――私にとって、世界は黒いペンキで真っ黒に塗りつぶされた、絶望と悲劇しかない闇としか認識していなかった。
1965年、11月14日。南ベトナム。
私たちは、前日にアメリカ軍基地を襲撃した北ベトナム軍を追撃するため、カンボジア国境付近のイア・ドラン渓谷へ派遣された。
派遣されたのは、第7航空騎兵連隊《ギャリ―オーウェン》の一個大隊、450名。
着陸地点確保の為、先遣隊が到着した時には、すでに4000人の北ベトナム軍が私達の周りを囲んでいた。
司令部は諜報員の情報を全く活かせていなかったのだ。兵士達を泥沼の闘争へと送り込む事になることも知らないで、彼らは無責任な指令を与え続けた。
鬱蒼と茂るジャングルに、断続的な銃声と爆発音、そして悲鳴が響いている。通信兵がしきりに無線機に援軍を請う怒声を聞きながら、私は夥しい遺体の中で、微かに残った命を長らえさせるために奔走していた。
だが、救う命より、奪う命のほうが圧倒的に多かった。命の灯が消えゆく仲間の姿を見ながら、敵を殺す。時折、私自身衛生兵なのかと疑い、その役目を成していないのではないかと、ジレンマに陥るようになった。
「大丈夫か!今行くぞ!」
泥濘に埋もれた遺体の山の中から、微かにうめき声が聞こえ、私は交錯する銃弾を掻い潜るように泥濘の中を這い、声の主に近づいた。
今まで看取ってきた彼らとは違い、泥の中に蹲る兵士は、私の良く知る兵士だった。
彼はこのベトナムの地へ来て初めて親しくなった友人だ。
私より1年ほど前にこの地へ配属された彼は、慣れない土地に戸惑う私によく世話を焼いてくれた。陽気で、仲間思いの太陽のような彼は、私にとってかけがえのない親友になっていた。
ヘルメットが脱げ、綺麗な金髪が泥に汚れていた。大量の血液が彼の体から泥濘に流出しているのが見て取れた。それは赤いはずなのに、泥に混ざって真っ黒な絵の具のように見える。
私は顔を顰めた。ああ、『また』だ。
「頼む……殺してくれ…殺して…く…れ」
この言葉を聞くのは、幾度目だろうか。もはや数えても意味が無いほどに、その言葉を耳にしてきた。
泥濘の中、もがき続ける戦友の怪我の状態を診る。腹部に被弾、内蔵損傷、露出、爆風によって左脚が吹き飛んでしまって、今のままではどうすることもできない。
私は腰のメディカルバッグの中から、モルヒネを取り出し、彼に注射しようとした。気休めにしかならないのは判っている。どうにかして彼を生かしたかった。
だが、彼はモルヒネを持つ私の手を弱弱しい手で押しとどめた。
「だめだ。これは、ほかのやつに使え…」
「メディック!こっちだ!早く!負傷者を運べ!」
向こうで私を呼ぶ声が聞こえる。だが、血みどろの彼を残してはいけない。
「だが……」
「いいんだ。だから俺を殺してくれ…頼む…」
「……駄目だ……私は衛生兵だ…それはできない。それに君は私の友人だ……!」
「頼む、酷く痛いんだ…助からないのは判ってる。俺をこの苦しみから解放してくれ……」
今にも消えてしまいそうな声で、彼が言った。スカイブルーの瞳が、私の迷いを責めるように見つめている。確かに、劣悪な衛生環境、満足な治療用の薬も道具もないこの状況では彼を生存させ帰還させるのは、非常に困難だ。そして、私達は4000人の敵に包囲されている。今生きている者が生きて帰れるのかも判らない。
私は震える手で、コルトを抜き、彼の胸に銃口を向けた。だが、引き金を引くことができない。瘧のように体が震え、歯がカチカチと鳴った。目の前の彼の顔が滲んでぼやけ、まともに見ることが出来なかった。
「すまない。――。ありがとう」
私の名前を呼んだようだが、殆ど掠れて聞こえなかった。驚く程の力で、彼は血と泥に塗れた手で私の手ごとコルトを掴み、引き金を引いた。びくり、と体が跳ね、二度と動くことはなかった。
手の中のコルトが爆ぜた音を最後に、私の周りの全てが真っ黒に塗りつぶされたような錯覚を覚えた。自分の呼吸と、鼓動が煩いほどに鼓膜を叩いている。
誰かが私を呼んだ気がした。だが、体が動かない。コルトを握る私の手には、真っ黒なモノがねちゃねちゃと纏わりつき、全身を侵してゆくように思えた。
震える手で、彼のドッグタグを引きちぎりポケットに入れる。するといきなり、がさりと目の前で茂みが揺れ、私は反射的に銃を向けた。
そこには小柄な色黒の兵士が驚いたような顔を私に向け突っ立っていた。彼はその体に不釣り合いなほど大きなAK-47を持ち、その銃口を私に向けた。
彼はその黒い瞳で長いこと私を見つめていたが、何故か発砲することはなかった。私はというと、泥の中で蹲り、戦友の遺体を抱えて涙を流すという無様な姿を晒していた。
だが、その均衡は数発の銃弾によって崩れ去った。私の後方から飛んできた銃弾は、小柄なベトコンの頭と胸に命中し、彼は糸が切れたマリオネットのように頽れた。
真っ黒なペンキの血を噴き出して。
呆然と、目の前の光景を見つめていると、後ろから聞きなれた言語が聞こえた。
「おい!聞こえるか!」
肩を思い切り揺すられ、はっと我に返る。全身泥と血に塗れて顔すらわからない味方の兵が、私を呼ぶ。
ああ、そうだ。任務を全うしなければ。
でも、何故だろう。血も、泥も、全て同じに見える。真っ黒なペンキが、全てを塗りつぶす。
「見ろ!UH-1《ヒューイ》だ!」
声のほうを見た。迷彩塗装のガンシップが列を成して、こちらへ飛んでくる。それは冥界からの使者のようにも見えた。
苛烈な空爆が始まり、泥と血と、肉が巻き上がる。目の前の敵の悲鳴が轟音にかき消された。そして、私の視界は真っ黒に塗りつぶされた。
あの泥沼のような戦争で、沢山の仲間が死んだ。
私も味方の空爆に巻き込まれ、酷い怪我を負ったが、奇跡的にその命を拾うことが出来た。その後、一度キャンプ・ハロウェイの軍病院に搬送され、本国へ送還された。
もう、あの地獄のような戦場へ行かなくてもいいのだという安堵感が私の胸に広がっていた。
だが、私の期待とは裏腹に、物事はそう上手くいくことはなかった。
祖国の人々は、泥と血の中を這いつくばっている数十万の私たちより、月へ向かったたった二人の男の事しか心配していなかったのだ。
帰還した私達に向けられたのは、月へ行った英雄達とは真逆の、冷たい視線と罵倒の声だった。
飛行機を降り、基地の外で戦いに疲弊した私達を待っていたのは、『人殺し』『地獄に落ちろ』というプラカードを持った大勢の人々だった。
あれほど帰りたかった故郷に、自分の居場所が無いことを知った。
それは人を絶望に突き落とし、全てを狂わせる。
私はそれから、眠ることが出来なくなった。眠りに落ちると決まって、真っ黒なペンキを腹から、首から、口から眼から噴き出した戦友たちが、そして、あの若きベトコンが助けてくれと叫ぶのだ。
毎晩毎晩、ベッドから飛び起きる日が続き、私は精神のバランスを欠いてしまったのだろう。だんだん壊れてゆく私に、家族ですら私を奇異な眼で見始めていた。
日中、起きているときでも、その悪夢を見ることが多くなった。
『もう、彼を病院に入れたほうがいいんじゃないの?』
そんな時、家の中で彼らがひそひそと話しているのを聞いてしまった。
最初こそ戦場からの帰還兵という同情的な眼で見られていたが、彼らにとってもはや私は『厄介者』でしかなかったのだ。目の前が真っ暗になり、私はどす黒い怒りの炎が身を焦がすような錯覚を覚えた。
怪我が完治すると、私は軍を去り、家族を捨てて世界を転々とした。もう、あの薄っぺらい正義を振りかざす欺瞞の満ちた国に居たくはなかった。
しかし向かった先は、結局戦場だった。今まで助けられなかった、そして自らの手で殺した戦友への贖罪の為といえば聞こえはいいが、戦場に居るときだけはあの恐ろしい夢を思い出さずに済むというのが、理由だった。
ラオス、グアテマラ、そして、コロンビア。私は紛争地帯を転々とし、そこで衛生兵、時には医者として渡り歩いた。
幸い、私には技術があった為、食うには困らなかった。内政が混乱して居る国には、もぐりの医者がごまんといる。そのうちの一人が私だった。
戦場で傷ついた兵士やそれに巻き込まれた人々を治療し、彼らに礼を言われる事も数多くあった。その時、私の心は一時の安らぎを、そして生きているという実感を得ていた。
祖国に失くした居場所を、一時だけでもその場所に見出していたのだ。
殆ど荷物は持たなかったが、最小限の医療機器と、二人分のドッグタグだけは肌身離さず身に着けていた。
様々な国を渡り歩くうちに、自然と兵士達やゲリラ戦士達とも言葉を交わす機会も増えてゆく。
だが私は必要以上に自分の事を話すことはせず、常に一定の距離を置いていた。
失う事の痛みを知った人間は強くなるというが、それは嘘だ。もう二度と失いたくないから、強くなったと思い込む。
そして相変わらず、あの恐ろしい夢は私を苛み、それを振り払うように目の前の仕事に没頭するようになった。