IF GOD - 神は斜陽に打ち震える - 完   作:鈴木_

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20 本因坊戦第一局

打ち始めて10手打った頃だろうか。部屋を満たす只ならない気配と威圧感に桑原は盤面から顔を上げた。

 

(これは………)

 

ヒカルから発せられる鬼気迫る気配。

対座する盤面を通して、桑原に向けられるピリピリとした気迫と威圧感は着物越しにも肌を刺し、部屋を満たす静寂と密度を増した空気は息苦しさすら覚える。

 

ピクリとも動かず、長考していた間、ヒカルはすっと膝上で両手で持っていた扇子を脇に置き、碁笥から石を一つ挟み、盤面にパチリと打つ動き。

迷いや淀みが全くない一連の動作の後、また扇子を手に取り膝上に持ってくる。

 

そしてこれまで桑原が何千と対局してきたどの棋士とも異なる気配。まだヒカルが院生時代にエレベーター前で偶然すれ違ったとき、ヒカルから何かを感じた気がしてシックスセンスと揶揄した只ならない気配が気のせいではなかったと確信する。

気の迷いや勘違いと流してもよかったような微かな気配が、数年経ってこうして対座するヒカルからはここまで大きくハッキリと感じ取れた。

 

しかし気づけるのは実際に気配が向けられている対局者の桑原だけで、傍にいる係りの者や観戦者ではこの人外の気配は感知出来ないだろう。目の前で対局が行われている緊張感で精一杯だ。

ましてや高段の棋士に揉まれてもいない年若く経験の浅い棋士では、ヒカルと対局しても鬼の発する威圧感に飲み込まれて気づけもしないだろう。

高段者であってもヒカルから発せられる人に非ざる気配に気づける者は、数える程かもしれない。

 

――儂も随分と狸やら鬼やら言われてきたものじゃが、本物の鬼がきよったわ

 

まだ十代という年若いヒカルの姿を借りた鬼が、鋭い牙を剥き出しにして桑原が守り続けてきた本因坊の座を奪わんとしている。

けれども反面納得できた点もあった。

静かな面差しで盤面を見つめているヒカルを上目使いに薄く見やり、

 

――なるほどのう。あの男(行洋)、妙に目移りし始めたかと思えば通りで。鬼に惹かれておったか

 

ならば無理もないと、いっそ冷めたような淡然な気持ちになる。

声高にする気はなかったが、行洋ほどの棋士が何故?と桑原も考えないことはない。ただし噂や詮索好きの周囲と違って、桑原は行洋と何度も対局し、その人となりを知っていた為、勝手に耳に入ってくる噂は全く信じなかった。

だが、まさか自らの対局者から鬼の気配を感じる日が来るとは人生何が起こるか分からない。

 

そして昨夜の前夜祭パーティーでヒカルが言っていた言葉を思い出す。

ヒカルは桑原に亡くなっている本因坊秀策と打てると言っていた。普通なら死んだ棋士と対局することは絶対に適わない。けれど、こうしてヒカルは人に非ざる気配を放ち、本因坊を桑原から奪おうとしている。

それが真実ならば、

 

――だからこそ長いこと本因坊にしがみついてきた

 

「甲斐があったということか」

 

自分の人生で最大の舞台がやってきた。

それも本来ならどんなに望んでも打つことの出来ない相手とだ。

相手に不足なし。

 

 

 

 

棋士たちが集まっている検討室では一手打たれるごとに、小さな歓声と共に打たれた一手の狙いや今後の流れを検討していたのだが、

 

「どうしたんだ?桑原のじいさんらしくない。下手な小細工なしで、ガチで正面から進藤と相打つ気なのかよ」

 

腕を組んだ倉田が思わず意外そうに言う。盤外戦は別として囲碁で小細工はほとんど打ちようがないのだが、定石を踏んだスマートな対局を好む桑原にしては、打つ手がどれも好戦的だった。

 

すなわち盤面が複雑な様相を呈し始めているのだ。複雑になればなるほど長考が増え体力を使う。決して若いとは言い難い桑原にとって、長考は大きな負担となるだろう。しかもまだ本因坊戦第一局目でだ。

どういう心境の変化だ?と首を傾げずにはいられない。

 

「桑原のじいさんもまだあんな碁打てるんだな。見慣れてないせいか見てるこっちまでどきっとするというか」

 

「桑原先生もまだお若い頃はかなり力碁を打たれたものですよ。年齢と共に体力浪費が激しい力碁はあまり打たれなくなって寂しい気がしてたが。天才と言われてる進藤君に桑原先生も触発されたかな」

 

首をひねる倉田に、昔から対局取材をしてきている天野がハハハと懐かしそうに話す。倉田もまだ低段だったころに桑原の若い頃の対局棋譜は並べてきたが、実際に桑原と対局してみた印象と最近の棋譜から受ける棋風はどうしても異なる。

それに、これまでにないほど本因坊戦が注目されているとしても、あの桑原がたったそれだけで打ち方を変えてくるとは考えにくい。

 

「そうは全然見えないんだけど」

 

信じられないなと眉間に皺を寄せる倉田の隣に座っていたアキラが、無言で立ち上がる。

検討室に集まったメンバーはそれぞれ自分の考えを口にしていたが、アキラだけはずっと黙ったまま対局室の中継画面と皆が並べていく盤面を交互に見るだけだった。

アキラが周囲の意見に圧されて、黙っているわけではないことはすぐ傍に座っていた緒方も分かっている。思うところがあって、敢えて何も言わずに対局を観戦しているのだ。

 

アキラが部屋を出たのを見計らい、緒方も腰を上げそのあとを追う。

恐らく、ヒカルの強さの秘密にもっとも近いのはアキラだ。

緒方が廊下をでてしばらくしてアキラは建物の外れで立ち止まり、庭の方を見やっていた。その数歩後ろに緒方も立ち止まり、けれど声をかけることはない。

 

隠れて後をついてきたわけではない。足音も気を付けなかったから、自分の後ろから誰かがついてきていることくらいよっぽど鈍感でない限り気づくだろう。

聡いアキラなら、その足音が聞き慣れた緒方の靴音であることにもすぐ勘付けると、緒方は勝手に考えている。

だから声をかけることもしなかった。

 

瀬戸内の海風がふいて気持ちいい。これが何もない日の休暇であればドライブを楽しめたかもしれない。

 

「緒方さんには話しておきます。先日、僕がlightと対局してみた感想です。そして対局してみた結論でもあります」

 

緒方の方を振り返ることなく海の方を見下ろしたままアキラは話始める。本因坊戦が行われるホテルだが全くの貸切というわけではなく、普通の一般客もいるだろう。しかしホテルの敷地内でも建物の外れまで足を向けるものは少ない。

囲碁関係者にしても、連絡があればすぐ戻れるように休憩のためだけに関係者用部屋からあまり離れはしないだろう。

 

「聞こうか」

 

腕を組み、緒方はアキラの話に耳を傾ける。

 

「進藤の中に進藤が2人います。普段表に出ているのは進藤。そして碁を打つ時だけsaiが現れる。お父さんが亡くなるまで進藤はそのもう一人の自分をネット碁だけで打たせていて、それがsaiだったんです。ただ誤解しないでほしいのが、saiが一般的に二重人格と呼ばれる人格的なものではないということです」

 

振り返ったアキラの表情は険しい。冗談で言っているのではなく、アキラは真剣にヒカルの強さをそう考えているのだ。

本気で言っているのか?というのは愚問だろう。

ヒカルの強さが普通の常識で測れないことは緒方も既に熟知していたからである。

 

「僕がまだプロになる前、駅前の碁会所で進藤は初めて他人と対局した。誰かと初めて対局し、石を打ったのは進藤でも本当に対局して僕を負かしたのはsaiだった。けれど中学囲碁大会で僕に大敗し、そこから実力をつけてプロになったのは表である進藤本人。その間、進藤は相手の見えないネット碁でだけsaiを打たせていたんです」

 

一通りアキラは結論を述べる。緒方以外の誰かに話せば、正気を疑われても仕方がない話をしているという自覚がアキラにもあった。

自分が決して勝てないから。ヒカルの才能に嫉妬して。それでそんな馬鹿らしいことを言い出していると、普通ならまともに取り合ってもらえない話である。

 

だが、アキラがヒカルと初めて出会った頃からネット碁でsaiが出現し、それから今までの不可思議な出来事を振り返り、自分の考えと照らし合わせていくとバラバラだったピースが綺麗にはまっていく。

たった一つ、『もう一人のヒカルであるsaiは何者なのか?』というピースを除いて。

 

「奇抜な推論だが、俺にはどうにも二重人格との差が分からないが?」

 

ふむ、と頷いてから、緒方は適格にアキラの説明の不足点をつく。

 

「二重人格は人格の違いであり、人格は同じで囲碁の強さだけ異なるというのはその症状に当てはまりにくいそうです。仮に人格が別々にあっても、特定の分野で突出した強さが現れることは限りなく少ない」

 

そして知識も。抑圧されるなどのストレスで人格が複数形成されても、1個人が得た知識以上のものは別人格も持てない。しかしヒカルは梨川でさえ知らない敦盛を知っていた。それは囲碁の強さとか常識では説明がつかないのだ。

 

アキラの補足に緒方は一応の納得を見せる。通常では考えられない話ではあるが、そう考えれば辻褄が合う点が確かにあるのを、緒方は素直に認める。

<突出した強さ>とアキラは表現したが、ヒカルの強さはすでに囲碁界で誰よりも強く高みにある。そんな強さを二重人格などの症状・病気で得られるとは、素人考えではあるがそちらの方が考えられないと思ったからだ。

 

「人格は同じで、けれど実際に打っている相手は違う。対局中、向かい合ってる進藤と対局している気がしないのはその所為ということか?」

 

「はい。進藤は恐らくsaiの指示通りに石を打っているだけで、実際は対局当事者ではなく観戦者なのです。だから相手の打ちこみにも全く動じない。第三者の視点で盤面を見ている」

 

それによって対局者の打つ石に込めた気迫は、全てヒカルを通り抜けてしまう。

これは確証のないアキラの全くの想像だが、対局者の気迫が相手に全く届いていないわけではない筈だと思う。

けれど、saiの姿は、声は、自分たちには見えないし聞こえない。

saiの代わりに石を打っているヒカルの姿だけしか見えず、困惑し、真の対局相手を見誤ってしまう。

 

「理解に苦しむ内容だが、saiが進藤の二重人格でないなら何だというんだ?」

 

「分かりません。それは進藤本人にしか分からないでしょう。でも」

 

「でも?」

 

「お父さんはsaiを神として捉え、僕は鬼として見ています」

 

対局相手が違うと分かっていつつ、盤面にsaiの影を探し続けた行洋と、ヒカルを裏に追いやり表に出てきたsaiをアキラは鬼と見る。

かと言って行洋の時とアキラの状況が異なっているのは理解している。ヒカルの裏に隠れて大人しく打っていた頃のsaiならば、アキラがその真実を知っても行洋と同じように神のように見て、鬼として見ることは無かったかもしれない。

 

――全てはお父さんが亡くなったのが、歯車が狂い始めた切欠なのか。

 

もし行洋が亡くならなければ、今もsaiはネットで打ち続け、アキラはsaiの正体を探し続けながらもヒカルは表にいて自分の碁を打ち続けていられたのかもしれない。

saiを表で打たせてまで行洋との約束を果たそうとしているヒカルに対して憤りはあれど、そう考えれば全てが全てヒカルが悪いわけではないのだとアキラの胸はやり場のない無常感に苛められた。

 

父親と息子、ヒカルの強さを正反対の言葉で表したアキラに、緒方は小さなため息を漏らす。

確かにヒカルの今の強さは『鬼』のような強さだ。

 

「それはまた両極端な例えをする。」

 

「例え同じものでも見る者次第で神にも鬼にもなる。梨川先生にも忠告されました」

 

「梨川先生に?」

 

脈絡のない人物の名前が急に出てきて、緒方はピクリと反応した。ヒカルの後援会スポンサーであり、行洋の旧友。そしてヒカルが失われた敦盛を舞ったことで、少なからずヒカルの中に別の何かを見たのだろう人物。

 

緒方は直接ヒカルが舞っている姿を見たことはないので、上野から話を聞かされても半信半疑だが、梨川がヒカルの後援会スポンサーになっている事実は現実である。

その梨川本人が棋士のアキラに何の忠告をするのかと思案する。

 

「あまり不用意にsaiに近づいてはいけない。saiとはそういう存在なのだとも。もしそれでもsaiを求めるなら相応の覚悟が必要だと忠告されました。恐らくですが進藤に元々そういう意図はなかったと思います。けれどお父さんは知らずsaiの正体を知ってしまい、結果として魅入ってしまった」

 

人は誰しも強さに惹かれずにはいられない。しかも元々ネットの闇に隠れていた頃からsaiは強さだけでなくその秘匿性も相まって、世界中の棋士を魅了していた。勿論アキラ自身、例外なくsaiに惹かれた一人だ。

 

それだけsaiは棋士を魅了し惹きつける存在だったのだとアキラは思う。ただし決して近づき過ぎてはいけない存在で、もし近づき過ぎれば行洋のように囚われる危険性があった。

そしてヒカルと交代するように表に出てきたsaiは、人とは思えない強さで棋士たちを圧倒していっている。

 

「これが僕がlightと打ってみて辿り着いた結論です。lightは本当の進藤です。元々表にいて僕と出会ってから囲碁を始めプロになる実力を付けた進藤。そして今ホテルの対局室で桑原先生と本因坊戦を打っている人物こそ、進藤の姿を借りたsaiなのです」

 

 


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