IF GOD - 神は斜陽に打ち震える - 完   作:鈴木_

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04 Are you Hikaru Shindo?

自身がsaiであると周囲に明かしてからも、ヒカルはネット碁をやり続けた。

マウスを操作するのはヒカルでも、打つのは佐為。

『sai』の連勝無敗は今も継続している。

 

『Are you Hikaru Shindo?』

 

ネット碁の対局終了後に露われるチャット画面。

いつものようにチャット画面を閉じようとしていたマウスの動きが止まる。

――ヒカル?どうかしましたか?これは何と書いてあるのですか?

「……お前は進藤ヒカルか?って聞いてきてる」

ヒカルが能動的にそういうと、佐為は瞳を細め、黙したままじっとディスプレイ画面を見やった。

2人何も言葉を発しないまましばらくして、そこに映し出された英文にヒカルは短い返事を打つ。

 

『yes』

あとはネットを通じて、この会話はあっという間に世界中に広まるだろう。

 

 

■□■□

 

 

 

 

棋院の事務所からヒカルに呼び出しがあったのは、佐為がヒカルとして対局してから、約一週間後だった。

中学3年でまだ義務教育途中のヒカルを、学校がある平日にわざわざそのためだけに事務所に呼びつけるのは気が引けたらしく、休日の棋院の一般対局室行われる指導碁が終わった直後のヒカルを掴まえた。

事務所に顔を出し、中の個室に入るまでの僅かな距離ですら、遠慮しがちではあるが明らかな好奇心という視線が皆から向けられた。

それらの視線を全く煩わしく思わないと言えば嘘になる。

だが、いちいち反応して目くじら立てていても致し方ないと、ヒカルはあえて無視する形で意識から除外した。

 

「ごめんね、進藤君。指導碁で疲れているところをわざわざ来てもらって」

 

そっちに座って、と自身が座るソファーとは反対側のソファーをヒカルに促す。

そのソファーにヒカルは深く腰をかけず、浅く座った。

長い時間話すつもりはないので、これくらいでいい。

「いえ、平気です」

「それで……今日ここに来てもらったのは、進藤君もある程度察していると思うんだけど……」

 

コホンと、わざとらしい咳払いをして、大事でも言うように畏まり、

「プロ棋士の間で君がネット碁のsaiだと噂されてるのは知ってるよね?」

「はい」

「そこのところ、どうなのかな?プロ棋士のスケジュール調整をする事務所としても噂の真相を確かめて置きたいんだけど、本当に進藤君がsaiなのかい?」

「そうです」

 

聞かなくてはならない大事(おおごと)を尋ねる仕事を一任され、緊張しながら尋ねた問いだったのに、本人は表情を微塵も崩すことなくたった一言で肯定され、事務員は言葉を失う。

2年前にネットに現われてからというもの、日中韓のプロ棋士をも負かすその圧倒的強さから、日本棋院への問い合わせも数え切れない『sai』

つい先日、行洋が無くなった折には、行洋とsaiが対局したという棋譜まで出てきた。

その棋譜からもsaiの実力は決して行洋に劣ってはいない。

行洋と同格の実力を持っている。

そのsaiの正体が、若干14歳でプロになったばかりの新人棋士として自身の眼の前に座っている。

知らず唾を飲み込み、膝に置いて手がスーツのズボンをギュッと握りしめる。

尋ねた事務員自身、saiであると肯定したヒカルに、驚きよりも畏怖を覚えていた。

6冠であり7冠すら目前にしていた行洋を失ったことは、日本棋院としても当然痛手であったが、代わりのように現われたこの少年は行洋に勝る将来性とスター性があるのではないだろうか。

実力はトップ棋士にも勝るほどなのに、その年齢はまだまだ若い14歳。

韓国や中国に追い抜かれていこうとしている日本にあって、ヒカルがこれからの日本のプロを牽引し、人気に陰りが見え始めている囲碁の世界をあまねく照らす、何にも変えがたき逸材ではないのだろうか。

どうやってそれほどの棋力を身に着けたのかは、この際どうでもいい。

棋力への謎と、ネット碁での戦歴が、逆にヒカルという存在を、テレビや日本中の人の注目を集め彩る材料になるだろう。

ヒカルが活躍すればするほど、囲碁界は世間から注目され、それをもとにして囲碁を始める人も増え、囲碁界にかつての賑やかさが戻る。

それは決して願望や儚い期待などではない。

現実にそれを成し得るだけの実力が進藤ヒカルという少年にはある。

囲碁界はこれからヒカルを中心にして大きく動くだろう。

「………」

 

突然現われた天才に、事務員が言葉を無くしたままでいると、

 

「話はそれだけですか?それなら俺もう帰りたいんですけど」

「待って!」

「saiのこともなんだけど、進藤君が塔矢先生と懇意にしていたというのは?君は師匠がいないということになっていたけど、塔矢先生から碁を学んだのかな?」

「……懇意というほど親しい付き合いだったのかと問われれば微妙です。先生と直接会って対局できた数だって両手で足りますよ。でも、」

そこには確かな信頼があった。

会えて対局できた日は少なくても、揺ぎ無い信頼で3人は繋がっていたとヒカルは思う。

けれど、それを口に出して言うわけにはいかず、

「塔矢先生は俺が一番尊敬する棋士です」

 

瞼を伏せ、細めたヒカルの眼差しは少し寂しそうではあったが、その言葉に迷いは微塵も無かった。

「……わかったよ。これからのことなんだけど、進藤君がsaiだったとしても、それはプロになる以前のプライベートなことだし、棋院側がそれをとやかく言うことは出来ない。ただ、アマではなくプロになったこれからを事務所側もどう対処するべきか皆で相談したんだけれど、君への問い合わせについて、saiであったことだけは認めて、それ以外の囲碁の経歴や対局などについては一切答えないということでいいかな?」

「はい、それでお願いします」

 

「最後に、進藤君のプロフィール欄の師匠枠はこれまで通り空白のままで?」

「はい」

一言答え、ヒカルは部屋から出て行く。

その後ろ姿がヒカルの抱えるモノに対して小さく感じられ、一抹の不安が過ぎった。

ついさっき、誰もがうらやむ実力と才能がヒカルにはあり、これからの碁界を牽引していくのだろうと思った。

しかし、その実力と才能を背負うには、ヒカルにはまだ早過ぎるような気がした。

そして次にヒカルが自分がsaiであることを隠し、また行洋も同じようにヒカルがsaiであることを秘密にしたのは、それが理由の一つなのではないだろうか。

ヒカルの才能と実力に羨望や憧憬も寄せられるだろうが、同じだけ、もしかするとそれ以上に、言われのない誹謗中傷、嫉妬も向けられるだろう。

好意と悪意が双方同じ量であっても、後者は攻撃的で、ヒカルの心をより深く傷つける。

そのときヒカルは周りに潰されたりしないだろうか。

それとも、ヒカルはそれら全てを覚悟した上で、自身がsaiであると明かしたのか?

関係者とはいえ、プロではなく、事務の1人でしかない己がどうこう言ったところで詮無いことだが、あまりにもアンバランス過ぎるsaiの正体に、考えずにはいられなかった。

■■■

 

 

 

偶然同じイベントに仕事で参加したわけではなかった。

緒方が出ると分かっていて、アキラが棋院の事務に無理を言って、同じイベントに参加させてもらったのだ。

緒方を確実に捕まえるために。

「やけにあっさり引き下がられるんですね、緒方さん」

 

イベントの休憩時間に、アキラは喫煙室でタバコを吹かせていた緒方へ面倒な回りくどいことは一切せず、一言目から率直に言う。

 

ヒカルが自らsaiであると公言し、そして大手合でその実力を証明させてからも、緒方がヒカルに対して何か行動を取るようなことはなかった。

驚き動揺する周囲を、いっそ冷ややかに観察しているようにもアキラには受け取れた。

だが、緒方がsaiに興味が全くないというわけではないことをアキラは知っている。

ヒカルの新初段のとき、ヒカルと芹澤の対局中にsaiが現われたことに、緒方は動揺を隠しきれず、そして棋院の帰りの車中で、saiについてアキラと語った。

その緒方が、saiの正体が公に知られても我関せずで、ヒカルを無視している。

同じようにsaiの正体を求めたアキラからすると、緒方が何を考えているのかさっぱり分からなかった。

 

そんなアキラの心情を察していたのか、緒方も殊更驚くことはなく、かと言って、いつかのようにからかいもしなかった。

アキラの真摯な問いに緒方も真面目に答える。

「通夜のとき、進藤に俺はもうsaiは追わないと言ったからな。進藤が自分で自分がsaiであると認めたところで、俺にどうしろと?」

「saiを追わない?本当にそれでいいんですか?あんなっ……あんなあっけない結末で緒方さんは納得しているんですか!?」

「確かにsaiの正体は明らかになった。だがsaiの真実へ辿り付く道は塞がれた。アキラくんがこれからどうしようとも止めはしないが、俺に出来ることは何もない。」

「真実とはどういうことです?」

アキラが首を僅かに傾げる。

 

「亡くなる前、塔矢先生は俺にこう言われた。進藤はsaiであってsaiではない、と。その真意までは答えてくださらなかったが、先生がsaiという存在をどう捉えているのかだけは分かった」

ヒカルがsaiであり同一人物と考えていた緒方とは決定的に違うために、行洋との会話にズレを起こした。

 

「塔矢先生は、進藤とsaiを別人として見ていた。進藤はsaiじゃないんだ」

では誰がsaiなのかと問われたら答えに窮するのだが。

恐らく亡くなってしまった行洋はその答えを知っていたのであろう。

ヒカルは行洋1人にだけsaiの真実を明かし、そして行洋もその真実をヒカルと共有し、誰にも他言しなかった。

「でも、進藤の強さは本物だった。saiそのものだ。2年前、ボクが父の碁会所で進藤と初めて打ったときの進藤だ」

「そう。進藤はsaiの強さだけを周囲に証明して、心は完全に閉ざした」

saiの真実が何かは皆目検討もつかないが、重要なことは直感で緒方も分かった。

どうしてヒカルがあんなにも行洋に絶大な信頼を寄せていたのか。

答えは、至極簡単だ。

行洋がsaiでありながらその棋力を隠し続けるヒカルを、そのままに受け入れたからだ。

saiの真実をヒカルが行洋に打ち明けてから、ヒカルにsaiであることを周囲に明らかにするよう行洋が説得するようなことは、恐らく一度も無かったはずだ。

一度でもしていれば、ヒカルは行洋に不信感を抱いただろう。

けれど説得どころか、行洋は自らの意思でsaiの正体を隠そうとした。

だからヒカルは行洋が亡くなっても、行洋以外にsaiの真実を話そうとはせず、行洋に縛られ続けている。

「saiの正体を隠していた塔矢先生を多少なり恨んだりもしたが、今になるとその恨みは俺の取るに足らない妬みからきていたんだろうな。saiの正体云々じゃなく、心を閉ざさせるほど塔矢先生は進藤から絶大な信頼を勝ち得ていた。それが羨ましかったんだ」

 

そこまで言って、緒方は指に挟んでいたタバコを咥え、息を吸う。

するとフィルターを通して肺が煙に満たされる。

少し前まで緒方の気持ちを静めたり、時に甘く感じられたソレが、今は酷く苦く感じられた。

「……それだけの何かがあったんだと僕は思うんです」

 

奥底から搾り出したかのようなアキラの声に、緒方は視線を向けた。

「アキラくん?」

「お父さんがsaiであることを隠していた進藤を受け入れるだけの理由が。そうでなければ、いくら碁が強くても、あのお父さんがそこまでしてsaiの正体を隠そうとするはずがない」

 

アキラの言葉の端々に迷いがあったが、息子としてそれなりに行洋を間近で見てきた。

行洋がどれだけ真摯に、そして誠実に碁と向き合っていたか、恐らくアキラが一番知っているだろう。

いくら相手が子供だったとしても、事が碁に関係していれば、行洋は生半可な理由や我が侭に付き合ったりはしない。

 

「そうだとしても進藤は何も話さないだろうし、塔矢先生は亡くなっている。saiの真実に近づく術は何もない」

 

首を横に振る緒方に、

 

「あります。一つだけ」

 

毅然とアキラは言い切る。

 

「本因坊。お父さんが進藤に約束して、お父さんが亡くなってからは進藤が果たそうとしている本因坊というタイトルが、2人を結び付ける唯一の手掛かりです」

初めてアキラが対局したとき、ヒカルは強かった。

自分と同等どころか遥か上から見下ろされたようなその強さに衝撃を受けたのは当然だったが、印象的だったのは棋風だった。

打ちながら古い印象を何度も受けた。

研究が進んだ現代では打たないような古い定石をヒカルは平然と打ってきた。

そしてsaiがネットに現われ始めた当初。

夏の国際アマチュア囲碁大会で、『本因坊秀策が現代の定石を学んだような』とsaiは評されていたのだ。

 


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