IF GOD - 神は斜陽に打ち震える - 完   作:鈴木_

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01 存在の在り様

その知らせが緒方に届いたのは、明け方近い5時頃だった。

部屋の戸をドンドンと叩き、同室の芦原と自分の名前が呼ばれているのは酒がまだ抜けない頭でなんとなく気付いたが、重い体は言うことをきかず、芦原が対応に出た。

そしてすぐにその芦原から緒方は叩き起こされ、事の次第を聞かされた。

体に残っていたアルコールや酔いなどは一瞬でどこかへ飛んで行った。

急いでスーツに着替え荷物をまとめると、すでに誰かが呼んでくれたらしいタクシーに芦原と共に乗り込み、そのまま行洋が運び込まれたという都内の病院へ急いだ。

しかし、どんなに急いでも岐阜と東京では距離があり、病院に到着したのは昼前だった。

棋院の関係者が大勢集まる中に、動揺するなと自分に言い聞かせ病室の戸を開く。

そこに泣き崩れる明子夫人とその夫人の隣に寄り添うアキラの姿を見つけ、緒方は愕然とする。

病室に現れた緒方にアキラは視線だけ向けたが何も言うことはなく、堪えるようにぐっと歯をかみ締め俯く。

当人である行洋が寝ているだろうベッドは、入り口に立つ緒方からは白い仕切り用のカーテンに隠れ見えなかったが、二人の姿を見ただけで知らせが真実なのだと緒方は悟った。

行洋が亡くなった。

あまりにも突然で早すぎる逝去だった。

明け方、連絡を受けたときはまだ病院に運ばれたという知らせだったのだが、その3時間後にはアキラからの電話で亡くなったことが伝えられた。

行洋が亡くなったその日の夜に、訪れるであろう弔問者の数を考え広い式場を借りて通夜が行われることになり、急過ぎる死去に誰もが驚き悼んだ。

心筋梗塞で倒れる原因の一端は、やはり対局過多で心労が溜まっていたのではないか、という憶測が誰の口からも上がった。

タイトル戦は1年を通し対局時期をずらしているものの、7大タイトルのうち6つを保持していれば、ほぼ年中タイトル戦を戦っていると言って差し支えない。

そのタイトル戦を戦っている合間にも、大手合などの対局が組み込まれ、若いとは言えない行洋の心身にかかる疲労負担は計り知れなかっただろう。

もう少し対局数を減らし、負担を減らしてあげることは出来なかったのかと、今更ながらに悔やむ声が棋院関係者や後援会関係者からあがる。

 

しかし、故人を悼む声と同時に、声を潜めてはいても困惑したような声もまた式場内の所々で聞かれた。

現役の6冠の大棋士が突如他界したのだ。

囲碁界の損失は計り知れない。

通夜の最中に不謹慎だというのに、空位になったタイトルをどうするべきか、前例がないだけに今後の運営をどう行えばよいのか、誰もが今後の行方について勝手な推測が流れている。

 

「おう進藤、来たのか。遅かったな」

 

通夜に出席していた森下が、弔問も遅い時間にやってきたヒカルを見つけ声をかける。

すでに弟子の冴木や和谷たち低段の若い者達は、夕方5時に弔問が始まった早い時間にやってきて、9時も過ぎようとしている現在はどうしても仕事や用事でこの時間になった者か、居残る親族くらいしかいない。

そこに親族でもない学生服を着た子供が通夜会場のロビーに現れれば、どうしても目立つ。

 

「俺、さっき知って……それで急いで来て……」

 

呼吸を乱し、明らかに動揺し不安げに瞳を揺らしながら、ヒカルは森下を見やる。

 

「何で……?どうして?嘘でしょ?塔矢先生が亡くなったなんて………」

 

「俺も連絡を受けたときは信じられなかったが……行洋のやつ、くそっ……」

 

目を伏せ、森下は小さく言い捨てるように言う。

同じ年のプロ試験で合格し、それから頭角を現していく行洋に同期として負けてなるものかと森下は日々囲碁の探求を惜しまなかった。

リーグ戦で戦ったこともあったが、結局森下は一度も行洋からタイトルを奪うことが出来ないまま、行洋は逝ってしまった。

『勝ち逃げしやがって』『俺の許可なく死にやがって』と何度心の中で叫んだか分からない。

もう二度と行洋と碁を打つことが出来なくなったという行き場のない憤りだけが、森下を苛む。

しかし、森下の言葉も何も耳に入っていない様子で、扉の開いた通夜会場の中を真っ青な顔でじっと見やるヒカルに、不審に思った森下がどうかしたのかと声をかけようとして、

 

「だってっ……この前会ったときだって、すごく元気そうにしてたんだよ?」

 

「進藤?お前、行洋と会ってたのか?」

 

ヒカルの口から思わぬ事実が出てきて、森下は目を見開く。

研究会繋がりの森下ならいざしらず、門下でもないヒカルがタイトルホルダーでありトップ棋士の行洋とどこで会う機会があるというのか。

以前、棋院内で偶然行洋とヒカルが一緒にいるところを森下は見かけたことはあったが、そこまで親しいという印象は受けなかった。

行洋というよりも緒方の方とヒカルが何かあって、そこに行洋が間に入っていたという感じだった。

けれど、ヒカルの様子が明らかにおかしいと森下はこの時点で気付く。

真っ青な顔がさらに青ざめ、身体が小刻みに震えている。

会場内を見ているようでその焦点は合っていない。

 

「その先生がなんで死んじゃうの?変だよ、こんなのおかしいよ!」

 

ゴールデンウィークに入る前の日曜日に会った行洋の姿が、ヒカルの脳裏に走馬灯のように蘇る。

行洋と佐為が打つとき、二人に持ち時間は無かった。

対局時計が店になかったこともあるが、制限時間に縛られず、自分の納得するまで考えた最善の一手を二人は打った。

聞こえるのは離れの周囲に植えてある竹が風に凪ぐ葉擦れと、石が碁盤に打たれる無機質の音だけ。

世間の喧騒から嘘のように隔たれ、ただひたすら静かで厳粛なこの空間がヒカルは好きだった。

 

それがつい先日のことだった。

取り乱し、ヒカルは立ったまま拳を握り締め叫ぶ。

 

「また打とうって言った!別れるときだって塔矢先生は笑ってた!今度は先生が俺に本因坊取るって約束したんだ!!」

 

「オイッ!?進藤!?」

 

感極まったようにその場に崩れ落ちるヒカルに、森下はヒカルが叫んだ言葉は当然気になったが、とにかく今はヒカルの気を静めるのが先と

 

「しっかりしろ!進藤!とりあえず休憩室で少し休め!」

 

ヒカルの脇に手を回し、支えるようにして立たせると、通夜会場の入り口横にある休憩スペースにヒカルを連れていく。

その間もヒカルの身体は振るえ、何度も『嘘だ』と口から呟かれているのが聞こえた。

ほとんど行洋と会う接点のないように見えたヒカルが、こうして森下の目の前で行洋の死で気が動転しているヒカルの様はただ事ではなかった。

 

最近の子供は人の死に触れる機会がほとんどなく、死に対する免疫がないとどこかの評論家がテレビで自慢げに話していたが、ヒカルのこの状態は単に知り合いが死んだことに対する動揺ではないなと森下は直感的に感じた。

森下が行洋をライバル視していることで、それに遠慮してヒカルは黙っていたのかもしれない。

しかし、森下の知らないところでヒカルと行洋は親しくなっていたのだろう。

そして行洋の死にヒカルが動転しているのだと推測する。

プロ試験に合格したてのひよっこ棋士と、6冠のトップ棋士のどこに親しくなる接点があるのかと多少疑問が残るとしても。

しかし、尋ねようにも今の気が動転したヒカルの状態ではまともな話は出来ないだろう。

休憩スペースにはまだ数人、人が残っていたが、森下は空いているスペースにヒカルを座らせ、

 

「飲み物貰ってくるからちょっと待ってろ。動くんじゃないぞ?」

 

ヒカルの肩を叩き念押ししてから、飲み物を取りにその場を離れる。

 

――嘘だろう佐為?なんで先生が?この前会ったときだってすごく元気そうにしてたじゃないか!?

 

――私も信じたくはない!行洋殿が亡くなったなど!しかしっ

 

見渡す周囲には黒い喪服に身を包んだ者しかおらず、現代で初めて誰かの通夜に訪れた佐為にも、それがどうしようもない真実なのだと分る。

佐為は以前、虎次郎を初めとするごく親しい者たちとの別れを何度か経験している。

しかしヒカルは身近な誰かを初めて失ったのだ。

そのヒカルになんと言葉をかければいいのか、佐為にも分らない。

そうして、ヒカルに声をかけられることも憚れていると、休憩スペースで休んでいた者たちの会話が聞こえてくる。

が、話している内容に佐為は耳を疑った。

 

「……やはり無理があったんだよ。あのハードスケジュールじゃ塔矢先生でなくても誰でも倒れるって」

 

「しかし、6冠ともなると手合のスケジュールが詰まるのはどうしようもないじゃないか」

 

「タイトル戦の一回の対局だって二日がかりだったり、それが地方で行われるならさらに移動だけで疲れる。それで碁を打てって言う方が初めから無理なんだよ」

 

「まぁな~、本人は碁が好きで打ってたのかもしれないけど、結局は碁に殺されたようなもんだよな」

 

ハハハ、と笑いながら言う様に、佐為はカッとなって咎めた。

 

――なんと不謹慎な!!行洋殿が亡くなったばかりで通夜の場だというのに!!

 

もちろん佐為の声が彼らに聞こえることはない。

全く気付かない様子で会話を続けている。

気付かれることのない憤りに佐為が憤慨し、会話をする二人をギッと睨む隣をヒカルがフラリと椅子から立ち上がり、

 

――ヒカル!?

 

おぼつかない足取りでヒカルは話をしている二人のもとへ歩いていく。

俯いたまま近づいてきたヒカルに、話をしていた二人は会話をやめ、怪訝に視線を交差させた。

そのうちの一人が不機嫌な口調で、

 

「なんだ?」

 

「……ねぇ、先生はそんなに忙しかったの?打ち過ぎで死んじゃうくらい大変だったの!?」

 

「知らねぇよ。憶測だけど、みんな話してるしな。あんなハードスケジュールじゃ誰だって倒れるって。6冠のタイトルホルダーなら過密スケジュール組まれても、それはそれで仕方ないのかもしれないけど」

 

ガキが喧嘩を売ってくる気か、と少し身構えながら、言い訳がましく言う。

故人の通夜に話すことではないと自分達も多少なり分っているのだろう。

けれど己より年若い子供に謝るのもシャクで、自分だけでなく皆も言っているといって責任逃れしようとしている。

その姿にもまた佐為はただならない怒りを覚えたが、肉体を持たない己にはどうしようも出来ず唇をキツク噛み締めるだけだった。

しかし、ヒカルが何か言い返す素振りはなく、無言でその場を離れ休憩スペースからもフラフラと出ていこうとしたので、佐為は慌ててヒカルを追う。

どこに行くとも知れない足取りで、ヒカルは声を震わせながら

 

「どうしよう……俺、先生がそんなに忙しかったなんて知らなかった……。先生が俺と無理に会ってたから……だから、先生はこんなことに……」

 

――ヒカルの所為ではありません!行洋殿が亡くなったのが決してヒカルの所為であるはずがありません!

 

「それに俺、この前会ったとき、全然知らなくて先生に本因坊取ってって我侭言った……。死んじゃうくらい大変だった先生に俺……」

 

――それはっ!ヒカルが意図したわけではない!ただ行洋殿を応援したかっただけでしょう!?行洋殿もそれは分っていたはずです!

 

「でもっ!先生は!」

 

「進藤っ!お前動くなと言っただろうが!」

 

森下に名前を呼ばれ、ヒカルは何かを言おうとしてビクリと身体を振るわせた。

飲み物を持って戻ったら、いるはずのヒカルの姿が休憩スペースから消えていて、森下は慌ててヒカルの姿を探し回った。

様子がおかしいことは分っていたが、飲み物を取りに行く僅かな時間でさえ待つことができないでいる。

ヒカルを一人にするべきではなかった。

ヒカルを休憩スペースに連れ戻し、持ってきた温かいお茶の缶のフタを開け手渡す。

 

「少し飲め。気分が落ち着くから」

 

お茶を受け取り、ヒカルは口の中を湿らす程度にお茶を飲んだが、何も味がしなかった。

ひたすら心を喪失感が蝕み、どうしようもなく不安が襲ってくる。

そこにいつも見慣れた白のスーツではなく、黒のスーツを着た緒方が現れ、

 

「森下先生、大丈夫ですか?外で何やらもめたと聞いたのですが」

 

「いや、もめたというほどではないんだ。ただ……」

 

そうではないと森下は首を横に振り、ヒカルが大人しく座っていることを確認してから、緒方を手招きしその場から少し離れる。

 

「俺も詳しい事情は知らんのだが、進藤のやつ、どうも行洋と親交があったみたいなんだ。それで行洋が死んで、えらく気が動転しちまってる。緒方君は行洋から何か聞いてたか?」

 

「いえ、特に何も……」

 

本当は知っていたが、とても森下に話せるような内容ではなく、緒方は知らないふりをした。

 

「そうか、だがあれは少し異常だ。ちょっとでも目を離すと何をするか分らん」

 

「俺が進藤を見ていましょう。進藤を院生試験に推薦したこともありますし、多少なり彼と話したこともありますので、全く知らない仲でもない」

 

「しかし、いいのか?君は塔矢門下筆頭だし、これからまだ来る客に挨拶とかしなきゃならんだろう?」

 

「主だった関係者の弔問はひと段落しましたから、俺でしたら大丈夫ですよ。森下先生も早くから来られていらっしゃられて、お疲れではありませんか?今日はもう特にすることはありませんので、森下先生もそろそろ帰られて少し休まれた方がいい」

 

緒方の勧めに、森下はチラリとヒカルの様子を伺う。

とりあえずは森下が持ってきたお茶を握りしめ、大人しくしているようではある。

 

「まぁ、そこまで言ってくれるのなら俺としちゃ助かるが……」

 

けれど、先ほど取り乱したヒカルを目のあたりにしたばかりで、このまま緒方の言葉に甘えていいやら迷ってしまう。

 

「行洋が……」

 

「え?」

 

「どうも行洋のやつ、進藤と約束してたらしいんだ」

 

「先生が約束ですか?」

 

「ああ、あの行洋が本因坊を取ると進藤と約束していたらしい」

 

「本因坊を!?」

 

緒方は一瞬聞き間違いかと思った。

 

「ああ、俺も俄かに信じがたいんだが……実は俺も今夜は嫁が留守にしてて、そろそろ帰らんといかん時間なんだ。ほんとに進藤のこと任せちまうがいいかい?」

 

あの状態のヒカルを誰かに任せて帰るのは当然心配だったが、今夜ばかりは妻が泊まりで家を留守にしているため、父親の森下まで家に帰らないわけにいかなかった。

その点、緒方なら同じプロ棋士として対局に対する姿勢やイベントでの仕事ぶりを何度か見てるので、森下も多少なり信頼出来る。

 

「はい。進藤は後で俺が車で家まで送りましょう。こんな時間にアレを一人で帰すのは危ない」

 

緒方が言うと、森下は納得したようにくれぐれもよろしく頼むと付けたし、通夜の会場から去っていく。

その後ろ姿が完全に消えてしまうのを確認してから、緒方は俯き座り込んだヒカルの元へ行った。

先ほど森下が言っていたことは事実なのか、そうではないのか。

複数のタイトルを保有するタイトルホルダーになっても、行洋が特定のタイトルに対して誰かに必ず取るとか、対局前にそういった見栄を言ったり大口を叩くといったことは、これまで一度もなかったからである。

トップ棋士として名を連ね、世界で一番神の一手に近いと言われるようになっても、行洋の謙虚な姿勢は全く変わることがなかった。

その行洋が特定の一人と口約束するとはとても考えられなかったから、緒方同様、森下も約束したというヒカルの言葉に驚いたのだと推察できた。

 

しかし、緒方には行洋が約束するかもしれない可能性にを知っていたので、その話があながち嘘には思えなかった。

行洋はヒカルがsaiであることを知りながらずっと秘密にし、それがバレそうになるとネット碁を代わりに打ってまでヒカルを隠そうとした。

二人の間には、余人には推し量れず、知ることの出来ない繋がりがある。

その二人の間でどんな約束事が交わされても不思議ではない気がした。

 

「進藤……」

 

声をかけ、緒方はヒカルの隣に腰を下ろす。

その声にヒカルは酷く億劫そうに顔を上げたが、声の主が緒方だと分ると何も言わずまた俯く。

お茶の缶を握り締め、下に俯いているせいで前髪がヒカルの表情を隠してしまい、伺い知ることはできない。

まるで親猫を失った子猫のようだ、と緒方は思う。

誰が知らずとも、ヒカルを影から支えていたのは間違いなく行洋だったのだろう。

その行洋が突然他界し、嘆き悲しみ、途方に暮れている。

一度周囲に人がいないことを確認してから、緒方はゆっくりとヒカルに言い聞かせるように話を切り出す。

 

「塔矢先生が亡くなって動揺するなとは言わん。だが取り乱すな。先生とお前の関係は誰も知らないんだ。お前が自らバラすようなことをしてどうする?」

 

「……緒方先生はそれを望んでたんじゃないの?」

 

弱々しく、けれど的確な部分をヒカルは突いた。

saiの正体を求め、ヒカルがsaiであると観衆の目があるところで暴こうとした。

しかし、緒方はあえてヒカルの問いには答えず、

 

「お前が先生に会いに料亭に行った日、俺も直前に塔矢先生と会っていたんだ。お前の新初段の対局の日に現われたsai、それが塔矢先生であることに気づいて、真偽を確かめに行った……」

 

「……塔矢先生は、なんて?」

 

「お前と先生が繋がっていたことはこっちが拍子抜けするくらい簡単に認めたが、お前はsaiであってsaiではない、そう先生は言われた。そしてその意味は教えては下さらなかった。時が来るまで静かに見守れと……。だが、肝心なことは教えてもらえず、ただ見守れと言わたところで到底納得できるもんじゃない。正直、先生とお前の世界に、俺が立ち入れない線引きをされた気分になった」

 

行洋がsaiであるヒカルを特別視しているのか、ヒカルがsaiの秘密を話した行洋だけを特別視しているのか、それともその両方なのかは緒方には分からない。

しかし、緒方がヒカルを問い詰めたとき咄嗟に行洋の後ろに隠れ助けを求めたり、ヒカルが窮地に立った時は似合わないネット碁を打ってまでsaiであることを隠そうとした行洋に、目に見えない確かな繋がりが2人の間に見えたのは確かだった。

 

「……イベントの時は悪かった。酒が入っていたとはいえ、他人の目があるところで問い詰めるようなことじゃなかった。俺はもう……saiの正体を追わない。saiが誰であっても構わない……。ただ、もし許してもらえるなら」

 

言いかけて緒方は口を閉ざす。

自分たちの元へ近づいてくる足音に気付いたからである。

足早に少し焦った様子で芦原が駆け寄ってくる。

 

「緒方さんこんなところに!隣は進藤くん?」

 

珍しい組み合わせだと芦原は意外そうな顔をした。

だが、あまりヒカルに触れてほしくなかった緒方は、ヒカルに寄せる芦原の視線を遮るように、

 

「どうした?」

 

「いえね、先生の弁護士の方がいらしてて、自分にもしものことがあったら俺達弟子に渡してほしいって先生から頼まれてものがあるらしいんですよ?それで皆集まってるんですが」

 

「先生が?」

 

わざわざ弁護士に行洋が託すほどのものとは何であるのか、と緒方は疑問に思ったが、すぐに隣にいるヒカルを思い出す。

 

「お前も来い。歩けるな?」

 

森下に任された以上、最期までヒカルを見る責任があると緒方はヒカルを立たせる。

反応のないヒカルを腕を引っ張るようにして、半ば強引にヒカルを連れて皆が集まっているという部屋に緒方は向った。

皆が集まっているという部屋は通夜会場内の一室で、すでに最期の一人だったらしい緒方は畳の和室に入った途端、一緒にヒカルを連れてきたことに集まっていた全員の注目を浴びた。

その中でも特にアキラが一番驚いていたが、緒方は構わずヒカルを隣に座らせた。

 

「皆さん、よろしいでしょうか?こちらが塔矢先生からお預かりしていたものになります。もし自分に何かあったら葬儀後にでも弟子たちに渡してほしいと頼まれておりました。私は中身を見ておりませんが、確認をお願いしたします」

 

黒いカバンから出され、すっと寄越される封筒。

弁護士の事務的な言葉に、その場を代表するように息子のアキラがA4の大きさの封筒を受け取った。

後ろを留めてある紐を外し、中身を取り出す。

 

「棋譜……?」

 

中から出てきたのは十一枚にもおよぶ棋譜だった。

棋譜は手書きで書かれ、その字から行洋が自ら書いたのだろうと推察できた。

だが、書かれた棋譜の内容はアキラも初めて見るものだった。

何故こんな棋譜が、と疑問に思いながら、兄弟子である緒方や芦原たちにも見えるように棋譜を一枚一枚回していく。

しかし、その棋譜は全て名局といってよかった。

渡された棋譜を見た緒方たちもすぐにそのことに気付いたようで、驚愕の眼差しで棋譜に食い入っている。

 

「これって誰の棋譜?先生が渡してほしいって言ってたんなら、1人は先生だろうけど相手は誰?」

 

戸惑いながら芦原が誰に問うとも知れない問いかけをする。

その棋譜の裏を最初にひっくり返したのは誰だったか。

部屋の一角で『あっ』という声が上がったかと思うと、

 

「sai?」

 

棋譜の裏の左下に小さく書かれている3文字を緒方は声に出して読む。

部屋の中にどよめきが起こり、それぞれが持っている棋譜を裏返せば、その全ての裏面に『sai』と記されてあった。

 

――お父さんはsaiと会ってた?saiの正体を、saiが誰か知ってた?

 

棋譜から視線をそらすこともできず、アキラは愕然とした。

そういえばアキラがsaiと対局して負け、それから後、再び現れるようになってからも興味を示した様子のなかった行洋が、急に緒方にsaiが打った棋譜を頼んだことを思い出す。

それを聞いたとき、確かにアキラはおかしいなと思ったが、深く詮索することはなかった。

しかし、よくよく考えれば、行洋の碁が急に若返り、それまで以上に強くなっていったのもその頃だった。

そしてsaiもまた連勝を続けながらさらに強くなっていった。

だとすれば、行洋はその頃にsaiと知り合い、誰にも内緒でsaiと現実で会って対局していたのかもしれない。

 

幼い頃から毎朝一局打ってきて、行洋が盤面に相対する相手ではなく別の誰かを見ているような気がしたのは、決してアキラの勘違いではなかったのだ。

行洋が見ていたのはsaiだった。

saiが行洋に新しい風を呼び込み、心境に変化をもたらした。

 

「じゃあsaiは近くにいるんだ!どうやって先生とこんな関係になったのか分らないけど!」

 

「待てよ!もしかしたら今日の弔問者の中にsaiがいるんじゃないか!?」

 

「まさか!?」

 

「でも可能性は十分あるだろ!?先生と直接会ってこれだけ打ってるんだ!いや、打ってるからこそsaiと名乗らずとも、きっと来てる!」

 

突然出てきた棋譜に集まった者たちが口々に言い合いう。

ネットの中に潜む最強の棋士が自分たちのすぐ近くにいるかもしれないという現状に、saiの正体を突き止めるこの絶好の機会を逃すまいと皆が騒ぎ立てる。

騒然となった場を静めなければとアキラも頭では分っていたが、行洋とsaiが対局した棋譜がアキラを強く揺さぶった。

アキラがsaiを意識していることは行洋も知っていたはずである。

それを知っててsaiの正体を教えることのなかった行洋に、一抹の不信感を覚えてしまったからだ。

息子のアキラであってもsaiの正体を話せない何かしらの事情が行洋にあったのかもしれない。

しかし、何も語らず棋譜だけを残して逝ってしまった行洋に、裏切られたような気持ちになることはいけないことなのだろうか。

騒然となった部屋に不似合いな淡々とした無抑揚な声が通る。

 

「……棋譜はこれだけ?」

 

緒方の隣に座っていたヒカルが、少し身を乗り出し、アキラが並べた棋譜を端から端に一通り目を通す。

棋譜が出てきたことにヒカルは微塵も驚いていない。

直前までの騒ぎとは真逆の静けさと、心ここに在らずなヒカルの様子に、それまで騒いでいた者たちも騒ぐのを止め、ヒカルの言動を注視してしまう。

急に部屋が静かになったことで、アキラもハッと我を取り戻し、封筒の中に何もないことを確認してから

 

「ああ、そうだね……これで全部だ。全部で11枚」

 

棋譜を数えた。

 

「足らない」

 

ポツリとヒカルが呟いた一言に、アキラは『え?』とヒカルを見やり、隣にいた緒方はギクリと表情を強張らせる。

行洋の死に気を動転させまともな状態ではないヒカルを放置できずこの場に連れてきてしまったことを、緒方は今更だったが激しく悔いた。 

ヒカルを連れてくるべきではなかった。

誰かにヒカルを見張っているように頼み、休憩スペースに置いてくるべきだった。

この場には緒方以外にもアキラや塔矢門下の多数の棋士達がいる。

今のヒカルは我を見失い、自分が今どこにいて何を言ってるのかすら理解していない。

ヒカルがこれから何を言おうとしているのか。

ただ酷く嫌な予感だけが全身を駆け巡り、

 

――やめろ!進藤ッ!!

 

緒方は声にならない声で叫ぶ。

そしてもう一人。

この場にいて誰にも存在を気付かれず、そして誰よりもヒカルに近しい佐為だからこそ、ヒカルがこれから何を言おうとしているのか真っ先に気付くことが出来た。

それは決して言ってはいけない禁句。

 

――いけない!ヒカルそれ以上言っては!!

 

「この前、先生と打った棋譜がない」

 

ヒカルはそれを口にしてしまった。

あまりにも突然の死で、弁護士に行洋が託す間も無かった行洋と佐為の、最期の対局棋譜の存在を。

 

 

 


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