東方雷魔伝~the story of magician's master~ 作:溶けた氷砂糖
さぁ、と木々を撫でる風が先の見えない獣道を過ぎていった。薄暗い森は他を寄せ付けない不可思議な威圧感を放ち、人を立ち入らせないように警告している。それはむしろ人間の為を思っての行為であるとすら言えるだろう。森を住処とする植物は皆一様に人を食らうことすら辞さない、人間の言う食物連鎖から外れた存在なのだから。魔法の森と呼ばれ、何の用心も無しに人が入れば二度と戻っては来ないだろうその森に住居を構えるものは実は普通思われるほどに少なくない。ただ、その多くは妖怪や魔法使いといった人ならぬ者達で、本当に純粋な人間というものはおそらく一人も住み着いてはいない。瘴気に当てられ、草木の栄養にならずに済むには人間は余りにも弱すぎた。
だから、そんな恐ろしい森の中を一人口笛を吹きながら歩いている青年も当然人間ではない。異国を思わせる黒い装いは内の白いシャツとコントラストになってよく映える、高い背と整った顔立ちも相まってかなりの美丈夫だと言えるだろう。白金に黒のメッシュが入った奇抜な髪を後ろで結び、地面に届きそうな長さの髪先を左手でくるくるといじりながら、もう片手にはキノコがたんまりと入ったカゴを抱えている彼は、一見無防備に身体を晒しながらも、辺りに魔力を撒き散らして自分を狙う不埒者を牽制している。魔法使いである彼にとって、不思議な触媒の数多く集まる森への対策は至って単純ながらも大きな効力を発揮していた。
「さてと、今日の飯は何にしようか」
きっかり一曲分口笛を吹き終えた彼は魔法使いらしからぬ台詞を独りごちながらいじっていた髪の毛を下ろす。魔法使いに通常食事など必要無いが、彼は日頃の生活において食事を何よりも大切にしていた。それは、彼────ヴィグラス・ウォーロックは生粋の魔法使いである。しかし、彼には人間としての記憶も生まれつき備わっていた。機械に囲まれた世界で単調平凡な生活を行っていた頃の記憶。彼のその記憶によるところの転生というものをしたのだと理解するのにそう時間はかからなかった。そして自分が生まれ落ちたのは、かつてやっていたシューティングゲーム、東方projectの世界であることも彼は次第に理解した。
まるで物語のようだと最初こそ喜んだ。作品内のキャラと触れ合うことが出来るのだと夢を膨らませもした。食事を取らなくても良い感覚だけは理解出来ず、親に嗜好品として贅沢するなと怒られたりもしたが、自分は物語の主人公なんだと信じて疑わなかった。その儚い妄想はすぐに打ち破られることになる。
現実と小説は違う。魔法使いとしての才能はそれなりに持ち合わせていたものの、当然何の修練も無く快刀乱麻の活躍が出来るはずもなく、修行によって幼い頃の記憶は埋まってしまった。
一人前になり出奔するも、ゲーム内の時間よりも昔に生まれたということと、実際に幻想郷という舞台がどこにあるのか知らなかったことのせいで、自分の記憶にあるキャラクターとは殆ど会うことが出来なかった。長年の旅は自分を大きく成長させてはくれたのだが、同時に苦労も多く、最終的に彼は普通に魔法使いとして生きることに決め、原作への介入という野望を諦めた。その結果、紆余曲折あり幻想郷へ来たものの、彼が出会えた原作キャラは両の指で数え足りるほどしか居らず、仲の良いなどと言える相手は一人しか居なかった。それも友人というよりは腐れ縁と言った方が適切な間柄だ。
自分で踏みしめて作った道を歩き、羽織っていた黒いマントが翻るのを押さえながら、魔法の森深くにある自分の家へと足を急がせる。深い意味などはなく、ただなんとなく嫌な気配がしたからだ。その予感は家に近づく程に強まる魔力によって確信に変わる。ようやく見慣れた赤い屋根の家が見えてきた頃には、彼の顔は諦めと嫌悪で歪んでいた。それでも開けないと始まらないと自分に言い聞かせて彼は決死の覚悟でドアを開ける。
「おーかえりっ」
「勝手に人の家に入んじゃねえ」
一人暮らしのはずの彼を出迎えたのは、艶やかで色気のある声。声に似合わず可愛らしい口調でヴィグラスに手を振ったのは緑色の髪を腰まで伸ばした女性。ナイトキャップのような帽子を被り、魔法使いのような衣装を着ている彼女の年齢は見た目から窺い知ることができない。顔立ちが良いことは疑いようもないが、身に纏う雰囲気が年端もいかない少女のようにも、或いは長きを生きた妙齢の美女のようにも思わせる。今はやや幼いと感じさせる表情を浮かべて一人用の椅子に腰掛けているが、地に着くはずの足は無く、代わりにもやもやとした雲のようなものが彼女の下半身を包んでいた。
「魅魔、てめえは何度不法侵入したら気が済むんだ」
「あたしが来たいと思った時に居ないアンタが悪い」
こめかみをひくつかせるヴィグラスを更に煽り立てるように笑う彼女こそヴィグラスが唯一軽口を交わす相手であり、彼が出会えた数少ない原作キャラの一人であった。
といっても、ヴィグラスは彼女のことを詳しく知っている訳では無い。何故なら彼女はいわゆる旧作キャラと呼ばれる、比較すれば些かマイナーなキャラクターであったからだ。怨霊の魅魔、コアなファンから人気が根強く、前世の彼も名前と風貌くらいは知っていたが、そこまで踏み込んだ知識を持っている訳では無い。ただ今までの経験から挑発に乗ってもこちら側の利点は一切無いと分かっていた彼は大きく溜息を吐いて怒鳴りそうになっていた心を落ち着かせた。どうせ彼女が来る理由なんて決まっている。自分の神経をすり減らすよりも多少言いなりになって帰ってもらった方が気が楽だと彼は判断した。
「いつものでいいのか?」
「おお、さっすがヴィグラス。話が早い」
「てめえ何回たかりに来たか忘れたとは言わせねえぞボケ」
おおよそ女性に浴びせるには相応しくない暴言を吐きながら、ヴィグラスはテキパキと体を動かして、整頓された棚からティーセットと茶葉を取り出す。イギリスから直接仕入れた高級品、かつての王女の名を取ったクイーンアンである。ヴィグラスはこのブレンドが好きだった。濃い味だが飲みやすいからだ。しかし、魅魔が何度もたかりに来るようになって自分で飲む量は少なくなっている。それでも魅魔を無理矢理追い出したりしないのは彼が根っこのところでお人好しだからだろう。ついでに美人に弱いのだ。
魔法でお湯を沸かし、ポットに入れ、茶葉を加える。魔法を使った方が温度の調整も楽なので彼はめったにお湯を沸かさない。それでも紅茶ならば様々な挑戦を兼ねて普通にお湯を沸かすのだが、今はそこまでするのが面倒なのだろう。魅魔にいいお茶を煎れるだけ無駄だと思っているのかもしれない。
「あ、そうだ。カップは二人分お願いね」
「あ?」
二人分も何も二人しか居ないだろう、真意が掴めずに眉を顰めたヴィグラスは、魅魔の座っている椅子の後ろにしがみついて震えてる少女にようやく気が付いた。金色のあどけない癖毛が肩に掛かっている、まだ二桁の年齢にも達していないような幼い女の子だ。やや異国風の顔立ちで、将来はなかなかの美人になるだろうが、ヴィグラスには面識が無く、魅魔にも全く似ていない。着ている服は人里の人間が良く着ているような臙脂色の着物だ。妖力、魔力、霊力は感じられず、百パーセント混じり気なしの人間だと彼は判断する。
そこからのヴィグラスの行動は速かった。縮地と勘違いしそうなほどに、流れるような動きで魅魔の目の前まで歩み寄り、反応できてない魅魔の頭に優しく手を下ろす。まるで子供をあやすようなその手付きに魅魔の思考が僅かに止まる。そのせいで彼女は咄嗟に逃げることが出来なかった。
「どっから攫ってきやがったこのクソ幽霊!」
「痛い痛い痛いぃ!」
手加減一切無しのアイアンクロー。魔法使いが肉弾戦には適さない種族であるとはいえ、ヴィグラスは長年放浪の旅を続けてきた、それも男である。力自慢の人間くらいの腕力は持ち合わせているので、アイアンクローもそれなりに痛い。耐性が無いからか涙目になって逃げようとする魅魔にもさらに容赦なく力を加えていく。どうせ嘘泣きだろうと分かっていたのと、今までの鬱憤が溜まりに溜まっていたのだろう。ぎりぎりと頭蓋骨の軋む音がして、魅魔が暴れる元気すら無くなったところでようやく彼は手を離した。頭を抱えてうずくまる魅魔を尻目にヴィグラスはポッドから三人分のカップへお茶を注ぐ。金色の髪の少女はより深く椅子にしがみついていたものの、逃げ出す様子もなく、また泣き出すようにも見えない。肝が座っているのか、状況をまだ把握出来ていないのか。どちらにしても面倒が無くていいとヴィグラスは現実逃避気味に思った。
思考が遥か彼方に飛んでいきそうになったのを慌てて戻し、ヴィグラスは転移魔法で地下の倉庫から魅魔が座っているのと同じ種類の椅子を取り出した。元々は四つセットの洋椅子なのだが、そのうち一つは知り合いに持っていかれてしまい三つしかない。もう一つを死守しておいて正解だったとヴィグラスは一人賞賛しながら、椅子の一つを幼い少女に勧め、自分も残った椅子に腰を掛ける。
「で、何か申開きが有れば言ってみろ」
「ううっ、幾ら何でも酷すぎやしないかい? こんないたいけな女の子に」
「世間は怨霊をいたいけとは言わない。ついでに誘拐まで重なれば立派な悪霊だボケ。退治するぞ」
ヴィグラスは乱暴に脚を組み、紅茶を啜る。人間を襲うのは自然の摂理であるとはいえ、人間の記憶がある彼にとって人を攫うなんてのは好ましくない。自分の預かり知らぬところであれば別に気にしないが、曲がりなりにも知り合いが関わっているとなれば話は別だ。身なりは悪くないし捨て子にも見えない。そうだとすれば何処かの家の娘であることは自明であった。しかし、魅魔の答えはヴィグラスの予想とは少々異なっていた。
「いや攫ってきたわけじゃないんだよ。むしろ保護したというか」
「保護だァ?」
「なんか勝手にひっつき回ってきてさ。捕まえようとすると逃げるし、人里の外までついてくるから仕方なくここに連れてきたんだよ」
「人里を出ては、ない」
「おい、魅魔?」
「いや付きまとってきてたのは本当だってば!」
慌てて弁解する魅魔にもう一度アイアンクローをかましてやろうかとも考えたが、二度目はおそらく避けられてしまうので必死に我慢する。手を少し構えただけでひっ、と悲鳴を上げて頭を抱えるのだから不意打ちはもう通用しないだろう。ヴィグラスは魅魔から目をそらし、初めて喋った女の子の方に向ける。理由なら本人から聞いた方が何倍も早い。そうしてじっと顔を見てみると、彼の頭の中に何処かで見たことがあるという感覚がふつふつと湧き上がってくる。
「なあ、お前。どうしてこいつに付きまとったんだ?」
出来る限り怯えさせないよう優しい声色で尋ねる。魅魔に散々暴力と暴言を振るった後でどれほどの効果があるのかは微妙だが、少女はぴくりと肩を震わせただけで、目はしっかりとこちらを見据えている。やはり芯の強い少女だと考えていたヴィグラスは、重ねて言おうとした口を、少女が意を決して息を吸い込んだのを見て噤んだ。少女は何度か深呼吸をして、裏返った大きな声で叫ぶ。
「私を魔法使いにしてください!」
「・・・・・・・・・・・・は?」
しばらくの沈黙と、間の抜けた声しか出せなかった。ヴィグラスは、強い意志を持った目をした少女を見て自分が感じていた既視感の正体に思い当たる。
「失礼だが、名前も聞いてもいいか?」
「き、霧雨魔理沙です!」
霧雨魔理沙。それはヴィグラスの予想していた名前と一字一句同じだった。東方projectの主人公の一人であり、白黒と呼ばれる魔法の森に住む人間の魔法使い。人間ながら妖怪達と対等に戦えるという稀有な存在である。魅魔と師匠関係にある、という設定もあったかもしれない。少なくともヴィグラスに取って、知識の点だけで言えば魅魔よりも遥かに詳しく知っている相手であった。何と言ってもほぼ全ての作品に登場しているキャラクターなのだ。その過去の話は作品内ではそこまで多く語られていないが、まだ魔法使いでなかった頃の彼女であることは容易に窺い知れる。
「つまりお前は魔法使いになりたくてこの馬鹿を追っかけ回してたんだな」
「馬鹿ってのは酷くないかい?」
「人里で人攫うような身の程知らずには馬鹿ってのがお似合いだ」
酷い酷いとまたうるさくなってきた魅魔を無視して、ヴィグラスは優しい表情を顔に貼り付けたまま、無言のまま頷いた少女に手を差し伸べる。
────パシンッ
乾いた音が小屋の中に響く。驚いた顔の少女と無表情の青年。あーあと魅魔が溜め息を吐いた音が残された沈黙を支配した。
「馬鹿にするな」
底冷えするような恐ろしい声で、あくまで穏やかにヴィグラスが言う。抑えきれない怒りが元々長身であったはずの彼の体をさらに一回り大きく見せた。立ち上がり、少女の前にたったその姿は、まだ一メートルにも届いていない少女にはそびえ立つ壁のようにも見えただろう。少女は威圧され、眦に涙を浮かべている。
「魔法使いなんてのはな。てめえが、思っているような、甘ったれたもんじゃねえ」
言葉を区切るように語るヴィグラス。彼の脳裏をよぎるのはかつての経験だろう。生まれ持った魔法使いであったために彼がした苦労を、目の前の少女は一切分かってない。ただ見た目に良さそうな面だけをつらまえて勘違いしている。彼に原作に近付けようなんて意思はなかった。妖怪と戦うなんてそれこそ大馬鹿者のすることだ。必要が無いのならば逃げるだけでいい。勘当されなければ、彼女は人里から出なくとも生きていけるのだ。むざむざ命を危険に晒すような真似は彼にとって許し難い悪徳であった。
「人を殺す覚悟があるか? 人に殺される覚悟はあるか? 悪いこともしてないのに嫌われて、火炙りにされることを許せるか? 魔法使いなんかより人間の方がよっぽどか真っ当な種族だ。ガキの甘ったるい妄想でなられちゃ困るんだよ。俺達は嫌われてナンボの種族だ」
「・・・・・・・・・・・・」
「分かったならさっさと帰れ。邪魔だ」
乱暴に投げられたカップが壁に当たってかちゃりと音を立てる。強化魔法を掛けていたためにヒビが入ることはない。それでもヴィグラスからの拒絶を示すには十分な効力を有していた。少女は着物の袖を掴んで俯いている。何かを言い返したい、でも言い返す言葉も気概も無い。袖を強く握る手が震えているのが何よりの証拠だった。
それ以上愚かな少女に言葉を掛けるつもりのないヴィグラスは魅魔に目配せする。連れて帰れ、とそう言いたいのだろう。彼にとって無謀な少女の行く末など欠片も関係しないというのに、わざわざ魅魔に護衛をやらせようとする辺りはとんだお人好しである。魅魔も彼の意志を汲み取って椅子から降りる。足が無いので宙に浮かびながら少女の肩に手を掛けようとするが、その手は力いっぱいに払われた。涙を湛えた目を拭い、少女は一人で小屋から飛び出してしまう。
「は?」
「あの子、一人で行っちゃったねえ」
「んなっ軽いノリで言ってんじゃねえ!」
呆気に取られ、しばらく身動きが取れなくなっていたていたヴィグラスも魅魔の言葉で我に帰り、少女が護身の手段を何も持っていなかったことを思い出すとすぐさま後を追って飛び出していく。残された魅魔は自分も同じように飛び出すか逡巡し、出る幕は無いと再び椅子に座った。早くも冷め始めていた紅茶を飲み干し、ヴィグラスは投げ捨てたカップを拾い上げる。
「やっぱり、本当のことを言った方が良かったかねえ」
誰に聞かせるでも呟きは、主の居ない小屋に虚しく響き渡るだけだった。
*
魔法の森はお世辞にも生命が生存するのに適した場所であるとは言えない。霧雨魔理沙がその話を父から聞いたのはさらに彼女が幼い頃だった。まだ言葉の意味も完全には理解出来ない時分だったが、何故か彼女はその時の会話を今でも覚えている。魔力に汚染された土壌は真っ当な生命を吸い続けることで存在を保ち、適応した木々が高く伸びるので陽の光も当たらない。いつも薄暗く、雨の後には地表から上る魔力が霧のように森全体を包み込んで方向感覚を狂わせてしまう。そのせいで動き回る動物などは殆ど住み着いていなかった。代わりに進化し続けたのがキノコなどの菌類である。木々が根っこから吸い上げた魔力を奪い、成長して食い破る。進化の過程で動物のように移動する菌類も現れ始めた。人であろうと容赦無く食らうそれらが魔法の森の危険性を高めているのは間違いない。けしてあの森には入るな、帰れなくなるぞ。多くの人にそう言われ続けたが、彼女は今その意味を心から理解していた。
木の幹の中で体を丸くして息を潜める。怯える表情は叫びそうになる唇を血が滲む程に噛み締め、少しでも自らの存在を虚ろにしようと折りたたんだ膝を自分の胸に近づける。その背後、木を隔てて見えない場所からは巨人が踏み締めているかのような大きな足音が絶えず響いている。魔理沙の側からは見えないがおそらくは彼女が先程から逃げ続けている相手だと見て相違無いだろう。大の大人よりも大きな背丈、魔理沙の胴体よりも太いだろう、発達した腕のような菌糸。彼女は見てしまった、妖怪と比べても見劣りしない恐ろしい存在を、人間を餌と見る捕食者を。治まらない身体の震えを必死に誤魔化しながらただ足音が遠ざかるのを待つ。彼女の小さな体では動きのノロマな奴からも逃げられない。そして捕まってしまえば妖怪ですら命が危ぶまれる程の危険な存在だ。
居なくなれ、居なくなれ。少女の願いも叶わず、それが哀れな少女の元へと一歩ずつ静かに、だが彼女にも分かるほど明確に近付いてくる。どうして、悲鳴は声にならない。我慢しているのではない、喉が声を出すことを拒絶しているのだ。本能が彼女に声を出させないのだ。ただ掠れた息だけが耳朶を打つ。下腹部には生暖かい液体が彼女の体から染み出して体を火照らせていた。気を失うことが出来たならば彼女にとってどれだけ幸福であっただろうか。彼女の胆力が彼女を更なる恐怖に陥れていることには気付かない。もっとも、気付いたところで、その場から逃れるすべのない彼女に意味など無いのだが。
足音が地響きと変わらない程に大きくなる。元々一寸先を見通せるほどの明るさしかなかった洞に影が差し、上げてはいけないと分かっていても魔理沙は顔を上げざるを得なかった。そして見てしまった。到底目とは言えない蠢いたそれが、彼女の姿をしっかりと知覚し、あまつさえ舌舐りとすら取れる挙動をしたことを。
「いっ、いやあああああ!」
初めて声が堰を切って溢れ出す。それは少女にとって限界そのものであった。恐怖が理性を完膚なきまでに打ち砕き、狂ったように叫びたい衝動に駆られ、喉が潰れるのも構わずに声を張り上げる。今更そこに羞恥心や正気などがある筈もない。空を飛ぶの鳥の如く甲高い声は魔法の森全域にまで響き渡っただろう。そこに棲む妖怪や魔法使いは何事かと耳を傾けたかもしれない。それでも到底人里には届かないし、妖怪などが彼女を助けるはずがない。彼女の望む助けなど来ない。
────ただ一人を除いては。
「スパーク」
何処からか聞こえてきた声と共に目の前の怪物が弾かれたように一歩下がり、彼女の元に僅かな光明が差す。二度目の宣言とともに怪物はもう一度大きく仰け反った。今度はぶつかった正体が何なのか魔理沙にも見ることが出来た。それは少女が雨の強い日に数える程だけ見ることの出来た、瞬く間に光って消える雷だった。焦げた匂いが立ち込めているのは、雷によって怪物の一旦が焼き切られたせいか。口を思わせる空洞から空気の震えるおぞましい雄叫びをあげて、怪物が魔理沙から雷を放った相手へ向き直る。怪物の意識が自分から逸れた今、魔理沙は今こそが逃げる好機なのではないかと思ったが、洞から顔を覗かせるだけでそこから出ようとは思わなかった。彼女の本能がじっとしているのが一番安全であると判断したからだ。実際、逃げた先で似たような化け物に遭う可能性も有り得たため彼女の選択は正解であった。そして彼女は覗かせた顔から自分を助けてくれた恩人の顔を見た。
特徴的な白金色と黒のメッシュ。異国の物だろう白黒の服と御伽噺の魔法使いを思わせる大きなマント。右手には先に赤く丸い物体が付着した杖を構え、左手には見たこともない字の本を開いている。その姿は魔理沙が、そして多くの人々が想像する魔法使いそのものであった。だから、彼女が彼のことを理解するのに僅かな時間を掛けてしまったのも仕方の無いことであっただろう。普段の粗野な印象とはまるで違い、一種の神々しさすら感じさせる彼は、杖の先端を怪物に向ける。三度放たれた雷がさらにそれを洞から遠ざけた。その隙に彼は走り、洞を背に向けるようにして立ち止まる。
「おいクソガキ、まだ生きてるか」
乱暴な言葉遣いで話しかけられて、ようやく彼女は我に返る。そして同時に自分を助けてくれたのか理解した。
「ヴィグラス、さん・・・・・・?」
「どっかで名乗ったか? いや、あいつが俺の名前呼んでやがったな。まあいい、これに潜ってろ。すぐ終わらせる」
ヴィグラスはマントを外して魔理沙の方へ投げ飛ばす。
それを確認したヴィグラスは杖を地面に突き刺し、本を手放す。重力に従って落ちるはずの魔道書は魔力によって浮かび上がり、強力なエネルギーフィールドを杖を中心として展開し、城壁となって怪物の足を止める。同時に作られた大木の高さにも匹敵する大きさの円に手を触れ、ヴィグラスはおおよそ聞き取ることの不可能な言語で呟き始めた。ルーン文字がその度に円の外枠を囲むように現れては貼り付けられていく。一周回り終えた部分が歯車の如く動き出し、最後の一文字を描くまで怪物はヴィグラスに向けて歩みを進めることすらままならなかった。圧倒的なまでの実力差。それでも彼は手を抜かない。それが死に繋がると身をもって知っているから。殺しすぎなくらいがちょうどいいのだと信じているから。そして何よりも、力に勝るものなど無いと確信しているから。
「
ヴィグラスの形のいい唇から流暢に紡がれる言葉、大陸の向こうで使われる言語が魔法陣に力を与える。極彩色の六芒星が魔法陣から浮かび、辿るための道を作り出した。その中を光に包まれた彼の力が駆け抜けていく。だっ、と地面に軽々と飛び降りる音がした。目の前の怪物にも劣らぬ大きさの影が彼を覆う。
呼び出したのは馬の姿を模した、目の前の相手より遥かに凶悪な怪物であった。頭上にそびえる一本角、摩擦と共に火花が散る
ヴィグラスが得意とするのは転移魔法を発展させた召喚魔法である。こことは違う世界。幻想のさらに幻想が蔓延る世界からゲートを繋ぎ、自分の従属を呼び出すのが彼の戦い方だ。たとえ相手が大妖怪であろうと、召喚に成功したならば遅れを取ることはない。ヴィグラスが指を弾いた次の瞬間、彼らの嫌う太陽にも劣らぬ目を焼くような眩い光と大槌で鉄の壁を思い切り叩いたのかと錯覚するほどの轟音と共に、怪物は跡形もなく消えていた。残っているのは焦げた怪物から立ち上る黒い煙と鼻につく焦げた臭いだけだ。呼び出した
「おい、って気絶してやがる。しかも漏らしてやがるのかよ。クソめんどくせえ」
失禁していた少女からするむっとした生暖かい空気に顔をしかめ、ヴィグラスは手で触れるのを嫌がって魔力でマントごと彼女を持ち上げた。彼女は死んだように動かない。召喚時の魔力にあてられて気を失ってしまったのだろう。人里に連れていくのが本来の仕事だろうが、彼は人里には行きたくなかった。理屈ではなく感情的な判断は、拒絶。もしくは恐怖であるとも取れる。歪んだ顔はどうするべきか困り果ててさらに皺を深くし、彼は杖を地面から引き抜いて自分の頭を強く叩いた。考えるまでもないと思ったからだ。そこで迷う自分が情けないと喝を入れたのだ。
「とにかく、うちに引っ張り戻すしかねえか。あのアマなんでこんなことしやがったんだ。ああもう腹が立つ」
どれもこれも全てこの愚かな少女を連れてきた怨霊のせいだ。もし帰ってきた時に魅魔が居たら再びアイアンクローをかましてやろう。ヴィグラスはそう心に決めて、未だ目を覚まさない少女を連れ家への帰り路を急いだ。
書いてみたかった転生者者を書いてみました。衝動的に書いたので続きを書くかは未定。
評価貰えたら頑張るかも(チラッチラッ