IF GOD - 神は斜陽に打ち震える - 完   作:鈴木_

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23 ヒカルと佐為

ヒカルが東京に到着したのは日付が変わってからだった。まだ未成年だが、地方対局のために一人で向かわねばならないこともあり、父親が何かあった時用にとカードを1枚渡されていた。

すでにヒカルの年収は億を超えているが、まだ未成年ということで資産管理は両親がしており、旅費の他にも囲碁関連の書籍やシャツなど必要なものはカード払いでいい許可はもっている。

 

おかげで名古屋からタクシーで東京まで18万以上かかっても、カードのおかげで支払いに困ることはなく、寺の前に乗り付けると迷わず墓地の方へと走っていく。

 

人っ子一人いない真っ暗な真夜中の墓地。寺の住職などが見回りなどのために墓地の隅にいくつか街灯があったお蔭で真っ暗ということはなかったが、明るい夜に慣れた東京にあって薄暗くどこまでも不気味な雰囲気である。

土地の少ない東京で200基以上並んだ墓石の中から、目的の場所へと脇目もふらずヒカルは目的の墓の前にたどり着く。

二日がかりで対局し、休むことなくタクシーに乗り込み東京まで5時間。疲労は蓄積し、一秒でも早くたどり着きたくて全力で走ってきたせいでヒカルの呼吸は激しく乱れていた。

数回深呼吸をしてから、疲れ顔でニコリと墓石に微笑む。

 

「こんばんは。こんな時間に来るとか先生だったら子供は早く帰れって怒るかもしれないけど、今日だけは許してね」

 

簡単なあいさつと詫び。

料亭で会っていた頃はまだヒカルも中学生1年で帰りが遅くなってはいけないと、陽が沈む前に家に帰らされていた。なのにこんな夜中に来ては決して行洋は良い顔をしないだろう。

けれど、今日だけは特別である。行洋との約束をようやく果たせたのだから。

 

「今日の対局見ててくれた?先生との約束果たしたんだよ。俺たち、本因坊になった」

 

満面の笑みで報告する。

自分たちが行洋の代わりに本因坊になると決意してから2年近くかかった。

 

「桑原先生、ほんと強かったよ。先生が前に『簡単には譲ってくれない』って言ってたの分かった。すっごくしぶといんだ。気を抜いたら一瞬で引きずられそうになる」

 

第三局を落とした一局も、その1日目は忍耐碁だった。勝負時がなかなか掴めず、じっとりと対局が進んでいく。桑原の表情だけが、普段と変わらず飄々としていたのがヒカルの記憶の中で印象深く残っている。

 

七番勝負で、第一局、第二局、第四局、第五局と佐為が4勝し、晴れて本因坊になった。なのに、対局直後の足で急ぎ名古屋から行洋の眠るこの墓地に急ぎ帰ってきても、望んだ結果にならないのはまだ何か足らないというのだろうか。

 

「塔矢先生、どこいるの?もう成仏してこの世にいないの?」

 

軽く周囲を見渡しても、ヒカルの傍にいるのは無言でヒカルを見つめている佐為だけで、他には誰も見つけられない。

墓前に着いてからずっとにこやかだったヒカルの表情が目に見えて沈み、右手で額を押さえた。

 

「佐為は見えるのに、どうして先生は見えないんだろう……」

 

何の抑揚も籠っていない平坦な口調でつぶやく。

姿だけでも見えたなら、扇の示す位置にヒカルが石を置けばいい。

声だけでも聞こえたなら、指示された位置にヒカルが石を置けばいい。

そうすればまた3人で碁を打てる。

 

佐為と同じく神の一手を求めていた行洋なら幽霊になって現世にとどまるのではないか?

もしかしたら行洋はヒカルに見つからないようどこかに隠れているのではないか?

本因坊を取るという約束を代わりに果たせば、行洋が喜んでくれて姿を見せてくれるのではないか?

 

いつの間にか、何の根拠もないのに幽霊である佐為が見えるならば、きっと行洋の姿も自分なら見える筈と勝手に思い込んでいた。

 

<ジャッ、ジャリッ>

 

風が墓石の間を通る音と、植えられた木の葉が揺れる音しかしなかった場所で、ジャリという地面を踏む確かな人の足音を耳が捉える。

幽霊である佐為が歩いても足跡どころか足音一つ立てない。すぐにその足音が幽霊だろう行洋のものではないとと直感で察しつつ、足音がした方へヒカルは緩慢に振り向いた。

 

「塔矢……緒方先生…………」

 

 

 

 

「どうだった!?」

 

車の運転席に乗ったまま、料亭から戻ってきたアキラに結果を問う。しかし、問う前から料亭の門から出てきたアキラの表情が、向かう前と何も変わっていないことに有力な情報は得られなかったのだろうと

 

「だめです。進藤から連絡は来てないそうです」

 

「ちっ」

 

案の定な結果に緒方は忌々しそうに舌打ちし、握っていたハンドルを拳で叩く。

ホテルから姿を消したらしいヒカルが向かいそうな場所を考えて、真っ先に思い当たったのがこの料亭だった。行洋とヒカルが皆に隠れて碁を打っていた店。

楽しかっただろう思い出がこの店にはたくさんあるだろう。

 

普段なら客のプライバシーについて口の堅い店だろうと、本人が行方不明になって行方が分からない状況と尋ねてきた相手が、身元のはっきりしている行洋の息子であるアキラなら流石に冷たく追い返しはしない筈である。

紹介でしか客を取らない高級料亭だけあって電話帳やネットに店の電話番号が載っているわけもなく、アキラを連れて直接足を運んだのだが無駄だったらしい。

 

「女将には今の進藤が普通ではないことを伝えておきました。進藤から連絡があればこちらにすぐ連絡できるよう携帯の番号も伝えてきました」

 

助手席に乗り込んだアキラが早口で伝える。

本因坊戦第5局を自室で一人検討していたところに緒方からかかってきた電話。こんな時間にどうしたのか?と問うより先に、家に向かっているから出かける用意をしておけと言う。

用件は車の中で話すと言ったきり電話はブツリと切れ、訳の分からないまま明子にこれから緒方に会うと断りを入れて家を出たが、まさかヒカルが記者会見をすっぽかすだけでなくホテルからも姿を消したとは全く予想外だった。

 

――どこに行ったんだ!?分かってるのか!?自分のしていることを!

 

日本中が注目していると言っていい。7冠棋士が誕生するかもしれない本因坊戦第五局で勝利して晴れて新本因坊になっておきながら、対局後の記者会見をすっぽかし、関係者に一言の断りもなく行き先も言わず姿を消すという愚行。

どれだけの数の人間に迷惑がかかっていることだろう。そして今もどれだけの人間がヒカルを心配し行方を捜していることだろう。

 

まだニュースにはなっていないようなので、ヒカルが行方不明ということは表に出ていないのだろうが、このままヒカルが姿を現さなければ、マスコミにバレるのも時間の問題だった。

7冠達成の華々しいトップニュースがそのまま、7冠棋士失踪という醜聞ニュースになりかねない。

 

「他に進藤の向かいそうな場所に心当たりはないか?どこでもいい!」

 

緒方の唯一の心当たりが空振りして、アキラにも心当たりがないか声を若干荒げて問いかける。

 

「多分、塔矢先生が関係している場所だ」

 

ヒカルが強く還りたいと望む場所。

険しい表情で思案していたアキラが『あ』と小さく声を出す。

 

「お父さんのところ?」

 

「墓か!?夜中の墓場だぞ!?」

 

咄嗟に緒方は否定してしまった。葬儀のとき、ヒカルは寺にまでついてきていた。行洋が眠る墓は知っている。

しかし悪戯目的か気がおかしい人間でなければ、人の骨が埋葬された夜中の墓地など薄気味悪いだけで絶対に近寄らないだろう。まともな人間であれば、墓参りする時間帯は朝か昼間だ。夕方も極力避ける。

 

だが、他に心当たりはなく、確かに行洋に関係した場所で今のヒカルはまともではない。料亭の女将にはヒカルから連絡あればこちらにも伝えてほしいと伝言しある。

ならば行くだけ行ってみる価値はあるかもしれないと考え直し、サイドブレーキを引いた。

 

ヒカルがホテルから失踪したと緒方連絡を受けてから既に2時間以上経っている。電話をしてきた事務員の話を信じるなら、タクシーに飛び乗りヒカルがホテルを出て行ったのは、対局終了直後。そこからタクシーでまっすぐ東京へ向かったのなら、渋滞に捕まらない限りあと2時間前後で着くだろう。

緒方と一緒とはいえ、未成年のアキラを日付が変わる時間まで外を出歩かせてはいけないかと、

 

「君は一度家に帰った方がいい。明子さんが心配する」

 

「進藤を見つけるまで帰りません。緒方さんがどうしてもと言うなら、自分ひとりで探します」

 

案の定な答えに、だろうなとアキラを家に帰らせるのを早々に緒方は諦める。せめて連絡だけは入れておくかと、今夜はもう遅いため緒方の家に泊めるとメールしておく。

これでアキラの方はひとまず問題ないだろう。

 

塔矢家の墓がある寺にたどり着き、すぐに母屋の方へ行き住職に本人の名前は伏せつつ事情を話す。いきなり夜にやってきた2人に寝るところだった住職も最初は戸惑っていたが、話を一通り済ませると快く承諾し、緒方の車を母屋の前に留めておくよう勧めてくる。

寺の前に車がずっと留まっていては、見回りの警察に不審車両か路上駐車で通報されると心配されては緒方もひたすら頭を下げることしか出来なかった。

 

本当にヒカルがこの寺に来るかどうか、勝率は限りなく低い。

だが棋院からは、その後ヒカルが見つかったという連絡は何もなく、まだ誰も行方を掴めていないのは明らかだった。その中でいつヒカルがいつ来ても気づけるよう、墓が見える寺の縁側に腰掛ける。

 

――こんな夜中に自分が墓地を張り込むことになろうとはな

 

平素の自分には考えられない程、馬鹿なことをしていると緒方は自嘲する。ヒカルが行方不明になろうと、本来なら関係ないことなのだ。家族が探すなり棋院関係者が探すなりすればいい。

同門でもない棋士の自分は家でその連絡を待つだけでよかったのに、こうしていてもたってもいられず車を走らせ、夜中の寺の縁側でタバコをふかして大馬鹿もいいところだ。

 

風が強くないのがせめてもの救いだったかもしれない。夜に外に出るということでアキラも薄いジャケットを羽織ってきていたが、日付が変わるようならアキラだけでも寺の中で休めるよう鍵は預かっていた。

 

ヒカルが見つかったという連絡が来ないまま、2人無言で縁側の端から墓場の方を見張り続けて日付が変わった頃だった。

ヒカルが来れば起こすから、そろそろアキラに寺の中で横になるよう言おうとして、寺の門の前に車が止まるブレーキ音を耳が捉え、緒方とアキラが同時に反応し俯きがちだった顔を上げた。

 

バタンと乱暴にドアを閉める音と、母屋ではなく墓地の方へと全力で駆けてくる足音。人の気配だけでなく、大多数が寝静まる夜中で生活音もほとんど聞こえてこないため、人の走る足音は昼間の数倍大きく響いた。

 

まさか本当にヒカルはこの墓地に来たのかと緒方とアキラは顔を見合わせる。

身体を柱の陰に隠し、じっと塔矢家の墓がある位置を見張る。その墓の前にやってきた人影。墓地の隅に立っている街灯の薄明りの中、うっすらとその人物の前髪が明るく反射する。

そして夜中の墓場に似つかわしくない明るい声。

 

「こんばんは。こんな時間に来るとか先生だったら子供は早く帰れって怒るかもしれないけど、今日だけは許してね」

 

ヒカルの声だった。

 

「今日の対局見ててくれた?先生との約束果たしたんだよ。俺たち、本因坊になった」

 

足音だけでもあれほど響いたのだ。人の話し声もハッキリ聞き取れた。

行方が分からなかったヒカルを見つけて安心する気持ちと、本因坊になったことを行洋に報告するくらい明日になるまで待てなかったのか?と呆れ果てた気持ち。

言いたいことは多々あれど、ひとまずヒカルは見つけたと夜空を仰いで、安堵のため息が漏れる。

しかし、『俺たち』と言ったヒカルの一言が流れそうになる寸前で引っ掛かる。

 

「桑原先生、ほんと強かったよ。先生が前に『簡単には譲ってくれない』って言っての分かった。すっごくしぶといんだ。気を抜いたら一瞬で引きずられそうになる。塔矢先生、どこいるの?もう成仏してこの世にいないの?」

 

アキラたちに全く気付くことなく、ヒカルは墓石へ語りかけ続ける。

 

「佐為は見えるのに、どうして先生の姿は見えないんだろう……」

 

ヒカルの一言にアキラと緒方は同時にギクリとする。

今までもずっと2人はsaiの正体を追ってきた。アキラが確信したヒカルの中にいるもう一人のヒカル。梨川が不用意に近づき過ぎてはいけないと忠告し、桑原が深く考えるなと曖昧にした存在。

ソレがヒカルの先ほどの言葉で、それまでの曖昧で漠然として不明瞭だったものが、より確かな形へと一気に近づく。

 

――この世?成仏?進藤はお父さんの幽霊を本気で探しているのか?saiは、幽霊?

 

心の臓が冷える、というのはこの瞬間を言うのかもしれない。場所が夜の墓地だからというわけではない。侵入してはいけない領域に自分が足を踏み入れたかもしれない後悔。

もしかしたらという想像はしたが、実際にヒカルの口から出るのでは大きな差がある。

 

Saiが何者であるか。

ヒカルを通して自分たちは本当は誰と打っているのか。

盤面を挟み、確かにそこにいるのに姿の見えない対局者は、まさしくネット碁のようだ。

 

意を決し、縁側からヒカルのいる墓石の方へとアキラが向かうと、その数歩後ろを緒方もついてきた。静かな足取りだったが、地面を踏むジャリという音に、ヒカルは驚いた素振りもなく緩慢に振り返った。

 

酷い顔だ。

墓地の数少ない街灯の明りの中、薄らと見えるヒカルの顔を見てアキラは思う。

生気のない瞳と薄明りのせいで顔の陰影が増し、死人のような土気色だ。悲観している筈なのに嘆く気力すらなく、アキラたちが姿を現しても反応らしい反応も見せない。

行洋ですら成し遂げられなかった7冠制覇という偉業を達成し一日も経っていないとは到底見えなかった。寧ろ真逆。

ヒカルにはひたすら深い絶望があった。

 

「満足したか?進藤」

 

アキラが静かに声をかける。行洋との約束を果たし本因坊を手に入れ、こうして行洋の墓に報告もしたというのに、ヒカルが本当に願ったものは手に入らなかったのだろうと察せられた。

7冠になって周りがどんなに祝福しても、なんと虚しいのだろう。恐らくこのヒカルに、誰のどんな祝福の言葉も何一つ届かない。

 

「君がプロになって僕と初めて対局した日のことは覚えているか?」

 

何も答えないヒカルにアキラはゆっくりとした口調で話続ける。

 

「君と対局しながら、君の一手に何度もsaiの影がチラついた」

 

「当たり前だろ?オレがsaiなんだから」

 

「違う。君はsaiじゃなかった」

 

薄く嘲笑したヒカルを、真向から否定する。するとずっと虚ろだったヒカルが、ピクと微かに反応した。

 

「もう一度言おう。今度は取り消したりしない。君の中にもう一人君がいる。進藤ヒカルとは別のもう一人。それがsaiだ」

 

疑問形ではなく確固とした言葉でアキラは断定する。

 

「塔矢……」

 

ヒカルも全く驚かなかったわけではない。しかし、視線だけチラと見やった佐為の驚きはそれ以上のようで、眼を見開いたままアキラをじっと見ていた。

ほぼ正解に近い答え。

 

――塔矢に佐為をほぼ気づかれたな……

 

元々確証はないまま、アキラは薄々ヒカルの中にいた佐為に気づいていた。それをヒカルがsaiとして表で打つようになって、すっかり忘れてしまっていた。

行洋と共有した秘密『藤原佐為』という存在を、行洋が亡くなってからも秘密にし続けることで変わらず繋がっている気がした。

 

だが、行洋との約束をヒカルと佐為が果たしても行洋は戻ってきてはくれなかった。

そしてアキラに気づかれてしまった。証拠は何もない。ヒカルが話さない限り『藤原佐為』は誰にも見らはしないし、誰にも知られることもない。

しかし、アキラに確信されてしまった。

そこに、ずっとアキラの後ろで無言だった緒方が、

 

「俺は正直全部を信じたわけじゃない。元から目に見えないものは信じない主義だ。だが一つだけ聞かせてくれ。後悔はしなかったのか?saiとして打つことに」

 

ヒカルが質問に答えてくれるかはヒカル次第だ。アキラの話を全て信じるには、どうしても常識が邪魔をする。

それでも自分自身がもう表で打てなくなると分かっていながら、saiを表で打たせることに後悔はなかったのか知りたいと思った。自分なら、他人に打たせて二度と自分として打てなくなるなんて絶対に嫌だ。そして他人が打った碁で得たタイトルなど断固辞退するだろう。

そんな緒方の思考を見透かしたかのように、ヒカルが小さく嘲ったのが肩がくっと揺れたので見て取れた。

 

「………全然後悔してないって言ったらきっと嘘になるのかなぁ…………。でも料亭で初めて先生と打ったときは怖かった。信じてもらえなかったらどうしようって。けど皆から背を向けるように隠れてであっても先生と打って良かったって今でも思う。先生との約束を果たすためなら、俺の後悔なんて些細なことだ」

 

今でも正体を隠し続けてネット碁を打っていたヒカルに、後ろ指を指してくる者が一人もいなくなったわけではない。

しかし梨川のように肯定してくれる人も確かにいる。

行洋と密会し隠れて打っていたことは全てが否定されることではなかった。

 

「囲碁を打つのが楽しくて、楽しくて、たぶん先生の前でだけ何も隠し事してない自分でいられた。父さんや母さん、家族にだって話せなかった」

 

現に今もヒカルは自分の両親と祖父母、家族の誰にも佐為のことを話していない。

話そうとも思わない。

 

「俺が誰かに話すことも話さないことも、自分がとやかく言うべきことじゃないって笑ってた。塔矢先生だけは俺を否定しなかった。先生だけがありのままの俺を受け入れてくれた」

 

拒まれたらどうしようと脅えながら佐為のことを話した時のことを今でもハッキリ思い出せる。後に行洋に『ありがとう』と礼を言われた瞬間はどれだけ救われただろう。

ただし、遠い先ヒカルが死んであの世で行洋と再会できたなら、ヒカルと佐為の判断を行洋は黙って少し苦笑いする気がする。

 

「否定する?」

 

アキラの表情が怪訝になる。『だけ』というからには、比較対象が存在することになる。

そんなアキラをヒカルはまっすぐに見やりながら、

 

「最初に俺を否定したのは塔矢、お前だよ」

 

「僕が君を否定したと?」

 

「覚えてないか?中1の囲碁大会でお前は俺を否定した」

 

中学1年の海王中と葉瀬中の対戦。はじめ佐為が打っていた対局を、途中からヒカルが打った。佐為にアキラと打てと言っておきながら、いざとなると他人の対局に割り込んだヒカル自身が最も悪いのは承知している。

しかし佐為だけを必要とされ、ヒカル自身を否定された気持ちになったのは確かだった。

 

見返してやりたい相手は佐為しか見ておらず、あの時、いつか自分を振り向かせたいとアキラにだけは決して佐為の存在を話してはいけないと思った。

そのアキラが今頃ヒカルの中にいる佐為に気づいたからと言って、今さらだろう。

しかし、

 

「君の言う通りだ。僕は君を否定した」

 

そこまで言ってアキラは一度区切り、ヒカルが訝りながらゆっくり自分の方を見やるのを待ってから、

 

「だからこそ言おう。僕はまた君と打ちたい。saiではなく進藤ヒカルと対局したい」

 

「俺と、打ちたい?」

 

アキラを見やるヒカルの眼差しは猜疑心しかない。

自分を否定した相手が、望み通り佐為と打てるようになったのに、ヒカルとまた打ちたいと望む気の変わり様が理解できなかったのだろう。

 

「昼の打掛けのとき、君は僕に『いつか話すかもしれない』と言った」

 

結局、あれからヒカルがsaiであることを明かし、圧倒的な実力で打つようになってから一度もそういった話をヒカルにされたことはない。

 

「だが君は恐らく話さないだろう。多分もう死ぬまで話してはくれない気がする。でも、それでもいい。僕は君を否定しないと決めた。進藤ヒカルもsaiも君自身だ。そうなんだろう?」

 

ヒカルを取ればsaiを否定することになる。反対にsaiを取ればまたヒカルを否定することになる。そうではない。

行洋がどうしてこんなにもヒカルから信頼をされたのか。理由は至極簡単なことだったのだ。

一方だけを見るのではなく二人を否定しなかったからだ。行洋は2人を別々に見ながらも同時にかけがえのない一つだと受け入れた。

 

「お父さんがsaiを隠そうとしたことは確かだ。でも、そうまでして本当に守りたかったのは君とsaiだよ。お父さんは『進藤ヒカル』と『sai』という2人の棋士を守るために、ネットのsaiを隠したんだ」

 

ヒカルがsaiを現実に打たせたせれば、今の現状がそうだ。saiがどんなに打とうとも名声は進藤ヒカルに向けられ、後世へもsaiではなくヒカルの名前しか残らない。ネット碁に隠れたままであれば、正体不明の棋士ではあるがsaiはsaiとしていられ続けた。

対してヒカル自身も自分が打った碁ではないのに、saiの栄光に塗りつぶされ表で打つことは不可能になってしまった。

 

もうアキラの憶測でしかないが、そうなるのを行洋はどうにかして防ぎたかったのではないだろうか。ヒカルをヒカルとして、saiをsaiとして、2人の棋士を守ろうとして『ネットのsai』を隠した。

ヒカルに本当に必要だったのは、2人の否定でも、片方への否定でもない。両方への肯定なのだ。

 

saiを表で打たせ、7冠にまでなってしまった現状を考えれば、ヒカルが再び表に出て打つことはそれこそプロを引退しない限り、不可能だろう。

しかし、そんな現状でも打つ環境にこだわりさえしなければ、全く個別に打つ方法がないわけではないとアキラは考える。

ネット碁がある。ヒカルはネット碁で『light』として正体を隠し打ち、これからも碁を打ち続けることが出来る。

 

――僕は人間だ。欲を出せば際限がない。でも、どう変えることも出来ない過去ばかりを見ていては、何も変わらないんだ。前を見なければ。ありのままを受け入れて、そこからもっとも最善な道を探さなければ誰も前に進めない

 

「………」

 

ヒカルの眼差しから、それまで道満ちていた猜疑心の色が消えていく。初めて佐為のことを話した時から、行洋も佐為の存在は内密にした方がいいとヒカルの考えに賛同してくれた。

けれども、それはまだ囲碁を覚えて間もなかったヒカルを守るためだとばかり思っていた。

 

「だから見せてくれ。話せないから見せることしか出来ないと君が言ったように。僕たちにこれからも『君たち』を見せ続けてくれ」

 

ヒカルの瞳がゆっくりと閉ざされていく。

 

――塔矢が俺を否定したみたいに、俺も気づかないうちに佐為を否定していたのか……。なんだよ、人のこと言えた立場じゃねぇじゃん………。

 

行洋との約束を果たすために佐為を表で打たせた結果、ヒカルが表で打てなくなったように、それまで佐為が佐為として打てていたのを殺してしまっていたのだと、アキラに言われてようやく気づかされる。

それだけでなくアキラは『君たち』と言った。アキラはヒカルと佐為の両方が碁を打ち続けるのを望んでくれている。

行洋のように。

 

―――盤上に打たれる佐為の一手を1人でも多くの人に見せ続ける……。佐為と打った対局棋譜を残した塔矢先生のように…………。

 

行洋との約束を果たし、だが行洋の姿は見えず、もう何も繋がりが無くなってしまったような空白しかなかったヒカルの心に小さな光が灯る。

 

フイとヒカルは横を振り向く。

そこには誰もいない空間だけである。アキラはもちろん緒方にも何も見えない、何も聞こえない。

だが、きっとヒカルにはそこにsaiの姿が見えているのだろう。

 

「俺が打つことになるけど、これからも俺として打ち続けてくれるか?」

 

――もちろんです……当たり前じゃないですか。ずっと、ずっと打ち続けます。ヒカルと一緒に、私は打ち続けます……

 

微笑む佐為の目じりに薄らと涙がにじむ。

 

「うん……ありがとう………」

 


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