IF GOD - 神は斜陽に打ち震える - 完   作:鈴木_

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16 『light』

ネット碁の中にも強い相手はいた。強いと一括りに言ってもアマの範疇が大多数だったが、稀にプロだろうなと思われる相手も見かけられた。

佐為にネット碁を打たせていた時以上に、素性を隠して碁が打てるインターネット碁の便利さとありがたみをヒカルは身に染みて実感する。

久しぶりに佐為ではなく自分で他人と碁が打てる喜び。と同時にやはり自分は碁が好きなのだと改めてヒカルは思う。

しかし、『sai』があまりにも世間で有名になり過ぎたため、いくら楽しくてもやり過ぎだけは注意しなくてはならない。

 

――この前もsaiの真似かってチャットされたしなぁ

 

特に勝ちが過ぎてはいけない。勝っても5目以内に収める。

既にネット碁の段位が8段のヒカルに、対局相手が盤面の優劣が分からない初心者ではなく、アマでも実力のある者たちばかりだったのも助かった。

対局相手との実力差を悟り、勝てないと悟ったら投了する判断力があり、勝てもしない差が広がるばかりの対局を続ける手間がない。

 

5月から始まる本因坊の挑戦者も佐為が勝ち取り、現本因坊である桑原の7番勝負が控えている。そんな大事な時期に派手に打って、不必要に騒ぎを起こすわけにはいかない。

棋院の方も何十年に一度あるかないかの対局に常になくピリピリしているのが伝わってきて、大仰な気遣いに何度佐為と顔を見合わせ苦笑したか知れない。

しかしいくら世間の注目を集めても苦手な取材を詰め込まれることはなかったので、正直感謝した。

 

既に6タイトルを持っていることでヒカルは大手合いの対局はなかったが、地方対局のために月に何度も移動することになり移動だけで疲労してしまう。対局会場となるホテルに到着しても前夜祭があり、スポンサーや関係者との会食に付き合わなければならず、これで次の日朝から対局となれば身体共に相当の負担がかかるだろう。

 

ヒカルはまだいい。移動するのは自分でも対局するのは佐為である。

つい先日まで十段戦を戦ったが、来月の5月から7月は本因坊戦。少し先の9月から11月にかけては名人・天元・王座の3つもタイトル戦が重なる過密スケジュールになる。

 

だが行洋はヒカル同じ6つのタイトルを取って、なおかつ地を含めた方対局を1人でこなしていたのだ。実際我が身になって始めて実感するその負担。相当な負担が行洋にかかっていたのは想像に容易い。

最近ではテレビに映る機会が多くなったヒカルの顔を覚えている一般人が増え、気軽に外を出歩くことも憚られるようになった。不用意に外に出て、ヒカルに気づいた一般人に囲まれてしまった回数はもう片手では足らない。

その公式対局の合間に佐為以外誰も見ていない自室で打つネット碁は、ヒカルにとって疲れを忘れることのできる大事な気晴らしだった。

 

「ネット碁もこれでしばらく休みだな。10日間後には本因坊戦が始まる」

 

現在の本因坊は桑原だ。棋院に残っていた公式対局の棋譜は全て取り寄せ、近い時期のものから順に佐為と共に検討し続けてきた。20代でプロ棋士になってから豊富な対局経験で得て、あの歳でタイトルの座に居座り続けるだけの老獪な碁を桑原は打つ。

決して忘れてはいけないのが、戦いが盤上だけではないということだろうか。どんな盤外戦を仕掛けてヒカルや佐為の動揺を誘ってくるか分からない。

 

ネット碁は楽しかったが、本因坊戦に集中しよう。

絶対に本因坊を手に入れるために。

 

「akira?」

 

ふとディスプレイに映し出された対局申し込み相手のHNに、マウスを持っていたヒカルの手がピタと止った。

『akira』の名前に塔矢アキラの姿が脳裏に思い浮かぶ。

次いでありえないと首を横に振った。

 

――まさか、塔矢のわけがない………

 

ヒカルのようにタイトルを持たずとも、アキラは既に高段者との手合いをこなしタイトル挑戦者を決めるリーグ戦も戦っている。他にセミナーなどで大盤解説や司会、指導碁もしているのだ。決して暇ということはありえない。

それに昔からネット碁に親しんでいる和谷と違って、アキラの性格を考えれば時間が少しでもあれば碁の勉強をしているだろう。間違っても酔狂でアマ相手にネット碁を楽しむような性格じゃない。

けれど、実際に佐為を追いかけてアキラはネット碁を打っていた過去がある。

ネット碁のアカウントは持っている。

 

「塔矢なわけがない」

 

見ていたディスプレイから視線を落とし、ヒカルは自身に言い聞かせるようにポツリと呟く。

そんな奇跡のような偶然があるわけないと、微かに抱いてしまった期待を打ち消そうとする。もう二度と打てないと覚悟した相手なのに、ディスプレイに<akira>の名前が出てきただけでまた打てるかもしれないと喜んでしまった自分が情けなくて仕方ない。

 

――アキラではないかもしれません。でもアキラ本人である可能性がほんの僅かでもあるなら対局してみては?落胆するかもしれませんが、どうせ後悔するなら対局して後悔するほうがいい

 

一部始終をヒカルの傍で見ていた佐為が、対局申し込みを断ろうとしてる気配を察して引き止める。

行洋との約束を果たすために普段の対局は佐為が打っていても、決してヒカルが全く打ちたくない訳でないことは言わずとも伝わってくる。

 

本因坊を取るために佐為がヒカルとして碁を打つことになったのは後悔していない。言い訳と取られるかも致し方ないが、そうしなければあの時のヒカルは自責の念で自身を保てなかった。

 

そして佐為自身、次の対局のための勉強など準備をしなければならないことは分かっていたが、自らが打つことでヒカルが影に隠れてしまった負い目を承知で、ヒカルにもどうにかして打たせてやりたい。

その一心で佐為はネット碁を薦めたのだから。

 

「やって後悔、やらずに後悔………、どうせならやって後悔の方が諦めがつくか」

 

佐為に背中を押されて、対局申し込みキャンセルしようとしていたのを寸前で留まる。

いつもならヒカルはネット碁の持ち時間は30分から1時間程度で設定していた。アマ相手にそこまで長考する必要はなく、相手も趣味で打っている対局で3時間の持ち時間いっぱいいっぱい長考していたら、大切な休日が1日潰れてしまう。

趣味でちょっと打つ程度なら30分から1時間がちょうどいい。

しかし、もしもう一度アキラと対局することが叶うなら―――――。

 

設定ウィンドウをクリックしお互いの持ち時間を再設定する。

その上で対局申し込み了承ボタンをクリックした。

 

 

 

 

『君に本当の進藤くんが捕まえられるかな?』

 

忠告と共に梨川が教えてくれた情報。

ヒカルが隠れてまたネット碁を打っている。有名になりすぎたsaiのアカウントではすぐにバレて騒ぎになる。saiではない別のアカウントを作りログインしている。そのアカウント名が何なのか、アキラに心当たりが一つあった。

 

(本当にlightは進藤?)

 

緒方が教えてくれた情報と棋譜。

プロ以上の棋力と6冠棋士となったヒカルと似た棋風を感じさせる打ち回し。

 

だが棋譜のところどころに甘さが見つけられ、ヒカルには届かない。何よりヒカルと対座し対局する時に感じる、あのえも言われる気迫と圧迫感が棋譜からは感じられなかった。

静寂の中、対座するだけで震えてしまいそうになるあのピリピリとした空気。

 

姿の見えないネット碁であろうとlightが本当にヒカルなら、棋譜だけでもあの気迫がわずかでも感じられるだろう。そうでないのなら、lightはヒカルではないということなのだが、梨川が言っていた<本当の進藤>という意味深な言葉が引っ掛かった。

 

6つものタイトルを取ったヒカルとは別の、もう一人のヒカルがいると取れる言葉。

そして梨川はヒカルを指して<彼ら>と言った。

まるでヒカルが2人いるかのように受け取れる。

 

――プロになって初めて進藤と大手合で対局した時、進藤の中にもう一人進藤がいると直感的に思った。梨川先生は僕が感じたことと同じことを言っているのか?

 

その真偽を確かめる術と道は梨川が示してくれた。

 

「犠牲か、確かに時間の浪費で無駄になるかもしれない。気がおかしくなったと思われても仕方ないな」

 

自嘲気味にアキラは笑む。少し前の自分だったなら、何を馬鹿なことをしていると今の自分を怒鳴り散らしたことだろう。

『light』と対局申込みを約束する連絡手段はなく、ヒカルに面と向かって『君がlightなのか?』と尋ねたら警戒してネット碁から離れる可能性がある。

気合と根性に物を言わせる根気との戦いである。自分の心が折れて諦めるか、どんなに時間を浪費しようと探しつづけるか。

 

碁の勉強そっちのけで、いつネットに現れるかも分からないアカウントをひたすら探し待ち続けるのだ。しかもシステムの仕様上、既に8段の『light』と対局するためには、アキラが作ったアカウントの段位を最低5段にまで上げなければ対局申込みできない。

初期の自己申告で1級まで設定できるが、そこから段位を上げていくにはネット碁にいるほかの高段位ユーザーと何度も対局し、段位を上げていくのである。もちろん対局相手は99%アマと考えていい。

 

――だが自分に出来ることは『light』とどうにかして対局することだけだ。見つけなければ何も始まらない。分からないままだ

 

新しいノートパソコンを新調し、手合やイベントなどの仕事以外、アキラの時間の許す限りネット碁に入り浸る生活が始まった。母親の明子も最初はどうしたのかと不振がったが、アキラが手合だけは決して休まなかったので、気の済むまでさせることにしたらしい。

不幸中の幸いで、同じプロ棋士のアキラは、棋院が関連するヒカルのスケジュールを把握することが出来た。平日であっても自身の対局や仕事が重ならない限り、ある程度の融通が利く。

 

十段戦が終わったばかりだが、5月からは本因坊戦が始まる。

行洋との約束を果たすために、本因坊を得るために自身がsaiであると明かしたヒカルなら、並々ならない意気込みで本因坊戦に臨むだろう。息抜きにネット碁をする余裕はなくなる。

 

――タイムリミットは本因坊戦が始まるまで。それまでに捕まえられなかったら、次に進藤がネット碁をまた始めるのは本因坊戦が終わる7月以降になる。

 

すでに4月に入り、本因坊戦が始まるまでの時間はあまり残されていない。

『light』がヒカルだった場合を考え、少しでも気を引くためにHNは『akira』。研究会の誘いは全て断り、そして時間の許す限りネット碁で『light』を探し続けるアキラの生活が始まった。

 

ヒカルにイベントなどの仕事が入りログイン出来ないだろうと思われる日にアキラがフリーな日は、一人棋譜並べや詰碁を解いて勉強する。

『light』自体は探し始めて数日後に見つけることが出来た。しかし対局となると他のユーザーとの早い者勝ち勝負となり、なかなか対局申込みできない。頻繁にログインするとは決して言い難いlightが、他のユーザーと対局しているのを観戦するだけだ。

ようやく対局が終わるやlightに素早く対局を申し込むのくり返し。

 

ディスプレイ上には確かにlightがいるのに捕まえられないジレンマともどかしさで苛立ちだけが増す。たった一度でいい。一回対局できれば結果を別としてそれで全てが分かる気がする。

 

そうしてようやくアキラがlightに対局申込みできたのは本因坊戦が始まる10日前だった。

 

 


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