東方雷魔伝~the story of magician's master~ 作:溶けた氷砂糖
春告鳥の鳴き声で目を覚ます。長かった冬も終わり、魔法の森にも鮮やかな草花が目を出すようになってきた。腐葉土からすくっと伸びるツツジや、薄暗い森には不似合いなハクモクレンの香りがまだぼやけていた意識をはっきりとさせる。
鼻をひくつかせれば、パンの焼ける香ばしい匂いが下の階から漂ってきた。人生で十回目のパンによる食事に朝から気分が良くなる。
伸びをして、固くなった体をほぐすと魔理沙はベッドから起き上がった。背中にかかる金色の髪を指で梳く姿は、初めてここで目を覚ました時よりも大人びている。成長した体は柔らかみを帯びてより女性らしく、子供から一端の女の子へ成長する兆しを見せていた。
身だしなみも程々に、魔理沙はまだ真新しい階段を駆け下りる。魔法の森に生えている樹木を用いた階段は、らったった、と小気味好い音がした。彼女はこの音が好きでいつも乱暴に降りているのだ。
一階に拵えられたリビング兼ダイニングでは、彼女の師匠が紅茶片手に朝のブレイクタイムを楽しんでいた。
「遅かったな寝ぼすけ」
「えー、まだ日が昇ったばかりじゃないですか」
「いつも起きてくる時間より三十分遅い」
たかが三十分、と魔理沙は思ったが師匠の言うことは正しい。実験の時に三十分も時間を間違えれば命が危ない。普段の気の緩みがいざと言う時に出てこない保証は何処にも無いのだ。
魔理沙は師匠の言いたいことを察して押し黙り、少し申し訳なさそうに席に着いた。ヴィグラスが指を鳴らすと、焼き上がったばかりの食パンが皿に乗せられた状態で魔理沙の前に飛んでくる。テーブルの上には冷えた牛乳がコップに注がれていた。
食事の用意をするのはいつもヴィグラスである。かつて魔理沙が手伝おうとした時期もあったが、邪魔になると撥ね付けられてしまった。彼曰く、自分で作った物以外は信じられないと。それは魅魔のことを言っているのだろう、と魔理沙は思った。というのも、魅魔が勝手に料理を作った挙句、ヴィグラスを失神させたという笑い話を彼女から聞いていたからだ。成長したといえどまだ少女。魔理沙にはヴィグラスの顔の曇りに隠された本当の意味を窺い知ることができなかった。
「師匠、今日はパンなんですね」
「紫の奴が勝手において行きやがったからな。捨てる訳にもいかねえ」
もちろん毒の類いが入っていないことを確認してからである。
家から滅多に出ない彼らの食卓は、主に貰い物で賄われていた。野菜や茸は森からだが、主食となる米や麦についてはヴィグラスが何処かから持ってくるのだ。食うに困ったことの無い魔理沙はその異常性を理解していないが、魅魔に言わせればどうしているのか長年の謎である。
「いただきまぁす」
魔理沙がパンを齧ると、ふっくらとした食感と、仄かな香りが口の中に広がった。テーブルに置かれたマーガリンには目もくれず、一心不乱に小さな口を動かす。ご飯一杯も食べるのに苦労する小食な彼女も、この時ばかりは健啖家となる。もきゅもきゅと小動物のように咀嚼し、ごくりと喉を鳴らして胃に流し込み、とどめとばかりに牛乳を飲み干す。もう一枚程度ならぺろりと平らげてしまいそうだ。
これだけ美味しそうに食べてもらえたならば、例え焼いただけだとしても、作った者冥利に尽きるというものだが、ヴィグラスの表情は無愛想なまま。元々明るい表情など見せないことを知っている魔理沙は気にも止めないが、傍から見れば随分雰囲気の悪い食卓だ。
「ごちそーさまでした」
食べ終えた後、皿洗いは魔理沙の仕事だ。普段自分で家事をするヴィグラスが、珍しいことにこれだけは魔理沙に命令している。暖かくなってきた春先はまだ良いのだが、少し前、冬の季節なんかは冷たいし、指がひび割れるしで大嫌いな仕事だった。師匠も実はそうなるのが嫌だから自分に押し付けているのではないか、と彼女は密かに疑っていたりする。
それでも文句を言う訳にはいかないので、魔理沙はいつものように二人分の皿を運ぶ。その先には川から組み上げた水の入った桶がある。彼女はいつも水汲みまでさせられるのだ。これもヴィグラスの言いつけで、彼曰く、「自分で魔法を使う分には構わないが、人の魔法に頼るな」ということらしい。糠で汚れを落とし、木の実を泡立てて一枚一枚(と言ってもほんの数枚しかないのだが)丁寧に洗う。
そうして朝の日課が終われば、これもまた日課のようなものだった。
「師匠、魔法を教えてください」
「断る」
どうして、と叫びたくなる気持ちを必死に抑える。躍起になって森へ駆け出さない分、出会った頃よりは大人になったということだろう。それでも、苛立ちにも似た感情は収まらない。
ヴィグラスが今まで魔理沙に教えたのは、魔法の基礎理論と必要な触媒、それから水を沸騰させるだとか、精神を落ち着けるなどの簡単な魔法。そして、いざという時身を守るためのナロースパークだけ。それ以上のことは自分で作り上げるものだと言って一言を口を出さずにいた。
師匠の言い分は理解できるし、彼女自身教えてもらうだけのつもりはない。しかし、目の前に高い目標がある。それから何の力も得られないのが悔しかった。
「どうしてですか」
「お前は何度言われても理解できないのか?」
「納得できないから聞いてるんです」
ヴィグラスは彼女の方を向かない。椅子に腰掛けたまま動かず、難解そうな魔道書に目を向け、まるで彼女との会話には何の価値もない、とでも言うかのように素っ気無い返答を返すだけだ。
彼女は薄々と、ヴィグラスが自分を魔法使いにするつもりなど、今になっても全く無いことに気が付いていた。それらしいこと言ってはいるが、筋が通っていてもこじつけで、本音は感情的な部分にあることを悟っていた。それならばどうして自分を弟子なんかに取ったのか。尊敬こそしていても、彼女は失望と怒りを感じないわけにはいかなかった。
不意にノックの音がして、二人の険悪な雰囲気は霧散した。誰だろうか、魔理沙には訪問者の正体が思い当たらない。そもそも、数えるほども客が来ない家だ。来ると言えば喧しい悪霊か、胡散臭いスキマ妖怪くらいのもので、どちらもノックをするなんて礼儀は持ち合わせていない。かと言ってそれ以外の来客は予想もつかない。
ヴィグラスも同じ気持ちだったようで、訝しげに眉を顰めながら扉越しに誰だ、と問い掛ける。その手には既に杖が構えられていて、魔力がじわりと集められ始めていた。
「急にごめんなさい。アリスよ」
「アリス!?」
魔理沙が驚愕と喜びの入り混じった声を上げる。知り合いの名前を出されては開けないわけにもいかないので、ヴィグラスは張り詰めた意識をより一層引き締めながら扉を開けた。間違い無くアリスである。誰かの変装ではなく、また何かに操られている様子も無い。そこまで判断してヴィグラスは警戒を緩めた。その代わり、空いたスペースに疑問がふつふつと沸き起こってくる。
「何の用だ」
「ちょっと触媒を借りたくて。冬の間に切らしちゃったのよ」
私としたことが迂闊だったわ、とアリスは恥ずかしそうに頬を掻いた。その姿は至って自然体で、何か裏があるようには見えない。事実、魔理沙はアリスらしくないとは思いながらも、彼女の言葉を信じていた。
「そうかよ」
しかしヴィグラスは恐らく嘘だろうと察していた。彼女らしくもない、というのも理由ではあったが、何より今触媒を借りに来るという事態そのものが不自然だったからだ。まだ冬の真っ只中であるなら理解できるが、今はもう雪解けの時期である。よほど重要か、或いは特別なものでもなければ触媒如き自分で取りに行ける季節だ。誰かに頂戴しなければならないほどの触媒を軽い態度で借りに来ることなど有り得ない。相手がヴィグラスならば尚更だ。
それに何より、彼女は触媒を使用しない。人形と糸の魔法を扱う彼女にとって、極一部を除いた触媒など無用の長物であるし、それ以外の魔法を仮に研究していたとしても、自力でやってのけるだけの魔力と技量が彼女にはある。
「何が足りない」
「ジギタリスを幾つか。もう少しすれば一斉に咲くのだけれど、今入り用なの」
不審がられていると分かったアリスは言い訳するように言葉を重ねる。ジキタリスは春に咲く毒草だが、確かに今の時期はまだ少し早い。秋にも取れないわけではないが、切らしていても違和感のあるものではないだろう。それ故に嘘くさい。魔界生まれの生粋の魔法使いがほんの一ヶ月二ヶ月も待てないせっかち者である筈がない。近くに月が良い形になる訳でもなし、今でなければならない理由は無いのだ。演技はともかく言い訳は下手らしい。
「まあいい。持ってけ」
「ありがとう。代わりと言ってはなんだけれど」
ごそごそと手元から何かを取り出そうとするアリスを手で制し、ヴィグラスは魔理沙のことを指差す。
「代わりにそいつを連れてってくれ。一日で良い。最近うるさくて敵わねえんだ」
「師匠!?」
「えっと……彼女を一日預かっていてほしい、ということかしら」
「そんなとこだ」
ヴィグラスは薬品棚から厳重に管理された紫の花を取り出してアリスに放り投げる。そして、さっさと行ってくれと言わんばかりに追い払う仕草をして、読んでいた魔道書に目を落とした。魔理沙は困惑して目を丸くしていたが、段々怒りの感情のほうが勝ってきたのか、親の敵でも見るかのような顔をしてヴィグラスを睨む。
「分かったわ。魔理沙ちゃん、行きましょう」
アリスが魔理沙の手を引く、反抗するようなことはしなかった。ただ、魔理沙はいつまでもヴィグラスから視線を逸らさなかった。
*
安請け合いするものじゃなかった。アリスは心から後悔した。元々関わりあるわけでもなし、放っておけばよかったのだ。そう今更嘆いても時既に遅し。もう二時間近くもの間、自分の椅子の上で体育座りをしてむすっと押し黙った他人の弟子の扱いなどどうすればいいのか彼女には分からない。
元々は魅魔が、魔理沙の様子をちょっと見てきてほしいと頼むものだからつい了承してしまったのだ。アリスが行けば魔理沙も喜ぶと言われては断りづらい。報酬の土蜘蛛の糸に釣られた部分もあったがそれは気にしないことにして。
「何か喧嘩でもしたの?」
「……別に」
わざわざ奮発して淹れた紅茶だというのに、魔理沙はカップには手もつけない。問い掛けにそっぽを向いて、石のように固まっているだけだ。目尻には涙が浮かんでいて、ちょっとした切欠で小さなダムは決壊しそうだ。ただでさえ年下の面倒など見たことないのに、泣かれたら手の付けようがない。どうすればいいのかも分からず、そわそわした様子でアリスもソファに腰を下ろす。本当は魔理沙を座らせるべきなのだが、今の彼女は梃子でも動きそうにないので仕方がない。
ヴィグラスと魔理沙の喧嘩など想像もできないが、きっとお互いに譲れないものがあったのだろう。一見、二人共頑固に見えるがその実適応力が高いのは、アリスもよく知っていることだ。多少のことでこじれるとは思えない。
「き、きっとヴィグラスにも何か考えがあるのよ」
言ってから、しまった、と彼女は思った。どうにかして彼女の気を引こうとしたのだ。その結果地雷を踏んでしまっては本末転倒であろう。慌ててお菓子を勧めても、出してしまった言葉は戻らない。案の定魔理沙の目元に溜まる水滴は限界を超え、ぽたぽたと雫が抱えた膝に落ちた。我を忘れて喚いたりはしない。そんな事ができないくらいに彼女は大人びていた。
「師匠はさ、私を魔法使いにするつもりなんか無いんだ。何も教えてくれない」
掠れそうな声で呟いた彼女の顔はくしゃくしゃに歪んでいた。感情が溢れ出すのを、必死に抑えているようだった。強い子だ、と思うのと同時に魔理沙の言葉に違和感を覚えた。
魔法使いにしたくないのなら、最初から何も教える必要は無い。アリスは魔理沙の過去を、ヴィグラスが彼女を弟子に取った経緯を知らないが、彼が無責任な男で無いことくらいは知っている。かつてアリスが魅魔に拉致されて彼の前にやってきたとき、今すぐ返すよう魅魔を叱りつけたような男だ。だから、中途半端に教えただけで投げ出すとはとても思えなかった。
「魔理沙の気持ちは良く分かるけど、いったん落ち着きなさい」
「落ち着いたら何か変わるの?」
「もう一回考えてみて、ってことよ」
「何回考えたって同じさ! ずっと頼んで、ずっと断られてるんだもの。自分で見つけ出せとかそれっぽいこと言って、逃げるんだ。私に魔法を教えたくないから!」
「……そうしないと後で困るってことかしら」
「何が困るんだよ!」
「えっ、ああいや何でも無いわ。忘れて。でも、魔理沙を魔法使いにする気が全くないってことはないと思うわ。だってそれなら、貴女を捨ててしまった方が楽だもの。そうじゃないんだから、きっと彼にも事情があって、教えられない理由があるのよ」
抑えきれなくなってきた感情を寄せた眉間の皺に集めて、魔理沙は椅子を蹴った。がらんと大きな音がするのを気にもとめず彼女はアリスに食って掛かる。対してアリスは、年若い彼女の剣幕に圧されながらも、落ち着いていた。魔理沙の言葉から、一つの結論に辿り着いたようだった。
「なんとなく、彼が貴女に魔法を教えられない理由は分かるの。でも、それを貴女に言う事はできないわ」
「なんで」
「あくまで推測だから、そして彼個人の問題だからよ」
アリスははっきりと言い放った。彼女は想像は最低のもので、魔理沙に言うことすら憚られた。ただ一つ言えるのは、魔理沙はまだ魔法使いとしても人間としても幼すぎるということだった。
「分かんないよ……」
「まだ分からなくてもいいわ。ただ、そうね……後でこっそり家を覗いてみましょう。もしかしたら、彼が何を考えているのか分かるかもしれないわ」
出来うる限り精一杯の優しい笑顔で語り掛ける。魔理沙はまだ納得していないようだった。当たり前だろう、いくら姉の様に懐いてるとはいえ、彼女の言葉をそう簡単に信じることは難しい。だけど、アリスの言葉を無碍にすることも出来なかった。力無く頷いて、目元を拭う。
「とにかく、お菓子でも食べましょう。私の焼いたクッキーなの。きっと元気が出るわ」
勧められたお菓子に、魔理沙は遠慮がちに手を伸ばした。
*
ことん、とカップを置く音がした。ヴィグラスの目の前には魔理沙用の魔導書が広げられており、分厚いそれは既に半分が埋められている。初めは基礎の部分、誰にでも読めるように一般の言語で書いていたが、それなりのテクニックを要する部分になってからは魔法でプロテクトを掛けている。ちょうど内容の少し下のレベルの防御機構だ。最低でもそれを解ける技量が無ければ読ませられないということである。
自分の持てる技術を全て詰め込もうとしたので、未だ十分の一も書ききれていないが、人間の寿命で考えるなら多過ぎるほどである。それでもヴィグラスは筆を止めない。できる所まで、彼女が辿り着けなくても構わない、むしろ辿り着くことのできない部分まで書く必要があった。
「忙しいから、帰ってもらえると助かるんだがな」
ヴィグラスは一人そう呟いた────ように見えた。それが間違いであったことは想像に難くない。けらけらけらと笑う女の声が部屋中に響き渡る。魅魔の声ではない。紫ならばこんな品の無い笑い方はしない。今までに聞いたことのない声だった。
「それだったら扉を開けてちょうだいよ」
「知らない奴を家に入れる程不用心じゃねえよ。相手が魔法使いならなおさら、な」
「あはは! 神経質だねぇ! だからあのちびっ子もここから逃がしたのかい?」
「中堅魔術師程度にそんな気遣いしねえよ」
女の姿は見えず、彼のひとり語りに見える。しかし、そこには確かに彼以外の誰かが居た。振動を伝える魔法だ。ヴィグラスの家は赤の他人が入り込めないよう常に結界が張ってある。それを正攻法で破れるのは今のところ魅魔くらいのものだ。だから彼女は音を使ってヴィグラスにコンタクトを取った。その目的は考えるまでもない。
「てめえに渡すようなもんはねえぞ」
「あは、無理矢理奪っていくから問題無いね」
最古の魔法使いと呼ばれるヴィグラスは、当然多くの魔法道具を持っている。それは彼が現在進行形で使ってる羽ペンだってそうだし、召喚魔法に用いる魔導書も、霖之助が作った杖だって、他の魔法使いから見れば喉から手が出るほど欲しい代物だ。
だが、魔法の森に住まう魔法使いならば、彼から奪い取ろうなどとは考えない。敵わないことを知っているからだ。ヴィグラスの実力は大妖怪には届かないが、魔法使いの中ではトップクラスの更に上、雲の上の存在と呼ぶに相応しいのだ。幻想郷が生まれた直後には身の程を知らない新参の魔法使いも居たが、今ではもう見ない。不敵に笑う彼女を除けば。
「とりあえずはこの面倒な家をぶち壊しちゃおうか」
あっけらかんと言い放つ女の声にヴィグラスの眉がひくついた。一度作り直した家を数年で壊されるのは彼にとって許せないことだった。
外に膨大な魔力が集まるのを感じる。おそらくは前もって準備していたのだろう、プロテクトごと家を破壊しそうな熱量は無視出来ない。
「ごーぉ、よーん、さーん」
「出りゃ良いんだろう」
「話がわっかるぅ」
熱量が霧散する。魔法を解いたわけではないだろう。一時的に逆戻りさせただけで、ヴィグラスが出てきた瞬間に叩き付ける心積もりであることは明白だ。
書きかけの魔導書をしまい込み、羽ペンと杖を持って玄関へと向かう。私服の時間を邪魔されて──それもどこの誰とも分からぬ相手に──苛立ちが募っている。たまには大人気もなく本気を出してしまおうか。そんなことを考えてしまうくらいには。
「さっさと何処へでも消えちま……!?」
「かかったね」
ドアを開け一歩踏み出した刹那、彼の力が抜き取られていくような感覚が全身を走る。足元がふらつく事はない。ただ、羽ペンも、杖も反応しなくなった。
「私以外の魔力を奪うトクベツまほーぅ! どうでしょ辛いでしょなんてったって最高傑作だもの!」
「なるほどな」
他人の魔法に解除するのは苦手でも、自分の魔法を構築するのは大の得意らしい。直感型の魔法使いには珍しくないが、それなりに研鑽は積んでいたらしい。ヴィグラスの魔力のほとんどを吸い取ってしまったこの陣は、彼を以てしても解くのには時間が掛かる。しかし、目の前の女は既に魔力を集め直していた。
「じゃあ、死のっか」
巨大な球体にまとめられた魔力がヴィグラスを狙う。咄嗟に家から離れ、森の奥へ向かうが、恐ろしいまでの熱量は彼の動きを追って曲がる。
轟音。地面をえぐり、砂埃を巻き上げて魔力弾は消滅した。余波が木々を薙ぎ倒して、ただでさえ開けた場所にあるというのに、更地を広げてしまった。
「あはは! 最古の魔法使いとか言って魔法が使えなきゃザコじゃん!」
勝利を確信した女が高笑いを上げる。周りに敵が居ないが故に無防備なその背中。
それを蹴り飛ばした。反応することも出来ず、女は思い切り吹き飛ばされ、地面に倒れ込む。
「い……ったぁ!?」
「悪かったな、魔法の使えない雑魚でよ」
ヴィグラスには傷一つない。それどころか砂一粒付いていなかった。苛立ちを噛み殺した顔で杖で地面を突く。魔法が使えないので何処かへ飛ばしてしまうことも出来ず、かといって倒れている女を殴りつけるほど畜生のつもりもない。立ち上がるのを待っていたヴィグラスの姿は、彼女にはさぞ余裕綽々に見えたことだろう。取るに足らない相手だと馬鹿にされたように思ったかもしれない。どちらにせよ、彼女の思考は今の一瞬で塗り潰された。
「ぶち殺してやる」
「やってみろよ」
立ち上がった女が叫ぶと地面に魔法陣が出現し、大量の魔力弾を生み出した。さっきのものよりは一回り小さいが、魔法の使えないヴィグラスでは一発で致命傷だろう。それが広がり、彼を取り囲んだ。逃げ道を塞いでしまうつもりだろう。
「甘い」
ヴィグラスに向けて撃ち放とうとした瞬間、魔力弾が四散する。魔法は使えないはずだ。いや、完全には封じ込めていないかもしれないが、それでも相殺できるだけの魔力は残されていないはず。驚愕に染まる女の顔に、彼は何事もなかったかのように杖を突いた。
「どうやって」
「教える馬鹿がいるかよ。さっさと帰れ、次はその喉元狙うぜ」
少なくとも今この時点においては格下であるはずの相手に、翻弄された挙句、情けまでかけられた。女のプライドをズタズタにするにはそれだけで十分だった。
余裕を完全に失い、金切り声を上げながら女は地面の魔法陣を大きくする。さらに巨大で、さらに多くの魔法が浮かび上がる。効かなかった手をもう一度使うのは、彼女から冷静さが失われている何よりの証拠だ。
再び魔力がばらばらに散った。彼女には何をやったのかも分からないままだ。やっていることは至極単純なことなのだが。
ヴィグラスの魔力は完全に吸い取られた訳ではない。今の魔理沙よりも少ない量だが、彼はその状態からでも発動できる魔法を作り上げていた。なんてことはない、彼女と同じ魔法弾の類だ。ただし、それは余りに小さく、彼女の魔力弾をすり抜けるほどの大きさしかない。
そして、魔力を一所に集める魔法には核となる部分が存在する。ヴィグラスは小規模な魔力で核だけを正確に撃ち抜いたのだ。引力を奪われた魔力は繋がったままではいられず、霧散してしまったのだ。
「さて、忠告はした」
殺しはしない。それは彼の信条に反する。しかし敵に対して容赦することもない。ヴィグラスが一歩踏み出す。女が怯えて後退る。勝敗はもう決した。
がさり、と草の根を掻き分ける音がした。それは不幸にも女の逃げようとしている側だった。
「なに、この魔法陣は……」
なんでだあの馬鹿! ヴィグラスは内心で舌打ちした。魔理沙を連れたアリスが、唐突に消えた自分の魔力に慌てていた。同時に怯えていた女の顔が笑顔に歪む。
ヴィグラスが駆け寄るよりも早く、女が二人を捕まえに掛かった。いち早く察したアリスは魔法陣の外に出ようとしたが、慌てたままの魔理沙は行動がワンテンポ遅れる。それが命取りになった。
「形勢逆転って奴だよねこれ」
女が勝ち誇った声で言う。魔理沙を掴み、さながら銃を突きつけた強盗のように彼女を人質に取った。アリスが人形を使って助けようと指を動かすと、女は魔理沙の首に爪を突き立てた。首筋を赤い血が流れ落ちるが、虚ろな目をした魔理沙は一切の反応を見せない。今の一瞬で意識を奪われたのだ。
「動くなよ。あんたの大事なお弟子さんがどうなっても良いのかい?」
「……本当に面倒くせえ」
吐き捨てながらも、ヴィグラスはその場から動かない。女が指をパチンと鳴らすと、地面がえぐれ、土が凝り固まって岩のようになる。魔力弾が封じられたから、今度は物理的な質量で押し潰そうとしたのだろう。それを見ても、ヴィグラスは指一つ動かさない。
「死ねよ」
土塊が鳥以上の速さで彼を襲う。鈍い音がした。砂煙が起こり、彼の姿が覆い隠される。動いた様子はなく、直撃したのは間違いないだろう。
「ヴィグラス!?」
アリスの悲鳴が響く。砂埃の晴れたあとには、千切れた四肢らしきものと、だくだくと流れ出る赤黒い血があるだけだった。
「あっははははははははは! ばっかじゃねえの! まあこれでうざったい奴は死んだし、このガキもぶち殺して、てめえもぶち殺して全部頂いてやるよ!」
アリスは何も答えなかった。ただ悲しそうな目で女を見るだけだった。茫然自失となっているのか、それにしても反応がおかしい。
まあいい、殺してしまえば何も変わらない。そう思って女は捕まえていた魔理沙の首を刎ね────ようとした。
「あれ?」
さっきまでしっかり押さえ込んでいたはずの少女の姿は何処にもない。驚いて周りを見渡すと、特徴的な白黒の髪が目に入った。
「よう、何を頂くって?」
「え、なんで、死んだはずじゃ」
ヴィグラスが魔理沙を抱き抱えて、女に杖を突き立てていた。たとえ一度は避けていようと、どうせ魔法は使えないのだ、もっと丁寧に殺し直せば。そんなことを考えた女の中で何かが切れた。体には何の異変もない。しかし、幾ら力を入れても地面が動き出す様子がない。魔力も集まらない。
「残念だがタイムオーバーだ」
自分以外の魔力を奪う魔法。魔法使い殺しとも言える魔法に対して、最も古い魔法使いはとうの昔に結論を出していた。つまり、格上には役に立たないということだ。逆説、格下にはこれ以上なく有効であるとも。戦いながらも自分の魔法が解析され破られて、さらにはやり返されたことに女はすぐに気付いた。気付いたところで手遅れだった。
「この時代遅れのジジイが!」
「うるっせえよ。とりあえず、寝てろ」
罵声を吐く女だったが、ヴィグラスが何事か唱えた途端に彼が恐ろしく見えた。女の全身が死の警鐘を鳴らしていて、それなのに体は動かない。こんな感覚は初めてだった。結局、女は自分より強い相手と当たったことが無かったのだ。ヴィグラスの本気の魔力を当てられて、さらに彼の「相手に圧をかける魔法」の効力を余すところなく浴びて、彼女は意識を手放した。
気を失った女を魔法で適当なところに吹き飛ばして、ヴィグラスはアリスを睨みつけた。
「なんで戻ってきた」
「貴方が魔理沙に対して魔法を教えるつもりがあるのか、それを確かめに来たのよ」
「随分とお節介なことだな」
アリスの言葉に彼は鼻で笑う。
「教えられることは教えた。こんなガキができる事なんてたかが知れてる」
「本当にそうかしら。まさか教えられないなんてこと」
「黙っとけ」
右腕にしがみついていた魔理沙をアリスに向かって放り投げる。
「俺には俺のやり方がある。口を出すな」
「教えるつもりはあるのね?」
なおも続くアリスの言葉にヴィグラスはしばらく黙った後、ひっそりと呟いた。
「必要があればな」
「そう、それだけ分かれば十分よ。彼女はお返しするわ。自分の弟子なら自分で面倒見て頂戴」
アリスは飛んできた魔理沙を糸で丁寧に抱え上げ、ヴィグラスに押し返した。そして、自分の仕事は終わったと森の中へと帰っていく。
「……ちっ」
よくよく見れば泣いた跡がある弟子の姿に、ヴィグラスはため息を吐いた。
なかなか筆が進まぬこの現状