―――何故、立ち上がるのだろう。
骨が軋む。目眩がする。手足が痺れる。
これ以上動けば園田海未という存在が消失してしまう。弱々しく鳴る心臓の鼓動がカウントダウンのように響く。
限界はとうに超えている。体がやめろ、動くなと悲鳴を上げている。
だというのに。
心は燃え上がるように熱い。絶望の節の中、希望が芽生えていた。
希望から絶望に堕ちるのではない。
絶望の後に希望が来るわけでもない。
両者は共に一重の存在だった。
ただ、人の願いによって上下の方向が変わるだけだ。
願い、行えばそこには私が望んでいたものがある。
☆
ゆっくりと海未は立ち上がる。
病に侵され、手足共に細くなっている。今にも折れそうなほど、彼女の体は衰弱していた。
だが、見る者に失望させることを彼女は許そうとしなかった。瞳は強く煌びやかに光っていた。
「……海未…?」
「惚けている暇はありませんよ。最後の曲を歌わずして舞台から降りるわけにはいきません。」
「で、でも、海未ちゃん。体が……。」
「凛。自分のことは自分が一番わかっています。気にしないでください。」
優しく微笑む海未に部員全員がたじろぐ。
「やだよ……海未ちゃん」
誰もがどうしようもないほどの寂寞に駆られていた。行かないでと何度叫ぼうと事足りない。
「貴女達が私をずっと案じてくれていることには感謝の他ありません。貴女達の支え無くしてこの舞台に立つことはできませんでした。本当にありがとうございます。」
「……ありがとうだなんて……いわないでよ……。」
「でも、それはここまでです。私を気にするあまり、パフォーマンスに影響が出ることは喜ばしくない。もう私を忘れてください。」
その言葉に絵里が激昂する。
「そんなことできるわけないでしょっ!貴女は私達と一心同体のようなものよ。貴女の問題は私達の問題よ!」
海未は絵里の激昂に対してもただただ穏やかだった。
「全く、そんな涙目で言われても駄目ですよ。」
「あ、こ、これは……。」
「聡い貴女だから分かるのでしょう。私が長くないことを。実のところ限界はとうに超えて気力だけで動いてます。ですが……。」
―――どうか笑ってください。
この先にある運命は変えようがない。誰もが知っていて、それでも尚、許容できなかった。
離れたくない。寂しい。一緒にいたい。
数多の思いが氾濫し、止め処なく溢れてくる。
だが、運命を変えられないのならせめて。
最後のひと時は笑うことにした。
☆
最後の曲の前奏が流れる。爆発するような高揚感を胸に、前へ踏み出す。
曲名は『SUNNY DAY SONG』。
会場も曲名のごとく晴れやかになる。
身体は不思議と軽い。
ステップも歌唱も難なくこなしている。
メンバーも観客もみんな笑っている。これで良い。泣いて終わる最後よりも笑って終わる最後の方がずっと良い。
―――ほんの夢のひと時だった。
辛く悲しくもあったが、これほど色鮮やかな時間も過去になかっただろう。
未練がないといえば、きっと嘘になるけれど―――。私の役目は此処までだ。
終演を迎える。
☆
盛大な拍手喝采の中、舞台から退場する。
「海未、お疲れ様。よく頑張ってくれたわね。」
絵里を始め、部員全員が私に抱きついてくる。
「全く大袈裟ですよ。なんて顔してるんですか。」
「心配して当然でしょ!」
みんな涙ぐみながら、説教じみた視線を私に向ける。
―――願いは叶いましたよ。
何度も挫折しそうになりながらも最後まで共にやり通すことができた。
「皆さん、共について来てくれてありがとうございます。μ’sのメンバーが貴女達でよかった。」
出会えたことから既に奇跡だったのだ。千載一遇とはこのことだ。心の底から巡り会えてよかった。こんな思いには滅多に出会わないだろう。
「ええ。ありがとうね。私達を繋げてくれて。」
「海未ちゃんのお陰やね。」
私ではない。全ての発端がなければ繋がることはなかった。
私は一度瞬きをしてから背を向ける。
瞼の裏が熱くなるのを感じる。
「海未ちゃんどこに行くの?」
「母がすぐそこまで迎えに来てくれているようなので、私は失礼します。」
私は今どんな顔をしているのだろう。笑っているのか泣いているのかすら分からない。
ただ、メンバーの顔を直視できなかった。
「さようなら。」
そう言い残して、その場を去った。
―――
外に出ると桜がひらひらと舞い散っていた。
「綺麗ですね。」
桜をゆっくり眺めたいと思い、近くのベンチに座る。
すると、今まで張り詰めていた緊張も解ける。瞼の裏が重たく、今にも寝てしまいそうだ。
風の音も喧騒も。
全て安らかに聞こえる。
心は何処までも穏やかだった。春の暖かな風が頬を撫でた。
「……これでいいですよね。」
☆
揺れる漆黒の髪と舞い散る桜が彼女を一層優美に引き立てていた。
琴音はそっと彼女の頰に触れる。
「結局、海未ちゃんは私を裏切らなかったんだね。」
返答はない。少女は静かに眠るだけだった。
太陽は二人の少女を優しく抱擁していた。
「海未っ!」
数メートル先から向かってくるのはμ’sの面々だった。そこには車椅子に跨ることりの姿もあった。
海未の姿を見てははたと足を止める。
「天城さんだったかしら?貴女が来た時には海未は……。」
「はい、既に。」
それだけで状況がわかったのか「そう」とシンプルに返事する。見た所、動揺していないようだ。
「じゃあ私はこれで。」
琴音は辞儀をしてその場を去ろうとするが「待ちなさい」とストップがかかる。
「いい加減、下手な芝居をするのはやめなさい。誰も気付かないと思っていたのかしら。」
「急に…何を……。」
絵里は真っ直ぐ琴音を見据える。
「天城琴音……いいえ、穂乃果。」
「………っ!」
「もういいでしょう。天城琴音としてじゃなくて、穂乃果と話がしたいの。」
風の匂いが変わる。少女の瞳は嘗ての色を取り戻す。今までつけていた仮面に亀裂が入る。
「……久しぶりだね。」
「やっぱり穂乃果ちゃんなんだね」
真っ先に寄ったのはことりだった。
「いち早く気づいていたのはことりちゃんだったね。」
「ずっと会いたかった……!」
ことりは車椅子に乗っていることを忘れ、穂乃果に抱きつく。
久しく見ることのなかった光景に、部員全員が涙と共に笑みをこぼす。
「でも、穂乃果。説明はしてもらうわよ。貴女は確かにあの時……。」
「にこちゃんの言う通り、私は死人だよ。それでも現世に魂を留めているのは未練があったからだよ。信じられないと思うけど。」
「未練?」
「少しだけ話をしよっか。」
穂乃果は今までの経緯を話す。
「私は後悔も未練もなく、死んだはずだった。でも、それでもμ’sがこの先夢を叶えてくれるかどうかが不安で不安で仕方がなかった。魂だけの私はずっとみんなを見ていた。そして事態は最悪の方向、μ’sは解散寸前に陥った。どうにか回避はできたけど、私はこの時思ったの。『なんとかしなきゃ』って。」
「それが全ての発端?」
「うん。魂だけの私が現世で動くためには生身の身体を誰かと共有する必要があった。そこで見つけたのが天城琴音ちゃん。嘗ての私の身体の質に最も近い存在。彼女もそれを快く受け入れてくれたから、一時的とはいえ、身体を得ることができた。」
「どれも信じ難いけど……穂乃果ちゃんを見てると信じる他ないね。」
「でも、それならA-RISEに入らずμ’sに再び入部する選択もあったんじゃないかにゃ?」
凛の言葉に穂乃果はかぶりを振った。
「私はあくまでも死人。もう皆んなの活動に手を出す権利も資格もない。それでもせめて近くで見ていたいと思ったからμ’sに一番接触できるスクールアイドルを選んだの。それがA-RISE。」
すると希が何かに思い至ったようだ。
「もしかしてツバサさん達は……。」
「うん。事情を全て知って私を迎え入れてくれたよ。本当に色々と良くしてもらってね。」
穂乃果は少し嬉しそうに笑う。A-RISEとしての活動もそれなりの充足があるようだった。
「でも、μ’sに対する不安はずっと残っていた。ことりちゃんの怪我、そして海未ちゃんの病。
この状態では夢なんて言ってられないと思ったけど、心配は杞憂だったみたいだね。全部、海未ちゃんが繋げてくれた。」
「ええ。貴女がいなくなってから本当に海未は頑張ってたわ。ずっと貴女を喜ばせようとして解散寸前でも病に侵されても尚、自分を曲げなかった。」
穂乃果は海未の身体をそっと抱擁する。
既に彼女には体温はない。何を言ったところで返答も何もない。
それでも、こう言う。
「ありがとう海未ちゃん。私の夢を叶えてくれて。」
未練は既に消失した。μ’sは形は違えど再び九人集い、夢も叶えた。
然れど、最大の後悔があった。どうしても許せないことがあった。
「どうして手が冷たいんだろ。貴女には生きて欲しかった。ずっと、ずっと……。」
それが高坂穂乃果の最大の願いだった。散り散りになっても彼女に幸あることを望んでいた。
「穂乃果。海未もきっと同じだったと思うわ。でなければ、貴女のためにここまで奔走することもなかった。それだけ、貴女が大事だったのよ。」
「……絵里ちゃん。」
海未の身体は嘗て剣道で鍛えた逞しさは何処にもなかった。ただただ華奢だった。それでも彼女の魂は一つの夢のために走り続けた。
『安心してください。貴女の夢は私が必ず叶えます。』
『約束だよ?』
全てはここから始まった。
忿怒も慟哭も悲哀も乗り越え一つの結末へと至った。
「さぁ。私達の夢はもう終わるけど、貴女にはこれからするべきことがあるでしょう?今度はその手を離しちゃ駄目よ?」
「穂乃果ちゃん。私達はもう大丈夫だから安心して。」
「……ことりちゃん。」
「ずっと見守ってくれてありがとうね。大好きよ。」
「……真姫ちゃん。」
高坂穂乃果の役目はどうやら此処で終わりのようだ。夢は無事叶うことができた。既に次なる旅が彼女を待ち受けている。
徐々に世界から遠ざかっていく。
「そっか。じゃあ最後に一つだけ伝えないと。」
太陽が目映い光を放つ。
「ファイトだよ!」
笑顔は光とともに去って行く。
ほのかな温もりだけがいつまでも残り続けていた。
次回、最終話になります