IF GOD - 神は斜陽に打ち震える - 完   作:鈴木_

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02 『sai』

『この前、先生と打った棋譜がない』

ヒカルがそう言ったとき、もしその場にいたのが緒方1人だけだったならば、せめて緒方とアキラの2人だけだったならば、誰にも他言せず、知らせず、秘密として事は何事もなかったのように隠されたのかもしれない。

行洋の突然の死にショックを受けていたヒカルは、明らかにまともではなかった。

騒然となる室内で、ヒカルは全く我関せずとでも言うように、行洋とsaiが打った棋譜を静かに眺めていた。

そこに、車に碁盤と碁石を積んでいると部屋にいた1人が思い出したように言い出せば、途端にヒカルの言う棋譜がどんなものなのかという流れになる。

通夜の最中だからと、緒方1人でその場の勢いを止めることはできなかった。

棋士であれば、誰でも行洋とsaiの棋譜を一つでも多く知りたいと思うだろう。

そして行洋の1人息子であるアキラもまた、彼らと違わず、もしかするとそれ以上にヒカルの言う一局を誰よりも知りたかったのかもしれない。

父親がsaiと打った一局を。

もし緒方が強引にヒカルを止めようとしたり、どこかへ連れて行こうとすれば、その場にいる全員が緒方に疑いを持つ。

なぜ行洋とsaiの一局を知っているというヒカルに、その棋譜を並べさせないのかと。

並べさせないのは緒方も行洋と同じくsaiを知っているのではないかと、疑いの矛先が、ヒカルだけでなく緒方にも向くだけ+で。

そのため、緒方は棋譜を並べていくヒカルを眼の前にして、指を銜えるようにして眺めているだけで、止めることが出来なかった。

室内に持ち込まれた碁盤と碁石、そしてヒカルを中心に棋士たちが取り囲む。

それまでの騒然とした騒ぎが嘘のように静まり返り、アキラに促がされるようにして朦朧としたヒカルが並べる一局を食い入るように眺めていた。

 

行洋とsaiが最後に打っただろう一局。

ぱち、ぱち、と規則的に打たれていく棋譜。

並べ終え、石を打っていたヒカルの手が止まると、周囲から感嘆の溜息が漏れた。

黒と白の石が織り成す複雑な石模様は美しかった。

ただ、ヒカルが通夜で棋譜を並べ終えた直後、周囲から尋問のような追及が、誰一人としてされなかったのは、自分が並べた石を、ヒカルは瞳を細めながら眺めて

『塔矢先生は本当に死んだの?』

と嗚咽一つすることなく、静かに涙を流したからだった。

悲しみに打ちひしがれ、泣いている子供。

あれを目の当たりにして言及出来る者はいないだろう。

同じ歳のアキラでさえ、ヒカルにsaiについて尋ねることは出来ず、首を横に振るだけだった。

人の戸口に鍵はかけられない。

ヒカルのこの一言と盤面に並べられた一局は、その場にいた多数の者達から、密やかに、そして速やかに噂は広がった。

通夜で弁護士から渡された11枚の棋譜はその場にいた棋士達に衝撃を与えた。

行洋が弟子達に遺したsaiとの対局棋譜。

ネットにしか現われない最強の棋士と、世界で最も神の一手に近いと言われていた行洋がどこかで繋がっていた。

半ばネット伝説化しかけていた存在は、確かに存在していることがほぼ証明された。

しかしそれ以上に、あまりにも突然の死で行洋が弁護士に託すことが出来なかった棋譜の存在がヒカルの口から明らかとなる。

行洋が遺した棋譜、ヒカルだけが知っていた対局の存在、そして行洋が亡くなった現在、saiと唯一繋がっているだろうヒカル自身に人々の関心が注がれるのに、時間はかからなかった。

ヒカルが棋院に一歩足を踏み入れたとたん、ヒカルの顔を知っていた者から水面に落ちた水滴から起こる波紋のように、囁きが広がっていく。

向けられる視線は、好奇、疑惑、嘲笑と様々な感情だったが、そのどれ一つたりともヒカルに好意的なものはなかった。

痛いほどの視線を浴びながら、ヒカルは研究会の部屋に向かうため、重い足を気取られまいと平静を装いエレベーターに乗り込む。

棋院へ来る前から分かっていたことであり、腹をくくって玄関に足を踏み入れたというのに、いざ好奇の目に晒されると居た堪れず引き返したくなった。

――ヒカル、まだ遅くはありません。今日は体調が優れないということにして研究会を休ませてもらいませんか?

伏目がちに佐為がヒカルに止まるように言う。

そんな佐為を軽く笑い飛ばすように、クスクス笑い、

――ズル休みか?佐為が研究会行きたがらないのって初めて?いつも俺を急かすのに

――私が何を言いたいのか分かっているでしょう?もう一度、家でよく考えましょう?もっと別の道があるはずです

――考えても一緒だ。俺はもう決めたんだ

ヒカルはまっすぐに前を見据え、佐為がなんと言おうとも自分の気持ちは変わらないと続けた。

そのあまりにも喜怒哀楽が消え失せたヒカルの横顔に、例えようのない不安が佐為の胸の奥で燻る。

研究会の部屋の戸を開けると、すでにヒカルを除いた全員が揃っていた。

研究会が始まるにはまだ少し早い。

ヒカルが時間に遅れたということではなかった。

一階のロビーで向けられた視線よりは、いくらか遠慮がちに、けれど彼らよりヒカルを見知り親しい分だけ、好奇よりも困惑が色濃く滲んでいた。

「こんにちは」

「ああ、来たか。体調はもう大丈夫なのか?」

碁盤の前に座った森下が、その場を代表するようにヒカルに声をかける。

森下の言っていることが、通夜でヒカルが取り乱してしまったことを指して言っているのだと、すぐに思い当たり、

「もう大丈夫です。通夜のときは先生に迷惑かけてすいませんでした」

ハハ、と困ったようにヒカルは謝り、空いているスペースに座る。

けれど、その場の淀んだ雰囲気が払拭されることはなかった。

和谷や冴木、白川ですら、これから行われるであろう森下とヒカルのやり取りを、一言も聞き逃すまいと静かに見守っていた。

森下はヒカルを睨みつけるようにじっと見やり、口を開く。

「進藤、研究会が始まる前に聞いておきたいことがある」

「はい」

「お前の耳にもとっくに届いてるだろうが、お前がsaiの正体を知っていると噂になっている。理由は分るな?」

「分ってます」

「行洋の通夜でお前は我を忘れるくらい気を動転させていた。そして俺に『この前会った』と言った。お前は行洋とどこかで会っていたのか?」

「……数ヶ月に一回くらいの頻度でたまに先生と会って打ってました」

ヒカルの返事に森下が小さく溜息をついた。

「そうか、では聞くが……」

「何故、行洋がsaiと対局した棋譜が足らないと知ってた?どうして棋譜の内容まで知っている?お前もその場にいて二人が対局するのを傍で見てたのか?これまでずっとお前に師匠はいないと俺は思っていたが、それはウソで、本当はsaiが師匠だったのか?」

「俺に師匠がいないというのはウソじゃない。本当です。誰に聞いてもいい」

滑らかにヒカルは言う。

森下の声に険が篭る。

「なら、どうして行洋とsaiの棋譜を知っていた?」

「どうして?そんなの簡単だ」

森下の問いを反芻し、そこでヒカルは区切ってから、

「俺がsaiだからだ」

「バカ言え!お前がsaiのわけないだろ!?」

それまで会話に一切口を挟まなかった和谷が、いい加減なことを言うな、とヒカルに怒鳴り迫る。

だが、そんな和谷をヒカルは冷ややかに見やるだけだった。

「でも、それが真実だ」

「だいたいお前がsaiだったらお前の新初段の対局中に現れたsaiは誰なんだよ!?お前が二人いるっていうのか!?」

「あの日は塔矢先生が俺の代わりに打った」

「塔矢先生が!?」

「あの時、俺がsaiじゃないかって芹澤先生に疑われてて、それを誤魔化すために、先生がsaiとしてネット碁を打ったんだよ。俺と対局中にsaiが現れれば決定的なアリバイになるだろ?でもそうなると、ネットのsaiは完全に俺ってわけじゃなくなるのかな。そうすると俺と塔矢先生の2人でsaiだ」

そうヒカルは言いながら、最後の方は、半ば独り言に近く、まるで他愛ない会話でもしているような陽気さだった。

 

「それと前に和谷に言ったことは訂正する」

「え?」

「俺が院生1組に上がったばっかの頃、和谷とはじめて対局したとき、俺がsaiとzeldaのチャット内容知ってたこと話しただろ?」

「ああ……それが……」

「ウソ言ってた。ネットカフェで見かけたなんてウソだ。Zeldaと対局してたのは俺だ。チャットも後ろからじゃなくて前で見てた」

「ッ―!!じゃあ!これまで打ってきたのは!?お前が院生に入ってきて、プロ試験の最中も打ってきた対局はどうなるんだ!?伊角さんと俺とお前の3人で碁会所巡りだってしただろうが!?」

「バレないように上手く力を抜いてた。全然気がつかなかっただろ?」

和谷がどんなに激しく怒りを露わにしても、ヒカルが熱くなることはなかった。

和谷が熱くなればなるだけ、ヒカルは冷めていくように、能動的に答えるだけで、

「進藤!お前いい加減に!」

「和谷!黙れ!」

森下の一喝に和谷はビクリと身体を震わせた。

ヒカルへストレートに憤りをぶつけてくる和谷とは正反対に、森下は2人のやり取りを聞きながら、じっくりと思案してヒカルをじっと見据えた。

突然の行洋の死去に間を置かず、今回のヒカルの騒動。

行洋がsaiと隠れて打っていたということも森下にとっては驚きだったが、そのsaiとヒカルが通じていると聞かされたときは、あまりに突拍子もない話に二度聞き直してしまった。

しかし、よく考えて見れば、ヒカルの背後にsaiがいるとすれば、ヒカルの急激な成長にも納得できる。

森下がsaiを知ることが出来るのは和谷が持って来る棋譜だけに限られていたが、その棋譜からでもsaiの力は十分測ることが出来た。

ヒカルの成長を影で支えていたのはsai。

だからこそ、森下も和谷と同様に自分がsaiであるというヒカルの言葉が信じられない。

もしそうだとするなら、これまで見てきたヒカルは何だったのだというのか。

和谷に紹介されてこの研究会に顔を出すようになり、院生になりたての危うい碁からめきめきと実力をつけプロ試験に受かったヒカルは、上手く取り繕った偽りだったのか。

 

しかし、それ以上にヒカルの言葉に森下の逆鱗を逆撫ですることがあった。

「進藤、それは本気で言っているのか?仮にも行洋の名前を出してるんだ。後で冗談でした、なんて言った日にゃ俺は承知せんぞ?」

重々しく森下がヒカルに問いかける。

生前はどんなにライバル視しようとも、プロ試験に同期で受かったときから、森下は誰よりも行洋を知り、その碁に対する真摯な姿勢を森下は見てきた。

その行洋の名前を茶番のネタにヒカルが口にしたのだとすれば、決して許すことは出来ない。

「冗談なんかでこんなこと言いません」

「なら、本気で自分がsaiだと言うんだな?」

再度、森下が確認すると

「そうです」

ヒカルはコクリと首を縦に頷いた。

「……お前の言い分は分った。だが、俺もお前がsaiだと言われて直ぐ信じることは出来ん。ネットのsaiは全く知らんが、これまでこの研究会で打ってきた進藤しか俺は見ていない。だから今から俺と打ってみろ、行洋と打ってきたsaiの実力とやらで。その結果だけを俺は信じよう」

それでいいか、と問う森下に、問われたヒカルではなく、傍で2人の問答を見守っていた白川がコクリと唾を飲んだ。

これから目の前で行われようとしている対局が、もしかすると日本の囲碁界を震撼させる前触れかもしれないのだ。

それと同時に、自分がsaiであると言うヒカルが、ヒカルに似た全くの別人のように見えてくる。

「分りました」

頷き、ヒカルは森下と盤面を挟み対座する。

正座し、背筋を伸ばし、ふぅと静かに息を吐きながら、ヒカルは瞳を閉じる。

――佐為、打て

――……本当にいいのですか?もし私が打てば、ヒカルはこれからずっとヒカルとして打てなくなるのですよ?

この場になっても、どうしても賛成できないと佐為は打つことを渋った。

もし打てば、ヒカルは佐為の影に完全に埋もれてしまうことになる。

ヒカルと出会ってから、石を持ったこともなかったヒカルをここまで導いてきたからこそ、佐為もヒカルの才能が己によって黙殺されてしまうのを見過ごすことは出来なかった。

ヒカルの才能は佐為と出会うことで芽吹き、そして佐為と行洋の2人で育てたのだから。

――分ってるよ。俺がきっと一番分かってる。俺はもう二度と俺として打てなくなるって

――ならば!もっと他に違う方法が!

――でも、塔矢先生が本因坊を取るって俺と約束してくれたのは、きっと本因坊が佐為のタイトルだったからだ。他のタイトルだったら絶対約束なんかしなかった。先生は、佐為にこそ本因坊を取って欲しくて、佐為以外の誰かに本因坊のタイトルを渡したくなかったんだ

――ヒカル……

佐為は言葉を失う。

本因坊秀策であったという自身の存在が、行洋に他のタイトルとは違う想いを頂かせてしまっていたことは、佐為も気付いていたからである。

――取り戻そう。お前のタイトルをお前自身が取り戻すんだ。そして、先生の代わりに俺達が約束を果たす

閉ざしていた瞼を開き、碁盤を見据えるヒカルに、佐為もまた扇子をぐっと握り締める。

ヒカルのこの行為は最善ではないだろう。

しかし、たとえ選択した道が最善でないと分かっていても、ヒカルが決めた道であるならば、どんなに迷いがあっても、そこに佐為が口を挟む余地はない。

――……分かりました。約束を私達が果たしましょう!

佐為の瞳から迷いが消え去り、行洋と対峙し対局するときのような鋭さが宿る。

「お願いします」

ヒカルが頭を下げた。

一種、異様な空気が漂うなか、森下とヒカルが打っていく。

相手がヒカルであろうとsaiであるならば手加減をする必要はない。

全力で打つだけである。

その森下の眉間に皺が刻まれていくにつれ、石を打つ速度が段々と遅くなっていく。

5時間の持ち時間がある大手合があるならまだしも、研究会で打つ一局には長い長考だった。

背中が嫌な汗をかいていた。

ヒカルから受けるプレッシャーは、行洋にも全く劣らない、もしかするとそれ以上かもしれないと森下は打ちながら思う。

森下が棋譜だけでしか知ることが出来なかったsaiそのものの実力であると言っていい。

ただ、相対して対局するとヒカルから向けられる強烈なプレッシャーに、棋譜を見るだけでは知りえない肌が刺すほどのピリピリとした痛みを覚えた気がした。

ヒカルがsaiであったという事実。

そして行洋がそのヒカルを隠し、そして誰にも内緒で打っていたという事実。

けれど、森下の眼前で打たれているsaiとしての実力を、ヒカルと行洋が何故隠してきたのかという疑いよりも、この実力を14歳という歳で保持し存在しているという事実が、森下だけでなく対局を周りで見ている全員を驚愕させていた。

「ありません……」

森下が負けを認める。

ヒカルの中押し勝ちだった。

「ありがとうございました。これで納得してもらえましたか?」

ヒカルの問いに、森下は頷くこともできず、なおも己の負けた盤面をじっと眺めているだけだったが、それだけで十分だった。

saiの実力は証明された。

疑う余地はどこにもない。

「ウソだろ……」と和谷。

「進藤……」

「そんな、saiが本当に進藤くんだったなんて……」

「だって君が囲碁を覚えたのは、僕の囲碁教室に通っていた頃……それから短期間でここまで打てるようになるなんて……」

何も言えない森下の代わりのように、対局を見ていたそれぞれが呆然と呟く。

その中で、渦中の中心であるヒカルは膝に置いた両手をぐっと握りしめて言った。

 

「佐為(オレ)はもう、誰にも負けない」

 


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