しばらく、雨の日が続いていた。
台風の時期なのか、一週間ずっと雨の予報が出ている。普段、子供たちで賑わっている通り道も雨天のせいで、無邪気な姿は何処にもない。
微かに息切れの音がした。
呼吸のリズムは整っていたが、今にも消えてしまいそうなほど弱々しかった。
よく見ると雨天の中でただ一人、傘も差さずに走行する少女がいた。ジャージを着服しているところから、自主的にランニングでもしているのだろう。
人通りのない道をひたすら走っていた。どこか体調が悪いのか、走るというには
「ゲホッ………!ゴホッ!」
突然、胸から何かがせり上がってくる。「それ」を少女は手で押さえた。「それ」は多量だったせいか、口元から零れ落ちる。
鮮やかな赤色だった。
「それ」を目にした途端、少女の瞳は焦点を失ったように左右する。「それ」は少女にとって予想外の出来事だったのだろう。
しかし、何か思うものがあったのか、瞳に生気が甦ってくる。炎のような意志があったのだろう。拳を強く握った。
「諦めちゃ駄目なんだ……。その日が絶対来る。」
少女がこの時、何を思ったのかは誰も知らない。彼女の考えは彼女にしか分からない。けれど、瞳には確固たる意志があった。
☆
学園祭ライブ当日―――。
この日もやはり雨天だった。この状態ではお客さんが来ないかもしれないという懸念から、私は「今回は中止にした方が良いのでは」と提案する。
しかし、穂乃果は私の提案を否定する。
「何言ってるの!?私達せっかく此処まで頑張ったんだよ!やめることなんて出来ないよ!今までの努力を此処で見せつけないと!」
その言葉に不安そうにしていたメンバーの表情が自信へと変わった。
「そうね。その為に今まで私達は頑張ってたんだものね。」
「エリーの言う通りよ!にこの可愛さを~、此処で見せつけるニコ!」
「キモチワルイ」
「何よ!」
異論はなかった。
皆が彼女の意見ならばと、安堵したのだ。彼女ならばやってくれる。私たちの希望だった。
「これで、本当に……。」
しかし、この日の彼女の背は異様に小さく見えた。彼女の表情は私の位置から確認出来なかったが、きっと笑ってはいなかった。
彼女の異変に気付いているのは恐らく私だけ。メンバーの誰もがライブに緊張しながらも、楽しそうに賑わっていた。
私の勘違いかもしれないが放っても置けない。念のため彼女に聞いておく。
「穂乃果、もしかして体調が優れませんか?」
瞬間、彼女の肩がブルリと震える。僅かに逡巡した後、彼女は私の方を向く。
「海未ちゃん、今日のライブ頑張ろうね!」
「……穂乃果」
彼女は笑っていた。単純に表情だけを見ればいつもと変わりない姿だ。だが、心底では何を思っていたのだろう。僅かに眼が赤くなっているのは気のせいたろうか。
「……そうですね。」
どう返答しようか迷った末、私も笑うことにした。それ以外の答えが思いつかなかった。
観客の数は屋上を満たしていた、。時間は刻々と迫り、何かを運命づけるようだった。
そして、定刻。
歌う曲は『No brand girls 』。
始まった途端、聴衆から喝采を浴びる。不意にファーストライブが脳裏によぎる。あの時は私達の声以外、閑散としていたのに、今は応援してくれる人がいる。ファーストライブを経験したからこそ分かる。これだけの人が集まるのは、当たり前じゃない。
此処まで来たのだ。彼女が私達を此処まで連れてきた。これからもずっとついて行こう。
―――ずっと……。
その時だった。
バタリと、何かが倒れた。
曲が止まり、静けさに包まれる。
雨が強くなった気がした。
「……え?」
誰かが惚けた声を出す。或いは己の心の声だったのかもしれない。
「穂乃果?」
返事はなかった。代わりに呻き声が聞こえる。
「穂乃果⁉︎」
「穂乃果さん!」
「お姉ちゃん…!」
名前を呼ぶが返事はない。代わりに荒い吐息だけが聞こえてくる。急いで救急車を呼ぶが、この日は交通が渋滞していたせいか遅延が生じていた。
ライブは当然中止になり、生徒の大半が病院へ押しかけることになる。
しかし、当然、病院側から拒まれ、立ち入るのは家族とμ'sメンバーの代表のみとされた。メンバー代表は私が抜擢され、高坂家と共に同行する。
そこで、高坂家から諸々の事情を聞き、茫然とした。彼女は末期の癌であること、癌が体中に転移していること。医師には入院するようすすめられていたらしい。しかし、彼女は今、この時間を無駄にしたくないと、断ったそうだ。
彼女の口から一度も聞いたことない真実だった。どうせ、お人好しの彼女だから、心配掛けたくないと思ったのだろう。昔からそうだ。自分が危機に瀕しているというのに他者の幸福を願っている。
だから、不安に押し潰されそうになりながらも、笑顔で―――。
―――
恐らく二日ほど経過したのだろう。本来家族しか入室できないが、特別入室許可を得た私は彼女に付きっきりだった。
寝食も忘れ、ただ、彼女の顔を眺めていた。サイドテールをほどいた彼女からは普段の快活さなど微塵も感じられない。
手を握ると、ひんやりと冷たかった。此処に彼女がいるはずなのに、彼女の存在が遠ざかっていく。
何故―――?
あの日、幼い頃に約束したはずだった。
「私達はずっと一緒だよ。離れるなんて絶対嫌だよ?」
そう貴女は言った。
人生の何処かで別れるのは必然だ。別れがない人生などない。それでも私は貴女の言葉をずっと信じていた。信じていたのだ。
貴女と共にいる世界が奈落の底であっても良かった。貴女がいない世界なんて私は要らない。なのに―――。
不意に、穂乃果の指がピクリと動く。
「ごめんね」
私の気持ちに気付いていたのだろうか?彼女は弱々しく謝罪する。
「貴女は……最低です」
「えへへ……」
恐らく彼女の五感は鈍っている。今こうして笑顔を作るのにも一苦労なはずだ。
「私ね、幸せだったよ」
彼女に話したいことは山程あった。しかし、今は…今だけは彼女の話を聞こう。後悔がないように。
「私ね、海未ちゃんとことりちゃんみたいに取り柄がないから、スクールアイドルとして活動できたことホントに嬉しかったんだ…。初めて私の中で誇れるものが出来たって、思った。」
きっと、彼女は取り柄を特技と同義として見ているのだろう。確かに私は弓道が得意でことりは裁縫が得意だ。でも、穂乃果にしかないものを私は知っている。
「ファーストライブは観に来る人なんてほんの僅かだったのに、この前のライブなんて、屋上いっぱいだったのも嬉しかったなぁ」
貴女が私達を引っ張ってくれたから、あれだけの観客を呼び寄せることができたのだ。
「何より、この9人で良かった。」
「……穂乃果。」
「きっと、私は夢を見てたんだね。」
「ええ、そうかもしれません。」
きっと、何か一つでも欠けていれば、叶うはずのなかった夢だ。―――本当に心地の良い夢だった。
「もう少しだけ、夢のままでいて欲しかった。」
それが彼女の切なる願いだと悟る。
だが、現実が彼女の夢を容赦なく遮る。彼女の夢は、願いは傲慢なわけでも、我欲にまみれてるわけでもない。崇高されるべきものなのだ。誰かを楽しませたいという想いが悪なわけがない。
だから、私はこう言う。
「安心してください。夢は必ず叶えてみせます。」
すると、彼女は―――。
「そっか。叶えてくれるんだね。」
五感が薄れ、筋肉も弱っているというのに―――。浮かべた表情は咲き誇るような笑顔だった。
「約束だよ?」
「ええ、約束です。」
再度、夢を見るのだろう。静かに瞳を閉ざす。
もう、彼女の瞼が開くことはない。彼女の瞳が私を映すことはない。彼女が私に喋りかけることもない。
窓硝子には、安らかに眠る少女と涙に濡れた少女が映っていた。