年に十数回行われる大手合、そしてタイトル戦での予選やイベントでの対局もあるが、低段者の対局数は高段者に比べて少なく、対局記録も残らない。
水曜に行われる低段者の大手合の日、日本棋院の対局場は不穏な気配を漂わせながらざわついていた。
対局開始時間には時間があるというのに、棋士のほとんどが既に集まり、休憩スペースや廊下などいたる場所で話し込んでいる。
その表情はみな戸惑い、落ち着きがない。
相手と会話しながらも常にチラチラと周りを伺い、誰かが来るのを待ち構えている。
その様子が気に食わないと言わんばかりに、和谷は廊下の壁に背中をもたれながら唇を尖らせ言い捨てた。
「みんな落ち着きなさ過ぎじゃね?こんなんでこれから対局なんて出来んのかよ」
周りが何を噂し、誰を待ち構えているのか、聞き耳を立てずとも分かる。
今までずっと正体を隠してきたネット碁最強の棋士が、行洋の死をきっかけにして表に出てきたのだ。
アマではなかったが、それまで一度も注目されたことのない新人棋士がsaiだったという噂はたちどころに広まり、ネットでも騒ぎになっている。
新初段でヒカルが打った一局はsaiではない。
しかし、ヒカルだけが誰も知らない行洋とsaiが打った棋譜を知り、これまで打ってきた対局は全て力を抑えていたのだという。
本当にヒカルがsaiなのか、それともただのデマなのか。
噂だけが勝手に一人歩きし、真相の是非を確かめるには実際に自分で対局するか、誰かと対局しているのを見るしか方法はない。
「そうか?お前だって、この前の研究会で森下先生との対局見て呆然としてたじゃん。ま、俺も人のこと言えたもんじゃないけどな」
和谷の隣で同じく背中を壁にもたれながら立っていた冴木が、仏頂面の和谷を宥める。
だが、そう言う冴木の口調は楽観していて、自分には関係無いと言っているように聞こえ、和谷は唇を尖らせたままぶーたれて冴木を睨んだ。
「一緒に院生で頑張ってきたのに、実は全部嘘でしたってやつが許せないか?」
「……冴木さんは何とも思わないのかよ?」
「んー、俺は和谷と違って研究会の時の進藤しか知らないしな。その点だと和谷ほどではないけど。でも、進藤が強いことだけは森下先生との対局で証明された。アイツ、本気だろうな。進藤のヤツ、本気で上を狙ってくるぞ」
「自分はもう誰にも負けないって言ってたこと?」
和谷の言葉に、冴木は周囲を見渡した。
「ああ、だからみんな戦々恐々なのさ。去年は塔矢アキラ、今年はsaiだ。これで自分達が上にいくチャンスはまた減りましたってな」
「ソレって笑って言うことかな」
「悲観しようが笑おうが、どうなるもんでもないんだ。進藤は進藤。俺は俺。自分に出来る限りのことをするだけって話だよ」
「俺は、俺か……」
下を俯き、和谷が呟く。
ヒカルが本当の実力を隠していたことを責めても、これから先どうすることも出来ないのだと改めて気付かされる一言だった。
ヒカルも、周りも関係ない。
自分に出来る限り、精一杯打っていくことだけが全てだ。
そういえば、新初段のとき、ヒカルの対局をわざわざトップ棋士である桑原や緒方が観戦しに来て、対局相手の芹澤に至ってはヒカルを指名までしていたことを和谷は思い出す。
今思えば、彼らはまだ本当の実力を隠していたヒカルに、何かを感じ取っていたのかもしれない。
特に緒方はヒカルの対局中にsaiが現われたことに驚いていた。
不意にざわついていた周囲が、さざ波が広がるように静まりかえり、和谷はその静寂に引かれるように顔をあげた。
エレベータのある方から歩いてくる1人に、皆の無言の注目が集まっていた。
その注目に左右されまいとあえて無視するようにしてヒカルが歩み寄ってくる。
ヒカルの姿を瞳に映しただけで、全身に動揺が走ってしまい、微かに和谷の肩が揺れる。
2メートル弱の距離にまで来て、
「おはよ」
と冴木がヒカルに挨拶する。
その言葉に、どこか強張っていたヒカルの表情が緩む。
自身がsaiであると周囲に明かしたことで、ある程度、周りから注目されることをヒカルも予測していたが、考えるのと直に視線を向けられるのでは勝手が違う。
視線が痛い。
何かの小説に出てきそうな表現だが、今のヒカルの心境はその言葉が最も当てはまる。
その視線の中で、以前と変わらずヒカルに声をかけてくれた冴木の存在は、ヒカルを少なからず安堵させた。
周囲の注目を集めたまま、まだぎこちない笑みでヒカルは挨拶を返す。
「おはよう、冴木さん、和谷も」
「……おう」
ぶっきらぼうに言う和谷に、冴木はくすと笑み、
「今日はもう緊張とかしてないみたいだな」
「流石に二度目ともなれば、そんなに緊張なんてしないよ」
「心身ともに万全ってやつか?」
「そうだね」
言いながらヒカルは斜め後ろにいる佐為へ、振り返らず、心の中だけでそっと尋ねる。
――万全かって?
――この場にいる誰にも負ける気はしません
鳥帽子から流れる黒髪がわずかに揺れ、切れ長の双眸が細められる。
もし佐為の姿を周りにいる者たちも見えたとしたなら、その笑みが醸し出す凄みに魅入られて息を呑んだことだろう。
その目は誰も瞳に映していないようでいて、全員を掌中に収めたような、絶対の自信と悠久の歳月が創り上げた尊貴が溢れ出ていた。
「負ける気はしないよ」
ヒカルは自身の感情を込めず、文の意味を必要とされない伝言ゲームの言葉を単に次の相手に伝えるだけの気概心で佐為の言葉を代弁する。
佐為の姿や眼差しの凄みをヒカルが周りにいる全員に語り聞かせることは出来ない。
しかしこの場にいる誰も自分の敵ではないという、暗に言葉に含ませた佐為の意思だけは雄弁に語っていた。
ヒカルの答えに、冴木は思わず目を見張りのまれそうになった。
ヒカルのこの自信はどこからくるのだろうか?
saiとして数多のネット棋士と打ってきた経験と、ネット碁で一度も負けなかったことを裏付ける全勝という高い棋力が、ヒカルを支えているのだろうか?
同じ研究会で碁を学び近くで見てきたという親近感が薄れていき、ヒカルがどこか手の届かない遠い存在のように見える。
「上等」
冴木が返せたのはそれだけだった。
しかしたったそれだけでも、じっとりとした嫌な汗が手のひらに滲み出てくる。
「進藤」
不意に呼ばれヒカルは後ろを振り返り、冴木と和谷も顔を向ける。
「塔矢……」
己の名前を呼んだ人物に、ヒカルは行洋と秘密で会っていたという後ろめたさを感じながら、複雑な表情をして小さく呟いた。
通夜で会った日以来だった。
ヒカルが自分がsaiであると認めてから、いつアキラが話を聞きつけて事の次第を自分のもとへ問い詰めにくるだろうかと身構えていたヒカルは、意外にも今日の大手合まで現われるどころか連絡すら寄越さなかったアキラに、諦観が無意識に出たような小さな溜息をつき、ようやく来たか、とひとりごちる。
アキラの眼差しは真っ直ぐで、その瞳に迷いは見えない。
ヒカルがアキラと初めて出会い、そして雨が降り始めた道で二度目の対局をヒカルに迫ったときの強さだけが変わらず映っていた。
「今日の大手合が終わった後、話がしたい」
穏やかな物言いではあったが、そこにはヒカルに有無を言わせない毅然(きぜん)とした響きがあった。
ヒカルの方も断る理由は無かったので、
「分かった。棋院だとあんまり話出来ないから、対局終わったらお前んとこの碁会所で待ち合わせにする?あ、でもあそこだと客がいてゆっくりできないか」
「いや、碁会所でいいよ。今日は定休日だ。店には誰もいない」
「ん、じゃ碁会所な」
「君にも合鍵を渡しておく」
予めアキラも碁会所を考えていたのか、前もって準備していたようにズボンのポケットの中から鍵を取り出す。
そして鍵をヒカルに渡すだけ渡して、アキラは何も言わず対局場の部屋へ行ってしまう。
手のひらに残された鍵にヒカルは視線を落とし、
――逃げるな、っていう脅しかな?
もしヒカルが碁会所に現われなくても、これでどうにかしてアキラに鍵を返す必要が出来てしまったわけだ。
――塔矢はそんなことはしませんよ。話が……父親である行洋殿のことを聞きたいのでしょう。もちろんsaiについても聞きたいだろうとは思いますが、きっと今の塔矢の中では、私の存在はその次の次くらいの重さですよ
対局場に消えてしまったアキラの後ろ姿をヒカルは思い浮かべる。
佐為の存在を隠したままで、どこまで話せるかは分からない。
けれど、出来る限り、可能な限りヒカルがあの竹林に囲まれた小さな離れで見てきた行洋の姿をアキラにも伝えることができればいい。
そう心に決めて、ヒカルは手のひらの中の鍵をぐっと握り締め、アキラの後を追うようにして対局場へ向かった。
すでに対局時間が近くなり、若干名が自分の席に座って待っていた。
そこにヒカルが入っていくとやはりロビーや廊下と同じように視線を向けられたが、ヒカルは構わず自分の席を確認してから、席に座る。
ややあって、対局相手が現われ、碁盤を挟みヒカルと相対して座る。
ヒカルより年上の二十歳前後の印象を受ける相手は、ヒカルが周囲から注目を集めても過ぎるほどに落ち着いた態度を見せるのに対し、明らかに落ち着きがなく対局開始の合図が鳴っても視線が彷徨っていた。
大手合は持ち時間5時間で行われる対局なので、その対局によっては夜にまで時間が及ぶことも少なくない。
多くは夕方近くまでかかるのが常であり、対局する棋士も5時間という時間をじっくり使って碁を打つ。
対局中に私語は全く無いと言っていい。
広い対局場に石を打つ音だけが響く。
石を打つ静寂の場は、碁を打つことを生きる生業とした勝負師たちの真剣な空間になる。
その中で、昼食のための打ち掛けにもうすぐさしかかろうとしていた時間に、
「ありません……」
あまりの驚愕で唇を震わせながら小さく呟かれた投了に、対局場の雰囲気が揺らいだ。
特に投了された碁盤の近くにいて、その声が聞こえたものは、まさかという眼差しで見やった。
大手合の対局が打ち掛け前に終わることなど、よほどのポカをしない限りありえない。
そこに打ち掛けの合図であるブザーが鳴り、ブザーが鳴り止み、係員が打ち掛けの指示をし終わってからヒカルは悠然と口を開いた。
「ありがとうございました」
ヒカルは一礼をしたが、相手はヒカルの声など全く耳に入っていないかのように、碁盤を凝視していた。
対局が終われば場所を変えて検討したり、検討しなくても打った石を碁笥に戻すのが礼儀だったが、打ち掛けに入った棋士たちが周囲に集まり盤面を見始めたので、ヒカルは片付けを言い出すタイミングを失う。
かといって、この盤面を前に検討する意味があるのかどうかもヒカルには疑わしかった。
対局前に佐為が負ける気はしないと言ったとおりに、そしてこれからsaiとしての実力を周囲に知らしめるように佐為は一切手加減をしなかった。
相手を貶めるつもりではない。
だが、佐為は相手の力量を思慮に入れず全力で打った。
これから佐為を背負い打っていくヒカルの決意を、誇示するために。
結果は佐為の圧勝である。
相手も下手に食い下がらず、佐為の力を素直に認め早くに投了した。
もしこのまま打っていれば、無残な負けだけが残されただろう。
対局相手の力量を知り、潔く負けを認めることが出来ただけでも評価出来ると言えた。
「……石、片付けても?」
遠慮がちにヒカルが言うと、対局相手ではなく周りに集まっていた一人が『片付けておくよ』と石をそのままにしておいてくれと言ったので、ヒカルは片づけを任せることにして席を立つ。
対局結果をボードに記入するのは勝った方であり、この場合、ヒカルの仕事になる。
ヒカルが立ち去った後ろで、集まった棋士達は盤面の石を見て、ある者は顎に手をあて低く唸り、ある者は腕を組んだままじっと凝視していた。
口に出せば失礼だが、盤面はアマとプロが打ったのではと思わせるほど、歴然とした力の差が現われていた。
もちろんヒカルと打った相手もちゃんとしたプロ棋士でありアマの実力ということは絶対にない。
相手が弱いのではない。
ヒカルが、佐為が強過ぎるのだ。
ヒカルがsaiだという噂が流れてから、やはりデマではないのかという噂も同じだけ流れたが、この対局でヒカルの実力は証明された。
行洋と人知れず対局し誰もが名局と讃えるであろう棋譜を残していたsaiがヒカルならば、この場にいる誰もヒカルに勝つことは出来ないだろう。
低段者の対局日ではあったが、高段者と渡り合い始めているアキラでもこの実力を前には敵わないと言えた。
ヒカルがsaiであるのならば、その実力は6冠のタイトルホルダーであった行洋と互角以上なのだから。
その6冠のタイトルホルダーと同等の棋力を持つ人物が、現実にプロになりたての棋士として存在する。
投了を宣言してから、ヒカルが礼を言い立ち去っても、盤面から視線を逸らせず無言だった相手が、ぽつりと口にする。
「最強の初段だ……」
それが負け惜しみや過大評価ではないことは碁盤の周りにいた誰もが理解していた。
ヒカルの実力をどんなに多くの言葉で表現しようとも、たったその一言が全てを語っていた。
ヒカルが打ち掛け前に対局を終えてから、数時間後にアキラも碁会所に現われる。
アキラが遅かったのではなく、ヒカルの対局が早く終わり過ぎていただけなので、ヒカルも遅れてきたアキラを責めることはなかった。
ただ、勝手にテレビをつけコンビニ弁当を食べたことだけは、先にヒカルは謝った。
アキラもヒカルに構わないと首を横に振っただけで、気にする様子もなく、ヒカルが座っていた席の向かいの椅子に座ると
「君がsaiだと聞いた」
単刀直入に話を切り出した。
もう少し世間話をしてから本題にはいるとかしろよ、というヒカルは内心苦笑しながらも、回りくどいことを一切しないことが逆にアキラらしいとも同時に思う。
「ああ、本当だ」
「君を強くしたのは父なのか?」
ヒカルは瞼を伏せ、首を横に数回振った。
「いや、違う。塔矢先生は関係ないよ」
「だがお父さんと君は誰も知らないところで打っていた」
矢継ぎ早に質問を重ねてくるアキラにヒカルは多少の戸惑いを覚えながらも、佐為の存在を隠しながらどう言えばいいのか、勢い滑りでそうになる言葉を一つ一つ確認しながら、嘘と真実を織り交ぜ慎重に話す。
「……うん。俺が最初に打とうって先生を誘ったんだ。はじめは先生もアマだった俺を相手にするのはプロとして誉められた行動じゃないって言ってたけど、俺、塔矢に2回勝ってたから、それで興味持ってくれて対局してくれたみたい。それから塔矢先生は内緒で打ちたいっていう俺のワガママ聞いてくれて、数ヶ月に一回くらいの頻度でたまに会ってくれて、対局して、検討して、すごく楽しかった」
「お父さんは君の棋力について何も言わなかったのか?その実力を隠していることさえ……何も言わなかったのか?正直に答えてくれ」
「……言ったよ。でも、俺が嫌だって断った。塔矢先生と打つようになってから、自分の棋力が半端ないこともよく分かったし、それで周りから騒がれるのも嫌だった。それっきり先生が後から何か言ってくることはなかったよ。俺が決めることだから何も言うことはないって」
そこまで言って、ヒカルはふと思い出す。
緒方に佐為のことを話すべきかどうか相談したとき、自分からは何も言えないといいながらも、ヒカルが行洋自身に打ち明けてくれたことを、行洋は感謝してくれた。
「でも、自分に話してくれてありがとうって言われたな。初めて対局したときは、塔矢先生も驚いてたけど、だからって俺を変な目で見たりしなかった。俺を俺として受け入れてくれた」
懐かしむように語るヒカルに、アキラの眉間に皺が刻まれる。
ヒカルの話を完全に信じてはいないことがありありと分かる。
しかし、話している内容もすぐに信じれる内容ではなかった。
数秒の間、黙ってしまったアキラに、ヒカルは急くことなく次の質問を待つ。
「……なぜsaiであることを隠していたんだ?それに、どうして今頃になって自分がsaiであると打ち明けた?君がプロになって初めて僕と対局した一局は、……碁会所でも打った対局はなんだったんだ!?」
最後の語尾の方でアキラの声が荒ぐ。
「ずっと隠してるつもりだったんだぜ。塔矢先生以外に話す気なんてこれっぽっちもなかった。先生さえ知っててくれれば……それで、よかった」
そこで一度区切ってから、ヒカルはアキラの疑いの眼差しを真っ直ぐに見やり、
「だって、変だろ?」
「何が?」
「初めから強いなんて。誰かと初めて対局して、それで勝っちまうとかさ。それもプロ並に強いヤツにだぜ?」
嘲笑交じりに言うヒカルに、アキラはヒカルと初めて打った対局を思い出す。
子供、それも石の持ち方さえなってない素人丸出しの持ち方だったヒカルに、アキラが油断し侮り負けた一局。
しかしどんなにアキラが油断していたとしても、ヒカルの打ち方は指導碁だった。
初めて誰かと対局して勝ち、しかもそれが力を抑えた指導碁ということがあるのだろうか?
ヒカルがプロになりアキラと再び対局してから、こうして碁会所でまた打つようになっても、あの最初の2局は暗黙の了解となりお互い口に出すことはなかった。
アキラとしては聞きたい気持ちは山々だったが、ヒカルの方がその話題を避けている節があり、あえて触れないようにしていたのだ。
しかし、そのヒカル自ら最初の対局に触れた。
これまでずっと聞きたいと思っていて聞けなかった疑問を、アキラはおそるおそる尋ねる。
「本当に君は初めて対局したのか?あの時、僕と対局した一局がはじめて?」
「ああ。誰かと対局したことなんて初めてだったし、自分がどれくらい強いのかも全然分かってなかった。考えてもみろよ?塔矢みたくガキの頃から英才教育並みに勉強してきたわけでもない、数日前に初めて碁石触ったようなヤツがさ、プロ並に強いなんて誰が考える?本人だって考えねぇよ。それで分からないまま適当に打って、変な目で見られて、塔矢と2回目に打って、そこでようやく気付いた。自分がなんかおかしいって」
「信じられない……」
ヒカルの話にアキラは思ったことが無意識に出る。
ヒカルが話していることは普通ならありえないことだった。
よくビギナーズラックで初心者がゲームに勝てたなどという話もあるが、囲碁でその可能性は限りなく無いのだから。
「そんな反応されるって分かってたから隠した。あとは下手なふりをして、周りを見ながら少しずつ上達していっているふりして……正体が分からないネット碁だけは本気で打って……。あとはお前も知っての通り、ネット碁で無敗の最強棋士の出来上がりだ」
ヒカルから語られる話に、困惑しアキラは言葉が出てこない。
ヒカルの言う話を全て理解できているとはとても言い難かった。
なにしろヒカルの話はどれも荒唐無稽で現実離れしていたからだ。
それを罵倒しなかったのは、アキラもまたヒカルと打った最初の2局があったからだろう。
「あと質問に答えてないのって、どうして今頃になって自分がsaiだって打ち明けたかってことだっけ?」
黙ってしまったアキラにヒカルが次の問いを促す。
それにアキラは口を手のひらで覆いながら小さく頷いた。
「欲しいものが出来たんだ」
「欲しいもの?」
「そ。本因坊が欲しい」
「それはどう言う意味だ?」
「そのまんまだけど?本因坊を手に入れるためには本気で打つしかない。となればみんなも自然気付くだろ、俺がsaiだって。だから後で騒がれるより先に白状しただけの話」
軽くヒカルは話してみせたが、アキラはそのまま流さなかった。
ヒカルの話に戸惑い混乱していたが、アキラの問いは知らずヒカルの核心を突いた。
「お父さんも君に本因坊を取ると約束していたと聞いた。何故、お父さんも、君もそんなに本因坊に拘るんだ……?」
問われてヒカルは答えなかった。
ここで誤魔化すなら簡単である。
行洋は7大タイトルで、6つまで手に入れ、唯一手に入れていなかった『本因坊』の獲得を目標として、それで『本因坊』というタイトルを出しただけで、対してヒカルも行洋が最後に手に入れることができなかった『本因坊』に他のタイトルとは違う思い入れがあるのだと。
理由として不自然な部分はない。
だ がそれを口にするのは、ヒカルにはどうしても躊躇われた。
誤魔化したりそのままシラを切りとおすのではなく、俯きじっと考えている様子のヒカルに、アキラはじっと待った。
それからしばらくしてヒカルがふっと笑み、アキラを見やる。
「ひみつ」
これ以上嘘はつきたくなかった。
しかし本当のことも話せなかった。
だからヒカルは正直に言った。
「ごめん、それだけは言えない。大切な約束なんだ……」
言えば約束の根底にあるものに少なからず触れることになる。
本因坊のタイトルに隠された、行洋とヒカルの2人で共有した『藤原佐為』という存在を。