
「高坂穂乃果………。その名前を私は知っている。」
「ことりちゃん?」
ことりのややトーンの低い声に琴音は辟易する。
「全部、思い出したよ。琴音ちゃん。」
「え、それって記憶が戻ったってこと?」
「うん。」
ことりの言葉に琴音は安堵したのか、胸をなで下ろす。
「はぁ、良かったぁ。このまま記憶が戻らないんじゃないかと心配したよ。」
「ふふふ、ごめんね、穂乃果ちゃん。」
「そんな、ごめんだなんてことりちゃん………え?」
琴音は驚愕と焦燥を混ぜ合わせたような表情を見せる。
「こ、ことりちゃん。私は琴音だよ。」
「嘘。」
「え……」
ことりの声音は柔らかいが、そこには確信めいたものが籠っており、一切の曖昧を許さない鋭利さがあった。
「私も初めて会った時は穂乃果ちゃんそっくりの子なんだと思った。でも、違うの。仕草も表情も何もかもがそのまんまなんだよ。」
「でも、ありえないよ。高坂穂乃果さんはもうこの世にいない。」
それを聞いたことりは子供を揶揄う大人のように微笑む。しかし瞳は決して笑ってはいなかった。
「穂乃果ちゃんにも現実的な思考力があったんだね。」
「……馬鹿にしてるの?」
「全然。死んだ人間がこの世に存在しないのは当然のことだもん。穂乃果ちゃんの言うことの方が正しいよ。
「なら……。」
「でも、私は穂乃果ちゃんのことになると普通じゃなくなるから。私は狂ってるんだよ。穂乃果ちゃんのことならどんな幻想だって抱いちゃうんだよ。」
その言葉は友情を超越した情が入り混じっているようだった。高坂穂乃果という少女のためであればどんなことも厭わない。
表面的には正常でも内面的には氾濫した川のように荒れていた。
「違うって言ったらどうするの?」
「見え透いた嘘は嫌いだよ。」
先ほどまでの温かさはもうない。二人の間には隔絶するように境界線が敷かれている。
「……今日のところはもう帰るよ」
「……逃げるんだね。私から」
琴音の肩が震える。
「穂乃果ちゃんらしくないね。」
「らしくないのもしょうがないよ。だって、高坂穂乃果はもう居ないんだから。」
日が沈み月に光が灯る。橙色の空は漆黒を帯びてゆく。
「私は天城琴音だよ。」
断言しているはずなのに、言葉はどこか弱々しかった。
☆
病院を出ると辺りはすっかり真っ暗になっていた。日の代わりに月が辺りを照らす。
すっかり枯れ果てた木々は妖しく笑っているように見えた。
「……穂乃果らしい……ね。」
先ほど、ことりに言われた言葉が心の中で反芻されている。
だが、穂乃果らしいも何も高坂穂乃果という少女は既にこの世に存在せず、実体として現世に留まっているはずがないのだ。それを非現実的な思考を繰り出すことりは常人からすれば狂気に近いだろう。
「私はおかしくない。おかしいのはことりちゃんだよ。」
その言葉は間違ってはいないのに、罪悪感が心に残る。
「海未ちゃんもことりちゃんと同じこと言うのかなぁ」
「何がですか?」
「………って、うわぁ!」
背後に立っていたのは思い浮かべた少女そのものだった。
「う、海未ちゃん!ど、どうしてここに?」
「どうしても何も。ことりの見舞いに来ただけですよ。琴音も見舞いですか?」
「あ、いや、私はもう見舞いから帰るところ。」
今は頰の口角を無理やり上げなければ笑うことも困難だった。
「……元気がないようですけど、大丈夫ですか?」
「え、うん。まぁ。」
「ちょっと失礼。」
すると、海未は琴音の額に手を当てる。
「熱はないようですね。」
自分の額を当てながら、海未はふむ、と頷く。
だが、おかしいことに海未の掌からは熱を感じない。いや、微々たる程度には感じるが弱々しい。
「海未ちゃん、私に何か隠してない?」
「何をですか?」
「海未ちゃんの方が顔色、悪いよ?」
以前に比べて海未の手首は細い。弓道で鍛え上げられた、しなやかな筋肉は見当たらない。顔のクマもやや目立つ。図星なのか、海未はたじろいでいたが、やがて覚悟を決めたのか、真っ直ぐ琴音を見据える。
「ええ。隠しても仕方ないので、言いましょう。私は末期の癌なんです。」
「………ぇ」
息が詰まるような感覚が走る。心臓の鼓動が早くなる。
「けれどスクールアイドルは最後まで続けます。」
不動心を顕現したような瞳。その瞳に動揺は一つもなかった。
琴音の中で何かがぷつりと切れた。
「何言ってるの?そんな理由で生きることを諦めるの?」
「私にとってはかけがえのない理由です。」
琴音の胸の内に嵐のような激情が湧き上がる。
「ふざけないでよっ!生きて欲しいと思っている人の気持ちを考えてよっ!」
琴音の激昂が静かな夜空に響き渡る。どれだけ怒鳴りあげても思いは夜空に呑まれていく。海未はそれを同情するように微笑んだ。
「私もその言葉を嘗ての幼馴染に言いたかった。まさか、私が言われるとは思いもしませんでした。」
「………っ!」
「琴音。貴女の気持ちは有難く思います。しかし、私はこの歩みを止めることはない。」
それはある一人の少女の生き様と重なる。
あの時、月の光に照らされながら別れを交わした。あの時とは何もかもが●だった。主観と客観ではまるで抱く感情が異なる。言葉では形容しがたいものが溢れていた。
夜空の下、残されていたのは琴音だけだった。