―――生きて欲しいと願う人の気持ちを考えてよ。
先ほど、琴音に言われ、脳内で何度も再生される言葉。
無論、その気持ちを理解できないわけではない。私もその立場に立った者だから痛いほど理解るのだ。どうしようもない寂寞と悲哀に苛まれた。
自分が嘗ての彼女の立場になるなんて、あの時の私は予想だにしなかった。
生きて欲しいと耳元で囁かれる。心地良く、涙するほどに嬉しい。
だが、快楽に溺れたら夢は叶わない。彼女達の願いを振り払ってでも、前進して行く。
盛大に燃えて、散って逝こう。
☆
今回の見舞いでことりの病室に向かうのは二回目になる。琴音からことりの様子を聞いてなかったが、相変わらず記憶も蘇ってないままなのだろう。
すぅ、と息を吸う。気持ちを引き締めないとショックが強そうだ。
「海未ちゃん?」
「って……わっ!」
驚くことに、ことりは私の背後に立っていた。
「どうしたの?こんなところで。」
「どうしたも何も見舞いですよ。それより出歩いて大丈夫なのですか?」
「ずっと部屋の中にいるのも暇だからね。」
「あまり無茶をしないでください。怪我、まだ治ってないんですから。」
所々に見られる包帯とギプスから、本調子でないのは一目瞭然である。
「ふふっ。海未ちゃんは優しいね。だから、穂乃果ちゃんも海未ちゃんが好きなのかな。」
「……ことり?」
おかしい。彼女に記憶はない筈だ。彼女に一言でも穂乃果の話をした覚えがない。
「穂乃果の名前をどこで……。」
「鈍いなぁ。まだ、私が記憶喪失だと思ってるの?」
「……じゃあ」
「そう、全部思い出したんだよ。」
記憶がなければ、穂乃果の名を口出す筈がない。
だが、彼女の表情が冴えないのが妙だ。
確かに記憶をなくす前に見られた自傷行為からして、心晴れることはないだろう。彼女の傷は根深い。
それとは別の懸念がある。
「先程、琴音と会いました。ことりの見舞いに来たと。何かありましたか?」
「別に何も。会話をしただけだよ。」
「それ以外には?」
「本当に会話だけだよ。ただ、本当の事を知りたかっただけ。」
「本当の事?」
「海未ちゃんも薄々気づいてたんじゃないかな。」
一間置き、真実が紡がれる。
「琴音ちゃんが穂乃果ちゃんだってこと。」
「……っ」
当然、何度も疑った。何もかもが同じで異なる点を挙げるのが困難なほどに。
それを証明しようとしたが、消しきれないリアリティがある。
「確かに。ですが、天城琴音という人間は確かに存在し、高坂穂乃果は確かに死んだ。この事実は変えられないようのないものです。それでも、貴女は琴音が穂乃果であると言えますか?」
この事実が、天城琴音が高坂穂乃果である可能性を断絶させている。
しかし、ことりは動揺を見せなかった。
「私に現実は通じないよ。あの日からずっと、もしかしたらなんて幻想を抱いていたんだもん。だからこそ、分かるんだよ。」
それは極めて現実からかけ離れた思考だが、私も琴音を注意深く見ていたのだ。ことりと差異はないだろう。
「なるほど。私も貴女もきっと異端なんでしょうね。」
思わず頰が緩む。想いが強いからこそ、こんなにも狂ってしまう。
それが妙におかしいのかことりも笑う。
「ふふっ。私達、昔から穂乃果ちゃんのことになると、意見が一致するね。」
「そのようです。」
やがて、ことりの表情は笑みから真剣なものへと変化する。
「海未ちゃん、末期の癌を患っているって本当なの?」
「……何故それを?」
「ごめんね。実はさっき海未ちゃん達が会話しているところ、盗み聞きしちゃった。」
確かに琴音に自分の病状を明かしたが、まさか、ことりに聞かれていたとは予想外だった。
最早、隠蔽する理由はない。同じ仲間として、友人として伝えるべきなのだろう。
「ええ。本当です。あとどれくらい動けるかも分からない。今、こうして立っていられるのも体力ではなく、気力のお陰です。」
「もう考え方は変わらない?」
「無論です。」
すると、ことりは目を瞑り、何かを思惟しているようだった。
「海未ちゃん、私ね、海未ちゃんが嫌い。他の誰よりも。」
唐突な告げ口。親友とは思えないほどの罵倒だった。
「いつも穂乃果ちゃんに必要とされてる所を見て何度も腹立たしく思った。」
「人が弱ってる時に随分なことを言いますね。」
「こんなときだからだよ。」
だが、これだけ言われて何故か私の心は荒波一つなかった。
彼女の目尻に浮かんだ光のせいかもしれない。
「でもそれでもね、私、憎んでも憎みきれないの。だって海未ちゃん、優しいんだもん。」
「……ことり」
「嫌いだけど親友でいたいの。ずっと、ずっと。」
それはきっと嘘でもなんでもないのだろう。
私達はずっと一緒に居られるだけでそれで良かったのだから。
燃えるように頰が熱くなる。目尻に浮かんだ熱のせいで視界が霞む。
「私だって同じですよ。ただ側にいるだけで居てくれるだけで……。」
その先がどうしても言葉にならないけど、声にならずとも私達の糸は複雑に絡み合っていた。
「海未ちゃん………。お願いがあるの。」
「何でしょう。」
「穂乃果ちゃんを救けてあげて。」
熱が語っていた。これこそが南ことりの本当の願いなのだと。
☆
今日は比較的雲が多く、青空は隙間程度にしか見えなかったが、夕刻になると夕陽がはっきりと映っていた。
岩本町駅周辺には数々の店が立ち並んでいる。目を惹くものが多いから皆、この場に立ち寄るのだろう。
やや曇天でありながらも、夕陽の沈む姿は何時も美しい。
夕陽はどの時代も人々の歴史の中で優しくも切ない光を放っていた。けれど、人々にとっては単なる背景でしかなく、情感など皆無だった。それが少しだけ悲しい。
夕陽が照る街を歩き続ける。いつしか住宅街には入る。
特に向かう場所はなく、目的地もない。ただこの歩みを止めたくないのだ。
いつしか辿り着いた場所は「和菓子屋穂むら」だった。
―――何故此処に辿り着いてしまったんだろう。
意識したわけではない。偶然此処で足を止めてしまった。
ただ、不思議なのが夕陽の光が強くなった気がする。
この店に入るべきか入らないべきか逡巡していた時だった。
「……穂乃果?」
その女性は酷く驚いた表情だった。持っていた筈の出前用の皿を落とし、手を口元にやって震えていた。
私はどう反応して良いか分からず、苦笑しながら自己紹介する。
「こんにちは。はじめまして。天城琴音といいます。」
---
女性は穂むらで店番を務めており、夫とともに店を経営しているのだそうだ。時折、二人の娘が手伝いをしてくれるようなのだが、今は下の子のみ手伝いをするそうだ。
疑問はあるが、理由を私が問う権利はない。
ともあれ、女性の厚意で、自宅に上がることになり、丁寧に茶と菓子まで用意される。
女性は私と対面するように正座をする。女性はじっとこちらを見つめる。
湯のみにそっと口をつけ、茶を啜る。じんわりと舌に苦味が広がっていく。
そうして沈黙の時間がどれだけ続いたのだろう。女性が口を開く。
「琴音さん……って言ったわよね。ごめんなさいね、さっきは取り乱したりして。」
「いえ、大丈夫です。」
「貴女の顔がね、どうにも亡くなった娘と似ていたものだから。」
大丈夫です、としか言えない。咎めることも宥めることもできない。
だから、じっと彼女の話を聞くことにした。
「私の娘はね、穂乃果って名前でね……。」
そうして彼女の娘の話が始まった。
女性はアルバムや写真まで用意し、一つ一つ娘を語っていった。語る話全てが夢物語のようだった。
聞くに、穂乃果という少女はどこにでもいる普通の子であるはずなのに、女性は誇らしげなのが不思議だった。
穂乃果がいるだけで世界が彩ると言うほどだ。なんて誇大な表現なのだろうと思った。だが、虚偽はなく、女性の瞳は光彩を放っていた。
ただ一緒に居られることがただただ幸福であったと。
「大切……だったんですか?その穂乃果さんのことが。」
「ええ。全てを失ってもそう言える自信がある。」
「……そうですか……。」
「でもね、だからこそ許せないことがあるの。」
「許せないこと?」
気づけば、私は女性の腕に抱擁されていた。温かく、心地よい。全ての枷を外し、泣き崩れたくなるほどに。
女性の表情が気になり、顔を上げようとするが、夕陽が遮ってよく見えない。
「まだ十七なのよ……」
不意に漏れた言葉。そして言葉と共に何かが煌めき零れ落ちた。
「たった十七の子が死ななきゃいけない理由って何なのよ……!どうして……あの子が……!」
慟哭。
娘の唐突な病に否応なく愛別離苦を果たさなければならなかった。
今までずっと気丈に振る舞いながらも、心の中で泣いていたのだろう。
哀切に耐えられず、いつしか私も声を上げていた。
―――何故、こんなにも―――。
夕陽は私達を同情するように見つめていた。
☆
帰る頃には夕陽が沈みかかっていた。
「ごめんなさいね。また取り乱しちゃって。」
「いいえ、私も取り乱したのでお互い様です。」
ふふっ、と互いに微笑を浮かべる。
「琴音ちゃん、って言ったわよね。また機会があったら寄って行ってね。」
女性は優しく迎えてくれる。抱擁された時もそうだが一言一言が心地よい。
けれど、確信があった。
この玄関の戸に触れるのもこれで最後だろう、と。
だから適切な言葉を扱うことにした。
「お邪魔しました。」
慇懃に挨拶をし、扉を閉めた。
空に響く烏の鳴き声が胸を締め付けるようだった。