対局中に着ていた和服を脱ぎ捨て、洋服に急ぎ着替えて財布が入ったリュックを背負うとヒカルは他の荷物には見向きもせずに部屋を飛び出す。
――ヒカル!?どこへ行くのですか!?対局が終わったばかりなのに今からどこに!?
カエリタイ
「進藤本因坊!おめでとうご、って、どちらへ!?」
カエリタイ
「どちらに行かれるんですか!?これから7冠達成の記者会見が用意されて!?進藤本因坊!?待ってください!」
カエリタイ
「誰か!進藤本因坊を止めるんだ!」
――こんな時間からどこへ帰ると!?ヒカル!?
「還りたいんだ、佐為………早く、一分でも一秒でも早く!」
もう二度と戻らない時間へ
もう二度と会えない人へ会いに
もう二度と還れないあの場所へ
「還りたいんだっ……!」
今にも泣き出すのではと思えるほどの悲痛な叫び。
―――……還りましょう!ヒカル!きっとあの者も待っててくれているはずです!
後ろから慌てて引き留めに追いかけてくる関係者に構わず、ホテル玄関前に駐車待機していたタクシーにヒカルは乗り込む。
「出して、急いで」
急かされて、とりあえずタクシー運転手はサイドブレーキを上げて発信する。
その後ろからスーツを着た数人の男たちが焦った顔で追いかけてきた様子だったが、発進してしまったものは仕方ない。
「どちらまで?」
メーターのスイッチを入れながら尋ねると、乗車した客は短く、
「東京」
「東京!?今からですか!?って、え!?進藤名人!?」
男たちに追いかけられていたこともあり、運転手は念のためにと振り返ったのだが、後部座席に座っている相手を認識して、思わず、素っ頓狂な声を上げてしまった。
よそ見をしていては事故ってしまうと、前を見ながらも、バックミラーで何度も後部座席を確認する。間違いない、さっきまで携帯電話で生中継を見ていた棋士が自分が運転する後部座席に座っている。
自分の聞き間違いでなければ、今日の対局で勝者が決まるかもしれない本因坊戦で、もし進藤が勝てば、そのまま記者会見になるはずだったが当の本人がホテルを出て行って本当にいいのだろうかと不安になった。
しかも行先は東京だ。この時間ともなれば東京に向かう手段は、深夜バスや運良くて飛行機に限られる。タクシーでも決して行けなくはないが、名古屋のこのホテルからともなると東京に入るだけで4時間以上はかかるだろう。
これだけの有名人で身元もハッキリしている。タクシーの無賃乗車の心配はないが、脳裏を過るのは、はやりホテルから追いかけてきたスーツ姿の男たち。
まず間違いなく、後部座席に座っており、今日の対局を勝利して晴れて本因坊になった進藤ヒカルは関係者に断りなくホテルを抜け出してきたのだと察せられた。
戻らなくて大丈夫なのか、声をかけるべきか迷う。
けれど、
「急いで、お願い」
「わ、分かりました」
どこか追い詰められたような、真っ青に青ざめた顔で急かされ、運転手はハンドルを握りは直した。
■
常にないほど日本棋院は事務員が詰めかけていた。
名古屋で行われている本因坊戦第5局目のホテル会場にもそれなりの関係者が詰めかけているが、不測の事態のためとして普段ならもう帰宅してしまう事務員たちも、朝から事務所に残り、対局の結果を見守り続けた。
本因坊戦は第三局目を桑原が勝ち、残りの第一局、第二局、第四局とヒカルが勝利している。そして今日行われている第五局二日目でもしヒカルが勝てば、ヒカルが新しい本因坊となり前人未到の7冠棋士が歴史上に誕生するのだ。
しかもプロになって3年足らずであり、未成年という若さでの偉業。
ネット碁で力を磨いたらしいというのも初めこそ胡散臭さがられたが、ここまでくれば世代を反映した新しい棋士像だ。
近年、人気の衰えが著しい囲碁界にあって、ヒカルのような話題性のあるニュースは光明に等しい。テレビのニュースでも連日取り上げられ、囲碁に関心を持ち始めた人で、囲碁教室は連日満員状態だ。
この勢いのままに、ヒカルが7冠を取ればさらに話題になるだろう。
それだけではない中韓と追い抜かれ差が広がり始める一方の日本にあって、ヒカルがその反撃の狼煙に必ずなるだろう。Saiとしてネット碁を打っていた頃から中韓のプロ棋士を打ち破り、なんと言っても未成年という若さ。可能性は十分すぎるほどあり、囲碁界からの期待も大きい。
「7冠か……、実現すればそれは正直すごいことなんだが問題も増える」
「何が問題なんです?」
「対局スケジュールだ。他にもイベント事だってタイトルホルダーとして引っ張りだこなのに、一人しかいないんだぞ?」
と、低い声音で含みを持たせた年配事務員の物言いに、年若い方の事務員は、『あ』と声を詰まらせた。分かっていたはずなのに、目先のエサに釣られてつい忘れがちになってしまう。
しかし決して忘れてはいけないのだ。数年前に当時現役6冠だった棋士が心筋梗塞で急性したという事実を。因果関係あるなしの確証がなくとも、過密スケジュールで疲労がたまっていたのは間違いない。結果、タイトルホルダーが急逝したことで一度に6つのタイトルが空位になった。
それまでタイトルが空位になった前例はなく、差し迫るタイトル戦をどう行うべきか、今後のことも踏まえ関係者でかなり話し合った経緯がある。
「これでもし次に進藤君が倒れでもしてみろ?間違いなく日本棋院は世間からバッシング受けるぞ」
7冠棋士の誕生は喜ばしい反面、決して行洋の二の轍を踏むわけには絶対いかないのだ。ヒカルの健康状態は最優先で考慮されるだろう。
出演するイベントも今以上に制限される。
特に8月からは3つのタイトルが重なるという最もスケジュールが過密する時期にはいるのだから。
白黒両者とも一手打たれるごとに上がる歓声。
本来なら対局や研究会などの用事がない棋士まで、皆で本因坊戦第五局を観戦するために棋士たちが詰めかけていた。この場に来ていない棋士も違う場所で集まったり、家で対局中継を間違いなく見ている。
盤面は小寄せまで入って形勢はヒカルの方がわずかに優位だ。上座に座る桑原は、盤面を睨んだままピクリとも動かない。対してヒカルは正座した膝の上で扇子を握り、静かに見据えていた。
長いことタイトル戦を見てきた事務員や記者も、ヒカルほどに落ち着いて対局に臨む棋士を見たことがないだろう。
『ありません』
桑原が頭を下げたのに続いて、ヒカルも応じるように頭を下げる。
途端に中継画面を見ていた事務員たちから『おおお~』という歓声が上がった。棋院の公式サイトではすぐさま対局結果と新しい本因坊が誕生したことがヒカルの写真と共に更新掲載される。
また、つけていたニュース番組でも速報でヒカルが本因坊になったことが報じられる。
今この瞬間、7大タイトル全てを持った棋士が誕生したのだ。
<全7大タイトル棋士誕生!!進藤ヒカル7冠!!>
次々と棋院の電話が鳴り始める。こんな時間に一度に大量の電話など、普段なら滅多にあるものではない。
用件はすぐに察せられた。7冠になったヒカルへの取材、インタビューだ。しかしいくら事務員が普段より集まっていても用意された電話回線には限りがある。すぐに全部の電話回線はいっぱいになった。
それまでテレビ中継画面を見守っていた事務所が急に慌ただしくなる。しかし、決して嫌な慌ただしさではない、むしろ喜ばしい忙しさだった。
このまま対局会場のホテルでは勝者であるヒカルの記者会見が開かれることだろう。
ホテルにはテレビ局のカメラも多数やってきていると聞く。それが全国放送されれば、さらに囲碁界は注目され賑わっていく。それを考えると、気持ちも浮き立ってくるものだ。
だが、対局検討をした後、そのまま記者会見に入る予定だったのに、なかなか記者会見が始まらない。すでにテレビはいつ記者会見が始まってもいいように中継の様子が映し出されている。しかし本人が現れる様子は一向になく、進行係が何の説明もなく『もうしばらくお待ちください』を続けるだけだ。
「どうしたんですかね?対局で疲れたのかな?」
石を打つだけと見えて何時間も集中して頭を使う囲碁は、考えている以上に疲労するゲームだ。対局中におやつタイムがあるのは空腹だけでなく頭の働きを保つための糖分を摂取するためでもある。
特に7冠がかかっていたヒカルのプレッシャーは推して量られる。そのプレッシャーに打ち勝ち勝利したのだ。記者会見にすぐ出られないほど疲れ切っていても不思議ではない。
そこに事務員の一人に、私物である携帯電話が鳴る。
すでに棋院の電話は鳴りっぱなしで問い合わせが止まる様子はない。
電話をかけてきた相手を確認し、通話ボタンを押す。相手は同じ棋院関係者で、本因坊戦第五局が行われたホテルに行っている相手だ。棋院の電話はすでに問い合わせでつながらないから、こちらに電話してきたのだろうと軽く考え、
「はい、もしもし」
きっと会場では7冠棋士の誕生ですごい騒ぎになっているのだろうと想像しながら答える。
しかし、
「どうしたんですか?進藤君から何か連絡ですか?こっちに?」
電話相手の用件が分からず、首をひねる。しかも電話の後ろからはバタバタと人が忙しなく走っている足音が聞こえてくる。
『だから!進藤君がいなくなったんだ!対局終わってタクシー乗り込んでいなくなったんだよ!』
「え!?進藤君がホテルから姿を消した!?」
それまで電話対応をしていた者たちまで、何事かとバッと振り返った。
■
予定していた記者会見は本人が不在では始まらない。会見開始予定時間を1時間を過ぎて、体調不良を理由に記者会見の中止が発表された。
もちろんカメラを構えていた記者やカメラマンたちからはほんの少しだけでも姿を映させてもらえないかと要望はあったが、すでに本人は部屋で安静にしているとだけ伝える他ない。
その裏側ではいなくなったヒカルの行方をスタッフが探し、ヒカルの携帯電話にも電話してみたが電源が切られているのか応答はなかった。ヒカルが向かっているかもしれない心当たりは片っ端から電話していく。
ヒカルの実家はもちろん祖母の家、後援会の梨川、藁を掴む思いで同じ研究会の森下にも電話したがヒカルからの連絡はないという。
ヒカルは疲労で安静にしていると言ったところで、ネタになる情報に敏感なマスコミだからこそ不測の事態に慣れていない棋院スタッフの慌てように、何か異変があったのではと勘付いている記者も少なくないだろう。
だが、それすらも構っている余裕はなかった。
「もし進藤君から連絡がありましたら、すぐにこちらにもお知らせください!おねがいします!」
院生になるとき推薦したという緒方にまで電話をまわしたらしい。あまり情報をまわせばその分だけ漏れるのも早いというのに、そこまで頭が回らないようだと、出されたお茶を飲みながら桑原は思う。
だがヒカルの行方を案じる関係者とは別に、桑原にも懸念はあった。
ふぅ、と息を吐いてから、やれやれと重い腰を上げる。
「電話の相手は緒方くんか、オイ代われ」
「桑原先生!?」
まだ会話途中だった電話を、有無を言わせず強引に代わらせる。
そして電話を持ったままスタスタと廊下へと歩きつつ
「儂じゃ、桑原じゃ」
『桑原先生!?進藤がホテルからいなくなったというのは本当なのですか!?』
電話口から聞こえてくる慌てふためく声に、一度電話口から耳を離す。
少し置いて、
「声を荒立てるな。耳に響くわい。話はほんとうじゃ、対局終わって少し休憩すると言って一人にしたきり、タクシーに飛び乗って出て行ったらしい。部屋は脱ぎ捨てられた着物が散らばってな。記者会見の用意をしていたこっちは、本人がいきなりいなくなってしもうて蜂の巣をつついたような騒ぎじゃ」
『こんな時間にどこへ……』
「心当たりはないか?」
『心当たり?俺が進藤の向かった先にですか?そんなの俺にあるわけ』
「対局終わったすぐあと、『カエリタイ』と進藤が小さく呟いたのが聞こえた」
桑原が投了を告げた直後、礼を返したヒカルが本当に小さな声でつぶやいた一言。恐らく盤面向かいにいた桑原ぐらいにしか聞こえなかっただろう。
だがまさかホテルを抜け出すとは流石の桑原も予想しなかったが。
桑原も当然ヒカルの行先に心当たりはない。
しかしヒカルに潜む鬼に少なからず気づいているのだろう緒方なら、心当たりがあるかもしれないと当りをつける。
普通の棋士なら桑原も放っておくそれも、普通から少し逸脱してしまっているヒカルでは何が起こるか分からない。
『カエリタイ?東京の家にですか?』
「さぁのう。君は進藤がわざわざ家に帰りたいためだけに、関係者に何も告げずホテルを抜け出したと思うか?」
問われれ逆に緒方の方が答えに窮した。いきなり棋院事務員から電話がありヒカルがホテルからいなくなって、桑原にその行先に心当たりはないかと問われる。
本因坊戦を戦い抜き、記者会見をすっぽかしてまで帰りたい場所など、心当たりがあるわけがない。
――帰りたい?どこへ?どこへ帰りたい?いくらなんでもこんな時間から東京の家に帰りたいとごねるような子供じゃない。行先は間違いなく家じゃない。だとしたら、どこに帰りたい?どこに向かっている?
分かる訳がないと半ば自棄に思いながらも、どこか、どんなに可能性が低くてもいいからヒカルが向かいそうなところがないかと緒方が必至に思案している中、
「進藤の選んだ道は針のムシロじゃ。一歩歩くごとに足裏に針が深々と突き刺さり、血が滴り流れる。自分の選んだ道に後悔はしていないだろう。それでも後悔しない道を選んだとて、胸の奥深くに還りたい場所は誰しもあるものじゃ。心当たりはないか、進藤の還りたい場所に」
いつもからかい口調が混ざる桑原に珍しく、淡々と語るようによく考えろと緒方に説く。
その一言に、ふと思考が止まる。
『還りたい、場所?』
行洋がまだ生きていた頃の、ヒカルとsaiと3人でいられた楽しかった、嬉しかった、幸せだった頃に、還りたいのか?
+++
一個前の21話のラストにも少し加筆いたしました。